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2010年4月

2010.04.22

詰んでます

べらぼうに忙しいです…。

気が変わらない限り、今月いっぱいブログの更新はしないと思います。

すみません。

2010.04.15

桜を見る暇もなく

いつの間にか散っていました。
いや、もちろん見えてはいますが(笑)、じっくり見る余裕もなかったほど忙しい、ということでして。
なんで今年はこんなに?と思ったら、やっぱり授業の準備が結構効いてますね…。

GWまでこんな状態になりそうです。
一転して、GW中は一切予定なし。ま、独り身ってのはそんなもんですかね(笑)。

…というわけで、またしてもしばらく更新のペースが落ちます。すみません。一応記事にしたいネタはあるんですがねえ。
中身のない近況報告でした。


あ、そうだ。私事ですが12日に弟夫婦に娘が産まれたとの報。いよいよ名実ともに「おじさん」です(笑)。

2010.04.10

いわき 専称寺

Iwakisenshoji_9Iwakisenshoji_5次は専称寺。応永2年(1395)に、良就(りょうしゅう)という僧侶が建立したという浄土宗名越派の寺院です。良弁を祖とするこの宗派は、中世において奥州で勢力を広げたそうです。

6世の良大が住持だった延徳年間(15世紀末)には後土御門院の勅願所となり、彼の弟子たちが日本各地を布教して多くの末寺を建立したとされています。近世になると奥州の浄土宗寺院を支配する総録所となり、万治4年(1661)に「名越派奥州総本山」となりました。
しかし寛文9年(1669)に伽藍を焼失したそうで、その後再建された建物が今に遺っています。

今は、梅の名所として有名とのことです。

左写真は総門(重要文化財)。近世初期の築と考えられています。
右写真は茅葺き屋根の庫裏(重要文化財)。元禄3年(1690)築。

Iwakisenshoji_1Iwakisenshoji_6左写真は鐘楼。安永7年(1778)築とされています。斜面に建つ珍しい構造。老朽化のため、1983年に改修されたそうです。

右写真は本堂(重要文化財)。火災で焼失した後、寛文11年(1671)に再建されたものと伝わっています。派手さはないですが、重厚な造りといった印象。

勅願所になったとのことですが、中世の状況はいまいちよくわからないのでしょうかね。

■福島県いわき市

2010.04.08

さらば球界の「キムタク」

プロ野球界ではなんだか不幸続きですね…。
人間ってこんなにあっけなく死んでしまうものなのかと考えさせられます。

我田引水的ですが、歴史上の人物が頓死する事例を見ると、つい「陰謀」を探ってしまうことがあります。しかし「死」というのは理屈では推し量れないこともある、というか、その方が普通と考えるべきかもしれない、とすら思ってしまいます。

私もそんなに年齢が離れていないので、「死」の近さを思い知らされました。
合掌。

2010.04.05

岩城氏館跡(長友・高久)

IwakiyakataIwakiyakata_3岩城氏の館跡とされる場所二箇所に行きました。

でも、実際に行ってみて、ほんとに館跡だったのかどうか…? あまり実感が持てませんでしたが。

まずは長隆寺。貞和3年(1347)に城之越長隆という領主が建立した安養寺を前身とし、のちに長隆寺に改められたそうです。鎌倉期の地蔵菩薩像(重要文化財)を所蔵(例によって拝観はかなわず)。

Iwakiyakata_1境内にあった石造物。
この境内はかつて長友館と呼ばれた、岩城隆忠が住んでいたという館跡に比定されていますが、それらしき案内板も遺構もなく、正直言ってよくわかりませんでした…。
上の墓地の左側の薮は堀のように沈んでおり、もしかしたら堀切かもしれないなあ、と。まあそんな程度でした。
後で調べてみると、奥には何も無さそうなので、やっぱりこの辺がそうなのでしょうか(こちら参照)。


Iwakiyakata_6Iwakiyakata_7こちらは高久館跡。岩城氏の祖である平忠衡という人物が「高久三郎」と呼ばれたことなどから、ここが元々の岩城氏の本拠地だったと考えられています。もっとも系譜的にははっきりしないことも多く、後世にこの地を本拠とした岩城氏が、その祖に「高久」の名を付けたとも言われています。

ここは案内板もあったようなのですが、どこにあるかは見つからず。近年発掘調査をしたとのことで、おそらくその跡とおぼしき芝生一体が遺構なのではないかと思います。現地に着いてもどこがどうなのかよくわからない、という感想だけが残りました(笑)。


岩城氏は常陸平氏の一族で、奥州藤原氏に従い陸奥国岩城郡に所領を得た領主でした。しかし源頼朝に鞍替えし、岩城郡周辺の地頭職を得て、武士団として成長してゆきます。
岩城氏は、好島(よしま)荘の開発領主として成長したことも有名ですね。周辺地域を開発しつつ一族を各地に住まわせたことで知られ、このようなあり方は「中世的郡郷荘保」の典型例とされています。

南北朝期になると、はじめは南朝方でしたが、北朝に転向して生きながらえました。この頃一族内で惣領の座を巡って角逐があったとみられ、分家の白土氏が主導権を握ったと見られています。ただ、15世紀になると一族一揆が形成され、一族での繋がりを強固にする動向があったようです。
永享の乱においては、岩城隆忠が幕府方に味方して軍功を挙げています。関東での争乱が激しくなると岩城氏周辺でも紛争が頻発し、白河結城氏や石川氏などの周辺領主も巻き込んだものの、岩城隆忠は戦乱をおさめて安定的な支配を確立したとされています。

戦国期になると、佐竹氏の内紛に積極的に介入するようになり、関係を深めました。天文11年(1542)に伊達氏で内訌が起きると、当主の岩城重隆は芦名氏とともに伊達晴宗に荷担して相馬・田村氏と争いました。結局は晴宗方の勝利となり、岩城氏の南奥における影響力が高まりました。
しかし徐々に佐竹氏との地位が逆転してゆくと、歯車が狂ってきました。天正17年(1589)には伊達氏と手を切って芦名氏と結び、田村氏を攻めましたが、芦名氏は滅亡。伊達氏と佐竹氏の間で板挟みとなった恰好でした。

その後は佐竹義重の子・貞隆が当主となり、関ヶ原では東軍に属しましたが、上杉景勝討伐に参加しなかったことを咎められ所領没収。大坂の陣で活躍して大名として復興しましたが、地元に戻ることはかないませんでした。

今は、現地で岩城氏の影を感じることはほとんどなかったですね。
ま、こんなところで…。

■福島県いわき市

2010.04.04

Global or Local ?

ちょうど桜が満開ですが、今はそれどころではない、という状態。
今日は曇天で寒々としていたので、見なくてもまあいいかな。


今月、とある研究会で(別に隠す必要もないんですが)コメンテーターをつとめることになりました。

お誘いがあるのはとても光栄なこととしてなるべく頼まれた仕事は断らないようにしているのですが、今回の場合、報告者が非日本語ネイティブ(文章はある程度理解されるそうですが)。日本史をやっていると基本的に「言語の壁」を気にしないので、まったく慣れていないシチュエーション。通訳をしてくださるとはいえ、そこらへんがちょっと不安です。

こういう事態に直面すると、やっぱり英語くらいはできた方がいいのかなあ、とも思ったりしますねえ。むろん、思うだけなのですが…。読むのはともかく(時間はかかるけど)、話すのはまったくダメ。まさに、“じす いず にほんじん"、です。

テーマは銀貨流通。金や銀については勉強し直したいと思っていたところでもあったので、その点ではいい機会になりそうです。はてさて当日はどう転ぶか。

0520204085Fountain of Fortune: Money and Monetary Policy in China, 1000-1700
Richard Von Glahn
University of California Press 1996-12

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備忘のために、報告者の主要著書を。もしかしたら買うかも、ということで。
そういえば未だに洋書を買ったことがないのですが、アマゾンはその点やはり便利そうですね。クリック一発でアメリカやらイギリスから本が届くもんなあ…。

この本、和訳されたりしないんですかねえ。もっとも中国語訳ならともかく、日本語訳はもう商売として成り立たないのかもなあ。

2010.04.03

いわき 薬王寺

YakuojiYakuoji_13昨秋に行った福島編です。もう半年近くも経ってしまったので、記憶がやや薄れてしまいましたが…。
しばらく、海沿いの磐城(岩城)の史跡です。

まずは薬王寺。寺伝によれば9世紀初頭の建立とされる古刹です。本堂(右写真)は、戊辰戦争で焼失した後に再建されたそうです。木造文殊菩薩騎獅像(重要文化財)などを所蔵。
一説によると、文安3年(1446)に岩城隆忠が祈願寺としたとされています。この時の中興と理解すればいいのでしょうか。

Yakuoji_2Yakuoji_3ここの注目は、中世の板碑がたくさんあることです。上の写真の参道脇に並んでいる石も、実はすべて板碑(の残欠?)です。参道脇にはこちらの写真のように墓石が並べられていますが、この中にもいくつか板碑を確認できます。

板碑は全部で58基あるそうですが、境内に分散しており、すべて確認できたかどうかは心許ないところです…。
この地域でも板碑が遺っているところは珍しいそうで、この薬王寺周辺の地域に集中して確認されるそうです。関東でよくみられる緑泥片岩で造られた薄いものではなく、花崗岩を使ったやや厚みのあるものです。

Yakuoji_6Yakuoji_8参道に並んでいたもののうち、比較的状態の良さそうなものを。
左写真の板碑は、正応3年(1290)の年号が読み取れました。右写真のも肉眼では読めたような気がするのですが、忘れました…。写真ではよく見えませんね。
上の写真にある、集められた板碑の中に、正応4年(1291)の年号を読めるものがあります。

上部だけしか見えないものが多いのですが、それらの下部がどうなっているのか(埋まっているのか、そもそも無くなってしまったのか)は確認できませんでした。単に埋まっているだけならいいんですけどねえ。

■福島県いわき市

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