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2010年1月

2010.01.26

岐阜城跡

Gifujo_35Gifujo_40このシリーズ最後は岐阜城跡です。長良川のほとりにある金華山にそびえる山城です。元々は稲葉山という名の山だったことから、稲葉山城、あるいはかつての地名から井口(いのくち)城と呼ばれてきました。

13世紀初期に二階堂行政によって砦を構えたのが初めての築城とされています。二階堂氏は美濃国に拠点を築いたそうで、その関係で理解されているのでしょうか。美濃に土着した一族は稲葉氏を名乗り、そこから稲葉山という名が付いたそうです。

南北朝期には一度廃城になったものの、室町期には守護土岐氏支配の下、15世紀中頃に守護代の斎藤利永が復興したとされています。応仁・文明の乱の頃には、利永の弟に当たる斎藤妙椿(みょうちん)が主家を抑えて実権を握り、稲葉山城が実質的な美濃の中枢と目されていくようになりました。この頃から既に城下町が形成されていったとされています。

Gifujo_49しかし16世紀になると家中で内紛が起こり、斎藤氏被官の長井長弘が実権を掌握。そして、長井氏に後継者として迎えられていた長井新左衛門尉と、その子で長井氏被官の家に入っていた西村勘九郎(のちの斎藤道三)が擡頭してゆきました。天文2年(1533)に勘九郎は守護土岐頼芸(よりのり[読みは諸説あり])と結託して長井長弘を殺害。父の死もあって、この頃から長井規秀を名乗りました。さらに守護代の斎藤利良が死去すると、跡を継いで斎藤利政と名乗りを改めました。その後、稲葉山城主として城の整備に乗り出したようです。
そしてまもなく、天文11年(1542)に守護土岐頼芸を尾張へ追放し、有名な「国盗り」が成就しました。

Gifujo_23Gifujo_30写真は城内の様子。右写真は、二の丸の門の跡とされています。

こうして稲葉山は斎藤道三の城となりました。道三は尾張で勢力を拡大する織田信秀・信長とも誼を通じていたものの、弘治2年(1556)に子の義龍が反旗を翻し、長良川河畔で討ち死に。その義龍は永禄4年(1561)に死去した後、手切れとなった織田信長の攻撃を受けるようになりました。当主の斎藤龍興は竹中重治(半兵衛)などの美濃の国人衆に見限られ、永禄10年(1567)に落城。信長が本拠を移し、この頃から岐阜と呼ばれるようになりました(信長が命名したという『信長公記』の記述は疑義があるらしい)。

Gifujo_1Gifujo_8こちらは麓にある織田信長居館跡。大部分は復元されたものと思いますが、なかなか立派な遺構でした。

信長が安土への移転を構想すると、天正3年(1575)には子の織田信忠が城主となりました。本能寺の変で信長・信忠が死去すると、信忠の弟の信孝が城主に、翌年の賤ヶ岳の戦いで信孝は切腹した後は、池田元助(恒興の子)が城主となりました。しかしさらに翌年の小牧・長久手の戦いで池田元助は戦死し、弟の輝政が代わって城主に、とめまぐるしく入れ替わりました。なんとも岐阜城主というのは縁起が悪い感も…。

この池田輝政だけは無事に三河吉田(現愛知県豊橋市)へ加増栄転し、天正19年(1591)には羽柴秀勝(豊臣秀次の弟)が入りましたが、これまた翌年の朝鮮出兵の際に巨済島(コジェド)で病死。続いて信長の孫の織田秀信(信忠の子)が城主となり、家門復活といったところでしたが、関ヶ原では西軍に付いたため改易。翌慶長6年(1601)に近隣の加納に奥平信昌が築城することとなり、岐阜城の建物は移築され、廃城となりました。
現在の天守閣は戦後の再建です。

Gifujo_9Gifujo_14結構な山城ですが、頂上付近まではロープウェーで行けます。大手道を歩いて登っても1時間はかからないそうですが、健脚じゃないときつそうです。

Gifujo_16Gifujo_18写真は信長居館跡の様子。右写真はロープウェーの中から撮りました。

現在、居館跡の奥の方では発掘調査が行われています。以前からリンクをしていますが、その様子をブログで見ることができます。
また、麓の公園は観光地化を目指してでしょうか、工事が行われていました。なんでも派手な信長像が造られたと聞きましたが、斎藤道三のこともちょっとは思い出してほしいというか…。

また、公園内には岐阜市歴史博物館もあり、そちらも見学しました。加納にも行きたかったのですが、時間が無くてパス。また来たいと思います。今度は鵜飼いもセットで…。

■岐阜県岐阜市

2010.01.24

教科書の思わぬブーム

またしても雑事に追われてしまい、更新が滞ってしまいました。
この状況は来週まで続きそうです。
せっかくやる気が出てきた史料めくりもままならぬ…。


なんだか五味文彦・鳥海靖編『もういちど読む山川日本史』(山川出版社、2009年)が売れているそうですね。社会に出て歴史に興味を持った人に受けているようで。概説書は数あれど、どれがいいのかわかりにくいということなのか、というよりも量が多すぎるから敬遠されてきたためか、手頃な分量の「教科書」と銘打ってあると手に取りやすいのかもしれません。

中身は見ていませんが、これを読んでさらに歴史への興味が広がるような内容になっているとなおいいのですけれども、どうなのでしょう。
大学の教養の授業とかでも使えるのかもなあ、と思ったりしましたが、それでは高校の授業を大学でやることになりますか(笑)。

思わぬ所で流行をつかんだということなのでしょうかねえ。学界は、「次はこれをどうぞ」と売り込む戦略を考えるべきなのかも。

もういちど読む山川日本史もういちど読む山川日本史
五味 文彦・鳥海 靖編

山川出版社 2009-09
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2010.01.19

有楽苑(如庵)

Joan_1Joan_2犬山城の麓から歩いて5分ほど。名鉄犬山ホテル(ここって昔よくドラマの撮影で使われていた所ですよね)の敷地内にある有楽苑。織豊期の茶人として有名な有楽斎(織田長益、信長の弟)にまつわる文化財を所蔵している所で知られています。名古屋鉄道(名鉄)が買い取った建築物などの文化財を展示した場所、という性格の場所です。

左写真は入口の岩栖(いわす)門。元は京兆家当主だった細川満元の屋敷の門だったものとされています。一方で、文明年間(1470年代頃)の築となっていますが、満元は15世紀前半の人物なので年代が合いません(笑)。新しい方を取って15世紀後半頃のものとするのが妥当でしょうか。

右写真は園内の中央に位置する旧正伝院(しょうでんいん)書院(重要文化財)。正伝院は京都の祇園にあった建仁寺の塔頭で、有楽斎の菩提寺でした。明治の廃仏毀釈のゴタゴタで建仁寺近くの永源庵跡に移転して正伝永源院となって今に続いています。
永源庵は有楽斎が晩年を過ごした場所で、現在は墓所のほかに如庵を復元した建物もあるそうです(詳しくはこちら)。

Joan_5Joan_8_2こちらがメインの如庵(国宝)。元和4年(1618)頃に、有楽斎が先述の永源庵に建てた茶室です。

有楽斎こと織田長益(ながます)は織田信秀の晩年の子だったためか、信長との関係は薄く、前半生についてはよくわかっていません。甥の織田信忠と行動を共にしていたようで、天正10年(1582)の本能寺の変の際には二条城にあり、首尾良く脱出したと言われています(実際には二条城に居なかったとも言われていますが)。
その後は織田信雄に従い、天正18年(1590)に信雄が失脚した後は豊臣秀吉の御伽衆となり、その子秀頼の側近となりました。ただし関ヶ原では東軍に付いて軍功を挙げ、摂津・大和で計約3万石の大名になっています。その後も秀頼に従い大坂に居ましたが、大坂夏の陣の直前に袂を分かち、その後は京都で隠居しました。元和7年(1621)没。子孫は大和で大名として生き残りました。

もっとも、長益は武家としてよりも茶人として有名ですね。千利休の門弟の一人となり、そちらで才能を発揮。特に秀吉に気に入られて名を挙げていきました。東京の有楽町は有楽斎の居館があったことにちなんだものという伝承は有名ですが、有楽斎は実際に江戸に住んだ経歴はないようです。

さて、如庵は先述のような明治の廃仏毀釈の複雑な経緯に引き込まれたのか、明治末期に三井家に売却され、東京に移築されました。さらに戦中期に大磯(神奈川県大磯町)にあった三井家の別荘に移築された後、1970年(昭和45)に名鉄が買収して現在地に移築されました。如庵の持つ歴史は、なかなか考えさせられます。

建築物としての詳細はよくわからないので…、こちらをご参照ください。

Joan_9Joan_11_2左写真は、「元庵」。有楽斎が大坂の天満に構えていた邸宅を復元したものだそうです。

右写真は、徳源寺唐門。徳源寺は織田信雄が最後に過ごした大和宇陀松山藩(現奈良県宇陀市[旧大宇陀町])内にある織田氏の菩提寺で、寺自体は現存していますが、その後の織田氏の転封に従い唐門は移築されたと言われています。結果的にここに移されました。
徳源寺は寛永9年(1632)の創建だそうで、この唐門は創建時に建てられたとされています。

いずれも今ある場所にゆかりはない建物ばかりなのですが、結果として織田氏の関わった建物を見られる貴重なスポットとなっています。拝観料が少々お高めなのが玉に瑕ですが…。

■愛知県犬山市

2010.01.17

震災15年

珍しく一日で二つ目の記事ですが、やはりこれは書いておかねばならないということで。

私は、「その日」には既に四国にいたので、実際に体験はしませんでした。しかし、生まれ育った地が大きな被害を受けたことは衝撃でしたし、しかもその前後で街の姿が一変してしまい、なんだか私の故郷としての“記憶”が一挙に奪われてしまったような寂しさを感じてきました。
単純に神戸を離れてもう長くなったので、よりその思いが深まりつつあります。先日神戸に帰ったのですが、帰るたびに変わっていきますねえ(それは都市の活性と言えなくもないが)。もちろん変わらないものもあるんだけど。

あくまで主観的感想ですが、震災の記憶もやはり風化しつつあるように思えます。地元に帰っても、周囲で震災の話題が上ることはまずなくなりました。
まあ、それは復興の一指標として前向きに考えてもいいのかもしれません。ただ、不幸にも震災後は不況が続いたこともあってか、今も激甚だった地区ではなかなか復興が進まず、そのまま寂れる一方となった所もあるのも気がかりです。
もちろんそういった地区の復興もこれから進んでいくならば、さらに記憶の風化は進むのでしょう。もう15年もすれば世代も入れ替わりますから、その頃にはおそらく「記憶」は「歴史」になりそうです。そうなれば、精神面でも「復興」したとは言えるのかもしれません。

その時、神戸はいったいどんな街になっているんだろうなあ。
少なくともその頃には、もう私の故郷ではなくなっているかもなあ…(そもそも親もいつまで生きるかわからんし)、と思ったりもします。
10周年の時の記事と読み比べてみると、私の考えも変わったのか、いや、変わってないのか…?


今も各地で地震の被害は絶えないわけですが、明日は我が身ですねえ。その備えをまったく怠っているわけですが、ちょっと考えないとなあ…と、これを機に少しは思いを新たにしたいと思います。というか、なるべく忘却しないようにしたいと思います、と言った方が建設的な目標かもしれません(笑)。

ともあれ、せわしない日常にあって、少しでも地震というものについて考える一日になればいいなと思います。

地域史の新著と名著を拝受

少し前のいただきものの続きです。

加能地域史研究会創立30周年記念論集『地域社会の史料と人物』(加能地域史研究会発行・北國新聞社発売、2009年)を、執筆者のIさんより受贈。ありがとうございます(発売元からの情報はこちら)。
目次は下記の通りです(執筆者の掲載は見合わせます)。

第一部 為政者たちの実像
加賀・能登の国司たち/能登守護畠山慶致考/直筆消息に見る芳春院の実像/土方雄久と越中領成立の経緯/内田政風と初期石川県/名誉職市長片岡安―都市建築論と金沢市政―
第二部 活躍する庶民
中山家と浦改方御用/近世の七尾大工について/飛脚が運んだ政治情報―「浅野佐平手留」を中心に―/草莽の志士小川幸三の加賀藩出仕―二つの建白書の歴史的位置―/北陸考古学の先覚者たち
第三部 宗教人の諸相
中世七尾湾周辺の石造遺物について/光教寺蓮誓について/戦国期における加賀国の真宗高田派門末と専修寺応真/大野湊神社の神職継承に伴う諸相と事件
附録 『加能地域史』掲載論文等目録

私はかつて加賀に関する論文を書いたことがあるので(その後は放置状態ですが…)、特に戦国期の論考は興味深いところです。
地域史研究あるいは地域史に関する書籍の情報というのはなかなか入手が難しいので、たいへんありがたいです。
現在は『加能史料』の戦国期部分が刊行中ですが、それによって研究状況も大きく変わりそうですね。注目したいと思います。

4833017083地域社会の史料と人物―加能地域史研究会創立30周年記念論集
北國新聞社出版局 2009-12-13

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もう一冊は、長沼賢海『日本の海賊』(私家版、2009年、初出1955年)受贈。ありがとうございます。著者の30回忌を期に復刻されたもので、縁あって拝領いたしました。
かつて至文堂という出版社から「日本歴史新書」として刊行されていたシリーズのうちの一つで、主に中世における日本の海賊について概説したもの。長沼氏は海賊研究では先駆者といえる研究者で、刊行されてから半世紀を超えていますが、今なお研究史では重要な位置を占めています。

私は学部時代四国にいたこともあり、瀬戸内海の海賊については興味を持っていたのですが、研究史の重厚さと精緻さに圧倒され、自分で研究するのは諦めたことを思い出します(笑)。もちろん本書の後にも重要な研究が多く出されましたが、今読み返してみても、その水準の高さに唸るばかりです。
そういったことなど、本書を読むとつらつらと学部時代の記憶が蘇ってくるとともに、初心を新たにする機会となりました。

2010.01.16

犬山城

Inuyamajo_4この地域に来たら、まあ行くべきはここですね。犬山城です。城そのものは15世紀後半に築かれたとされていますが、天守閣(国宝)は、下層部は天文6年(1537)に織田信康(信秀の弟で、信長の叔父)が築いたものとされ(実際は近隣にあった城を移築したものと言われています)、現存する天守閣では日本最古のものです。
上層部分は元和年間に増築されたもののようです。

InuyamajoInuyamajo_2この地域は尾張上半国守護代の岩倉織田氏に味方する織田信秀(弾正忠家)の影響下にあり、弟の信康が拠点として城を構えました。天文16年(1547)に美濃斎藤氏との戦争で信康は戦死。跡を継いだ子の信清はのちに信秀を継いだ信長と敵対し、その結果、小牧へ進出した信長の攻撃を受けて永禄7年(1564)に落城。信清は甲斐武田氏の元へ逃亡したとされています。その後は信長被官の池田恒興らが城主となりました。

信長死後は織田信雄の支配下となりましたが、天正12年(1584)に突如池田恒興が城を奪取し、これが小牧・長久手の戦いの契機となりました。結局、恒興はこの戦いで戦死。戦後は三好吉房(秀吉の義兄で豊臣秀次の実父)が城主となりましたが、天正18年(1590)には代わって秀吉近習の石川貞清が城主となって関ヶ原を迎えました。

石川貞清は西軍に付いたため改易され、犬山は清須の松平忠吉の支配下となり、そのまま尾張藩領となりました。犬山城は尾張藩付家老の居城となり、小笠原吉次、平岩親吉を経て、元和4年(1618)に下総栗原(現千葉県船橋市)藩主の成瀬正成が付家老となり、その後代々犬山城主となりました。

近代に入ると天守以外の多くが破壊されましたが、天守は遺されました。1891年(明治24)の濃尾地震に被災し、その修復を条件に成瀬家に無償譲渡され、最近まで個人所有であったことは有名ですね。現在は財団法人犬山城白帝文庫の所蔵となっています。天守の最上層には、成瀬家歴代当主の肖像が飾られていました。

Inuyamajo_15天守からの眺め。
これはかつての城下町で、現在の犬山の市街地方面。
城の正面の町並みは、かつての城下町の風情を出すための整備がなされていました。犬山はわりと観光地の多い所ですが、ぶらぶら歩くのも良さそうですね。

Inuyamajo_16Inuyamajo_18城の北側には木曽川が流れています。わかりやすい天然の要害ですね。

左写真は上流側。橋が見えますけれども、鉄道ファンに有名な橋。最近まで電車と車が共用していた橋です(詳しくはこちら。現在は道路用の橋が新たに架けられています)。
対岸は、中山道の鵜沼(うぬま)宿(現岐阜県各務原市)。木曽川がちょうど濃尾の国境(県境)になっているわけで、犬山は国境の要衝でもあり、水路と陸路の結節点だったことが窺われます。

右写真は下流側。広大な濃尾平野を一望できます。

■愛知県犬山市

2010.01.15

中近世移行期研究の現在

堀新『日本中世の歴史7―天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館、2010年)受贈。ありがとうございます。
いただいてから時間が経っているのですが、ドタバタしていて読み終えるのに時間がかかってしまいました。

ほかの通史ものとの違いは、やはり「鎖国」成立までを見通したところでしょうか。従来、シリーズものではどうしても16世紀と17世紀に断絶が生じてしまうのですが、本書では17世紀前半までを見通している点で斬新であろうと思います。
叙述については、時系列で事件をたどる一般的な意味での通史とは多少性格が異なっていて、この時代における社会の特質をいくつかのトピックとして取り上げるスタンスで貫かれているように感じました。

中でも肝になるのが、織豊期の国家構造として以前から主張しておられる「公武結合王権」を軸に国家構造を説明した点になろうかと思います。著者の堀さんはこれまで論文の形でこの概念を提起してこられましたが、著書なり通史なりの形でこの概念を前面に押し出したのは本書がおそらく初めてであろうと思います。なので、この概念をめぐる議論が今後交わされるにあたって、本書は必ず参照されることになるだろうなあという印象です。

この時代は、武家と天皇(あるいは公家)との関係をどう考えるかで長い議論があります。私にはどれが一番整合的かといった評価を下すほどの見識はありませんけれども、百家争鳴とも言える状況が続くなかで、本書がどのような反響を呼ぶかについては興味深いところです。

個人的には、通常は近世史の分野に属する17世紀初頭の研究史について、不勉強のまま来たので勉強になりました。

4642064079天下統一から鎖国へ (日本中世の歴史)
堀 新
吉川弘文館 2010-01

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2010.01.13

小牧城跡

Komakijo_18Komakijo_17次は名古屋の北側を北上してゆきます。
まずは小牧城跡(小牧山城とも)。今は「小牧山」として公園化しており、少し山登り気分を味わえる市民の散歩のスポットといった感じでした。

桶狭間の戦いの後、敵対した美濃の斎藤氏に対するために、永禄6年(1563)に織田信長が清須からここに本拠を移して築城しました。その後、永禄10年(1567)に斎藤氏を滅ぼして岐阜へ本拠を移すまでの拠点として城下町を建設しました。

その後しばらく衰えましたが、天正12年(1584)に起こった小牧・長久手の戦いで戦場になったことでも知られています。その際、徳川家康・織田信雄が改修して堅固な城を整備し、本陣としました。結局城は戦場にならずに戦争は終わり、小牧山も城郭としての歴史を終えました。
近世に尾張藩が保護したために遺構がよく遺されているそうで、現在は発掘調査が続けられています。

右写真は麓の縄張り。家臣層の屋敷などがあったと考えられているようで、敷地も広大です。かなり計画的に城下町を整備した様子を窺えます。もっとも、小牧・長久手の戦いの時に整備された遺構の可能性もありますが。

Komakijo_3Komakijo_5山を登っていくと左写真のような曲輪がいくつもありますが、登山道自体はほぼ直線になっていて、おそらく当時もそうであったと考えられています。
この辺は、後に築いた安土城の先駆的形式ではないか、とも言われているようです。

右写真は本丸下にある石垣の遺構。
この辺は城跡らしさが窺えますが、石垣があったことがわかる場所はほかにはあまりありませんでした。

Komakijo_7Komakijo_13左写真が本丸。今はそこに小牧市歴史館が建っています。訪問時は残念ながら休館日(笑)。眺めはすばらしいようでしたが。

右写真は、麓に遺る土塁を切ったもの。いくつもの層に分かれていることがわかります。それぞれがどのような層だったかは、すみません、忘れました(笑)。

■愛知県小牧市

2010.01.12

津島神社

Tsushimajinja_1尾張西部編最後は津島神社。
社伝では欽明天皇の時代(6世紀半ば)頃の創建とされており、かつては牛頭(ごず)天王社と呼ばれていました。津島天王祭りは有名です。
「津島信仰」とも言われる牛頭信仰の拠点となっていて、同じ信仰を有する京都の祇園社と双璧をなす神社とされています。牛頭天王の紋は「木瓜(もっこう)」ですが、織田氏がこれを家紋にしていることから、同氏は津島社への信仰が篤かったとされています。

Tsushimajinja_3Tsushimajinja_5写真の本殿(重要文化財)は慶長10年(1605)築。当時の領主だった松平忠吉(家康の子)の妻が、夫の健康を祈願して寄進したものとされています。尾張造の典型的な様式で貴重です。

Tsushimajinja_8Tsushimajinja1左写真の南門は、慶長3年(1598)に豊臣秀頼が父・秀吉の病気快癒を祈願して寄進したものと言われています。伊勢湾台風の際に倒壊し、その修理の過程で上記の由来を記した墨書が見つかったそうです。

右写真は摂社の一つである居森(いもり)社。天正19年(1591)に、豊臣秀吉の母・大政所の寄進によって建てられたものとされています。ただし後に修理の手が入っているようです。

さて、津島といえば、伊勢湾に繋がる水運の拠点としてよく知られており、織田信長の飛躍を経済面で支えた港町と言われています。今でこそその面影は少ないのですが、かつては木曽川の支流が入り込んだ港町を形成して賑わっており、津島神社はその港町のシンボルといってよい存在でした。
今の街の風景はどちらかといえば寂れた感じ?(失礼)で、神社の境内も静かでしたが、境内地はさすがに比較的広く、往時の街の繁栄が窺えます。今も中世の文化財を多く所蔵しています。

日暮れが近くて時間もなく(トラブルがあったせいでもありますが…)、町中をあまり見て回ることができなかったのですが、港町の風情を残す灯籠なども遺っているようなので、また機会があればじっくり歩いてみたいところです。

■愛知県津島市

2010.01.11

次のステージへ

少々立て込んでいて、間が開いてしまいました。

このところ、見ている史料はほとんどが織豊期から17世紀初頭のもの。
果たして中世史専攻と称していいのかどうか(笑)。

この時期の結構面白そうな史料が見つかり、その調査について現在検討中です。
膨大なだけに取り扱いが大変ですが、できれば全部翻刻したいところですけれども…。協力者募集中(笑)。

…とまあ、そんなことをつらつらと考えています。
しばらくもたついていましたが、やっと次のステップが見つかりつつあります。

2010.01.05

甚目寺

JimokujiJimokuji_1尾張の西部方面へ向かい、甚目寺(じもくじ)へ。本尊が聖観音(秘仏)であることから、「甚目寺観音」と呼ばれています。

13世紀に書かれた縁起「文永甚目寺縁起」によると、推古天皇5年(597)に甚目龍麻呂(はだめのたつまろ)という漁師が海中から聖観音を拾い上げ、安置するための堂を建立したのが始まりとされています。甚目氏の氏寺になったとされ、古代においてすでに勅願を受けたという伝承もあるようですが、ともあれ古代には既に寺院として存在していたことは確かなようです。
一度衰微したようですが、大江氏や在地領主の長谷部氏の保護によって再興し、弘安6年(1283)には一遍が参詣していることが『一遍聖絵(上人絵伝)』に描かれています。
それによると、「尾張国甚目寺につき給。(中略・先述の由緒)よりてこの地にして七日の行法をはじめ給けるに、供養ちからつきて寺僧うれへの色みえければ、…」(『同』第六第四段、岩波文庫版p.67)とあります。

天正18年(1590)に地震で倒壊しましたが、豊臣秀吉・徳川家康の保護を受けて再興しました。

左写真の南大門(重要文化財)は建久7年(1196)築とされています。本堂は最近再建されたもの。

Jimokuji_2Jimokuji_6左写真の三重塔(重要文化財)は、寛永4年(1627)に名古屋両替町の吉田半十郎という人物(金融業者でしょうか)の寄進によって建てられたもので、高さ28mは全国的にもかなりの高さだそうです。

右写真の梵鐘は、建武4年(1337)の銘が確認されています。近づけないので肉眼ではよく見えず。

Jimokuji_4こちらは市街地に繋がる東門(重要文化財)。寛永11年(1634)の築です。見た目はごくシンプルですが。

このほか、平安期の絹本著色不動尊像(青不動)や鎌倉期の涅槃図(ともに重要文化財)を所蔵しているそうです。

■愛知県甚目寺町

2010.01.04

データベースの一覧性向上のために

昨年のことですが、最新刊の『日本歴史』740号(2010年1月号)の特集「日本史研究とデータベース」に利用者の立場として寄稿しました。
私の書いた内容は、学会・研究会等のサイトで公開されている会誌のデータベースや研究会案内の現状というもの。といっても、自分のホームページで公開している研究会リンク集をそのままネタにしたようなもので(ちなみにこのブログからはリンクしていません)、そういう意味ではかなり手抜きだったのですが(笑)。
結構偉そうなことを書きましたが、私自身への戒めという意味も込めていますので、関係者の方はお気を悪くなさらないでください。


私が書いた内容についてはともかく、ほかの方の記事を読んでいて思ったのは、それぞれの機関等でデータベース(DB)の構築が進んでいつつも、それらへのアクセスの窓口となる「ポータルサイト」が存在しないため、なかなか周知が進まないことです。
研究機関等のサイトへのリンク集はかなり充実した所はあるのですが(有名なのはこちら)、いわゆるDBの本格的なリンク集がまだ無いのは意外でした(こちらのようなサイトはありますが、網羅しているわけではない)。

ちなみに、実は私は研究する際にあまりDBを利用したことはありません。参照した所といえば、東大史料編纂所は当然のこととして、あとは東大経済学部図書館の古貨幣・古札画像データベースくらいかもしれません。探せば私にとって役に立つDBはあるかもしれませんが、そもそも探すとっかかりとなる場所が無いんですね。

そうなると、自分のためにも、結局はポータルサイトを作るしかないわけです。とはいえ、従来のようなリンク集作成の方法ではすべて一人でやらざるをえず、負担が大きいし情報収集には限界もあります。

そこで思いついたのは、Wikiを活用する方法。基本的に誰でも書き換えられるシステムで、これだと多くの方に携わっていただくことで、洗練されたサイトが作れるのではないか。いわゆる「荒らし」の対策が必要にはなりますが、専門性の高い内容で利用者が限定されるので、さしあたりはあまり気にする必要もないように思います。

というわけで、「日本中世史データベースWiki」(仮称)を構想したりしたわけですが、どんなもんでしょうかね? ニーズが無ければ無意味という気もしますが、ともあれ私はあると便利かなと思いましたので、しばらく実現に向けて考えてみたいなと思います。

まあ、ここまでは言うは易し…なんですが。もちろん、どなたか構築していただける方がおられると大変助かります。構想に対する対価などを要求することはありませんので(笑)。あと私は最近のネット事情に疎くなりつつありますので、アイデアなどを助言していただけるだけでもありがたいです。
ちょっと腰を据えて議論をしてみたいなと思うのですが、いかがでしょうか。


以上の記事を書いた後に、Wikiを使ったデータベースのリンク集がすでに存在していることを確認いたしました(こちら)。
ただ、一覧性の点では改善の余地があるかな、という気もしたり(たとえばDBで扱っている史料群についての情報がやや不十分かなという点)、今後のDBの増加を考えれば、やはり中世史に限定して作る方がいいのではないか…などと思ったりしました。

B00308V8JG日本歴史 2010年 01月号 [雑誌]
吉川弘文館 2009-12-22

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2010.01.01

謹賀新年 2010年

明けましておめでとうございます。
本年もこのブログをよろしくお願いいたします。
遅いペースながら、記事の通算回数が900回を超えてきました。今年中に、1000回に到達できるのではないかと思っています。

今年は年男です(トシがばれる(笑))。このトシまで独り立ちできないでいるのは忸怩たるものがありますけれども、あまり卑屈にならずに前向きに過ごしてゆきたいものです。
ただ、そろそろ将来に対する不安も生じてきたのも確かで…。年末には生まれて初めて宝くじを買ったりしました(当然外れましたが(笑))。

今年いっぱいは今まで通りあまり余計なことを考えずにいけるかもしれませんが、その後はさすがに将来設計をまじめに考えないといけないかもしれません。そういう意味では、今年は重要な一年と考えて大事に過ごしてゆきたいと思います。ちょっとは飲み会の出席も減らすべきかも…などと思ったり(これが難しい(笑))。

年始早々暗い話をしては縁起が悪いですね。
今年が、去年よりも(は?)よい年になるといいですね。

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