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2009年12月

2009.12.31

2009年が暮れて

いつの間にやら大晦日、といった感じ。

正月期間に作業を進めるために本を借りようと思っていたものの、図書館は既に先週で仕事納めだったことに後で気付き、まさに後の祭り。もっとも、じっくり史料をめくるほどの時間は思ったほどなさそうですが…。

今年は前半と後半とでまったく違った経験をしました。前半は大会報告のプロデューサーのような役を担い、後半は学会運営でいろんな勉強ができました。もっとも、自分の仕事がおろそかになった感もあるのですが…。ただ、あくまで印象ですが、今年の中世史は前年に比べると全体的にわりとおとなしめだったような気もします。
今年もいろんな方々にお世話になり、かついろんな経験をさせていただきました。改めて感謝を申し上げます。


来年は、前半は歴研大会そのものの運営に注力することになりそうです。あとは、なんとかもう少し自分の仕事をやらないといけませんが…。
ともあれ、来年のことは年が明けてからまた。

それでは良いお年を。

2009.12.29

清須(清洲)城跡

Kiyosujo_6Kiyosujo_9お次は清須城跡です。今までは「清洲」と書くのが一般的でしたが、現在では「清須」と書くようになっています。織田信長の立身出世時代の居城として有名です。

清須城は、尾張守護の斯波義重(義将の子)が築城したとされています。守護所は下津(現愛知県稲沢市)にありましたが、清須は鎌倉往還と伊勢街道が合流する要衝であったことから、ここに城が築かれたものと考えられています。文明8年(1476)に下津が焼けると、ここに守護所が移ったとされています。

Kiyosujo_3こちらは石垣。最近の発掘調査によって見つかったもののようで、たぶん積み直したものでしょうか。

戦国期になると守護代の織田氏が力を持ちます。尾張八郡は上下に分割され、上四郡は岩倉(現愛知県岩倉市)の織田氏、下四郡は清須の織田氏が支配するようになりました。天文22年(1553)には清須の織田信友主従が守護斯波義統(よしむね)を暗殺するに至ります。これをきっかけに、分家ながらすでに一族で力を付けていた那古屋の織田信長が弘治元年(1555)に信友を討ち取り、清須城主となりました。以後、永禄6年(1563)に小牧(現愛知県小牧市)に移るまで信長の本拠となりました。

天正10年(1582)に信長が死ぬと、「清洲会議」として有名な重臣層による会議がここで開かれました。その結果、尾張は次男の信雄の支配下となり、本拠の清須は大改修が行われたとされています。
天正18年(1590)に信雄が失脚すると清須には豊臣秀次が入り、その後福島正則が城主となって関ヶ原の合戦を迎えました。戦後は徳川家康の子である松平忠吉が入りましたが、忠吉は早世。代わって慶長12年(1607)に家康の子の徳川義直が入り、慶長15年(1610)の名古屋城築城によって廃城となりました。名古屋城の西北隅櫓は「清洲櫓」と呼ばれる通り、清須城を移築したものと伝わっているそうです。

KiyosujoKiyosujo_5…とまあ、私が説明するほどでもないのですが、戦国・織豊期にかけての重要な舞台となった城でした。しかし、今は東海道線と新幹線が縄張りを完全に横切っていて、往時の姿を想像することは困難です。左写真は、本丸跡とされる場所に建つ織田信長像です。今の様子に何を思う。

右写真は、新幹線からよく見える例のものです(笑)。本丸とは川を挟んだ対岸に建てられており、資料館の役割を担っています。周りに高い建物がないので、上からの眺めは結構良かったです。

■愛知県清須市(旧清洲町)

2009.12.28

稲沢 性海寺・長光寺

InazawashokaijiInazawashokaiji_1国府宮から南の方面にある性海寺(しょうかいじ)。寺伝によると、弘仁年間(9世紀前半)に空海が熱田参詣をした折りに創建したとされていますが、この地域の豪族であった長谷部氏が平安期に建立したものと考えられています。その後、鎌倉期に熱田大宮司の一族である良敏(りょうびん)が再興したと言われているそうです。

境内には6世紀頃の円墳があり、この地域が古くから開発されていたことがわかります。現在は、あじさいの名所として知られています。

Inazawashokaiji_2Inazawashokaiji_3左写真は本堂(重要文化財)。江戸初期のもので、内部には鎌倉期の宝塔(重要文化財)が安置されています。中の須弥壇ともに、弘安年間(1280年頃)のものとされているようです。残念ながら、宝塔の拝観は叶わず。

右写真は多宝塔(重要文化財)。室町期のもので、和様と禅宗様の折衷です。
先に紹介した万徳寺の多宝塔は、これを参考にして築かれたとされています。色彩は違いますが、形は確かにそっくりです。


InazawachokojiInazawachokoji_5次は、少し離れてJR東海道線沿いにある長光寺。寺伝によると、応保元年(1161)に平頼盛が創建し、暦応元年(延元3年、1338)に足利尊氏が復興したとされています。はじめは法相宗でしたが、明応8年(1499)に臨済宗となりました。

右写真の地蔵堂(重要文化財)は、六角形をしていることから六角堂の名で知られています。室町後期のものとされており、臨済宗となった15世紀末期頃のものなのでしょうか。
中には鉄造地蔵菩薩立像(重要文化財)が安置されています。銘から、文暦2年(1235)のものであることがわかっています。

Inazawachokoji_4地蔵堂の正面に掛かっている鰐口。銘によると、永和2年(1376)に近江国の寺のために鋳造したことが刻まれており、追刻として天正11年(1583)に埴原(はいばら)稙安が寄進した旨が確認されています。彼は織田氏の被官で、この鰐口を近江従軍の際に持ち帰り、信長一周忌の供養として寄進したものと伝わっているそうです。
高いところに掛かっていたので、銘文は直接読み取れませんでした。

■愛知県稲沢市

2009.12.27

「桶狭間」の新文献

江畑英郷『桶狭間―神軍・信長の戦略と実像』(カナリア書房、2009年)受贈。ありがとうございます。
まだ直接礼状を書いていないのですが、ドタバタしていてそれも年明けになりそうなので(すみません)、さしあたりこちらでご紹介をば。

桶狭間の戦いについては、藤本正行氏が『信長公記』の分析に基づいていわゆる「奇襲」説に真っ向から批判を加えたことはすでに常識化しています(同『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学』講談社[学術文庫1578]、2003年、初出1993年)。以後は藤本説をめぐって議論が戦わされてきました。

本書では藤本説を批判する立場にありつつも、従来の旧説を踏襲するわけではなく、多くの戦争に関する研究文献も広く参照して、いわば戦国期における「戦争論」としての視点を重視されている点に意義があるように感じました。

もっとも精読したわけではないので、上記の感想は著者の意図を誤解したものかもしれませんが、その際はご容赦いただくとして、ともあれ興味のある方は手にとってご覧になってください。

著者の江畑さんは、以前も紹介しました水野氏史研究会のサイトでご活躍されておられまして、そのご縁で私にご恵贈くださいました。本書刊行を機に、ブログも運営しておられます。
今後のご活躍を期待いたしますとともに、私も勉強させていただきたいと思います。

4778201248桶狭間 神軍・信長の戦略と実像
江畑 英郷
カナリア書房 2009-12-07

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2009.12.26

稲沢 万徳寺

InazawamantokujiInazawamantokuji_1国府宮から東へ車ですぐの所にある万徳寺。寺伝によると、8世紀中頃の創建とする真言寺院で、建長6年(1254)に常円上人が再興し、亀山院の勅願寺となったとされています(後深草院の勅願を得たとも言われています)。常円は、『沙石集』を書いた無住一円の兄とのことです。
最も繁栄したのは近世で、尾張国の真言宗大本山とされ、数多くの末寺を抱えていました。

Inazawamantokuji_2境内にある多宝塔(重要文化財)。室町期のもので、初層は方形、二重の中心部は円筒形、屋根はまた方形となっています。同じ市内にある性海寺の多宝塔と姿が似ており、性海寺の多宝塔を参考にして造ったともされていますが、こちらの方が彩色や装飾は簡素な印象を与えています。

Inazawamantokuji_5こちらは隣にある鎮守堂(重要文化財)。棟札から、享禄3年(1530)の築であることがわかります。一間社流造(いっけんしゃながれづくり)と呼ばれる様式のもの。建築年代のわかる神社建築として貴重なものとされています。

どちらも装飾が多くないからか、質素な感を受けます。どういう人たちがこれらの建物を寄進したかはわかりませんが、権力者というより、地域の人々が大いに関与したのかなあ、などと想像しました。

このほか蒔絵箱(重要文化財)などの寺宝も多く所蔵しており、地域随一の古刹といえるお寺です。この寺院も、この地域に国府があったことと関係しているのでしょうか。

■愛知県稲沢市

2009.12.25

企画展「海を越えた中世のお金」を見る

現在、日本銀行金融研究所貨幣博物館で、標記の企画展が開催されています。
始まってからもうだいぶ経っていたのですが、やっと見に行くことができました。

貨幣博物館の現在の常設展示がもう20年以上変わっていないことを鑑み、この10年の研究の進展に合わせて企画されたそうです。まだ論争が決着していない問題もあって、そこをどう調整するかに苦労された様子でしたが、おおむね過不足無くかつ無難なつくりになっていたと思います。

私も改めて勉強になったこともたくさんありました。特に中国の貨幣や鉱山・鉱物関係には疎いものですので…。
特に、お恥ずかしながら…、中国の紙幣である「宝鈔」(ほうしょう、単に「鈔」とも)をじっくり見たのは初めてだったかもしれません。意外に大きいんだなあ、とか、銭の緡(さし)が描かれているところとか、個人的に改めて気づかされたことが多かったです。

古銭に興味のある一般の人は少なくないと思うのですが、銭貨がメインではどうしても地味で集客力には不安があります。というわけで、戦国期以降に発達する鉱山開発と金銀流通についての展示もされていました。特に、館蔵の天正大判の現物が展示されていました。なかなか現物を見られる機会はないので、見にいく価値があると思います(笑)。あとは永楽通宝金銭(秀吉鋳造と言われているけど、文献では明らかにされていない)とか、珍しいものもありました。

さしあたり企画展ということで、期間が終了したら一旦撤去するものと理解しましたが、その後は常設展の改訂へと進むのでしょうか。そうであれば、どのように変わるかも楽しみにしたいです。

たぶん教科書的な内容とは全然違っている展示になっていると思いますので(笑)、日本橋三越へ買い物とか日銀本館見学へおいでの折りにでも?是非一度。入館料は無料です。(言うまでもないですが、回し者ではありません。)

2009.12.24

貨幣考古学について

先日、櫻木晋一『貨幣考古学序説』(慶應義塾大学出版会、2009年)の合評会に出席しました。

「貨幣考古学」といっても聞き慣れないと思うのですが、発掘調査で出土した貨幣(主に銭貨)を分析することを主として新たに打ち立てられた分類で、まさに本書によってその成立が謳われています。
本書にも書かれている通り、この分野の礎を築いたのは、故鈴木公雄氏でした。残念ながら道半ばにしてお亡くなりになりましたが、櫻木さんはその意志を受け継いだと述べられています。

歴史考古学そのものが考古学の中ではどちらかというと傍流のイメージがありますが(今はそうでもないかもしれませんが)、しかも「どこでも出る」と言われる銭貨を研究対象とする動きはこれまでほとんど無かったとされています。今でも各地で発掘された銭貨の分析はほとんど進んでいないわけですが、それを克服するためには、まずは研究者の意識を変える必要がある。…というのが、櫻木さんが本書を上梓された目的の一つとのことです。

「序説」とある通り、まだ学問分野としては始まったばかりで、方法論の洗練もこれからの課題です。しかし、全国各地(さらにベトナムも)での銭貨の出土状況を網羅している上、化学分析を含めた詳細な調査データも余すところ無く示されており、今後の研究において必ず参照される一冊になるものと思います。

過去には、一括して大量に発掘された中世の銭貨について、それが呪術的な目的で埋められたものであるか、備蓄のために埋められたものであるかで激しい論争がありました。今は「ほぼ備蓄目的」ということで理解が共有されているように思いますが、「ほぼ」と留保するように、そもそも個別の発掘事例個々でその目的を分析せねばならない話です。
なので、これら一括して大量に出土する銭貨に対する呼称を「埋納銭」あるいは「備蓄銭」とすることは具合が悪い。かつて峰岸純夫氏が「埋蔵銭」と呼ぶことを提言されましたが、本書では「一括出土銭」と呼ぶことを提唱しています。これが定着するかどうかはわかりませんが、私は従いたいと思います。

もっとも、気になったところもあります。たとえば所々記述が重複していたり、専門用語の解説にやや不足を感じるところもあるわけですが、それは私を含めて学恩を享受する者の課題でもあるでしょう。


中世日本の貨幣史研究は、文献からのアプローチではそろそろ限界が見えてきました。そうであるからこそ、遺物(現物)から見た考古学的アプローチがなお一層重要になってきます。文献側からすれば、今後の発掘調査の進展によって自説が完全にひっくり返る可能性もあるわけで、戦々恐々とします(笑)。
とはいえ、文献史においてもさらなる理論の洗練がまだまだ必要だとは思いますので、仮説が発掘成果と一致する“悦び”を感じる日が来るよう、文献側の一員として諸賢と協働してゆければと思います。ここ数年はその機会に恵まれていましたが、これからどうなるかは今のところ不透明なのがやや気がかりです。

4766416201貨幣考古学序説
櫻木 晋一
慶應義塾大学出版会 2009-06

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以下余談。
ちなみに、前近代の東アジアから東南アジアにかけて主に流通した円形方孔の金属貨幣について、一般に呼び習わされる「銅銭」ではなく「銭貨(せんか)」という呼称を使うのは、貨幣であるという含意を強調するためでもあるのですが、銅以外を主成分とする銭も多いことや、「銅銭」と呼んでいるものですら必ずしも銅だけで組成されてはいないことにもよります。なので、「銭貨」には鉄・真鍮・鉛・亜鉛などを主成分とする銭も含まれます。

2009.12.23

尾張大国霊神社

Owarikonomiyaこちらは尾張大国霊(おおくにたま)神社。社伝では崇神天皇の時代を発祥とする、延喜式内社です。

社名からお察しの通り、尾張国府に設置された「総社」(六所宮)で、その由来から国府宮(こうのみや)の別名で知られています。祭神は尾張大国霊神・大御霊神とともに、宗像神も祀られており、伊勢湾につながる水運の守護神としても信仰されたと考えられています。

写真の楼門(重要文化財)は室町初期のものとされています。ただし、上層部分は正保3年(1646)に改築されたもの。

Owarikonomiya_1Owarikonomiya_3写真の拝殿(重要文化財)は江戸初期のもの。この神社は配置が変わっていて、楼門から拝殿・本殿までの配置が一直線にはなっておらず「く」の字形に少しゆがんでいます。この配置は「尾張式」と呼ばれるもので、この地域の神社配置で一般的なものだったのですが、今も残る神社は少ないようです。

尾張式の特徴だと思うのですが、写真のように拝殿が突き出ているところが面白い。切妻造と呼ばれる様式だそうです。

厄除けとしての信仰も集めており、その神事の一環として旧正月13日に行われる儺追(なおい)祭は、「はだか祭り」と呼ばれて今も盛大に行われています。昼間の派手な祭りもいいのですが、その後の夜中に神事の本番が行われているようです。その儀礼は結構興味深そうです。

■愛知県稲沢市

2009.12.16

年の瀬進行

実感はほとんどないのですが、そうであっても均しく年末はやってきます。

今年は例年ほど忘年会の予定は無いのですが、それでも結構あります。特に今週と来週はかなり詰まっているので、飲み過ぎないようにしたいものです。ってか、昨日さっそく飲み過ぎたけど…。皆さんもお労りください。

というわけで、連日飲みという状況になりますので、またこれから一週間ほど更新は滞りがちになります。クリスマスイブを迎える頃には、だいぶヒマになりそうです(笑)。

この数日の間、いただきものがいくつかありました。ありがとうございます。紹介できるものは追々取り上げます。

年賀はがきを買ってきましたが、喪中の方が多く、今年は出す数が少し減るかも。そういう年代ということなのでしょうかねえ。問題は、いつ年賀状を書く気になるか、ですが。
年末らしく掃除用品も買ったりしましたが、途端に寒くなったので萎え気味。年内に重い腰を上げることができるのだろうか…?

2009.12.15

妙興寺

Myokoji_15Myokoji_4一宮市中心部から南へ約3,4kmほどでしょうか。一宮市博物館の隣にある妙興寺。尾張国中島郡の在庁官人を系譜とする中島氏出身の禅僧である滅宗宗興(めつじゅうそうこう)を開山とする臨済宗の寺院です。貞和4年(1348)の創建とされています。文和2年(1353)には、後光厳院から「国中無双禅刹」と呼ばれ勅願となったそうです。

中世のものを多数含む文書「妙興寺文書」(重要文化財)が伝来していることで有名です。尾張では史料の残存状況があまりよくない中、ここの文書は非常に貴重です。境内地は県の史跡に指定されています。

そしてさらに有名なのが、「足利義教像」(重要文化財、こちら参照)。相国寺鹿苑院主(僧録)で、『善隣国宝記』を記した瑞渓周鳳の讃があることで知られているもので、義教の肖像といえば必ずこれが使われているといっていいものです。一度は見たことがあると思うのですが、意外に?このお寺が所蔵しています。

MyokojiMyokoji_3名古屋城から移築したと言われる総門をくぐるとすぐにあるのが、左写真の勅使門(重要文化財)。伽藍は何度も火災に遭っていて古い建物はあまり遺っていないのですが、これは境内で唯一室町期のものです。後光厳院の勅額がかかっています(今かかっているのが現物かどうかはよくわかりませんでしたが)。
周辺の寺社が南朝方に味方した一方、妙興寺は北朝方として重視されたことが、後光厳院の肩入れの背景にあったと考えられているようです。

右写真は、勅使門の先にある三門。明治期のもの。

Myokoji_6こちらは境内の奥にある鐘楼。元禄2年(1689)に、尾張藩主の徳川光友によって建てられたものです。
中の梵鐘は永和2年(1376)の銘があり、創建当初のものと考えられています。銘によると、「比丘尼祥荷(阿?)」という人が願主で、300貫文の寄進によって造られたとあります。

隣の博物館はこの地域の歴史について学べます。ただ、妙興寺の歴史について特に詳しく解説しているというわけではありませんでした。「妙興寺文書」を展示しているかもとちょっと期待したんですが、空振りでした(笑)。

■愛知県一宮市

2009.12.12

真清田神社

MasumidaMasumida_2ここからは名古屋近郊地域の史跡をまわります。

まずは真清田(ますみだ)神社。尾張国一宮です。古代豪族で、尾張国造だった尾張氏がこの地域を開発し、祖神を祀ったのが始まりとされています。延喜式内社。

中世の木造舞楽面(12面が重要文化財)を所蔵しており、宝物館があったのでそこに展示されていると思われますが、宝物館は予約制のようで見られませんでした。
ほかに、長禄元年(1457)の銘のある朱漆角切盤など(重要文化財)を所蔵しています。

こちらも社殿はかつて尾張造だったものの、戦災で焼失したそうです。
史料もあまり遺っていないのか、中世の状況はよくわかりませんが(私が知らないだけかもしれませんが)、古代豪族の信仰を起源とする有数の神社といえますね。その経緯もあってこの地域は国衙支配が強かったそうで、院政期には王家領荘園として真清田荘の名が確認されており、平頼盛などの支配を経た後、鎌倉期には久我家領となっています。
室町期には荘園経営が後退し、守護の斯波氏が実質的に支配を確立していったようです。

Masumida_1こちらは参道にあった神橋。小振りでした。

今も神社を中心にして市街地が広がっており、だてに地名も「一宮」になっていません。この街じたいが、神社を核として発展してきたことがよくわかります。こういう所は、祭りも派手なんでしょうねえ。

参考文献:
網野善彦ほか編『講座日本荘園史』5(吉川弘文館、1990年)

■愛知県一宮市

2009.12.11

熱田神宮

AtsutaAtsuta_1史跡ネタを再開します。
名古屋といえばお馴染みの観光名所、熱田神宮。メジャー過ぎてなんですが(笑)、せっかく行ったので。

三種の神器の一つである「草薙剣」を祀る神社として有名ですね。日本武尊の神話とも関わる由緒を持っており、古代には尾張国造の尾張氏が大宮司だったとされています。
平安末期になると尾張氏の婿となった藤原南家の藤原季範が大宮司となり、以後はこの子孫の千秋(せんしゅう)氏が大宮司を世襲してゆきました。中世ではよくあることですが、千秋氏は神官というよりも在地武士としての性格が強く、中央の武家ともコネクションを持っていて、室町期には奉公衆にもなった一族がいることでも知られています。

近世になると門前が東海道の宿場町(宮宿)として発展したことも有名ですね。熱田社のある場所は、かつて海縁の岬にあたる場所だったとされていて、宿場も桑名との渡船の拠点だったことでも知られています。格としては尾張三宮で、中世まではそれほど大きな神社ではなかったようですが、近世になって観光名所として知名度を高めていったとされています。維新後に官幣大社となり、今や名古屋では最も有名な「初詣スポット」です。

Atsuta_5Atsuta_15現在、社殿は建て替え中でした。かつてはこの地域独特の「尾張造」という様式だったのですが、明治期に伊勢神宮の様式に改められました。今や尾張造の神社は珍しいようです(後ほど紹介します)。
右写真は、西楽所。東西にあった神楽殿の一つで、徳川綱吉が貞享3年(1686)に建てたものです。

このほか、境内には寛永7年(1630)築で、8m以上もある巨大な「佐久間灯籠」などもありますが、写真の写りが残念なレベルだったので、割愛。

Atsuta_11Atsuta_13熱田神宮といえば、これ。「信長塀」と呼ばれる築地塀です。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに際して織田信長は熱田で戦勝祈願をしており、その利益があったとして奉納したものとされています。土と石灰で塗り固め、瓦を重ねて造ったもので、さすがに立派。
このほか境内には宝物館もあり、多くの文化財が展示されていますが、訪問時が遅く、すでに閉館していました。

Atsuta_24熱田といえば、もう一つは源頼朝生誕にまつわる話。境内西側には、「源頼朝出生地」とされる所がありました。熱田大宮司となった藤原季範の娘・由良御前は源義朝の正室で、久安3年(1147)に熱田の実家で頼朝を産んだと言われています。その季範の別邸だったとされる場所が生誕地として伝わっているそうです。現在は誓願寺という寺院になっています。
この話がどこまで事実なのかはよくわかりませんが、源義朝自身も尾張で死去するなど、何かとゆかりがありますね。

■名古屋市熱田区

2009.12.10

パソコン到着

意外と早く、今日届きました。
現在、セットアップで格闘中。

なんと、無線LANの子機が認識しないという事態発生。最近買ったばかりなのに…。原因がわからないので途方に暮れてしまい、仕方ないのでLANケーブルを引っ張りだす。こんなことなら、無線LAN内蔵にしておけばよかったなあ。

移行作業の完了に向けて、これからさらにがんばります。


<追記>
無線LAN問題はメーカーのサイトで最新ドライバをダウンロードして解決。
おおむね移行作業は終わりました。うっかりIEのお気に入りをバックアップしていなかった失敗に気づく。

2009.12.06

ガクシン=生活保護

おお、そうだったのか。


…まあ、これをあげつらうのは言いがかりかもしれませんが(もっとも、「とりまとめ」で書いていることからすれば、当事者にとっては「言い得て妙」と本気で思っていると考えられますが)、なかなか世知辛い状況になってますねえ。

まあ、ごく短時間で是非を議論するという背景からすれば、そういう言い分が出るのもまったく理解できないわけでもないです。ほかの科研費はあくまで研究経費として支出している一方、学振だけは生活費を支給しているわけで、性格はほかと異なっていますからねえ。それだけみれば、「なぜ国費で生活費まで出しているのか」と訝るのも無理はない話です。

とはいうものの、採用率を考えれば、到底「生活保護」という評価にはならないとは思いますけどねえ。端的にいえば、学振に当たらないポスドクの方が割合としてははるかに多いわけで、ポスドクの生活保護という性格で捉えるならば学振はまったく不十分な制度という評価になるはずです。

こういう評価を受けたのは文科省にも問題があって、「事業仕分け」に際して提出した資料を見るに、DCは採用率を記載していましたが、PDは記載していませんでした。そこが誤解を生んだ原因でしょう(ただ、PDにはたぶんCOE枠も含まれているので、単純に採用率を提示できなかったのかもしれませんが)。

もちろん利害関係者としては、単純に予算を減額するということに対しては承諾しがたいです。とはいえ、どれだけ研究成果を生み出しているかという点での「費用対効果」を検証せよという言い分ももっともという気もします。単にお役所だけではなく、研究者としてもこの辺が課題といえば課題だなあとは思いました。


ただし、とりわけ納得できない意見があります。「過去の政策のつけであるから少しずつ減らしていくしかない」というもの。誰が言ったのかはわかりませんが、これはあんまりでしょう。過去の政策のツケを払うのは政府(=国民全体)であって、ポスドクだけではないはずです(年金や医療に関する議論をみよ)。これだけは撤回していただきたいと思います。
もう一つは、「実社会から逃避して、大学に留まる人をいたずらに増やしてしまう」という意見。これも誰が言ったのかはわかりませんが、「実社会」って何ですか? 大学は「実社会」ではないんですか? もしかして、サラリーマン的な働き方だけが「実社会」って思ってますか? 多様な社会が尊重されるべきという風潮のなか、こんな偏狭な発言がフォーマルな場でまかり通るのには驚きです。


最近話題のネタですが、私はもろに利害関係者なので、話題として取り上げることに逡巡していたのですが、「+酒」で(笑)、とりあえずつらつらと思うがままに。
ともあれ、これからどうなるか注視したいところです。そして、最近はすっかり腰の重くなった学界も、これからどうすべきか考えてゆかねばならないように思いますね…(この辺は、今の私からはあまり踏み込んだことは言えないので(笑)、まあこんなところで)。

★参考資料(メモとして)
文科省の「事業仕分け」意見募集サイト
「事業仕分け」評価コメント
「事業仕分け」に関する署名のお願い by 京都大学文化人類学若手研究者有志

2009.12.04

我慢の限界

いよいよ自宅のパソコンに我慢ができなくなったので、買い換える決意をいたしました。
デルで注文。
MS Officeとかを付けたから少々高く付きましたが、仕事で必要だから仕方ないかといったところでしょうか。今持っているエクセルなんか2002だしなあ…。パワーポイントも持っていなかったので(おいおい)、思い切ってこちらも購入。

不調の原因ですが、たぶん電源廻りの模様です。確認はしてませんが、症状から推すにコンデンサが寿命を迎えた様子。物理的な限界ということで、諦めが付きました。

というわけで、新しいパソコン環境が整うまでは(一週間後に到着の予定)、史跡ネタの更新は停止いたします。
データは既に外付けHDDでバックアップしてあるので、スムースに移行できると思いますが、はてさてどうなることやら。


拙著の書評につき、また新たに某雑誌で取り上げてくださいました。ありがとうございます。勉強させていただきます。

2009.12.01

鳴海城跡

Narumi_1Narumi_4大高からゆっくり30分ほど歩くと(結構疲れた(笑))、鳴海城跡にたどり着きます。
といっても、今やただの公園ですが…。

鳴海城は、応永年間(15世紀前半)に安原宗範という人が築いたと言われています。元は成海神社という神社があったそうですが、近隣へ移転させ、その境内を城郭としたそうです。
その後しばらくは不明で、一度廃城になったとされているようです。16世紀半ばに差し掛かる頃になると織田信秀の支配下にあり、山口教継が城主となっていました。この山口氏も素性ははっきりしませんが、大内氏の一族という説もあるそうです。

信秀が死去して信長が跡を継ぐと、山口教継は信長を見限り今川氏に随うようになりました(その時期は諸説あり)。その後は信長の攻撃を斥けていましたが、永禄初年頃に(明確な時期は不明のようで)突如として教継は子とともに駿府で殺害されました。織田方への再度の寝返りを疑われたとか、信長による計略とか、いろいろと説はありますが、はっきりとしたことはわかりません。
その後の鳴海城には今川被官の岡部元信が入っています。大高と同じく、信長はこちらにも善照寺砦などの付城を築いて今川方への備えを敷いています。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに際しても鳴海城は持ちこたえましたが、岡部元信は今川義元の首級との交換を条件に鳴海城を明け渡したとされ、代わって織田被官の佐久間信盛が城主となりました。そして、天正年間に廃城となったとされています。

Narumi_7Narumi_9そこそこ知名度があるわりには、歴史的経緯がよくわからない不思議な城です。探せば堀などの遺構の痕跡も窺えるようですが、正直言って素人にはさっぱりわかりませんでした(笑)。ただ、城跡の一角は高台になっていて、確かに城があったような印象は窺えました。

公園から道を隔てて反対側にも、写真のような城跡を示す碑が建っていました。

Narumi_10むしろ鳴海と聞いて浮かぶのは、東海道の宿場町だったことでしょうか。城跡のすぐ下の交差点は高札場(札の辻)だったとされているようです。
写真はその交差点から南方向を撮りました。この道が旧東海道で、商家が建ち並んでいました。今はすっかり寂れているような感じでしたが…。一部にわりと古い旧家も残っているそうです。ただ、本陣は跡形もないそうで。

■名古屋市緑区

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