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2010年7月

2010.07.30

仙台東照宮

Sendaitoshogu_1Sendaitoshogu_3こちらは仙台東照宮。その名の通り、徳川家康を祀る神社です。この地は、天正19年(1591)の葛西大崎一揆鎮圧の折、家康が立ち寄った所とされています。

慶安2年(1649)に仙台藩2代藩主の伊達忠宗が、将軍徳川家光から許可を得て着工。承応3年(1654)に社殿が完成。仙台藩における宗教統制の中心となった神社で、別当寺の仙岳院は藩内の寺院を統括し、平泉中尊寺の別当も兼ねていました。

左写真の石鳥居(重要文化財)は承応3年に伊達忠宗が寄進した旨の銘があり、創建時のものであることがわかります。
右写真の参道脇に立ち並ぶ石灯籠(重要文化財)も、多くは承応3年の銘が確認されており、そのほか延宝8年(1680)のものや、天和2年(1682)のものがあります。近世前期のものとして貴重です。

Sendaitoshogu_5Sendaitoshogu_11左写真は随身門(重要文化財)。一般には楼門と呼ばれる建物ですが、随身像が安置されているのでこの名で呼ばれているそうです。扁額には承応元年(1652)の銘があり、この門も創建時のものと考えられています。

右写真は手水舎(てみずや)と水盤。これも創建時のもの。見た目ではよくわかりませんが(笑)。

Sendaitoshogu_8Sendaitoshogu_9左写真は幣拝殿。こちらは戦後の再建。
右写真奥が本殿(重要文化財)。手前の唐門・透塀(ともに重要文化財)とともに、いずれも創建時のものです。
なかなか立派な唐門ですね。

■仙台市青葉区

2010.07.26

執筆モード終了

この暑さですっかり萎えてしまい、集中力減衰。
書きたいという意欲は早くもしぼんでしまいました(笑)。

とはいえ、設定した課題は目標通り月内にめどが立ちました。やや量を書きすぎた感もあるけど、まあいいか…。

次の執筆モードが来るまで、地道に史料をめくりたいと思います。結局、私らの本分はこれですしねえ。
あとは、抱えている仕事がまだあるので、早く終わらせないとなあ。まあ短文なんで時間はかからないはずなので、要はやる気になるかどうかなんですけど…(なんてこと言ったら依頼元から怒られますが)。

授業がやっと今週で終わるので、それからはいよいよ夏休み。
今年こそ、稔りのある二ヶ月にせねばなりません。

2010.07.24

【受贈】『都市鎌倉の中世史』

秋山哲雄『都市鎌倉の中世史―吾妻鏡の舞台と主役たち』(歴史文化ライブラリー301、吉川弘文館、2010年)受贈。ありがとうございます。

私は直接は専門ではないのですが、「都市」という視点には関心がありますので、大いに勉強させていただきたいところです。

まだ通読はしていないのですが、鎌倉期における鎌倉の都市としての性格について、多くの研究成果や発掘成果などを広く参照して平易に解説されている、という印象です。少しお堅めということにはなるかもしれませんが、鎌倉幕府のあった時代の鎌倉についてのガイドブックとしても非常に充実しています。本書を片手に鎌倉を歩いてみるのもよさそうですね。

最近は、鎌倉そのものをテーマにした書籍が多く出ています。私はすべてカバーできていませんが、一種のブームのようなものなのでしょうか。近年では、鎌倉は「おしゃれな街」というイメージが定着してますけれども、「歴史の街」としてのイメージは逆に今ひとつといった感もありますから、その辺が少しは見直されるといいんですけどね。

また鎌倉に行きたくなります(笑)。

4642057013都市鎌倉の中世史―吾妻鏡の舞台と主役たち (歴史文化ライブラリー)
秋山 哲雄
吉川弘文館 2010-07

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2010.07.22

大崎八幡宮

ここからは、先月行った仙台周辺の史跡シリーズです。
やっと時間が追いついてきました(笑)。

Osakihachiman_1まずは大崎八幡宮
社伝によると、坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を奥州に勧請して鎮守府八幡宮(現岩手県奥州市[旧水沢市])を創建したのが始まりとされ、室町期に奥州探題となった斯波氏の一族大崎氏が本拠に建立した大崎八幡宮(現宮城県大崎市[旧田尻町])を前身としています。大崎氏が没落した後は、伊達政宗が当時の本拠であった岩出山城内(現宮城県大崎市[旧岩出山町])にご神体を移し、仙台に本拠を移した後の慶長9年(1604)に、現在地に社殿が建立されました。この際、伊達氏が米沢に拠点を構えていた時代に崇敬していた成島八幡宮も合祀しています。

写真は参道の入口にある二の鳥居。脇に並ぶ石灯籠は近世のもので、県の文化財に指定されています。

Osakihachiman_5Osakihachiman_6二の鳥居をくぐると、左写真の長い石段がお出迎え。この石段は、創建当時のものとされています。雨で濡れるとよく滑ります(笑)。

右写真は石段を登り切るとある三の鳥居。享保3年(1718)に、5代藩主の伊達吉村が寄進したものだそうです。
最近漆を塗り直したそうで、古いものとは思えないほどぴかぴかですね。

Osakihachiman_9三の鳥居をくぐってしばらく参道を歩くとあるのが、この長床(重要文化財)。「割拝殿」とも呼ばれています。創建後しばらくして建てられたものと考えられています。長床としては県内最古だそうです。

Osakihachiman_10Osakihachiman_11長床をくぐると、いよいよ目に入るのが本殿・拝殿(国宝)。創建時のもので、慶長12年(1607)築。桃山建築の特徴がよく現れたものとされています。最近修理したようで、よりきらびやかに見えますね。

■仙台市青葉区

2010.07.19

分倍河原合戦の史跡

春の雨の日に、分倍河原(ぶばいがわら)合戦に関わる史跡を歩きました。
下の地図がそのルート。京王線中河原駅から旧鎌倉街道上道を分倍河原駅まで歩きました。

Bubaigawara_1しばらく歩くと、中央高速の高架の手前に整備された小川のある公園があります。ここに、分倍河原古戦場の石碑があります。

元弘3年(1333)に挙兵した新田義貞は、鎌倉街道上道を一路鎌倉を目指して南下してきました。小手指ヶ原(現埼玉県所沢市)、久米川(現東京都東村山市)で北条方の長崎高重らを破ります。一方幕府方は北条泰家を大将として分倍河原に陣を敷いて応戦。新田義貞はここで一度敗れましたが、すぐさま攻め返し、三浦義勝らの応援によって撃破。そして勢いに乗って鎌倉へ攻め上ってゆきました。
この石碑は、義貞末裔の岩松新田氏子孫である新田義美(よしてる)氏の署名がありました。1935年(昭和10)に建てられたものだそうです。

Bubaigawara_3そしてこちらが、分倍河原駅前にある新田義貞銅像。
これは特に説明は必要ないですね(笑)。挙兵の地である生品神社の銅像は最近盗まれたようですが、見つかったのでしょうかね?

Bubaigawara_12Bubaigawara_7さらにJR南武線の線路を渡り、旧甲州街道を東へ行くとあるのが高安寺。藤原秀郷が創建したという伝承のある、曹洞宗の寺院です。実質的な開基は足利尊氏とされ、彼が各国に設置した安国寺のうち、武蔵国安国寺がこの高安寺とされています。

足利将軍家や鎌倉公方の庇護を受け、南北朝期には広大な敷地を誇ったようで、鎌倉街道とのちの甲州街道が交差する交通の要衝でもあったためか、しばしば鎌倉公方がここに陣を敷くこともありました。永享の乱の際にも、上杉憲実討伐のために足利持氏がここに陣を敷いています。

「分倍河原合戦」と名の付く合戦は、実は新田義貞によるものではなく、もう一つあります。
鎌倉府が瓦解した後の康正元年(享徳4年、1455)、足利成氏は山内上杉房顕とその家宰・長尾景仲を討伐するために上杉氏本国の上野に向けて出陣し、この高安寺に布陣。一方上杉方も府中へ兵を進め、分倍河原で激突しました。

この結果、上杉方の犬懸上杉憲秋(憲顕とも、禅秀の子)と大石房重らが戦死、扇谷上杉顕房(似た名前で紛らわしい…)は武蔵国夜瀬(現在地は東京都三鷹市、八王子市などの説あり)で自害するなど、上杉方は敗れました。長尾景仲は辛うじて逃れたとされています。
このようにして足利成氏は関東で優位な立場を得ましたが、幕府は成氏討伐へと傾き、駿河守護の今川範忠が鎌倉を陥落させました。成氏は鎌倉へ戻ることを諦め、下総国古河(現茨城県古河市)に拠点を置くこととし、これによって、成氏は「古河公方」と呼ばれるようになりました。このように二度目の「分倍河原合戦」は、関東の戦国時代の緒戦とも位置づけられています。


高安寺自体は鎌倉公方の衰退とともに荒廃し、近世になって復興したようです。境内の建物も、最も古いものでも近世のものでした。

■東京都府中市


より大きな地図で 分倍河原巡検 を表示

2010.07.17

南部家廟所 聖寿寺・東禅寺

Morioka_56Morioka_43盛岡の郊外、盛岡城のちょうど北方向にある南部家の廟所に行きました。

まず、こちらは聖寿寺(しょうじゅじ)。元々は南部氏初代の南部光行の菩提寺として、子の南部実光が当時本拠だった三戸郡内(現青森県南部町)に築いたとされる禅宗寺院です。

南部氏は甲斐国巨摩郡南部村(現山梨県南部町)を出自とする甲斐源氏の一族とされ、13世紀初頭の人という南部光行は陸奥国に所領を得て土着したと伝わっています。しかし実際はこの伝承に裏付けが無いようで、南部氏は鎌倉末期に得宗家の代官として陸奥国に赴き土着したと考えられているようです。

この聖寿寺は中世後期に南部氏の菩提寺として建立されたのでしょうか。それはともかく、慶長4年(1599)に南部信直が現在地に移しました。
右写真は納骨堂です。近世に遡るものでしょうか。

Morioka_52Morioka_51ただし、実際は盛岡藩3代目の南部信重以降の廟所として機能したようで、17世紀になってから廟所としての機能が整備されたようです。
その一角に、写真のような五輪塔が並んでいます。これは盛岡藩時代に先代の供養をするために建立されたもののようです。その一つである右写真の五輪塔は、初代光行の供養塔です。このほか、南部祐政・信長・政行の供養塔(いずれも鎌倉期の当主)が並んでいます。うち最後の南部政行は、南北朝期に南朝方から北朝方に寝返ることで南部氏の転機を作った人であることから、後世に顕彰されたものと思われます。

Morioka_60Morioka_63こちらは、ほど近くにある東禅寺。南部信直の子で、盛岡藩の基礎を作ったといえる南部利直の菩提寺です。右写真がその墓と思われるもの(あまり自信がありませんが…)。

利直は天正18年(1590)に15歳で小田原参陣を果たして秀吉を喜ばせたとされ、前田利家の偏諱を受けて元服。慶長期には実質的な当主となり、盛岡築城を推進しました。寛永9年(1632)に、盛岡城の竣工を見ずして江戸で死去。陸奥国三戸郡の正寿寺(現青森県南部町、元の聖寿寺?)に葬られましたが、元禄11年(1698)にこの東禅寺に改葬されたそうです。

■岩手県盛岡市

2010.07.16

原稿執筆モード

忘れた頃に時々訪れる原稿執筆モードに入りました。

要するに原稿を書く気になった、というやつでして、普段は正直言ってあまりならないのですが(笑)、時折「スイッチが入る」ことがあり、その時に一気に書いてしまうことがこれまでよくありました。タイプ分けがあるとすれば、私はコツコツ型というより、短期集中型ということなのかもしれません。

こういう時こそ書いておくのが身のためなわけですので、いろいろと雑事があるとはいえ、しばらくは執筆を最優先にしたいと思います。…というわけで、イベント等は不義理をすることがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

今書いているネタは、なんとか今月中にめどを付けたいなあ…。新鮮な気分で夏休みを迎えたいところです。

2010.07.12

盛岡城跡

Morioka_30Morioka_141月に行った盛岡城跡です。国史跡。写真がまったくの季節外れですが(笑)、そろそろ暑くなってきたので少しは涼しい気分になれるかもしれず…。

中世の盛岡は不来方(こずかた)という地名で、甲斐源氏の一族とされる福士氏が城館を築いていたことから、中世城郭としては不来方城と呼びます。現在に遺る縄張りはすべて近世のものですが、発掘調査によって戦国期の遺構も見つかっており、これが不来方城としての遺構と考えられています。

Morioka_19Morioka_22左写真が本丸で、右写真が本丸からの眺め。ここから見えるマンションにでかでかと「不来方」と書いてあります(笑)。現在でも、不来方は盛岡の別名として浸透しているようです。

福士氏は、同じ甲斐源氏にルーツを持ち、八戸を本拠とする南部氏の被官だったとみられ、不来方城支配も城代としての役割だったとも言われているそうです。豊臣秀吉の奥州仕置によって三戸南部氏出身で事実上の当主であった南部信直はこの不来方へ本拠を移し、慶長2年(1597)に嫡子の南部利直を奉行として築城を開始。完成まで36年かかったとされ、ようやく寛永10年(1633)に南部重直が入城。以後幕末まで盛岡藩南部氏の居城となりました。この間、慶長年間(17世紀初頭)にこの地を「森ヶ岡」と改め、その後「盛岡」となったそうです。

Morioka_8Morioka_12左写真は三の丸で、右写真は二の丸。雪で覆われていて何が何だかよくわかりませんが(笑)。
盛岡城跡は現在の盛岡の中心部にあり、城のかなりの部分が市街地化してしまったようですが、三の丸から内側は公園として整備されています。

Morioka_35Morioka_37左写真は本丸の石垣。なかなかご立派。
右写真は、三の丸の下、現在の城跡の入口にあたる場所にある桜山神社にある「烏帽子岩」。桜山神社のある場所はかつて「淡路丸」という曲輪だったそうで、寛延2年(1749)に南部信直を讃えるために建立されました。この岩は築城時に出てきたものとされています。

■岩手県盛岡市

2010.07.10

『国史大辞典』のネット検索

『国史大辞典』の版元の吉川弘文館から、『国史大辞典』がジャパンナレッジに加わった旨のDMが先日届きました。
ホームページなどで前々から宣伝していたのを知っていたのですが、登録しようかどうか逡巡していたものの、思い切って登録しました。
年会費の出費が少々痛いのですが(特に来年以降は…?)、元々『国史大辞典』を持っていなかったし、ジャパンナレッジでは『日本国語大辞典』(小学館)や『日本歴史地名大系』(平凡社)も検索できるのが魅力的。何度か使ってみましたが、全文検索が出来る点で確かに便利です。私は外でのネット環境を持っていないので(さすがにそこまでの出費はできない)、これでますます引きこもりになりそう…(笑)。

日本史を研究する上で、言うまでもなく上記三者の辞書類は最も基本的かつ必須のもの。それがネットで気軽に引けるのはやはり有り難いことですね。出費に見合う成果を出せるよう頑張ります…。

なお、当たり前ですが、業者の回し者ではありません(笑)。

次は『国書総目録』(岩波書店)あたりを電子化してくれないかなあ。需要がないか。

2010.07.07

中世の蔵を考える

先週末、帝京大学山梨文化財研究所で行われた毎年恒例の「考古学と中世史シンポジウム」に今年も参加してきました。
といっても、今年も初日のみの日帰りでしたが…。終了後は電車の時間が押していたので、ろくにご挨拶もできずそそくさと退散しました。いろいろとお礼を申し上げたかった方々がおられたのですが。申し訳ありません。

さて、テーマは「中世人のたからもの―蔵があらわす権力と富―」。中世の人々の蓄財と、そのための施設である蔵の形態についての議論でした。日本史上で蔵が本格的に普及し始めるのはおそらく中世ですが、その時代的背景を、文献史料のみならず発掘成果や絵画資料からも検討しようというものでした。

私は考古学方面は素人なので、いわゆる「高屋」跡の遺構がそのまま蔵の遺構に繋がるものなのかどうかはよくわかりませんでしたが、そうだとして、領主の居館や寺院などでどこに蔵が建てられていたかがよくわかって興味深かったです。

私の関心に引きつけるならば、蔵にはなぜか銭があまり見られないという点が論点として提示されていました。なぜなのか私もよくわかりませんが、銭の備蓄をそれほど恒常的にしていたわけではなかった可能性が一番大きいのでしょうかね(わりと大きな領主も自転車操業だったり?)。

あとは、銭は重いので、大量の銭を蔵に置くと床が抜けてしまうからかも?なんてことも想像しましたが(笑)。一括埋納銭には、寺の本堂の床下に埋められていたものもあったかと思いますが、蔵のある所でも埋めていたと考えることができるならば、蔵に置けないなんらかの理由があったのではないか、という気もします。
まあ、本当にその程度で床が抜けるかどうかが問題ですが。

…とまあ、いろいろと想像を巡らしながら報告を拝聴していました。あと、院政期頃までは蔵が権威の指標となるものだったという視点の報告は興味深く、反響も大きかったようでした。私自身は、「王権」論には意識的に距離を置いているのですが、この方面の議論に一石を投じそうですね。

去年の報告をまとめた小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『中世はどう変わったか』(考古学と中世史研究7、高志書院、2010年)を会費と引換で受領。近年研究が盛んな中近世移行期の都市がメインテーマ。この方面について私自身はからっきし不勉強なので(笑)、ゆっくり勉強させていただきます。

2010.07.05

郡山の中世石造物(2)

Koriyama_9_2こちらはJR郡山駅からほど近く、中町の熊野神社境内にある「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」。真ん中のものは長方形の凝灰岩を彫りくぼめたもので、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊を彫っているそうです。右側は一般的な板碑の形式をしているようですね。
現地看板によると、凸型に彫りくぼめているのは、仏像を納める厨子を表現していると考えられるそうです。
鎌倉期のものとされています。

Koriyama_13こちらは、富久山町久保田地区にある日吉神社の石造塔婆群。付近にあった石造物を集めたものだそうで、一部は県指定重要文化財になっています。

Koriyama_15Koriyama_17こちらの方がメインか。年号のわかるもののうち、最も古いものは正安3年(1301)の銘が確認されています。このほか文保2年(1318)のものもあります。実際に見えたかどうかはよく憶えてないのですが…、確か見えなかったような。凝灰岩からなる東北型板碑の典型例といえるでしょうか。

Koriyama_11こちらは中世のものではないのですが、同じく境内にある伊東肥前の碑。天正16年(1588)に伊達政宗と芦名・佐竹連合軍との合戦が郡山であり(郡山の合戦)、その際、伊東肥前(重信)が政宗の身代わりとなって戦死したとされています。この石碑は、元禄3年(1690)に戦死した逢瀬川岸に建てた墓碑で、仙台藩主は参勤交代で通りかかると必ずこの石碑に一礼していたそうです。いつ頃かはわかりませんが、後に現在地に移されました。

伊東肥前は御家人伊東氏の一族である安積伊東氏の人のようです。安積伊東氏は戦国期まで郡山を本拠とする領主でしたが、伊達氏に屈して麾下となっていました。中でも伊東重信は伊達政宗に従って各地を転戦して功績を挙げた人とされており、子孫も伊達氏の家臣となりました。
ちなみに重信の孫の重孝は、伊達騒動の関係者として有名ですね。伊達宗勝の暗殺を狙って失敗し、寛文8年(1668)に処刑されました。この時伊東氏は取り潰しになりましたが、宗勝らが失脚した後は仙台藩の忠臣として讃えられ、再興したそうです。

福島編はこれにておしまいです。

■福島県郡山市

2010.07.01

郡山の中世石造物(1)

Jinnichiji_2Jinnichiji_5郡山市内には、中世の石造物がいくつか点在しています。すべて見ることはできませんでしたが、見ることができたものを紹介いたします。

まずは田村町御代田地区にある「甚日寺(じんにちじ)供養塔」(左写真右)と「護摩堂趾供養塔」(左写真左)。
右の「甚日寺供養塔」は、徳治2年(1307)の年号と、「敬白 衆生平等利益也」の文言が確認されています。「結衆(けつじゅう)供養塔」と呼ばれるものです。
左の「護摩堂趾供養塔」(右写真)は、「嘉暦丁卯」とあることから、嘉暦2年(1327)のものであることがわかります。銘からは、「法橋性公」という人の供養(四十九日か)を祈念したものであることがわかります。元は阿武隈川岸の護摩堂趾地内にあったものだそうで、1965年に現在地に移されました。

KoriyamaKoriyama_2こちらは安積町の宝光寺にある「板石供養塔婆」。弘安6年(1283)の銘が確認されています。上部は切断されていて、補修されているそうです。元は日出山(現郡山市)の安養寺という所にあったそうですが、廃寺となったため現在地に移されたそうです。
銘によると、「和泉庄司藤原祐重」という人が「禅門」某(亡父藤原祐宗とされています)の百ヶ日供養のために造られた旨が記されています。

Koriyama_4Koriyama_5こちらは安積町日出山地区にある「石造宝塔三尊供養塔婆」。仏だけではなく、左右に大小の三重層塔が刻まれているのが特徴です。中世のものとしては全国的にも珍しいものです。素朴な感がむしろいい味を出していますね。

Koriyama_7_2こちらは小原田地区にある円寿寺の「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」。元々は阿武隈川沿いの道路脇にあったものだそうですが、現在地に移されました。かなり欠損もあり、年号が刻まれていませんが、鎌倉初期のものと考えられています。元がどのような形だったかを想像するのは素人には難しいのですが、これもかなり変わった石造物のように思いますね。

■福島県郡山市

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