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2010年2月

2010.02.26

妙本寺

Myohonji_11Myohonji_1大町ではひときわ大きな寺院の妙本寺。
この辺りはかつて比企谷(ひきがやつ)と呼ばれた所です。その名の通り、鎌倉初期には、重鎮の比企能員とその一族が居館を構えていた場所とされています。建仁3年(1203)に比企一族が滅ぼされると、遺された能員の末子・能本(よしもと)が文応元年(1260)に日蓮の弟子・日朗を招いて菩提寺を建立したのが、妙本寺の起こりとされています。

また、九条頼経の妻(源頼家の娘)である竹御所が比企能本の姪に当たる縁があり、竹御所の菩提を弔うために建てた法華堂が前身だったともされています。

まあ、いずれも出来過ぎな話という感もしなくもないですが…、ともあれ、数少ない比企氏の縁の地であることは確かですね。

左写真は総門です。

Myohonji_8Myohonji_3左写真は二天門、右写真は一番奥にある祖師堂です。

Myohonji_5Myohonji_7祖師堂に向かって右側には石造物がいくつか並んでいます。左写真は、そのうち比企一族の墓とされるものです。

右写真は、二天門の裏側にある「一幡之君袖塚」。一幡(いちまん)は源頼家の子ですが、母は比企能員の娘であったため、比企氏とともに没しました。その際焼け残った袖を埋めた塚と伝わっています。

竹御所の墓もあったそうですが、見落としました。このほか、前田利家側室の墓とされる巨大な五輪塔もありました。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.25

別願寺・安養院・八雲神社

Betsuganji_1Betsuganji_2続いて大町地区へ。鎌倉期には既に庶民の町場として形成された地域です。

まずは別願寺。時宗寺院です。今はあまりお寺らしい感じがしなくて、本堂は民家のようでした。
そこにあるのが左写真の多宝塔。別願寺は鎌倉公方の信仰を得たと言われており、この多宝塔は足利持氏の供養塔と伝わっています。
ただこの多宝塔、造られた時期は鎌倉期に遡る可能性が高そうで、元は持氏とは無関係とも言われています。

右写真は境内にあった石造物。中世に遡るものはざっと見た感じなさそうですが、どうでしょうかね。

Anyouin_8Anyouin_1別願寺から少し歩くとある安養院。元は善導寺という寺院だったところ、北条政子が源頼朝の菩提寺として建立した長楽寺が鎌倉末期に長谷からここへ移転し、政子の院号を取って安養院という寺名になったそうです。

右写真は、本堂の裏手にある宝篋院塔(重要文化財)。徳治3年(1308)の銘があり、年代のわかるものでは鎌倉で最も古い宝篋院塔です。現地看板によると、浄土宗名越派開祖の尊観上人の墓と伝わっているそうです。
尊観は名越朝時の子(北条義時の孫)で、善導寺を創建した人です。正和5年(1316)没だそうなので、比定が正しいとすれば逆修の石塔ということになりますね。

Anyouin_3Anyouin_4その横には、二つの宝篋院塔があります。一つ(確か右写真だったような?)は北条政子の墓と伝わっているものです。
もう一つの宝篋院塔は近世のものでしょうかねえ?(自信はない) もう一つ別の所に宝篋院塔がありましたが、こちらはたぶん近世のもののように見えました。

Yakumojinja_1Yakumojinjaこちらは、少し北側に歩くとある八雲(やぐも)神社。かつては祇園天王社と呼ばれた神社で、新羅三郎こと源義光が奥州へ下る際、鎌倉へ立ち寄り京都の祇園社を勧請したと伝わっているそうです。その後は源氏一族の佐竹氏の信仰を受け、佐竹天王社という別名もあるとか。

室町期には足利成氏の保護を受け、戦国期には後北条氏が祭礼保護の印判状を下したそうです。また、慶長9年(1604)には徳川家康から「永楽五貫文」の社領が与えられたとのことです。(「永楽」に興味あるなあ…。)

境内には、右写真のようなものがありました。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.23

一の鳥居・由比ヶ浜

Ichinotorii_6鎌倉の中心部の史跡編です。いつでも行けそうな所はまた別途ということで、ややマニアック寄りで。

JR鎌倉駅から若宮大路を海側へ歩くと、道路の真ん中に建っているのが一の鳥居(重要文化財)。寛文8年(1668)に、将軍徳川家綱が寄進したものです。ここから鶴岡八幡宮までは置き石が敷かれていたそうで、二の鳥居から先は、有名な「段葛(だんかずら)」と呼ばれる参道が延びています。

若宮大路は今では鎌倉のメインストリートですが、鎌倉幕府の開幕当初はそうではなかったと言われていますね。まあこの辺はまだ議論のあるところでしょうけれども。

Ichinotorii_3Ichinotorii_4鳥居の傍らには写真のような石造物があります。

左写真は、畠山重保の墓とされる宝篋院塔。明徳4年(1393)の銘が確認されています。有名な畠山重忠の子で、元久2年(1205)に由比ヶ浜で三浦義村に殺害されました。北条時政に謀反の疑いをかけられたためで、この直後に父・重忠も殺されました(畠山重忠の乱)。
銘の年代からして、供養塔というべきでしょうか。「比丘道友」という人が寄進したそうですが、どういう人なのでしょう。鎌倉府関係者なのでしょうかね?

隣に右写真の立派な五輪塔もありましたが、説明もなく詳細はよくわかりませんでした。

Yuigahama_1その先に広がる由比ヶ浜。まあ、史跡というよりは観光地ですね。
今はサザンの歌が聞こえてきそうな雰囲気ですが(笑)、歴史的には血みどろの戦いが頻繁に行われた所なのはご存じの通りで。上記の畠山重保のほかに、和田義盛もここで激戦を繰り広げて戦死しました。鎌倉幕府滅亡時も、ここで新田義貞と激しい戦闘になったと言われています。

掘れば骨がザックザク…というと不謹慎か(笑)。でも、発掘調査で多数の人骨が出土していることでも知られています。ちなみに写真は東側で、こちら側は一般に「材木座海岸」と呼ばれているとか。西側の写真も撮ったのですが、稲村ヶ崎を狙ったらアングルがいまいちだったのでパス。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.22

建設ラッシュという社会的ムード

西島太郎『京極忠高の出雲国・松江』(松江市ふるさと文庫8、松江市教育委員会、2010年)受贈。ありがとうございます。

寛永11年(1634)から同14年までのわずか3年の間でしたが、出雲松江藩主となった京極忠高の治世について平易に描いています。
藩主だった期間は短いものの、この間に領内の治水工事で高い功績を果たしたことを中心として、初期の藩政の様子が解説されていて勉強になりました。

初期の幕藩体制については、もちろん構造論的な部分では長い研究の蓄積があるわけですけれども、こと具体的に各藩の状況がどれほど明らかになっているかというと、まだまだなのかもしれません。今は中世史・近世史の狭間で研究の「エアポケット」になっている感すらしますが、その打開の可能性を探りたいところです。…といったことを、読んでいながらつらつらと考えておりました。


これは既に周知の事実でしょうけれども、17世紀初頭はどこもかしこもわりと大規模な土木工事が行われています。もちろん築城が最たるものなのですが、松江藩のほかにも、河川の流路まで変えてしまう大規模なものまで各地で治水工事を結構やっていたりします。

もちろん「関ヶ原」後に訪れた「平和」のもたらした流れということもできるかもしれませんが、かといっていきなり権力者や民衆が裕福になったわけでもないので、その景気をいわゆる経済成長のような側面では説明できないでしょう。(実際、借金まみれの大名家はこの時期すでに結構あるわけで。)

それでもなお、このようないわば「建設ラッシュ」(「戦後復興」というと語弊があるかもしれませんが、まあそんなイメージが近いのかも)がなぜ起きたのか。当時の社会のムードについてもっと考える必要があるんだろうなあ、と思ったりしました。いや、もうそういう研究はあるかもしれませんけど(笑)。

私がこういう研究に手出しできるとは思えませんが、別の側面から当時の社会を考える上で思惟のヒントになればと、とりとめもなくメモをしておきます。


なお、本書は松江市教育委員会文化財課で注文できるとのことです。詳しくはこちらをどうぞ。

2010.02.21

滝山城跡

Takiyamajo_24Takiyamajo_54未踏だった近郊の中世城郭遺跡のうち、「最後の大物」として前々から目を付けていた滝山城跡に行ってきました。

武蔵守護山内上杉氏の被官で、守護代でもあった大石定重が永正18年(1521)に築いたと言われています。
大石氏について出自ははっきりしないことが多いのですが、源義仲の末裔を称しており、南北朝期に関東へ移って上杉氏の被官になったと伝えられています。一説には、南北朝期に勃発した平一揆が鎮圧された後、その所領を大石氏が受け継いで勢力を拡大したとも言われています。

大石氏は多摩川上流域を地盤としており、室町期には二宮(現東京都あきる野市[旧秋川市])を本拠としていました。戦国期になると多摩川を挟んで対岸に高月城(現東京都八王子市)を築いて防御拠点とした後、その近くに改めてこの滝山城を築いて移ったとされています。

滝山城の築城は、勢力を急速に拡大する後北条氏に対抗するためだったと考えられていますが、天文15年(1546)のいわゆる「河越夜戦」で上杉方が大敗を喫すると、大石氏は抗しきれず後北条氏に降りました。当主だった大石定久(定重の子)は北条氏康の二男・氏照を養子に迎えて隠遁。これによって大石氏は事実上没落し、代わって北条氏照の居城となりました。

城のハイライトは、永禄12年(1569)の武田氏との攻防ですね。武田晴信(信玄)が今川・北条と手を切って関東へ侵攻した折、この滝山城で激しい攻防戦が繰り広げられました。この時三の丸までは武田方に落ちたものの、二の丸で防ぎきり、武田方は攻城を諦めてそのまま小田原へ進軍していったとされています。

これを機に北条氏照はさらに堅固な城郭を求めたとされ、間もなく八王子城(現東京都八王子市)を築いて移転。滝山城もまた大規模な改修が施されたようですが、後北条氏の滅亡とともに廃城となりました。

Takiyamajo_6Takiyamajo_7三の丸の辺り。ここまでは武田軍が攻略したとのことですが、縄張り全体で見ると外郭に近く、ここからさらにいくつもの曲輪を攻略しないと本丸には辿り着けないです。

Takiyamajo_9三の丸から少し登ると開けた曲輪がありました。「千畳敷」という名前が付けられています。

Takiyamajo_50Takiyamajo_15左写真が二の丸。かなり広大なのですが、なぜか曲輪の内部に段差がありました。防御上の配慮だったのか、はたまたほかに理由があるのか(後世に手が入った、とか?)、その辺はよくわかりませんでした。
右写真は二の丸を巡る堀。右側が二の丸。左側が中心部方面。下から攻め上ってくる場合、ここを抜かないと中心部へ進めない構造になっているようです。構造上、どこから攻め込んでも二の丸に辿り着く構造になっているそうですが、そうであれば、この辺りが激戦地になったのでしょう。

Takiyamajo_16本丸と二の丸の間にある広い空間。「中の丸」と呼ばれています。
実のところここが二の丸じゃないの?という気もしたのですが、そうではないと考えられているようなのでそれに従いたいと思います。
かつてここには国民宿舎が建っていたそうですが、今は撤去されています。

Takiyamajo_21Takiyamajo_38本丸と中の丸の間にある堀と橋。その先に本丸の枡形(虎口)が見えます。

Takiyamajo_26Takiyamajo_27いよいよ本丸に到着。今は神社が建っています。
とはいえ、見通しはあまり良くなかったように記憶しています。実際の城の機能は、やはり中の丸や二の丸が担っていたのでしょう。ただ、本丸には井戸がありました。今は涸れていましたが。

このほか多数の曲輪があり、さすが全国的にも有数の規模を誇る中世城郭の遺構です。一回ではもったいないというか、見られなかったほかの曲輪をまた見に来たいと思います。
公園として整備もされていて、下草や雑木を定期的に払っているように見えました。冬場ほどではないでしょうけれども、夏場でもそれなりに遺構を視認できるのではないかと思います。ただ、花見の名所となっているようなので、その時期に来るのは避けた方が良さそうですね。

■東京都八王子市

2010.02.17

雪国で出張ゼミ

出身ゼミ恒例の冬の合宿で、越後湯沢に行ってきました。
過去にも同じ目的で行ったことがあり(記事はこちら)、今回の宿もその時と同じ。かれこれ5年ぶり。時が経つのは早いなあとしみじみ思う。宿の女将が、朧気ながら私たちの一行を憶えていたようでした。驚異の記憶力? そんなに印象に残るようなことはしなかったと思うけど…。

で、5年前と明らかに違うことがありました。それは、あちこちで中国語が飛び交っていたこと。

時期的にあちらは正月休みだったので特に多かったのだとは思いますが、いかにスキー関連の観光業が外国人、特に中国人の需要で維持されているかを実感しました。10年後はそれが当たり前になるんでしょうねえ。仮にそうなっていなければ、日本の観光業は壊滅しているということなのかもしれません。

一応申し述べますと、遊びに行っただけではありません(笑)。〆切が近い原稿の準備報告。史料解釈について私一人ではとても思いつかなかった指摘を受け、いい機会となりました。
私は基本的にスキーはしないので(まあ、上手くないですから)、昼間は宿に籠もって原稿の手直しをしたり、近くの資料館に見学に行ったりしました。もちろん風呂も堪能(笑)。

越後湯沢では27万枚以上の「一括埋蔵銭」が出土したことで業界では知られており(石白の埋蔵銭)、その展示を見るのが目的でした。おそらく15世紀半ばに埋められたものか(宣徳通宝以後の銭はゼロなので)。明銭の比率が全国平均からすればやや高めなことを知り、いろいろと考えさせられました。

結局は飲み疲れて帰ってくるのですが、気分的には少しリフレッシュして、また日常の地道な生活を送りたいと思います…。

2010.02.14

建長寺

KenchojiKenchoji_2北鎌倉の最後は建長寺。こちらも定番ですね。ただ、私はここには初めて行きました。鎌倉五山第一位の禅寺です。

境内は、寺院が建立されるまでは刑場で、地獄谷と呼ばれていた所だったそうです。
建長寺の創建には諸説あるそうですが、建長3年(1251)に北条時頼が建立を始め、二年後に伽藍が整い、最終的な完成は建治2年(1276)だったとされています。開山は渡来僧の蘭渓道隆ですね。以後、鎌倉幕府滅亡まで住持は渡来僧が代々招聘されました。

室町期にも鎌倉五山第一位の格を持ちましたが、15世紀前半には度々火災に遭ったそうで、それ以後しばらくは衰退します。戦国期になると後北条氏、その滅亡後は豊臣秀吉の保護を受けています。その後、近世にかけて徐々に伽藍が再び整備されてゆきました。

右写真は三門(重要文化財)。室町期の禅宗様建築を模して安永4年(1775)に建てられました。

Kenchoji_3Kenchoji_5左写真は仏殿(重要文化財)。寛永5年(1628)に江戸の増上寺(現東京都港区)に建てられた、徳川秀忠室・崇源院(いま話題?の、「お江」)の霊屋を移築したものだそうです。本尊の地蔵菩薩坐像は室町期の作。

右写真は法堂(重要文化財)。関東最大の法堂だそうです。文化11年(1814)築。

Kenchoji_6Kenchoji_9左写真は唐門(重要文化財)。これも増上寺にあった徳川秀忠霊屋の廟門を移築したものだそうです。17世紀前半ものでしょうか。

右写真は梵鐘(国宝)。建長7年(1255)の銘があり、創建当初に鋳造されたものであることがわかります。さらに銘によると、北条時頼を大檀那とし、蘭渓道隆が銘文を撰じ、物部重光が鋳造したものとされています。

このほか多くの建物のほか、近世初頭の水運・治水に功績を挙げた河村瑞賢の墓などもあります。
また、円覚寺と同じく、11月頭には虫干しで寺宝を公開しており、今回は拝観できました。こちらは絵画や彫刻などの宝物が比較的多いように感じました。

Kamegayatsu_2こちらは、建長寺の近くにある亀ヶ谷(かめがやつ)の切通。この先は扇ガ谷(おうぎがやつ)に出ます。建長寺のある山ノ内はその名の通り上杉氏惣領家の山内上杉氏が居館を構えていましたが、この切通を挟んで向こう側には、分家の扇谷上杉氏の居館がありました。居館跡(とされる場所)には石碑が建っています。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.13

漸くラジオをネットで聴ける

来月から、関東と関西で試験的にネットでラジオの放送を流すことになったそうです。
これまで「ネットラジオ」というのはありましたが、ラジオの本放送とは別に制作されたものであり、内容はいまいちで(個人的な印象です)、正直看板に偽りあり的な印象でした。

今回は本放送をそのまま流すということで、専用のチューナーが無くともラジオが聴けるようになります。
それにしても…。

遅い!

私は10年も前から待ってましたよ。というか、10年前に実現していて当然だったと思うんですが。

著作権などの権利保護の問題があって調整が難航したであろうとは思いますが、ラジオ聴取の現状を考えれば、そんなことは真剣になって早急に乗り越えるべきではなかったのでしょうか。とりわけ、災害の絶えない日本においてラジオの役割はまだまだ重要です。これからは、ネットだけではなくて携帯でも聴けるような方向へ進んでほしいと思います。

ともあれ、やっと実現することは素直に喜びたいと思います。
しかし、やはり関東は関東のラジオしか聴けないのはちょっと残念。これも権利関係などがあるんでしょうけど、どの地方の局であれ、いい番組であったら聴きたいわけでして、規制が乗り越えられるよう期待したいところです。

NHKも今後検討するとのことですが、真っ先にこういうことをやるべきなんじゃないですかねえ。曲がりなりにも「公共」を標榜しているのであれば。

2010.02.12

明月院

Meigetsuin_1Meigetsuin_6続いて明月院です。「あじさい寺」として有名で、アジサイの咲く季節にはごった返しますが、季節を外すとひっそりとしています。

寺伝によれば、永暦元年(1160)に山内首藤経俊(やまのうちすどう・つねとし)が平治の乱で戦死した父・俊道の菩提を弔うために創建した「明月庵」が、前身とされています。

Meigetsuin_3ただしこの地は、康元元年(1256)に北条時頼が最明寺を建立し、自らの菩提寺としたことがわかっています。写真は、その北条時頼の墓とされる宝篋院塔です。その後、時頼の子の北条時宗は、「福源山禅興仰聖禅寺」という寺院を改めてこの地に築いたとされています。

Meigetsuin_7写真は開山堂。

南北朝期には衰微していたようで、康暦2年(1380)に鎌倉公方足利氏満が関東管領の山内上杉憲方に禅興寺の再興を命じ、伽藍の整備を行いました。この時明月庵は明月院となり、禅興寺の子院とされました。また、憲方の菩提寺となりました。実質的には、この時が開基と位置づけられています。

明治期に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残り今に至っています。

Meigetsuin_8Meigetsuin_9こちらは境内にある「やぐら」。

やぐらは鎌倉周辺に見られる中世の横穴墳墓です。鎌倉は狭隘で崖の多い地形でもあるので、こういう形式の墓所が普及したのでしょう。いわば環境の有効活用とでも言うべきでしょうか(もっとも、やぐらの普及の背景には諸説あるようです)。

中に宝篋院塔が安置されており、これが上杉憲方の墓とされています。憲方は鎌倉府初期において小山義政の反乱を鎮めるなど、鎌倉府の安定化に努めた人として知られています。

境内には「鎌倉十井」のうちの「瓶(つるべ)の井」や、木造上杉重房坐像(重要文化財、重房は上杉氏の祖)、北条時頼の塑像などを所蔵しています。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.10

東慶寺・浄智寺

TokeijiTokeiji_1円覚寺を出て、鎌倉方面に歩いてすぐの所にある東慶寺。弘安8年(1285)に、北条貞時が母覚山尼(かくさんに)を開山として建立した臨済宗の寺院です。前年には夫の北条時宗が死去し、この年には霜月騒動によって兄の安達泰盛が討たれるなど、覚山尼にとっては辛い事件が続いた時期でした。彼女の隠居所として建立されたのでしょう。

現在は違いますが、明治期までは尼寺でした。後醍醐院の娘・用堂尼も入寺したことがあり、それ以来「松ヶ岡御所」の別名があります。とりわけ、近世の「縁切寺」として有名です。いわゆる「三行半」を含む「東慶寺文書」(重要文化財)を所蔵しています。

Tokeiji_2Tokeiji_3右写真が仏殿。戦前の再建。かつての仏殿は、三渓園に移築されています。

Tokeiji_5この梵鐘は銘により観応元年(1350)に鋳造されたものであることがわかります。もとは材木座の補陀落寺(ふだらくじ)にあったものだそうです。心なしか、細身で女性らしいといった感じがしますが、いかがでしょう。

境内には宝蔵があり、中では多くの寺宝が展示されているそうですが、時間などの都合上、私は見学しませんでした。裏山には覚山尼や用堂尼の墓所もあるそうですが、残念ながら立ち入り禁止でした。


Jochiji_1Jochiji_3また少し歩くとあるのが浄智寺。弘安4年(1281)に死去した北条宗政(時宗の弟)の菩提寺として、弘安6年(1283)に建立された禅宗寺院です。鎌倉五山の一つです。
開基は宗政の子の北条師時とされていますが、実際には北条時宗が建立したものと考えられています。開山は、渡来僧で建長寺住持だった兀庵普寧(ごったんふねい)です(ただし、建立以前に死去)。

室町期には鎌倉公方と深い関係を築き、応永24年(1417)には、上杉禅秀の乱の終結後に足利持氏が滞在したことがあります。また、宝徳元年(1449)に足利成氏(しげうじ、持氏の子)が初めて鎌倉に入った時も、しばらくここに居を構えていたとされています。それゆえか、鎌倉公方の没落後は荒廃したようで、近世になってから復興したと考えられています。

今回は時間がなく、中に入りませんでした。またいずれ。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.09

心新たにする君に

この記事に心を打たれました。

仲の良い友人を突然喪った悲しさを隠さず、それでいてプロとしての身の上を見失っては居ないその姿に、勇気づけられます。

事情通のファンは、少なくとも今年は球場でも複雑な気持ちを持ち続けるだろうし、メディアも含めて、「弔い合戦」を煽り立てるかもしれない。

でも、球場に行く多くの人は、今年もまた単純にプロ野球を楽しみたいという気持ちであることには変わりありません。

悲壮感漂った空気ではなく、一種のお祭りのような非日常を味わいたい。
私も球場に行くのはあくまで趣味としてであり、楽しみに行くわけですから、あえて重苦しい空気を球場で感じたくはないのも正直な感想です(もっとも個々の自由だから、ほかのファンがどうのというつもりはありませんが)。

起きたことは悲しいことですし、忘れろというわけにはいきませんが、決意新たにプロのプレーを見せることで観客を楽しませようという原点を貫く姿勢には、たいへん感じ入っています。そうであればこそ、今年も球場に足を運びたいと思います。

私もこの件はこれで一区切りとして、開幕を楽しみに待ちたいと思います。

2010.02.07

円覚寺

Engakuji_3Engakuji_5ここからは昨秋に行った鎌倉のシリーズです。といっても、鎌倉の史跡のうちごく一部ですが。
はじめは北鎌倉(山ノ内)から。

JR北鎌倉駅前の円覚寺。定番ですね。
あえて説明する必要もないとは思いますが…。二度目の蒙古襲来の後、執権北条時宗が両軍の戦死者の菩提を弔うため、弘安5年(1282)に渡来僧の無学祖元を開山として建立した禅宗寺院です。

左写真の山門は天明5年(1785)築。右写真の仏殿は、中世の様式に基づいて戦後に復元されたものです。
中世後期に鎌倉で起こった度々戦乱に巻き込まれたほか、火災にも遭って何度か焼けては再建を繰り返しています。

Engakuji_7Engakuji_9左写真は妙香池(みょうこうち)。円覚寺の創建当初からあったとされる池で、建武2年(1335)の境内図で確認されているそうです。ただ、最近になって一部が復元されたとか。

右写真は、奥に舎利殿(国宝)がちらっと見えます。特別公開に合わせて行きましたので、間近で見ることはできたのですが、写真撮影はできなかったので、撮ったのはこんなところで(グーグルで検索するとたくさん画像は出てきます)。
塔頭の一つ、正続院(しょうぞくいん)にあります。ここは今でも雲水の修行道場となっていて、普段は入れないのですが、11月初頭の数日間だけ特別公開をしています。
15世紀の築とされ、禅宗様建築の代表格として教科書ではお馴染みのものです。神奈川県唯一の国宝建築物でもあります。神奈川県立歴史博物館でレプリカが展示されていますね。

Engakuji_15もう一つ見逃せないのがこちら。高台にある梵鐘(国宝)。「洪鐘(おおがね)」と呼ばれています。正安3年(1301)に、北条貞時が国家安泰を祈って寄進したものです。鎌倉で最も大きな梵鐘だとか。銘によると、物部国光という人物が鋳造したとあります。

このほか貴重な荘園史料を多く含む「円覚寺文書」(重要文化財)を所蔵しています。これも虫干しのために舎利殿と同時に特別公開していて、見学することができました。多くの有名な史料を間近で見ることができて、大変貴重な経験となりました。

■神奈川県鎌倉市

2010.02.05

現役選手の死

朝青龍の引退はまあ当然でしょといったところでしたが(クビにできたら驚いたけど)。


プロ野球オリックスの小瀬浩之選手が事故死の報。自殺ではないかと言われているそうだけど…。

これは衝撃。
いったい何が起こったのだろうか。
うーむ。信じられない気持ちでいっぱいです。
今年こそ飛躍の年だと期待していたのですが、今はただ残念でなりません。

チームはいきなり重い十字架を背負ったなあ。
ご冥福をお祈りいたします。

2010.02.03

大徳寺・総見院

Daitokuji_11Daitokuji_16洛北は紫野にある大徳寺。昨秋に行きました。

14世紀前半に、宗峰妙超が建立した禅宗寺院です。彼は赤松氏被官である浦上氏の出身とされ、書写山円教寺(兵庫県姫路市)で密教を学んだ後に禅に目覚めたと言われています。その後は鎌倉の建長寺で学んで京都に戻り、赤松則村(円心)の寄進を受けて草庵を建立したのが大徳寺の起こりとされています。正中2年(1325)に花園院の勅願となりました。後醍醐院の保護も受けています。

左写真は勅使門(重要文化財)。もとは慶長年間(1600年頃)に建てられた御所の門で、のちに大徳寺に寄進されました。
右写真は、三門(重要文化財)。下層は連歌師として有名な宗長の寄進によって享禄2年(1529)に建てられたもので、上層は天正17年(1589)に千宗易(利休)によって築かれました。この時、「金毛閣」と名付けられています。
上層建立の際に利休は自らの木造を安置し、豊臣秀吉がその下を通ったことに激怒し、利休が切腹に追い込まれたという説はよく知られています。ただ、利休が不興を買った原因はほかにも推測されており、実のところは定かではないようです。

Daitokuji_1こちらで最も有名な建築物は、方丈とその前にある唐門(ともに国宝)ですが、残念ながら撮影禁止のため写真はなし(写真はこちら)。唐門は聚楽第の遺構であることがわかっています。

私の訪問時は年に一度の寺宝の虫干し(曝涼)で、方丈に寺宝が飾られていました。眼福。

室町期の大徳寺は、実は寺格は高くありません。十刹に列してはいますが、序列は下位でした。しかし京都の町衆から信仰を集めたことで知られています。そして、ゆかりのある有名人といえば、やはり一休さん。一休宗純は若い頃に大徳寺で学び、晩年の文明6年(1474)に、後土御門院の勅命によって大徳寺住持になりました。応仁・文明の乱によって荒廃した境内の復興に努めたとされています。

Daitokuji_14こちらは、勅使門の隣にある興臨院の表門(重要文化財)。能登守護畠山氏の庇護を受けた塔頭です。訪問時は内部を公開していましたが、時間がなくてパス。

Daitokuji_26Daitokuji_27今回のメインは、こちら。総見院です。秋の時期だけ公開されています。
天正10年(1582)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の菩提を弔うために建立した塔頭です。信長の葬儀はここで行われ、その頃に作られたと思われる信長の木造を所蔵しています(拝見できました)。
右写真の鐘楼は、創建当初のものとされています。

Daitokuji_32Daitokuji_34そしてこちらが、信長一族の墓。ずらりと立派な五輪塔が並んでいます。ただ、正室(「濃姫」)の墓は脇に据えられていました。この辺は夫婦仲のせいだったりするのでしょうか…?

このほか多くの塔頭があり、業界では有名な真珠庵にも立ち寄ってみたかったのですが、時間が無くて断念。またの機会に。

■京都市北区

2010.02.01

はじめての盛岡

MoriokaekiMorioka_40先週末は調査のため盛岡へ行きました。

盛岡には初めて行ったのですが、当たり前ながらやはり寒い。内陸にあるので、気温は青森よりも低いと聞きました。私はわりと寒さには強い方だという自負があるのですが、それでもさすがに寒さが厳しかったです。

史料撮影(マイクロ複写)をしたり、宿に籠もって字を起こしたりと、日中はしっかり仕事をしつつ、夜は美味い酒と肴でしっかり楽しみました(笑)。

空いた時間を利用して、盛岡城跡にも行きました(右写真)。一応中世にもここに城があったとされていますが(不来方[こずかた]城)、その面影は全くなくて、完全に近世城郭の遺構でした。ただ、発掘調査によって中世の痕跡が見つかったそうで、その説明板が設置されていました。
ただ、この雪の中。馴れていないため、歩きづらくて仕方がなかったです。

Morioka_65盛岡といえば麺類。一番歴史のあるわんこそばは今回はパスしましたが、冷麺とじゃじゃ麺は堪能。
写真は駅前で食べたじゃじゃ麺。麺はラーメンだと思いこんでいたんですが、こしのあるうどん。それだけにかなりのボリュームでした。

食べ方にずいぶんと流儀があって、最後の締めとして、皿の上に卵をスープで割って飲むのがスタイルのようです。なので生卵がテーブルに乗っていたのですが、初めて見るとなんとも不思議な光景というか。ちなみに食べた店のサイトはこちら

冷麺もじゃじゃ麺も、わりと味はあっさりしていました。東北は濃い味というイメージがあったのですが、そうではないようですね。というか、私が濃い味に馴れてしまっているのかもしれないのですが…。

なお、念を押しますが、ちゃんと仕事はしてきましたので誤解なきよう(笑)。

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