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2010.08.22

「武力の時代」としての中世

本郷和人『武力による政治の誕生(選書日本中世史1)』(選書メチエ466、講談社、2010年)読了。しばらく前に読んではいたのですが、迂闊なことを言うとまずいなと書くかどうか迷っていたら、時間が経ってしまいました。あくまで私の読解であり、誤解があるかもしれませんが、その際はご容赦ください。

本書のコンセプトは、黒田俊雄氏が提唱して以来、長らく中世国家像の定説となってきた「権門体制論」の批判を主眼としています。私自身も、権門体制論は天皇の位置づけがネックではないかと思うところもあったので(この辺は戦国期に主な関心があるせいでもあるでしょうけど)、どちらかといえば権門体制論には距離を置いていたため(こんなことここで言っていいのかわかりませんが(笑))、その点ではあまり抵抗はありませんでした。
ただ、私はさすがに「権門体制論は誤っている」と堂々と言えないヘタレなだけに(笑)、きっぱり言い切ったのは勇気のある発言だと思います(偉そうな物言いですが…)。

一方、伝統的な権門体制論への批判的立場としては、佐藤進一氏以来の「東国国家論」があるわけですが、本書ではあまり意識されていないようでした。むしろ、鎌倉幕府の持つ「武力」の優位性が国家権力の主導権を決定づけるという位置づけであり、鎌倉幕府は東国に限定した権力体というイメージになりがちな東国国家論とも距離を置いているように窺えました。
この辺の国家論の議論は、今後の展開を期待したいところです。

さて、本書は史学史的な叙述にもかなり紙幅を割いている点に特徴があります。とりわけ、皇国史観には痛烈な批判を浴びせており、痛快でもある一方、私自身、この辺りの史学史についてはまだ不勉強な所が多いなあと感じさせられました。
著者が指摘する通り、皇国史観批判をそのまま平泉澄批判に転嫁して安住する傾向の否めないことは反省せねばなりません。実際には皇国史観を支持した多くの研究者が糾弾を免れ、さらには「戦後歴史学」の一端をも担っていることについて、意識をしなければなりませんね。もちろん単にあげつらって非難するというわけではなく、我々が基盤とする「戦後歴史学」も“皇国史観的なもの”とは無縁ではないことを自覚する必要がある、というイメージでしょうか。うまく言えませんが。

もっとも私は、権門体制論はなお重要だとも思っていて、それはやはり黒田氏が元々主眼としていた「寺社勢力」の存在への注目であり(実際はほぼ寺院だけを対象としていますが)、それを中世の主要な権力体(権門)として認識する視座を提供したことにあります。
ただ、近年今谷明氏が、寺社(社寺)を権門とする視点は平泉澄が既に明らかにしており(「社寺勢力論」)、権門体制論はそのトレースに過ぎないと批判しました。本書でもその指摘に首肯していますが、これについては最近細川涼一氏が反論しています(同「黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』」、『日本史研究』574、2010年)。ここには立ち入りませんが、本郷さんはこの点についてどうお考えなのか、機会があれば伺ってみたいところです。

本書の参考文献に読んでみたい本が挙げられていたので、ついでにメモ。

4062584662選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)
本郷 和人
講談社 2010-05-07

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4768479235「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策
長谷川 亮一
白澤社 2008-01

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