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2010年3月

2010.03.31

一年一本(ではいかんのだが)

年度末ぎりぎりで、やっと今年度最初の原稿が一本出ました。

今年度は論文を書くという場面とは別のところでいろんな経験をさせてもらったのですが、それを理由にしてはいけないとは思いつつも…。やっぱり「生産力維持」というのはなかなか難しいですね。

そういえば、著書を出してその次にも当たりますが、一年半かかりました。著書を出した次の一本がなかなか大変だという話を聞いたことがありますが、私もその一人に数えられますねえ。

ま、出た原稿は「論文」と呼ぶには少々気恥ずかしい内容ですが、とりあえず形を残せたことはほっとしております。
こんなところでほっとしていてはいけないのですが…。
これでやっと、これまで抜き刷りを送ってくださったみなさんに返事が出せます…。いや、抜き刷りはいらないなんておっしゃらないで(笑)。


先日も、とある雑誌で拙著の書評をしていただきました。大変ありがたく存じます。
やっぱり私の課題は「具体像」なんだよなあ…。今まさにその辺をテーマにしているところですが、あまり事例発掘に偏りすぎるのもまずいので、その塩梅が難しいところですね。まあ、当たり前の話なんですが。

授業準備の一環として、佐藤進一『新版古文書学入門』(法政大学出版局、1997年)を読んでいます(授業のネタがばれる(笑))。何年ぶりかに読み返しているわけですが、改めて気づかされることがたくさんありますね。
実は、学生時代に古文書学をしっかり学んでこなかったので、私自身これを機会にしっかり勉強し直したいと思います(笑)。

しかし、読んでいたら本が壊れてしまいました…。応急処置はしたけど、買い直した方がいいかなあ…。うーむ。

4588320114古文書学入門
佐藤 進一
法政大学出版局 2003-03

by G-Tools

2010.03.26

書類の海、課題の山

毎年のことですが、年度末地獄にはまってます(笑)。
肉体的にそんなに拘束されているわけでもないんですが、どうしてこう精神的圧迫が大きくなるんですかねえ。

それもこれも、時間の無駄(としか思えない…)事務的書類の山のせいだ!

とここで叫んでも意味はない(笑)。とりあえず早く終わらせるのが精神衛生上最も効果的と思い、せこせこやっております。


そろそろ授業の準備しないとなあ。まあまだ新年度じゃないし…なんて悠長なことを考えていたら、もう初回の授業まであと二週間もないじゃないか、と…。私としては新たに取り組む授業なので、すべて一から準備する必要があるわけでして、のんびりしてられません。
まあ、実は、なんとかなるだろうと未だに思っているので取りかかっていないのですが(笑)。

昨日は今年の歴研大会の会場(専修大学)に下見&打ち合わせに行きました。今回はキャンパス内でもたぶん最も新しく、そして綺麗な校舎を使用させていただきます。
「遠い」のブーイングはすでに方々からいただいておりますが(笑)、会場の快適度は例年に比べて格段に良いと思いますので、是非とも万難を排してご参加を…。

ここを見ている人はよもや間違えないと思いますが、専修大の「生田キャンパス」が会場で、神田(神保町)キャンパスではありませんのでご注意を。10年ちょっと前に会場だった時は、神田に現れた人がいたそうです。しかもそれを見越していて、神田に人を配置していたそうです(笑)。←今年はやりません。


遠方からの方は、アクセスと宿とがなかなか大変なのは確かですね。宿については、大学最寄り駅周辺ではあまり無さそうです。新宿か町田がベターでしょうかねえ。川崎は地図上では近いですが、アクセス面では「遠い」のでご注意を。

当日は、開始時刻頃を中心に最寄り駅からバスの増発を予定しています。乗り場とかが多少ややこしかったりするんですが、その辺は歴研の会誌とかHPをご覧になるか、直接お尋ねください。

また何か情報がありましたらお知らせいたします。

2010.03.21

小山城跡

Oyamajo_13Oyamajo_8先日、ふと思い立って小山城跡に行ってきました。

数年前に一度行ったことはあったのですが、その時は写真を撮っていなかったので、思う存分撮ってきました。

藤原秀郷の末裔で、一族の代表格とも言える小山氏の本拠です。城も秀郷が築いたという伝承もありますが、実際に存在を窺えるのは14世紀の後半になってからです。「祇園城」とも呼ばれています。

小山氏は12世紀半ばに小山政光が下野大掾となって小山に土着したのが始まりとされています。子孫は鎌倉幕府の有力御家人となり、長沼・結城・皆川などの分家を従えて北関東で大武士団を形成しました。
南北朝期には北朝方に与同したものの、分家の結城氏が南朝につくなど小山氏は常に苦境にありましたが、下野守護を獲得。鎌倉公方を支える勢力となりました。

ところが康暦2年(1380)に当主の小山義政は、かねてより対立していた宇都宮基綱を攻撃して戦死させました。これが違反行為とみなされ、鎌倉公方足利氏満の追討を受ける事態に。出る杭は打たれるというか、鎌倉府が小山氏の勢力拡大を懸念したためとも言われています。
結局、小山義政は鎌倉府軍に敗れ自害(小山義政の乱)。その後は結城基光の子・泰朝が小山氏を継承したものの、結城氏との政治的地位は逆転し、小山氏の存在感は低下していったとされています。それでも「関東八屋形」の一つとして、関東における有力勢力としての位置は辛うじて保たれました。

ただし15世紀半ばに当主となった小山持政は、足利持氏とともに反幕府の姿勢を強める結城氏朝(実は小山泰朝の子)とは疎遠になったようで、永享の乱・結城合戦では幕府方に与しました。これでまたもや没落した結城氏に代わって地位を向上させ、下野守護に復帰。
その後の小山氏はおおむね古河公方を支える立場となり、永正11年(1514)には古河公方の足利政氏を小山城に迎えることもありました。しかし当の足利政氏が子の高基と対立して内紛が起こり、小山氏もそれに巻き込まれ、結局足利高基方に鞍替えするなど、転変が激しくなってゆきました。それとともに小山氏内部でも内紛が起こったらしく、またもや結城氏との協力を頼りとしたようです。

その後は関東へ侵攻する長尾景虎と、勢力を伸張させる北条氏康との間で板挟みとなり、戦況に応じて両者を行き来しながら生き残りを図りました。しかし、結局天正3年(1575)に北条氏照の攻撃を受け、落城。当主の小山秀綱は最終的に後北条氏の麾下となり、後北条氏滅亡によって所領を失い没落しました。

Oyamajo_17Oyamajo_19その後は関東へ移った徳川家康が支配したと思われ、くだんの慶長5年(1600)の「小山評定」の舞台となったことは有名ですね。慶長12年(1607)頃には本多正純が居城としましたが、元和5年(1619)に宇都宮へ転封となり、小山城は廃城となりました。

Oyamajo_6Oyamajo_21今は公園になっていて、遺構も比較的よく遺っているとは思うのですが、どこがどのような機能を持った曲輪だったかは曖昧なようです。左写真の辺りが本丸とされていますが、どうなんでしょうね。建物の後ろに
土塁が遺っていました。

Oyamajo_34Oyamajo_23左写真が、今の公園入口からは最奥部。その先は建物が建っていましたが、もしかしたらかつては曲輪があったかも。
右写真は、最奥部の脇に建つお寺の墓地にあった墓石群。傍らには小山秀朝の贈五位の石碑と、初代小山政光を顕彰する石碑もありました。
一応、これが小山氏に関係する墓石と位置づけられているのでしょうか。中世のもののように見えますが、元々ここにあったかというと、どうなんでしょうね。

Oyamajo_38Oyamajo_2小山城は思川(おもいがわ)河畔に位置する城です。河岸段丘を活用したのでしょうか。ただし高低差はほとんど無く、平城に位置づけられる城だと思います。
川とは反対側には、国道4号線が走っています(左写真はそこに建っていた標識)。おそらくこれが旧奥州街道で、中世段階でも既に主要街道だったものと考えられます。この城が交通の要衝に位置していたことが窺えます。

右写真は、城の南側にある「御殿広場」とされる一画。以前には何かあったようですが、撤去された模様。これから整備するのでしょうか。
17世紀に入り、日光参詣をする将軍の休憩所として御殿が整備されていたとか。災害による被害を受けた後は修復されず、天和2年(1682)に古河藩によって解体されたそうです。

■栃木県小山市

2010.03.18

やっとこさネットでラジオの時代

まだ試験的ながらも、ラジオがネットで聴けるようになりました。→radiko.jp
ただし東京・大阪地区限定で、その地域のラジオしか聴けないようになっていますが。

当たり前ながら、雑音ゼロで快適。従来のラジオでは場所によって聴けなかったり、雑音がひどかったりするわけですが、ネット環境さえあればそういう制約もなし。
夜間はやや混雑しますが、いやあ、これで自宅での作業が少し快適になりました。ありがたや。

本格的な展開はこれからですが、どうなっていくか。
さしあたって要望の多そうな地域制限の解消が果たして実現できるかどうか、注目したいところです。

名古屋のFMが聴きたいんだけどなあ…。

2010.03.17

後閑城跡

Gokanjo_7Gokanjo_30先日のことですが、参加している勉強会の毎年恒例の合宿(=旅行)に行ってきました。合宿といっても、私は所用があったので初日の日帰り。行き先は群馬県西部(西上野)。

群馬県立歴史博物館で中世文書を見学した後、西上野の後閑(ごかん)城跡へ。妙義山の麓、旧中山道沿いの要衝に建つ城です。

後閑城は、15世紀半ばに碓氷峠を越えた信濃国の在地領主依田忠政が築いたとされています。実際に15世紀後半のこの地域は、依田氏の影響があったことが残存史料により示唆されるようです。

戦国期になると、当主の依田光慶が近隣の箕輪城(現群馬県高崎市[旧箕郷町])主長野業政と姻戚関係を結んで後閑城近くの板鼻城(現群馬県安中市)に移ったらしく、代わって北条政時という人が城主になったそうです。ただ、この人物は詳細がまったく不明。典拠は軍記物あたりなんでしょうか?

その後、丹生城(現群馬県富岡市)を支配していた新田岩松氏末裔とされる新田景純という人物(これもよくわからない人)が攻略。子の信純が城主となり、後閑氏を名乗りました。

歴史的にはっきりしてくるのは後閑氏が城主になってからです。永禄3年(1560)に長尾景虎(上杉謙信)が関東へ侵攻すると、近隣の領主は多くが長尾方に靡きましたが、後閑信純(のち真純)は武田氏の許に身を寄せます。一旦城を失いましたが、永禄9年(1566)に武田晴信が箕輪城を攻略すると、後閑城に復帰を果たします。

天正10年(1582)に武田氏が滅亡して上野が戦乱に巻き込まれますが、信純の嫡子の後閑信重は厩橋城(現前橋市)の北条(きたじょう)高広と結んで後北条氏に対抗。次男・重政と三男・信久は後北条氏に属したそうです。家名存続に向けた計らいだったのでしょうか。結局北条高広は後北条氏に敗れ、後閑重政・信久兄弟は厩橋城の在番となりました。
その後の後閑城は、碓氷峠への入り口を固める松井田城(現群馬県安中市[旧松井田町])に入った大道寺政繁の指揮下となりましたが、松井田城落城と後北条氏の滅亡とともに廃城となりました。後閑氏も小田原で散ったそうです。

Gokanjo_10Gokanjo_32左写真は「北郭」。右写真先に見えるのは「南郭」。

…とまあ、歴史的には不明な点も多いですが、北条・上杉・武田など、周辺の大名に翻弄された上野の小領主たちの城の一つです。城跡までの道はわかりにくいももの、写真の通り、城跡はしっかり整備されています。

Gokanjo_24Gokanjo_20左写真が本丸。右写真は本丸から見た、「西の階段状の郭」。
それほど規模は大きくないですが、本丸からの眺めは良く、旧中山道がはっきり見通せました。交通の要衝に建つ城であることを実感できます。

Gokanjo_13Gokanjo_21左写真は「西第三郭」。

現地看板によると、次の通り。

「この城は、後閑川と九十九(つくも)川の合流地点に突き出した、南北につづく丘陵の末端部分に築かれた山城です。この山城は、四ヶ所の堀切で断たれ、南端の最も高い部分に「本丸」があります。
本丸は南北約80メートル、幅約30メートルで、西には階段状に三つの大郭(西第一~西第三郭)がならび、東にも階段状に郭(東郭、東郭群)がならんでいます。また本丸の東南と西南には枝尾根が分岐していて、それぞれの尾根の基部は堀切で断たれています。
これにより二の丸と南郭は本城から切り離され、いわゆる一城別郭の構造になっています。
二の丸は本丸より約16メートル低く、大堀切に面して櫓台が築かれています。
このたび後閑城址公園整備にあたり、発掘調査を行いましたが、本丸虎口部分の柱穴・二の丸櫓台上の柱穴の他には、建物に関係する遺構は検出することができませんでした。」

意外と遺構に乏しいのが不審。後北条氏の手が入って改修されたものの、城としての機能は松井田城に集中したということになるんでしょうか?

その後松井田城に行こうとしたものの、城跡へ行く道が見つからないまま日が暮れてしまい断念。
近くのお寺にある大道寺政繁の墓だけ見て帰りました。墓自体は近世のものか?(こちらをどうぞ)

その後、高崎で群馬らしいもの?をメインに宴会。私は新幹線の最終で帰ってきました。

■群馬県安中市

2010.03.16

永福寺跡

Yofukujiato鎌倉編の最後は、二階堂にある永福寺(ようふくじ)跡。国史跡に指定されています。

永福寺は、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、源義経ら合戦で死んだ人たちの供養のために建てた寺院でした。その際には、平泉の中尊寺や毛越寺などを参考にしたと言われています。建久3年(1192)には二階建ての本堂が建立され、「二階堂」と呼ばれました。この地域が今も二階堂と呼ばれるのは、これが由来となっています。

Yofukujiato_3Yofukujiato_4この奥の崖下辺りが、二階堂の建っていた所。見ての通り、今は何もありません。

20年ほど前に発掘調査が行われています。現地看板によると、「中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。」
調査の様子や復元図はこちらのサイトをどうぞ。
この庭園は、浄土庭園と呼ばれるものだったそうです。遺構からは、13世紀初頭の経筒などが発見されています。

鎌倉幕府滅亡後も足利義詮が滞在したり、中先代の乱に際して足利尊氏・直義が立ち寄ったそうですが、応永12年(1405)に火災に遭って中心伽藍を失い、18世紀頃に廃絶しました。
将来は史跡公園として整備する計画があるそうですが、このご時世、なかなか大変そうですね。

Kamakuragu_1こちらは、近くの鎌倉宮。個人的には史跡という印象ではないので、ここでついでに紹介。
明治政府が、南朝顕彰の一環として後醍醐天皇の子・護良(もりよし)親王を祀るために建てた神社です。
護良は建武政権期に征夷大将軍となりましたが、父の後醍醐や足利尊氏と険悪になり、失脚して鎌倉へ配流。この辺りに幽閉されたとされています(近くに幽閉された場所と伝わる所もありますが、今回は行かず)。そして建武2年(1335)に起きた中先代の乱に乗じて、足利直義の命によって殺害されました。

■神奈川県鎌倉市

2010.03.12

荏柄天神社

EgaratenjinEgaratenjin_1大倉幕府跡からさらに二階堂方面に行くとあるのが、荏柄(えがら)天神社

大倉幕府の鬼門に当たり、源頼朝が守護神として勧請したとされています(社伝では、それ以前から既にあったとされているようです)。ただ、なぜ菅原道真を祭神としたのかはよくわかりませんが…。源頼家が「菅公三百年忌」を行ったとの記録もあるとか。
この地域は元々「荏草(えがや)郷」と呼ばれた所だったそうで、それが転じて社名になったとのことです。

Egaratenjin_2Egaratenjin_4参道の石段を登って正面に見えるのが左の拝殿。扉がやや独特な印象。

右写真は本殿(重要文化財)。元は鶴岡八幡宮内にあった若宮社の本殿で、正和5年(1316)築とされています(その後二度修理の形跡あり)。鎌倉に現存するものでは最古の木造建築です。
元和8年(1622)の鶴岡八幡宮造営の際、ここに移されました。

このほか社宝に弘長元年(1261)の銘がある木造天神坐像(重要文化財)や、鎌倉期の木造菅公立像(重要文化財)を所蔵しています(鎌倉国宝館に寄託)。

境内には著名な作家や画家などによる筆塚もありました。経緯はよくわかりませんが…。

■神奈川県鎌倉市

2010.03.11

鎌倉幕府跡(大倉・若宮大路)

Okurabakufu_1Okurabakufu_5なんだか大銀杏の追悼企画(まだそう言うのは早いか)になった感もしますが…。鎌倉編の続きです。

二箇所の幕府跡に行きました。
まずは、最も有名な大倉(大蔵)幕府跡。現在は清泉小学校の敷地になっています。
治承4年(1180)に、逃れていた安房から鎌倉へ入った源頼朝が構えた邸宅跡に比定されています。その直後の富士川の合戦で平氏に勝利し、政権の基盤を築き上げました(この時点をもって鎌倉幕府の成立とする説もありますね)。

頼朝の後も源頼家・実朝の代や実朝死後の北条政子の執政期にもここが幕政の中心となり、侍所・問注所などの執政機関も設けられましたが、嘉禄元年(1225)に北条泰時が執権として実権を握ると、幕府の機能は宇都宮辻子に移りました。

Okurabakufu_2石碑の横には、清泉小学校の生徒さんが作った解説が展示されています。これも今や結構有名ですね。

小学校を北に向かうと白旗神社があり、その奥には源頼朝墓とされる法華堂跡があります。昔行ったことがあったことと、実際には近世に島津重豪が造った墓なので(さらには、最近になって被害に遭ったらしく、今のものは新たに復元されたものらしい)、今回はパス。

宇都宮辻子幕府跡は二の鳥居の東側と小町大路の西側に挟まれた辺りにあったとされています(今回は立ち寄らず)。北条得宗家の邸宅に近接した場所で、その利便性に目を付けた結果だったと考えられているようです。


Wakamiyaoji_2Wakamiyaoji_4そしてここが、時間的には最も長く幕府が所在した若宮大路幕府跡。今はすっかり住宅地になっています。二の鳥居と鶴岡八幡宮のちょうど中間付近の、若宮大路東側一帯に当たります。

嘉禎2年(1236)に宇都宮辻子からこの地へ移ったとされ(移転ではなく拡張という説もあるそうですが)、以後滅亡までこの地に幕府の機能が置かれました。ただ、宇都宮辻子よりもさらに得宗家邸宅に近づいており、こうした地理的関係の変化から、実質的に幕府権力が得宗に取り込まれる形で一体化してしまったとも言われています。

■神奈川県鎌倉市

2010.03.10

倒幕ならぬ…?

なごりなんて暢気なことを言ってられなくなりましたね。

鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたそうで。
根元からひっくり返ってましたが、なんとか元通りになるといいですけどね。

2010.03.09

なごり雪

…とでも言うべきなんでしょうかねえ。
今まさに雪が積もってます。
たぶんこの冬では最後の雪になるのでしょう。

今日は朝からずっと雪。さすがに寒さに堪えて、駅前の暖かい喫茶店へ出張して執筆作業。
先日ノートパソコンを買い換えたのですが、早速効果あり。これまでのものに比べて段違いに軽い、速い。快適でした。
しかし、足が濡れて余計冷えるというオチが付いてしまいましたが…。

暑さ寒さも彼岸までと言いますが、今夜を乗り切れば少しは暖かくなるようです。
何日か初夏のような日があったけど、今年は年明け以降ずっと寒かったなあ。
春まであと少し、みなさんも体調管理にご注意を。


(追記)
夜も更けて、雨に変わりました。ちょっと残念な感も(笑)。

昼間は昨日ネタにした文集の原稿を書いていたわけですが、字数をまったく勘違いしており、大幅にオーバーしていたことに今し方要項を見て気付く。
こりゃ痛い…。書くより削る方が難しいんですよねえ。自分の記憶がいかに当てにならないか再確認。

2010.03.08

年度替わりが近づき

年度末が近づき、にわかに慌ただしくなってきました。

まずは〆切原稿2件をなんとかせねば…。
両方とも、それぞれ別の指導教員の節目にかかわる企画です。一つは還暦(論文集)、一つは退職(文集)。

前者はほぼ仕上がっているのですが、後者はまだこれから。
〆切が近づき督促が来ましたが、〆切に遅れないようそろそろ取りかかります。
これが済めば、さしあたり抱えている〆切原稿はなくなる。
執筆ご依頼、お受けします(などと軽々に言ってはまずいか(笑))。


ひょんなことから、来年度は出身校で授業を一コマ担当することになりました。
その進め方についても熟慮中。

そろそろみなさんも新年度へ向けた動きが出てきたかと思いますが、無事年度末を乗り切りましょう。
ガクシンの給料が来年度は少しばかり減額という通知が…。まあ、むしろ「これで済んだ」といったところでしょうかね。

2010.03.03

東勝寺跡

Toshojiato_4Toshojiato_7続いて雪ノ下から二階堂にかけての史跡です。

まずは、市街地の東端近く、山裾にある東勝寺の旧跡。
東勝寺は嘉禎3年(1237)頃(時期は異説あり)に北条泰時が築いた禅宗寺院で、北条氏の菩提寺の一つでした。
ここが有名なのは、まさに「鎌倉幕府終焉の地」とも言える場所であることでしょう。元弘3年(1333)、鎌倉に攻め寄せた新田義貞に敗れ、北条高時をはじめとする一門870人余がここで自害したとされています。

室町期に一度再建されたものの、鎌倉公方の没落とともに衰退し、戦国期に廃寺になったと言われています。
近年に発掘調査がされており、寺院の遺構や火災の跡などが確認されているそうです。ただ、今は埋め戻されたか、宅地化したようです。

Toshojiato_8ここは、旧寺域の奥にある「北条高時腹切りやぐら」。やぐらの中に小さな石塔が置かれていました。ここで高時は自害したとされていますが、遺骨は別の所に埋葬されたそうです。

ここから市街地寄りに少し下った所には北条氏得宗家(惣領家)の館跡があり、跡地には足利尊氏が北条一門の菩提を弔うために宝戒寺を建立しました。(今回は中に入らず。)

ToshojiatoToshojiato_10東勝寺の参道に架かっていた東勝寺橋。
貨幣史的には?有名なエピソードの舞台となった場所です。『太平記』によると、13世紀半ばから後半にかけて活動した御家人の青砥藤綱(あおと・ふじつな)が、この橋から銭10文を落とした時、わざわざ銭50文で松明を買って探させた、という話が残されています。
その文章は以下の通り(読みやすいように原文を改変しています)。

「又ある時、この青砥左衛門夜に入れて出仕しけるに、いつも燧袋(ひうちぶくろ)に入れて持ちたる銭を十文取りはづして、滑河(なめりかわ)へぞ落とし入れたりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行き過ぐべかりしが、以ての外に周章(あわて)て、その辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松(たいまつ)を十把買いて下り、これを燃(とぼ)してついに十文の銭をぞ求め得たりける。後日にこれを聞て、「十文の銭を求めんとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損かな。」と笑いければ、青砥左衛門眉を顰めて、「さればこそ御辺達は愚かにて、世の費(ついえ)をも知らず、民を慧(めぐ)む心なき人なれ。銭十文は只今求めずは滑河の底に沈て永く失せぬべし。某が続松を買わせつる五十の銭は商人の家に止まって永く失うべからず。我が損は商人の利なり。彼と我と何の差別かある。かれこれ六十の銭一をも失わず、あに天下の利にあらずや。」と、爪弾(つまはじき)をして申ければ、難じて笑いつる傍(かたえ)の人々、舌を振てぞ感じける。」(『太平記』巻35より抜粋)

10文の銭を探すのに50文使ってバカじゃないのか?という我々からすれば常識的なツッコミに対して、「愚か者め」と一喝。費やした50文は商人の利益になり、それが天下全体の利益になるのだ、という仰せです。これを聞いた人々は感心したそうですが、私は正直言ってそこまで共感できないのは、精進が足りないゆえでしょうか(笑)。

ともあれ、この橋の下を流れるのが滑川です。『太平記』にはっきり書かれているわけではないのですが、落とした場所がこの橋だったと伝わっています。

Toshojiato_11東勝寺跡の近く、宝戒寺の裏手にあったやぐら。「紅葉山やぐら」と呼ばれ、中から五輪塔などが出てきたそうです。
先の大戦時には防空壕として使用されていたとか。ただ、中はよく見えませんでした。

■神奈川県鎌倉市

2010.03.01

本覚寺・二の鳥居

Hongakuji_1Hongakuji_3JR鎌倉駅から東、小町大路を越えた所にある本覚寺。日蓮宗の寺院です。
佐渡へ流された日蓮が鎌倉へ戻った際に滞在した場所とされ、永享8年(1436)に一乗坊日出(にっしゅつ)が開いた寺院です。2世の日朝が身延山から日蓮の遺骨を分けて納めたことから、「東身延」とも呼ばれたそうです。

左写真の山門は近世のもの。明治期に三浦の別の寺院から移したものだそうです。右写真は本堂。

Hongakuji_5Hongakuji_8左写真は山門を入ったところにある夷堂。夷堂は、鎌倉幕府の「裏鬼門」に当たる場所に源頼朝が夷神を祀ったのが起こりとされています。最近になって復興されたそうです。

右写真は梵鐘。ただしこれは新しいもののようです(もしくは元あった梵鐘のレプリカでしょうか?)。
元々あった梵鐘は、現在は神奈川県立歴史博物館に寄託されているそうです。そちらは応永17年(1410)の銘が確認されており、日出が上総木更津(現千葉県木更津市)の八幡宮での論争に勝って持ち帰ったものとされています。

このほか、刀工の岡崎正宗の墓とされるものがあったそうですが、見落としました。


WakamiyaojiJR鎌倉駅へ向かい、若宮大路に差し掛かると見える二の鳥居。その向こう側には段葛が見えます。

■神奈川県鎌倉市

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