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2010年9月

2010.09.27

多賀城跡

Tagajo_6Tagajo_12訪問順は前後しますが、多賀城跡です。
8世紀前半に蝦夷征伐の拠点として畿内の大和政権が築いた城郭であり、行政の中枢でもありました。本来は鎮守府の役割を担う施設ですが、陸奥国府にもなっています。いくつかの戦乱や天災(地震)による焼亡を経て10世紀まで機能したようですが、前九年の役・後三年の役の際に戦場となり、その後は衰退したようです。奥州藤原氏の擡頭とともに政治的機能が失われていったのでしょう。

しかし建武政権期に一度復興され、陸奥将軍府が置かれました。後醍醐天皇の皇子である義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)が北畠親房・顕家親子に奉じられてここを拠点としています。しかし足利尊氏が離反すると京都との往来を繰り返し、結局延元2年(建武4年、1337)に多賀城が陥落。義良は多賀城を去りました。

その後は北畠顕家が陸奥将軍府(「多賀国府」)を維持して幕府方(北朝)と戦いましたが、延元3年(建武5年、1338)に戦死。以後の陸奥将軍府は衰退し、陸奥国においては幕府方が優勢となってゆきました。
こうして多賀城の機能は衰退していったようです。ただし、中世で史料上に見られる「多賀国府」がそのまま今の多賀城跡と同じであったかどうかははっきりしないようです。

一応中世においても重要な場所ではあったのですが、現在史跡として整備されているのはあくまで古代の遺跡としてといった雰囲気でした。上の写真は中枢部に当たる政庁跡です。

Tagajo_17敷地はかなり広大なのですが、よく知られた通り、珍しいことに城の中はかなり起伏があります。これは畿内の宮城や大宰府とは異なるもので、どちらかというと城郭としての機能を優先した結果なのでしょうか。地理的には仙台平野の北端に位置し、国府の外港である塩竈に近いということも配慮されているのでしょう。

Tagajo_18Tagajo_21そしてこちらが、遺跡の中にある多賀城碑(重要文化財)。銘文によると、天平宝字6年(762)に造られたものとなっています。多賀城の修築記念として造られたものと考えられています。「日本三大古碑」の一つとされていますが、意外にも重文。これは、近代に偽作論争があったことが影響したのでしょうか。現在では偽作説は否定的のようです。

右写真は覆屋。これは水戸藩主の徳川光圀によって建てられたものだそうです(ほんとかどうかはよくわかりませんが)。野ざらしなのを放置するわけにはいかないという配慮があった、と言われています。

Tagajo_39Tagajo_44左写真は、政庁東側にある作貫(さっかん)地区の、遺構の保存展示。堀と橋脚の跡だそうです(わかりにくいと思いますが、透明の杭が立っている所が橋脚跡)。

右写真は、政庁北東側にある六月坂(ろくがつざか)地区の多賀神社。これでも延喜式内社です(笑)。
当時からここにあったのかはわかりませんが、鬼門の鎮守の役割を担ったのでしょうか。

Tagajo_51ただ、鎮守としての役割を担ったと思われる神社がもう一つ。陸奥総社宮です。中世においても留守氏の保護を受けたことがわかっており、由緒のある神社です。

Tagajo_63Tagajo_66陸奥総社宮のある辺りが多賀城の北東端に当たり、そこでは門の跡が発掘されています(写真)。こちらが塩竈とを結ぶ出口に当たっており、多くの物資の往来したことが想像されます。

遺跡自体はかなり広大で、くまなく見て回ると数時間は必要かもしれません。しかも起伏が結構きついので、暑い日や雨の日は結構辛そうですね。ちなみに、多賀城跡については東北歴史博物館のHPが詳しいのでご参照ください。

■宮城県多賀城市

2010.09.23

塩竈神社・志波彦神社

Shiogama_17Shiogama_18松島から塩竈神社へ。陸奥国一宮です。

創建年代は不詳ですが、9世紀前半には朝廷から祭祀料を得ていたことがわかっており、陸奥国府にも近いことから、早くから陸奥国における宗教支配の拠点として機能していたことが窺えます。

その後も奥州藤原氏や、鎌倉期には陸奥国留守職の伊沢(留守)氏の庇護を受けました。特に留守氏は、神社支配を梃子として地域支配を形成したことが知られています。中世後期になると奥州探題(奥州管領)の支配下となり、その職を世襲した斯波氏(のちの大崎氏)が影響力を持ちました。ただし、その中でも留守氏の支配は続き、近世には仙台藩主伊達氏の保護を受けました。

左写真は四足門(重要文化財)、右写真は随身門(重要文化財)。現在の社殿は仙台藩4代藩主伊達綱村と5代藩主伊達吉村によるもので、宝永元年(1704)に完成したものだそうです。
現地看板によると、「三本殿二拝殿という全国でも類例がほとんどない社殿構成で、整然とした配置計画も優れていること、本殿・幣殿・廻廊は、正統で装飾を抑えた意匠で、拝殿の古風な細部様式や門等の華やかな様式と絶妙な諧調を創り出していること」が貴重とされています。

Shiogama_14Shiogama_15左写真が拝殿(重要文化財)。この右側に別宮があったのですが、写真を撮り忘れました。
右写真は石鳥居(重要文化財)。後ろからの写真です。

Shiogama_10Shiwahiko_8左写真は、拝殿前にある「文治の灯籠」。銘によると、文治3年(1187)7月10日に和泉三郎忠衡が寄進したものとされています。
「和泉三郎」こと藤原忠衡は藤原秀衡の三男で、源義経とともに強硬な主戦論者でしたが、兄の泰衡と対立して誅殺されました。『おくのほそ道』に芭蕉がこの灯籠のことを記したことで知られています。
ただ、本当に12世紀のものなのでしょうか…という素朴な疑問も?

右写真は、塩を造るため塩水を煮るための釜。能登半島で使われていたものだそうです。
塩竈神社は、その名から連想されるように、製塩との関わりが考えられてきました。現在も藻塩焼の神事があるそうです。また、中世の記録によると、ご神体が製塩の釜だったという記事もあるとか。

Shiwahiko_6Shiwahiko_5こちらは、隣にある志波彦(しわひこ)神社。延喜式内社で、元は岩切(現仙台市宮城野区)にありましたが、近代になって現在地に遷座しました。

Shiwahiko_10こちらは、境内に置かれていた「鋳銭釜」。釜つながりでここに奉納されたのでしょうか。
甑炉(こしきろ)型と呼ばれる形式の近世の釜で、文字通り銭を鋳造するために金属を溶解するための釜です。

仙台藩の鋳銭は、幕府の許可を得て寛永14年(1637)に寛永通宝を鋳造したのが管見の限りその始まりで、その後も度々幕府の許可を得て銅銭や鉄銭の鋳造を行っています。
私は初めて見たのですが、このように実際に貨幣を鋳造する用具が遺っているのは珍しいと思います。思わずじっくり観察してしまいました(笑)。

■宮城県塩竈市

2010.09.21

秋到来

まさかの某チームが割り込んだおかげで、今年は終盤までパリーグが大混戦。
…というわけで、今月に入ってからネット中継で観戦に首ったけでした(笑)。

とまあすっかりぐうたらモードだったわけですが、今日の負けでほぼ終戦か。残念でしたが、近年珍しく終盤まで楽しませてもらって満足しました。

そろそろ本腰入れて本業に集中せねば…。
というか、そろそろ授業の準備をしないとなあ。やっと涼しくなってきたし、性根を入れ替えたいところです。

2010.09.20

松島 雄島

Ojima_6Ojima_12JR松島海岸駅から歩いてすぐ、歩いて渡れる島の雄島(おじま、御島とも)です。

古くから和歌に詠われる島で、『おくのほそ道』には磯で地続きだったと書かれており、松尾芭蕉が来た頃にも歩いて渡れる島だったようです。

Ojima_16Ojima_13写真にもありますように、この島は多くの岩窟(やぐら)があり、墓が刻まれています。墓の島といった風情ですが、元は瑞巌寺にやってきた各地の僧侶や巡礼の人々がこの島で修行したとされています。

左写真は、島にある妙覚庵跡。ここは12世紀に初めて建立されたと言われる草庵のあった所とされ、のち万治2年(1660)に「松吟庵」として復興。実質的にはこの頃から寺院として機能したようで、ほとんどの石造物は近世以降のもののようでした。松吟庵は1922年(大正11)に焼失したそうです。

Ojima_28こちらは島の最南端にある「頼賢碑」(重要文化財)の覆屋。徳治2年(1307)の銘がある板碑で、銘文は建長寺の一山一寧が撰んだとされています。それによると、頼賢という人物は妙覚庵主として12世紀末にこの島に籠もった人だったとのことです。
残念ながらしっかり覆われていて、板碑はよく見えませんでした(絵はこちら。写真はこちら)。

Ojima_19島にあった板碑らしきもの。中世のものにも見えますが、どうでしょうか?

■宮城県松島町

2010.09.18

白い銭

たまには自分の専門にまつわる小ネタをば。

先日届いた『出土銭貨』30号に、博多遺跡群から出土した銭貨について概説した大庭康時・大庭智子両氏による「博多遺跡群出土の中世銭貨―データベース作成のための悉皆調査から―」という論考が掲載されています。
その中に、出土した銭貨のうち「白い銭」が確認されているという記述があります。引用すると、「生地が白もしくは灰白色を呈する銭貨」であるとのことで、それは「銭貨の金属組成すなわち生地に含まれる鉛分とか、鉄分などを反映した結果」であろうと推定しています。

私は化学的なことは不勉強なのですが、白っぽくなるのはおそらく鉛が多いためではないかと思われますけれども、当時の福建では鉛銭が私鋳されていたようですので、それとの関連が推定されています。

そこで思い起こしたのが、以前の研究会で聞いた記憶のある、下記の史料。

「又曰、銭之来于日本、復帰于唐土也、其謂者、日本人出明之京、以赴途中、或乏食物受用等之物、故以精銭之耳白者、人々十貫文廿貫百貫文買彼土食物等也、」(『鹿苑日録』明応8年[1499]8月6日条・抜粋)

所々意味が取りづらい記事なのですが、ともあれ気になったのは、ここにある「精銭之耳白」とは何ぞや、という話。
これについては、永禄6年(1563)に成立したとされる『玉塵抄』に、「耳しろの金銭は多にあたってなんどみれどもせいせん(精銭)までぞ」とあるようで(『日本国語大辞典』参照)、それがどうやら「精銭」と認識されていたということは確かなようです。(この記事を知らなかったので、後日ちゃんと原史料に当たりたいと思います。)


後世、正徳4年(1714)に亀戸で鋳造された寛永通宝が「耳白銭」と呼ばれたことが知られています。ただしこれは耳(縁)が白いからではなく、耳が「広い」が訛って名が付いたとされているそうです(こちら参照)。つまり、縁の部分が太い銭貨を指し、縁が白い銭を指すものではない。なるほどこれなら精銭にされた可能性もあるかもと思ったものの、江戸訛りとの関係が推定されていることから、これと戦国期の「耳白」と同義とは考えにくそうです。

ということは、やはり「耳白」は耳が白い銭というストレートな意味でしょうか。
ところが、実際に発掘された白い銭は鉛分の多い比較的粗悪な銭ということですので、やはりこれまた「耳白」とは異なるモノであったということのように思えます(発掘されたモノは、縁だけではなく全体的に白っぽいように取れますし)。もちろん粗悪銭が精銭にならないとは言いきれないのですが、鉛の多い銭が精銭として用いられたとはさすがに考えにくい…。いや、白いからといって鉛が多いとは限らないのか…?
そもそも「精銭」と呼ばれ珍重される「耳白」という銭はどんなものだったと考えられるのでしょうか。何かお気づきの方がおられたら、是非ともご教示をいただければありがたいです。

ともかくも、文献史料と発掘された現物との照合が貨幣史の研究では長年の課題なわけですが、これもその一例ということになるでしょうかね。
論文になるようなネタではないのでここで触れましたが、「白い銭」については今後も少し気にしておきたいと思います。

2010.09.17

松島 円通院

Matsushimaentsuin_1Matsushimaentsuin_16瑞巌寺の隣にある円通院
仙台藩2代藩主伊達忠宗の嫡子・光宗(政宗の孫)の菩提寺として、正保4年(1647)に建立されました。光宗は正保2年(1645)にわずか19歳で死去しました。松島に立派な菩提寺が建立されたのも、そのような経緯が関係しているのでしょうか。

左写真は山門で、右写真が本堂(大悲亭)。本堂は光宗が江戸で暮らした際に使用されていた建物で、死後に移築されたそうです。

Matsushimaentsuin_5Matsushimaentsuin_4左写真は、三慧殿(さんけいでん、重要文化財)。光宗の御霊屋です。
中の厨子も見学できました。一応写真に撮ったのですが、ピントが全然合ってませんでした(笑)。
右写真は、境内の庭園。

Matsushimaentsuin_8Matsushimaentsuin_9こちらにも、瑞巌寺と同様に「やぐら」が多く見られました。
写りがいまいちなのですが、右写真は伊達宗高とその殉死者供養塔。
宗高は政宗の七男でしたが、寛永3年(1626)に天然痘を患い、20歳で死去しました。墓所は所領のあった村田(現宮城県村田町)にあるそうですが、殉死者とともに供養塔がこちらに建立されています。若くして死去した光宗との因縁が考慮されたのでしょうか。

Matsushimaentsuin_14そして、境内には中世の石造物があります。右側の板碑は、建武5年(1338)の年号が確認されています。銘文によると、「藤原氏女」が自らの逆修(生前供養)のために建立したものです。この女性は有力者の関係者であることが考えられることから、留守氏の関係者ではないかと推定されています。

左側も中世の板碑のようでしたが、詳しいことはわかりませんでした。

■宮城県松島町

2010.09.14

新見荘調査

Niimi1_2Niimi1_10しばらく出張続きでしたが、ようやく一段落付きました。

さて、そのうち先日は新見荘の調査に同行させていただきました。新見へ行くのはかれこれ10年ぶり。といっても前回は市街地をぐるぐる回っただけに終わってしまったので、本格的に調査の形で行くのは事実上初めてでした。
事務方を担当するみなさんの奮闘あって、非常に綿密な計画が練られており、大いに勉強させていただきました。惜しむらくは、本来ならば過ごしやすくなっているはずが、相変わらず暑かったことですね。汗だくになりながら歩き回りました。

写真は、左が上市地区にある政所跡。寛正4年(1463)に起きた代官祐清殺害事件の後、報復のために焼き討ちに遭ったところとして知られていますね。
そして、右はその祐清が遭難したとされる場所。今は中国道の高架下になっています。

Niimi1_22Niimi2_34そしてこちらの写真は、左が同じ上市地区にある観音寺五輪塔。手前左は享禄2年(1529)の銘が確認されています。この規模からしてかなり有力な人のものと考えられます。在地領主でもあり、当時代官でもあった新見氏に関係するものでしょうか。
右写真は奥に入って高瀬地区(旧神郷町)の氷室神社。宮座の関係でよく知られていますね。

これからもさらに調査が重ねられる予定なので、新たな発見を期待したいところです。
現地に行ってみると、もちろん新見荘に関心を持つ地元の方は多くいらっしゃるのですが、それ以外にも普通にお店に入った先で調査の旨を話すと関心を寄せていただくなど、地域の歴史に対する関心の高さ(自負の大きさ、ということでもあるかもしれません)が肌身で感じられました。

なんでも「新見庄検定」もあるとかで、公式テキストまであり(笑)、購入しました(詳しくは備北民報のサイトをどうぞ)。

Niimi_1Niimi_2JR新見駅前には、こんな石像が。祐清と、その身の回りの世話をした女性で、極めて珍しい中世の百姓層の女性による書状を遺した「たまがき」です(書状は『東寺百合文書』ゆ函84号)。「たまがき」は、新見では知らぬ人はいないというほどの浸透度でした(ウィキペディアで項目が立っているのも驚きですが(笑))。

■岡山県新見市

2010.09.07

身も心も落ち着かず

9月に入ってドタバタしております。
まだ出張やらなんやらがあるので、もうしばらくここは放置状態になりそうです。

ともかく、そろそろ暑さが収まって欲しいんですがねえ。
とまあ、中身のない近況報告でした。

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