郡山の中世石造物(2)
こちらはJR郡山駅からほど近く、中町の熊野神社境内にある「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」。真ん中のものは長方形の凝灰岩を彫りくぼめたもので、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊を彫っているそうです。右側は一般的な板碑の形式をしているようですね。
現地看板によると、凸型に彫りくぼめているのは、仏像を納める厨子を表現していると考えられるそうです。
鎌倉期のものとされています。
こちらは、富久山町久保田地区にある日吉神社の石造塔婆群。付近にあった石造物を集めたものだそうで、一部は県指定重要文化財になっています。

こちらの方がメインか。年号のわかるもののうち、最も古いものは正安3年(1301)の銘が確認されています。このほか文保2年(1318)のものもあります。実際に見えたかどうかはよく憶えてないのですが…、確か見えなかったような。凝灰岩からなる東北型板碑の典型例といえるでしょうか。
こちらは中世のものではないのですが、同じく境内にある伊東肥前の碑。天正16年(1588)に伊達政宗と芦名・佐竹連合軍との合戦が郡山であり(郡山の合戦)、その際、伊東肥前(重信)が政宗の身代わりとなって戦死したとされています。この石碑は、元禄3年(1690)に戦死した逢瀬川岸に建てた墓碑で、仙台藩主は参勤交代で通りかかると必ずこの石碑に一礼していたそうです。いつ頃かはわかりませんが、後に現在地に移されました。
伊東肥前は御家人伊東氏の一族である安積伊東氏の人のようです。安積伊東氏は戦国期まで郡山を本拠とする領主でしたが、伊達氏に屈して麾下となっていました。中でも伊東重信は伊達政宗に従って各地を転戦して功績を挙げた人とされており、子孫も伊達氏の家臣となりました。
ちなみに重信の孫の重孝は、伊達騒動の関係者として有名ですね。伊達宗勝の暗殺を狙って失敗し、寛文8年(1668)に処刑されました。この時伊東氏は取り潰しになりましたが、宗勝らが失脚した後は仙台藩の忠臣として讃えられ、再興したそうです。
福島編はこれにておしまいです。
■福島県郡山市
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