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2010年8月

2010.08.31

松島 瑞巌寺

Zuiganji_2Zuiganji_3松島のメインスポットである瑞巌寺

天長5年(828)に円仁が開創した延福寺を前身とし、鎌倉中期に廃絶した後は法身性西(性才とも)という僧侶が復興。円福寺という禅宗寺院になったとされています。しかしこれも戦国期に衰退したとされています。

この地に改めて禅宗寺院を造営したのが、言うまでもなく伊達政宗。仙台を本拠とした政宗は、関ヶ原合戦の後に領国内で大規模な寺社造営を行いましたが、この瑞巌寺造営もその一つでした。この復興事業は、政宗が師事した禅僧である虎哉宗乙(こさいそういつ)の勧めもあったと言われています。
用材は紀伊から取り寄せ、名工を多数招き寄せたと言われています。慶長9年(1604)から造営が開始され、同14年(1609)に完成しました。以後も伊達氏の保護を受け、領国内随一の名刹となりました。

右写真は山門。わかりにくいですが、扁額は創建当時のもので、「桑海禅林」と書かれています。

Zuiganji_4Zuiganji_11なかなか趣のある参道。参道の本堂に向かって右側には、右写真のような磨崖石造物が数多く立ち並んでいます。いわゆる「やぐら」も多数ありました。近世のものがほとんどのようでしたが、松島は墓地にするような土地が少ないため、このようなものが造られたのでしょうか。

Zuiganji_30Zuiganji_36参道左側には、このような石窟があります。「法身窟」と呼ばれていて、なんでも北条時頼が法身性西と出会った場所と伝わっているそうです。正安2年(1300)に夢窓疎石がここを訪れたとも伝わっています。

傍らには、右写真の青銅製六地蔵塔があります。貞享5年(1688)のもの。

Zuiganji_40現在、本堂(国宝)は解体修理中です。まあ、また来る理由ができたというところでしょうか。
奥に見える門は御成門(重要文化財)。手前には中門(重要文化財)がありますが、こちらは跡形もありませんでした(笑)。修理のため解体されてしまったようです。これらはいずれも創建時のもの。

Zuiganji_41Zuiganji_42本堂が修理中ということで、庫裏(国宝)が公開されていました。こちらもなかなか立派な建物。

Zuiganji_46境内の東側奥、少し屋根の見えている建物が陽徳院御霊屋。近くでは撮影禁止だったので、このようなアングルに。こちらも普段は公開していないようですが、本堂修理中ということで近くまで見に行くことができました。

陽徳院とは政宗の正室・愛(めご)姫のことです。こちらで書きましたが、愛姫は三春城主の田村清顕の娘で、天正7年(1579)に伊達氏に嫁ぎました。寛永13年(1636)に政宗が死去すると出家して瑞巌寺に入り、陽徳院の院号を名乗りました。承応2年(1653)死去。享年86で、長寿を全うしています。

■宮城県松島町

2010.08.28

出土銭貨研究会の「休眠」

会誌『出土銭貨』の30号が届きましたが、その中に、研究会の「休眠」の旨が記されていました。
去年の大会で議論になったそうですが、私は不参加だったので、寝耳に水で驚きました。もっとも、その兆候はなんとなく感じられましたが…。

直接の原因は、なんといっても多忙により事務局が回らなくなったことによるようです。このご時世、業務の傍ら研究会事務も、というのは段々現実的ではなくなってきたのかもしれません。研究の環境としては由々しき事態ではあるのですが、現状では仕方ないところです。

もっとも、会誌でも示唆されていましたが、そもそも出土銭貨や貨幣流通史の研究状況自体が、一時代を終えたということのようにも思います。1990年代から活況を呈し、私も途中から割って入ったわけですが、ここ2~3年は明らかに低調になってきた感があります。いろいろと理由はあるでしょうけど、根本的には研究の細分化であり、もっと言うならば「ネタの枯渇」が目立ってきたことによると思います。

これはほかの分野にも言えることですが、いわば飽和状態になった後は、一定期間は沈静化することになるでしょう。私より若い世代で貨幣史を志す人もいますが、再度活況を取り戻すには、新たな社会問題に基づいた見直しを可能とするような変化が必要なので、一世代くらいは時間を必要とするかもしれません。

もっとも私は、じゃあやめた、というわけには行きません(笑)。私自身には、まだやりたいことややるべきと思うことは一応あるので(それが客観的に意味のあるものと自信を持っては言えませんが)、もうしばらくしがみついていたいと思います。意外と早く出土銭貨研究会の「休眠」が解けることを期待しつつ…。

ともあれ、事務局を担われたみなさん、今までごくろうさまでした。

2010.08.27

酷暑の中のサマーセミナー

Img_6161今年も中世史サマーセミナーに参加しました。今年は茨城の常陸太田から福島の白河にかけて。
写真は白河の小峰城跡です。

常陸太田の佐竹氏に関する史跡は以前見たことがありましたが、総じてこの地域はあまり詳しくないので、見学した史跡や文書はいずれも新鮮で興味深かったです。シンポジウムも勉強になりました。

ただ、ちょっと肉体的には無理をした感も(要するに飲み過ぎですが)。天気が概ね良かったのは幸いでしたが、とにかく暑かった。眠気と格闘するのもなかなか大変でした(これは自業自得)。
来年は行けるかどうか微妙ですが、出来る限り今後も参加できればと思います。

ちなみに、来年の場所はまだ未定とのことです。
簡単ですが、無事帰り着いたというご報告ということで。事務局のみなさんありがとうございました。

2010.08.22

「武力の時代」としての中世

本郷和人『武力による政治の誕生(選書日本中世史1)』(選書メチエ466、講談社、2010年)読了。しばらく前に読んではいたのですが、迂闊なことを言うとまずいなと書くかどうか迷っていたら、時間が経ってしまいました。あくまで私の読解であり、誤解があるかもしれませんが、その際はご容赦ください。

本書のコンセプトは、黒田俊雄氏が提唱して以来、長らく中世国家像の定説となってきた「権門体制論」の批判を主眼としています。私自身も、権門体制論は天皇の位置づけがネックではないかと思うところもあったので(この辺は戦国期に主な関心があるせいでもあるでしょうけど)、どちらかといえば権門体制論には距離を置いていたため(こんなことここで言っていいのかわかりませんが(笑))、その点ではあまり抵抗はありませんでした。
ただ、私はさすがに「権門体制論は誤っている」と堂々と言えないヘタレなだけに(笑)、きっぱり言い切ったのは勇気のある発言だと思います(偉そうな物言いですが…)。

一方、伝統的な権門体制論への批判的立場としては、佐藤進一氏以来の「東国国家論」があるわけですが、本書ではあまり意識されていないようでした。むしろ、鎌倉幕府の持つ「武力」の優位性が国家権力の主導権を決定づけるという位置づけであり、鎌倉幕府は東国に限定した権力体というイメージになりがちな東国国家論とも距離を置いているように窺えました。
この辺の国家論の議論は、今後の展開を期待したいところです。

さて、本書は史学史的な叙述にもかなり紙幅を割いている点に特徴があります。とりわけ、皇国史観には痛烈な批判を浴びせており、痛快でもある一方、私自身、この辺りの史学史についてはまだ不勉強な所が多いなあと感じさせられました。
著者が指摘する通り、皇国史観批判をそのまま平泉澄批判に転嫁して安住する傾向の否めないことは反省せねばなりません。実際には皇国史観を支持した多くの研究者が糾弾を免れ、さらには「戦後歴史学」の一端をも担っていることについて、意識をしなければなりませんね。もちろん単にあげつらって非難するというわけではなく、我々が基盤とする「戦後歴史学」も“皇国史観的なもの”とは無縁ではないことを自覚する必要がある、というイメージでしょうか。うまく言えませんが。

もっとも私は、権門体制論はなお重要だとも思っていて、それはやはり黒田氏が元々主眼としていた「寺社勢力」の存在への注目であり(実際はほぼ寺院だけを対象としていますが)、それを中世の主要な権力体(権門)として認識する視座を提供したことにあります。
ただ、近年今谷明氏が、寺社(社寺)を権門とする視点は平泉澄が既に明らかにしており(「社寺勢力論」)、権門体制論はそのトレースに過ぎないと批判しました。本書でもその指摘に首肯していますが、これについては最近細川涼一氏が反論しています(同「黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』」、『日本史研究』574、2010年)。ここには立ち入りませんが、本郷さんはこの点についてどうお考えなのか、機会があれば伺ってみたいところです。

本書の参考文献に読んでみたい本が挙げられていたので、ついでにメモ。

4062584662選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)
本郷 和人
講談社 2010-05-07

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4768479235「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策
長谷川 亮一
白澤社 2008-01

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2010.08.19

松島 五大堂

Matsuhimagodaido_3念願の松島でしたが、天気は最悪。風景はまともな写真がないので、淡々と史跡を廻りました。

まず行ったのは五大堂(重要文化財)。瑞巌寺の堂舎の一つです。
縁起によると、大同2年(807)に坂上田村麻呂が置いた毘沙門堂を始まりとし、天長5年(828)に円仁が瑞巌寺の前身である松島寺を建てた際、ここに五大明王を祀ったことから、五大堂と呼ばれるようになったとされています。

ま、この辺は流して…(笑)。
現在の建物は、慶長9年(1604)に伊達政宗によって建立されたものです。桃山建築として貴重なものとされています。

Matsuhimagodaido_5Matsuhimagodaido_7天気が良いと、海とのコントラストで映えるんでしょうけどねえ…。どんよりとしていて、なんか地味にすら見えてしまいますね(笑)。


Matsuhimagodaido_1こちらは、五大堂の近くにある観瀾亭(かんらんてい)。元は伏見城にあった茶室を豊臣秀吉から伊達政宗がもらい受けて江戸に移築していた建物とされ、政宗の子の伊達忠宗が現在地に移築したそうです。実際のところはどうなのでしょうかねえ…? ちなみに、県重文ですが、国の文化財指定は受けていません。
中に入れるようでしたが、私はパス。

■宮城県松島町

2010.08.17

利府城跡

Rifujo_4Rifujo_2岩切から車で10分ほどでしょうか。数キロ離れた所にある利府城跡です。

元は留守氏の被官である村岡氏の居城だったとされています。はじめ村岡城と呼ばれたそうで、村岡氏は留守氏の一族とされていますが、この辺りの在地領主だったのでしょうか。

いずれにせよ、歴史に登場するのは戦国期になってから。永禄12年(1569)に伊達晴宗の三男である政景が留守氏の養子に迎えられようとした際、村岡氏は反撥。この城に立て籠もり抵抗しましたが、落城して滅亡。
翌永禄13年(1570)に、留守氏の当主となった政景は岩切からここへ本拠を移し、城名も利府に改めたとされています。留守政景は天正18年(1590)に小田原不参を理由に改易となり、利府城も廃城となりました。
政景が継いだ時点で既に伊達氏の支配下ではありましたが、独立した所領を失った後は、名実共に留守氏は伊達氏の家臣となりました。子孫は仙台支藩の水沢藩(現岩手県奥州市[旧水沢市])主となり、名字も伊達氏に復して水沢伊達氏と呼ばれています。

Rifujo_1Rifujo_5左写真が本丸。右写真はその一段下の曲輪。
本丸周辺は公園として整備されています。分類上は平山城になるんでしょうかねえ? 比高はそれほど高くないのですが、それでも麓から登るとそこそこ大変です。ここも裏手から車で登れるようになっています(ただし、道はわかりにくい)。

公園として手が入っていることもあって、中世の城跡としての風情はあまり感じられないかな、というのが率直な感想でした。

Rifujo_11Rifujo_10上記の曲輪からさらに下りていった辺り。わかりにくいかもしれませんが、右写真のように、整備されていない所にも曲輪の痕跡が見られました。どうやらこの下にも何段か曲輪が確認されているようです。こちらが大手側で、大手道はよくわかりませんでしたが、それに沿って曲輪が整備されていたように見えました。

麓には現在小学校が建っていますが、おそらくここが居館跡である可能性が高いと思われます。発掘調査をしたかどうかはわかりませんが…。

■宮城県利府町

2010.08.16

個人的休暇期間が終わって

…。

やっぱり過度な期待をしないのが精神衛生上よかったということですね。

それにしても、行ってはいつも思うけど、西武ドームは真夏に興行をやる場所じゃないわ。もっとも春先は逆に酷寒だけど。
空調を省く構造にしたのは今風にいえば「エコ」だとは思いますけど、むしろ「ケチ」の印象が先行するだけに余計苛立つ。
日差しは遮られても、蒸し暑くて仕方がないんですよねえ。まあ、それで飲み物の売れ行きは上々なのかもしれませんが。

あと、デフレの世の中なのにというのは置くとして、昔より観客が増えたはずなのになぜかここ数年毎年入場料が値上げ傾向になっているのが気になる(西武ドームに限らないけど)。昔がいかにどんぶり勘定だったかということかもしれないが、ちょっと腑に落ちないなあ。

ま、懲りずに今度の週末は千葉へ行きます(笑)。今年はこれで観戦はもう終わりかもなあ。某チームの優勝争いとともに…。

2010.08.11

生意気にも盆休み

当面の片付けるべき仕事がほぼなくなりました。

よって、今度の日曜までは何もしないことに決めました。
もっとも、その間に行く所といえば球場くらいしかないのですが…。


仕事を消化したとはいえ、じゃあ次何やんの?となるとかえって途方に暮れるような…(笑)。

2010.08.10

即席史料見学

昨日史料編纂所へ行ったら、エール大学所蔵の古文書を張り付けた屏風が来ているということで、運良く見せていただきました。
ちなみに、記事はこちら(タイトルは「張られた古文書めくるとサイン、重源の花押」)。

裏継目に重源の花押がある文書ですが、播磨国大部荘のもので、『小野市史』にはどうやら収載されていないらしいです。ま、どこまで書いてもよいのかわからないので、この辺にしておきますが…。
裏の継目に花押を据えているのは、手継証文だったためではないか、などと記事に登場しているKさんと話してました。

ほかにも中世と近世のいろんな文書が貼られていましたが、多くは興福寺に関係するものだったようです。いずれ史料編纂所からなんらかの形でリリースがあるでしょうから、興味のある方はそちらをお待ち下さい。


その後、昔のバイト仲間と飲み。結婚やら出産やらと、そういうお年頃ということで、この辺の話題が主体になってきました。結局、変わらないのは私だけだなあ。

2010.08.09

岩切城跡

Iwakirijo_1東光寺の裏手に当たる所にある岩切城跡です。麓から登るとかなり大変そうな山城ですが、上まで車で行けます。

岩切は古代以来の交通の要衝とされ、早くに城が築かれたようです。奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、御家人の伊沢家景を陸奥国留守職に任じ、岩切に派遣しました。この伊沢氏が後の留守氏で、岩切城は留守氏の居城として整備されたと考えられています。

南北朝期になると、岩切では合戦が繰り広げられました。多賀城に拠った南朝勢力に対抗して岩切には貞和2年(1346)に奥州管領として吉良貞家と畠山高国・国氏父子(陸奥二本松畠山氏の祖)が入り、多賀城を陥落させました。
ところが足利尊氏と直義兄弟が対立すると畠山高国・国氏は尊氏方、吉良貞家は直義方に分裂して紛争となり、観応2年(正平6年、1351)に岩切城で合戦となりました。この時城主の留守家次は尊氏方に荷担しましたが、城は直義方によって落城。畠山高国・国氏は自害しました。
留守氏は、家次が戦死したものの一族が辛うじて生き延び、直義を滅ぼした尊氏によって城を安堵されたようです。以後の留守氏は大崎氏、のち伊達氏の麾下になったものの、岩切城の支配を守り抜きました。しかし元亀年間(1570年頃)に留守政景が利府(現宮城県利府町)へ本拠を移し、岩切城は廃城となりました。

Iwakirijo_13Iwakirijo_14こちらが本丸。比較的広大です。今に遺る縄張りの多くは戦国期に整備されたものかもしれません。

Iwakirijo_5Iwakirijo_10左写真は、結構よく遺っている堀切。岩切城の遺構としては最も有名?なものでしょうか。
右写真は、本丸のすぐ下にある曲輪。ここもわりと広大です。

Iwakirijo_8こちらは、本丸下にあるまた別の曲輪。奥が一段高くなっています。物見とかがあったりしたのでしょうか。

そういえば、井戸跡は見つかりませんでした。多分どこかにあるんでしょうけど。

Iwakirijo_19こちらは、城跡から仙台市街地方面の眺め。今でも結構見晴らしはよかったです。天気は良かったものの、やや霞んでますかね。

本丸とその周辺は整備もされていて、遺構がよくわかります。その下にもいくつか曲輪はありそうですが、さすがに分け入るわけにもいかずで。上まで車で行けるので、気軽に立ち寄ることのできる山城です。

■仙台市宮城野区

2010.08.08

線香花火の一瞬の輝き

すっかり野球ネタが減ってますが、今年はなかなか都合が付かなくて球場に見に行けません。
ただ、盆期間は久々に見に行けそう。それにしても、Tさんはすっかり時の人になりましたねえ。是非将来は三冠王になってほしいものです。

ともあれなんか最近某チームの調子がいいようですけど、騙されませんよ。期待しようと思った途端にいつもがっかりさせられるから(笑)。

ちなみに、2000年以降7月に月間MVPを受賞した某チームの選手を探ってみると、次の通り。

2000年 戎信行 イチロー
2002年 S.シェルドン
2003年 R.ブラウン
2007年 T.ローズ
2008年 金子千尋
2009年 A.カブレラ
2010年 金子千尋 T-岡田

22人中9人ですか。元々7月になぜか多いという印象が強かっだけに思ったほどではないものの、この間のチームの惨状を考えれば約4割というのはやっぱり結構な割合。(イチローは98年と99年も7月にMVPになってますね。やっぱすごいわこのひと。)

それにつけても、2009年までの10年は最終的にAクラスになったのが2008年の1回だけ(2位)。4位3回、5位1回、ビリ5回…。改めて振り返ってもひどすぎる。今年こそなんとかしてほしいもんです。

2010.08.05

岩切 東光寺

Sendaitokoji_1Sendaitokoji_14こちらも仙台の北の郊外、岩切にある東光寺。中世においてこの地域を支配した留守氏の一族で、余目氏の祖とされる留守家政(鎌倉期の人)の妹・比丘尼性喜の菩提寺とされています。

また、境内はかつて城館があったと考えられており、それと覚しき堀切や土塁の遺構が遺されています。ただ、どうも薮を分け入る必要もありそうで、今回はこちらはあまり見ませんでした。城主は余目氏だったと考えられています。

Sendaitokoji_15ここには中世の石造物が多く遺されており、今回の訪問はこちらがメイン。こちらは正和6年(1317)の銘がはっきり確認できます(最近磨いた感がしますが…)。この板碑のレプリカが東北歴史博物館で展示されているようです。留守氏に関係するものと考えられています。

Sendaitokoji_3Sendaitokoji_5こちらは参道に並んでいるもの。銘などははっきり確認できませんでしたが、種子がおぼろげながら見えた(ような気がする)ので、いずれも中世の板碑だと思います。

Sendaitokoji_9そして、仙台では唯一とされている磨崖仏もあります。これも中世のものと考えられています。後に見ますが、松島にも多くの磨崖仏が遺っていますけれども、そういった文化がこの地域にも伝播していたのでしょうか。

Sendaitokoji_20Sendaitokoji_22こちらは境内ではありませんが、少し離れた所にある地蔵堂板碑群。永仁2年(1294)のものが1基確認されています。

■仙台市宮城野区

2010.08.03

鷲倉神社・弘安の碑

Washinokura_1仙台の市街地からかなり北の外れ、どちらかというと山間部といった泉区福岡地区にある鷲倉(わしのくら)神社。棟札などによると、慶長9年(1604)に伊達政宗の援助によって建立されたと伝わっているそうです。

右写真の、真ん中やや奥に太い幹が写っていますが、この木は樹齢500年ほどとされる杉の巨木で、「姥杉(うばすぎ)」と呼ばれています。

Washinokura_4Washinokura_5左写真が本殿。どうも覆屋のようです。本殿は近代のもの。
右写真は「鞍掛の石」。鎌倉権五郎景政が置いたものと伝わっています。もとは別の場所にあったようです。

Washinokura_7で、訪問の目的はこちら。板碑です。
嘉元年間(14世紀初頭)のものとされています。肉眼でも年号は見えたように記憶しています。上部は欠けていますが、種子(梵字)も結構はっきり見えました。

この地区には廃寺跡があって、そこにも板碑があるという情報もあったのですが、現地の人に聞いてもわからずじまい。諦めました。

Izumikoan_1こちらは少し市街地寄りの泉区根白石地区にある「弘安の碑」。田んぼの中にぽつんと一つだけ建っていました。
弘安8年(1285)の年号が確認されています。これももとは別の場所にあったようですが、土地改良事業によって現在地に移されました。
後世では、「しばり地蔵」と呼ばれ、地区の信仰の対象にもなっていたそうです。板碑が信仰の対象になることはしばしばありますが、面白いですね。

■仙台市泉区

2010.08.02

1000回目

ええ、この記事がこのブログの1000回目になりました。

足かけ6年半ですから、決して速いペースとは言えませんが、我ながらよくここまで続いたもんだと思います。
まだ当面やめる気はありませんが、書いている方より、読んでいる方が既に飽きたんじゃないかという気も…。


私は6年前と何が変わったかというと…、ほとんど変わってないなあ。

いつまでこの生活が続くんだろうか。さすがに貧乏くさいネタはもう年相応とは言えなくなったので(ただの悲惨な日常を吐露するものでしかない(笑))、ほとんど取り上げることはなくなりましたが。かといって、“せれぶ”とはほど遠い現実はずっとそのまま。“せれぶ”とはいわんが、せめて「安定」が欲しいと希求する思いが強くなったのは、それこそ年相応なのかもしれませんねえ。もう若くないなあ。
…と、なぜだか辛気くさい方向に(笑)。

そんなことはこれくらいにして。こつこつと2000回を目指します。今度とも宜しくお願いします。

2010.08.01

夏だ。研究だ。…と行きたいが

担当している授業の期末試験終了。
100人以上の履修者がいたかつての担当授業と違って、今回は受講生がその10分の1程度なので(笑)、採点はさっさと済ませる。数百人単位の採点を控えたご同業のみなさまには、お見舞い申し上げます(…って嫌味ったらしいか(笑))。

古文書の授業で、人数も少人数だったので、講義というよりほとんどゼミに近い形式にしたわけですが(履修者が膨らんだらどうしようかと思ったが)、まずまずこなせたといったところでしょうか。多分ほぼ全員初学者だったことを考えれば、かなりの進歩がみられて私自身も満足感がありました。ま、なんにせよ、みんなまじめでよかったです。

後期も担当するけど、室町・戦国の文書にするつもりなので、文書の選定が多少厄介か。難易度を測るのが難しい。その前に、受講者がどれだけ居るのかがかなり不安なのですが。ゼロだったらどうなるんだろう…?


さて、8月になってまずはどの作業をやろうか…、と逡巡してます。
暑くて外に出る気が起きないけど、家に居るとすることがない。ジレンマ。

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