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2010年6月

2010.06.29

名古屋・大阪行脚

先週末は名古屋と大阪でそれぞれ研究会のはしごをしてきました。

名古屋の方は自分が報告して以来久々に出席。日程のアヤなのか、出席者がずいぶん少なかったですが、私の専門に直に関わる内容だったので、とても勉強になりました。
正直言って飽和状態にある研究分野ですが、まだ探せば史料はあるんだなあ…などと思いつつ。この分野に果敢にチャレンジしたいという学部生の方もお見えでした。私が言うのもなんですけど、険しい道ですが是非ともがんばってほしいものです。
そして深酒。翌日に少々響きました(笑)。

そして大阪へ。こちらは大会。報告を聞きに行ったのか、報告をツマミに飲みに行ったのか(笑)、相変わらずな体ですが、刺戟的な報告でした。厚かましくもまた質問してしまいましたが…、私が口下手なせいで、研究史の位置づけを軽い気持ちで訊いたつもりが大事に(笑)。ちょっと反省しております。
普段はなかなか会えないいろんな方々とお会いできる貴重な“祭り”に今年も参加できてよかったです。来年以降も行けるといいのですが…。

いい刺戟を受けて、私も精進したいと思います。まあ、いつもそう思っては、すぐにそれを忘れてしまいがちなのですが…。

2010.06.25

陸奥長沼城跡

Naganumajo_2Naganumajo_7須賀川から西の山間部へ入っていくと、開けた盆地に出ます。その中心部にある長沼城跡です。

文応元年(1260)に長沼氏が築いたとされていますが、これは事実とは考えられていないようです。長沼氏といえば、関東の有力武士団である小山氏の一族ですが、この地域を所領とした形跡はありません。一説には長沼隆時という人物が築いたと言われているようですが、小山一族の長沼氏にこのような人物は見当たらないようです。

Naganumajo_31Naganumajo_41この城が実際に歴史上はっきり現れるのは戦国期になってからです。須賀川を本拠とする二階堂氏の支城となっていましたが、1560年代にはこの地域をめぐって二階堂輝行と芦名盛氏との間で争奪戦となり、さらには二階堂氏に味方する伊達輝宗や、芦名氏に味方する佐竹義重も介入するなど激しく争っていました。

形勢は徐々に芦名方に傾いたようで、永禄9年(1566)には芦名領となり、被官の新国貞通が城代となっています(この年に芦名と二階堂は和睦しているようで、それによるものか)。
天正17年(1589)に伊達政宗が芦名氏を滅ぼすと新国貞通は伊達氏に仕えましたが、翌年の奥州仕置によって長沼は没収。会津に入った蒲生氏郷の所領となり、一族の蒲生郷安らが城主となりました。

ちなみに、長沼やその周辺の地域には、奥州仕置の際の検地帳が遺されています。秀吉の奥州征伐や太閤検地の議論では有名な史料ですね。「永楽」という銭の表記があるなど、個人的にも興味を持っている史料です。

慶長3年(1598)に会津に上杉景勝が入ると、信濃国長沼(現長野市)から島津忠直が移って城主となり、上杉領の前線を守る役割を担いました。なんでも信濃の長沼から陸奥の長沼へ来たのは偶然のようですが、なんか因縁を感じますね。

関ヶ原合戦後は、再び会津に入った蒲生氏の所領となり、蒲生郷治らが城主となりましたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。

Naganumajo_15Naganumajo_17こちらは本丸です。右写真は本丸の一角にある門の跡とされる遺構。

規模はそれほど大きくないのですが、小山にいくつもの曲輪が整備されており、なかなか見応えのある城跡でした。一部には石積みの遺構も遺っています。

Naganumajo_32Naganumajo_42左写真は、本丸下の斜面部分で、石垣が遺っていたそうですが、最近崩れてしまったようです。一応修復する予定になっているのでしょうか…?

右写真は城跡からの眺め。この地域はわりと山の方に入っているのですが、城を中心として広大な田園風景が広がっていました。検地の対象としてふさわしい穀倉地帯だったのでしょうかね。戦国期に激しい争奪戦になったのも、単に戦術・戦略的な理由ではなく、このような土地柄も影響したものと考えられます。

■福島県須賀川市(旧長沼町)

2010.06.22

稲村御所跡

Inamuragosho篠川から南へ数キロ。車で15分ほどでしょうか。平地の高台にある稲村御所跡です。

篠川に派遣された足利満直とともに、その弟に当たる足利満貞もまたこの地に派遣され、「稲村御所」と呼ばれました。その居所がここだったとされています。

Inamuragosho_2Inamuragosho_4内部はこのような感じ。結構広大に見えました。今は畑になっています。

足利満貞は兄の満直と同じく反鎌倉府の伊達氏などを抑える役目を担っており、近隣の二階堂氏らとともにそれに当たっていました。しかし満直が幕府方に転じると満貞の勢力は衰え、応永31年(1424)に満貞は稲村を退去し鎌倉に戻ったとされています。

満貞は20年余ほどこの地を拠点としていましたが、政治的にはあまり大きな役割を果たせないまま撤退していったようです。兄とは異なり満貞は終生鎌倉府方にあって活動し、永享の乱で敗れて鎌倉で自害しました。

Inamuragosho_3こちらは周辺の風景。広大な田園風景が広がっています。逆に言えば、なにもない…(笑)。
当時も同じだったとは断言できませんが、比較的肥沃な土地柄にあると思われます。あえてそのような場所を拠点に選んだのかな、と。

■福島県須賀川市

2010.06.20

笹川高石坊石造供養塔(篠川御所跡)

Sasagawaここからは福島県中央部(郡山周辺)の史跡です。

こちらは笹川地区にある石造供養塔群。元々ここにあった石造物に加え、周辺から移設されたものも含まれています。中世の板碑を多く含んでいます。

Sasagawa_3Sasagawa_4これらは中世のものですね。

古いものでは元弘3年(1333)に起きた佐々河城での合戦の際のものや、観応3年(1352)の宇津峰城の合戦(東北での最後の南朝の砦が陥落した戦乱)の時期のものも確認されています。

Sasagawa_2この辺一帯は、篠川(ささがわ)御所があった所とされています。

南北朝の戦乱が終息した後、奥羽両国は幕府の管轄地域になっていましたが、応永6年(1399)に鎌倉府の管轄に変わりました。その際、鎌倉公方足利氏満(応永5年末に死去)の子がこの地域に派遣され、統治に当たりました。そのうち、氏満次子の足利満直がこの篠川に派遣され、「篠川御所」と呼ばれました。

当初は幕府と手を結んで鎌倉府に敵対的だった伊達氏を抑える役目を果たしていましたが、鎌倉公方が足利持氏になると関係は悪化し、満直は一転して幕府と気脈を通じるようになりました。そのため鎌倉府方の周辺領主と対立して劣勢に立たされ、しばしば幕府に鎌倉府攻撃を依頼する様子が『満済准后日記』に記されています。

結局永享の乱で足利持氏は滅びましたが、満直は事態を打開できず周辺領主との抗争に敗れ、永享12年(1440)に篠川御所を落とされ自害しました。その後の篠川は、須賀川(現福島県須賀川市)を支配する二階堂氏の支配下に入ったと考えられています。

一部に土塁とおぼしき遺構が遺っているようですが、ちょうど新幹線の敷地の辺りにあって、見付けられませんでした(こちらのページ参照)。どうやら車では入り込めない小さな路地を行く必要があったようですね。残念。

■福島県郡山市

2010.06.18

【受贈】『関ヶ原 島津退き口』

先述のシンポジウムの際に、桐野作人『関ヶ原 島津退き口―敵中突破三〇〇里』(学研新書78、学研パブリッシング、2010年)受贈。ありがとうございます。

関ヶ原合戦に敗れた島津義弘主従が薩摩へ退却する過程について、史料を用いて具体的に明らかにされています。有名なエピソードながら、実はあまり検証が進んでいなかったことや、数少ない先行研究においても意外と単純な誤りを犯していることなどがわかりやすく解説されています。
私にとってはまさにほとんど事実関係を知らなかったので、勉強になりました。特に、国東半島の沿海で黒田如水の軍勢と海戦に及んでいたのは初めて知りました。

さらに興味深いのは、詳細な事実関係のみならず、退却の際に遭遇した熾烈な落ち武者狩りの様子がつぶさに描かれているところ。当時の地域社会の持つシビアな一面がリアルに描かれており、大いに示唆を得ることができました。この時代を勉強していてもつい等閑にしがちなのですが、改めて「戦争の時代」を直視する大事さを学んだ次第です。

4054046010関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里 (学研新書)
桐野 作人
学研パブリッシング 2010-05

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2010.06.17

シンポジウム「織田権力論」

先日、戦国史研究会シンポジウム「織田権力論―領域支配の視点から―」に出席しました。

とはいえ、朝9時開始だったものの、会場に到着したのは午後でしたが…。
というわけですべての報告を聞けませんでしたが、レジュメを読んだり討論を聞いたりしながら、全体の話の流れを追うようなスタイルでおりました。

「領域支配の視点」と謳っているように、織田信長が中央で発揮した権力を論じるというようなこれまでの中心的な議論ではなく、その基盤となる領国支配の具体像を明らかにすることを主題としたものと理解しました。いずれの報告も多くの史料が提示されていて、丁寧に議論を組み立てる意欲を感じることができました。

討論にもあったように、結果として「織田権力」という存在がいかなる歴史的位置にあるのかについてはこれからの課題となったようですが、今後の展開を期待したいところです(って、人ごとのように言っていいのか…)。論集にする予定もあるそうなので、楽しみです。

報告を聞いていて思ったのは、織田信長による領国支配というのは決して独創性に優れたものではなく、どうやら各地の支配の在り方をかなりの部分で踏襲・継承していたのかもしれないなあ、ということです。私個人は、人口に膾炙するような信長の「革新性」というものにはわりと懐疑的なんですが(笑)、その点ではやや意を強くしました。


150人を越える参加者があったそうで、関心の高さが窺えますね。これを機に、わかっているようでよくわかっていない「織田権力」の内実をめぐる議論が一層深まることを期待したいです。

2010.06.14

交流戦“あれ”

まさかまさかの某チームが優勝。

一番信じられない思いなのは、間違いなく私を含めたこのチームのファンです(笑)。
もっとも、広島(マエケン抜き)・ヤクルト・横浜で作った貯金(この3チーム相手で10勝2敗)がものを言ったわけですけど。

世間で某チームのファンであると公言することは変人扱いされること請け合いなので、隠れキリシタンのごとく口外は大いに憚られてきたわけですが(笑)、最近はファンという著名人がやや増えてきたようです。人気球団に比べればその数は雀の涙にもなりませんが、ほぼ皆無だったこれまでに比べれば少しずつ変わってきたのかなあ。
球場に行くと、ファンは以前に比べると確かに増えてはいます。これでまた少し増えるといいですけどね。
ともあれ久しぶりにこちら方面での朗報でなによりです。

口にしたら験が悪いからと、頑に優勝を「あれ」と言っていたらしい監督。お茶目な人です(笑)。

2010.06.13

三春城跡

Miharujo_12Miharujo_8いわきから一気に内陸へ。三春城跡です。

築城年代ははっきりしませんが、永正元年(1504)に田村義顕が築いたと伝わっており、戦国期の領主田村氏が本拠とした城でした。
田村氏の出自ははっきりしませんが、鎌倉期は御家人であり、「田村庄司」だったとされています。地頭だったのか荘官だったのかよくわかりませんが、あるいは両方兼ねていたのでしょうか。幕府滅亡後は南朝方として活動し、南奥の国人領主で形成した一揆の一員にもなっていました。中でも白河結城氏との繋がりを深めていたようです。

戦国期に伊達氏が擡頭すると当主の田村隆顕は伊達稙宗の娘を迎えて姻戚関係を結び、所領の安定化を図っています。しかし天文11年(1542)に伊達氏の家中騒動(天文の乱)が起こった後は南奥は戦乱状態となり、田村氏は芦名氏や白河結城氏らとも対立して窮状に立たされました。しかし隆顕の子・清顕が当主となった永禄期(1560年代)になると芦名氏と手を結び、敵対する佐竹義重を撃退するなどしています。

田村清顕は切れ者だったとされており、元亀から天正前半(1570年代)には周辺の諸領主を制圧し安定した権力を築き上げたそうです。そして、この清顕の娘・愛(めご)姫が伊達政宗の正室として嫁いだことは有名ですね。

以後の田村氏は伊達氏が勢力を拡大するにつれてその傘下のような位置づけとなりつつも、独自の領主として維持していましたが、天正18年(1590)の奥州仕置によって、小田原不参を理由に改易。所領は伊達氏領とされました。当主の田村宗顕(清顕の甥で養子)は早世して断絶。後に伊達忠宗の子(政宗の孫)の宗良に田村氏の名跡を継承させて復興し、仙台藩支藩の一関藩主として維新まで続きました。

Miharujo_5Miharujo_17三春は桜の名所として有名ですが、訪問時は晩秋、しかも雨。風景はいまいちです(笑)。

三春城は田村氏が去った後会津藩領となりましたが、寛永5年(1628)に松下長綱が藩主となって三春に入りました。しかし寛永21年(1644)に乱心のかどで改易となり、翌年、所領を失っていた秋田(安藤)氏の当主・俊季が大名として再興して三春藩主となり、以後は秋田氏が領主となりました。

Miharujo_21Miharujo_37左写真が本丸です。

…というわけで、今の遺構は近世に手が入っている可能性は高いものの、藩主は麓に居館を構えていたことからして、戦国期の雰囲気も遺しているように感じました。ただし、かつては石垣があったものの、維新後にほとんど撤去されてしまったそうです(一部だけ遺っています)。

Miharujo_27城跡から見た三春の町並み。手前に見える学校(確か小学校だったような)が藩主の居館跡だったようです。

麓には、築城時に田村義顕が建立したという田村大元神社があります。ただ、訪問時はすっかり日が暮れてしまい、写真がいまいちなので掲載はパス。

■福島県三春町

2010.06.10

【受贈】『日本中近世移行論』

池享『日本中近世移行論』(同成社、2010年)受贈。以前いただいていたのですが、ご紹介が遅くなりました。

16世紀後半を中心とする、いわゆる中近世移行期という時代をどのようにトータルに捉えるのか。これが戦後歴史学の一つのトピックだったことは言うまでもないことですが、その議論の目指したものを振り返りつつ、これからの課題を提示するというのがコンセプトではないかと理解しました。

近年(とはもう言えないかもしれませんが)は戦後歴史学とは異なる視点や問題関心からこの時代を理解しようとする動向が盛んですね。その中心としては、社会史との関係も深い地域社会論や、最近では議論の熱い「移行期村落論」などが挙げられます。

ここでそれらの学説の是非を論じることはしませんが、多角的な議論が進む一方で、異なる視座に立つ研究者同士ですれ違いや対立が深まりつつある懸念もあります。本書もどちらかといえばその点で先鋭的ですが、今後の議論に一石を投じることになるでしょうか。

一つ不満を述べるならば、最近というか、「2000年代の歴史学」にはあまり言及がないところですかね。もっとも、これは後進が取り組むべき課題ということなのでしょう。
印象としては、日本史の全般的な研究動向からすれば、当該期の研究はしばらく下火傾向にあったような気がします。しかし最近、新たな議論を立ち上げようという動きが東西で盛り上がりつつあるようです。私もまた、なんらかの寄与を果たすべく探りを入れているところです。それを形にできるよう、本書を読んで力を蓄えたいと思います。

4886215114日本中近世移行論 (同成社中世史選書)
池 享
同成社 2010-05

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2010.06.09

勿来関跡

Nakoso_3Nakoso_5いわき市の南端にして、福島県の南東の端にある勿来(なこそ)関跡です。
歌枕に用いられることで知られ、白河関(現福島県白河市)や鼠ヶ関(ねずがせき、念珠関とも、現山形県鶴岡市)と並んで「奥羽三古関」の一つに数えられています。

一説には、弘仁2年(811)にこの地域の官道を廃止したことに伴い、通行を監視するために設置したとも言われています。しかし史料的な裏付けはないようで、実際には実在した関とするかは微妙というところのようです。

Nakoso_7Nakoso_10エピソードとしては、永保3年(1083)に始まる後三年の役に絡んで、源義家が陸奥守となって任国へ赴く際、ここに立ち寄ったというものがあります。上の方の写真に見える騎馬像は、源義家像です。

「吹く風を 勿来の関と 思へとも 道もせに散る 山桜かな」

義家が詠んだこの歌が『千載和歌集』に収められており、近世になって「勿来」がこの地であったと考えられるようになったことによります。


というわけで関の実在は微妙ですが、陸奥と関東との国境に当たり、中世では時折戦火に見舞われた地域ではあります。そのあたりの風情を感じることはできるかもしれません。
ちなみに、勿来関文学歴史館という施設がありますが、今回は立ち寄らず。

右写真の大木は「弓掛の松」と呼ばれるもので、源義家が休息した際に弓を掛けた木と伝わっています。

■福島県いわき市

2010.06.07

仙台・松島史跡旅行

Matsushima_1Tagajo_12週末は仙台周辺の史跡巡りに行ってきました。調査というより、純粋な旅行。

この数年は東北に行く機会が多かったのですが、仙台やその周辺地域はあまり馴染みが無かったので、以前より廻ってみたいと思っていたのですが、それが今回叶いました。未踏だった松島も踏破。これで「日本三景」は一応全部行ったことになります。

右写真は多賀城跡。雰囲気は大宰府に似てますが、山に造られているので、起伏のある遺構だったのが印象的でした。

Sendaitokoji_15この地域は中世の板碑が比較的多く遺されていることで知られており、今回はそれらをなるべく見ることに重点を置きました。正直なところ、終盤は段々飽きてきた感もありましたが…(笑)。可能な限り多くの板碑を見ることができてよかったです。

…というわけで、史跡ネタが溜まりました。例によって、追々ご紹介いたします。
次はいつ旅行に行けるかわかりませんが、できれば年度内にもう一度どこかに行けたらいいなあ、と思います。たぶん来年度からは行きたくても行けなくなると思うので…。

2010.06.01

滝尻城跡

TakijirijoTakijirijo_2泉地区にある諏訪神社。ここは滝尻城という城郭があったとされています。

滝尻城は、南北朝合戦の舞台の一つとして知られています。南朝方の「小山駿河権守」(小山朝郷に比定されているけど、微妙?)が拠ったとされ、建武3年(1336)に幕府方の岩城氏や伊賀氏らが攻め寄せて落としたと言われています(「飯野家文書」に軍忠状がある模様)。

Takijirijo_1Takijirijo_9このように、土塁と覚しき遺構?が見られます。後世の盛り土の可能性は否定できませんが…(笑)。

ここを滝尻城跡とするのは発掘調査によるものというよりは、伝承に基づくようです。
なので確実とは言えませんが、中世にはこの地域を中心とする集落があったことは確かなようなので、武士の居館があってもおかしくはないかなとは思いました。

ちなみに、森鴎外の『山椒大夫』のモデルとなった「安寿姫」と「厨子王丸」のゆかりの地とされているそうです。
実は私、『山椒大夫』を読んだ記憶がないので、あまり感慨はありません…。あらすじを見る限り、なるほど、江戸時代に流行っていたであろうネタですね(笑)。

■福島県いわき市

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