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2010年10月

2010.10.30

南安楽寺古碑群

Minamianrakuji_6多賀城市新田南安楽寺地区の住宅地の中にある古碑群。近くに流れる七北田川の改修によって堤防などから集められたものと伝わっています。現地看板によると、当地では念仏講が行われていたそうですが、それに関わって彼岸の日に建てた逆修供養碑が主となっているそうです。

この地域は「お庚田河原(おかねだから)」と呼ばれ、板碑の多く遺るところだそうです。この名前の意味は、よそ者にはよくわかりませんが…。

Minamianrakuji_3Minamianrakuji_4近づくと、こんな感じ。
最前列に並ぶのは近世のもので、後ろ二列は中世のものとみられます。年代のわかるものでは、最も古いものは二列目中央にある正応3年(1290)のもの(左写真の中央にある、少し前に傾いている板碑)で、最も新しいものは向かって後列右側にある正和元年(1312)のものです(右写真の真ん中奥に見える、ややずんぐりした板碑)。肉眼では、字はほとんど読めませんでしたが…。

Minamianrakuji_2ひときわ大きいのがこちら。延慶3年(1310)の年号が確認されている板碑。この地域を支配した有力者のものなのでしょうか。あるいは有力寺院の住職といった辺り?
来歴はよくわかりませんが、国府に近く、地形も平坦で古くから耕作が行われていたように見える地域なので、規模の大きな領主が支配をしていたのかな…などと想像を膨らませたりしました。

■宮城県多賀城市

2010.10.29

惨敗

元よりクジ運の無いことは覚悟の上だったが…、ひどい。あまりにひどすぎる。

数年後、ハズレでよかったと思えるような結果を期待しております。今はそう言うほかありません。

結局来年も引き立て役なのね。
ふて寝しよ。

2010.10.27

仙台南部の板碑

Sendaihinata_1仙台市の南部にある板碑をまとめて。

まずは日向(ひなた)古碑群。周辺では40基ほどの板碑が確認されているそうで、ここには12基あります。かつて延命寺という寺院があったとされる所で、年号の確認できる範囲では建治3年(1277)から貞和5年(1349)までのものがあります。

Sendaihinata_2Sendaihinata_3はっきりと文字の読めないものも多いのですが、一部ははっきりと見えるものもありました。
周囲は閑静な住宅地ですが、公園のようになっている一画に整然と並べられており、壮観でした。

Nakatajinja_1こちらはJR南仙台駅の近くにある中田神社。周辺各村にあった神社を統合して明治時代に建立された神社です。はじめは中田村神社と呼ばれていたそうですが、最近になって改名したそうです。

Nakatajinja_5Nakatajinja_6その神社の片隅に、左写真のようにひっそりと板碑が置かれていました(笑)。文永10年(1273)の板碑があることが知られていますが、これがそうなのでしょうか。はっきりと読み取れませんでした。

境内から少し外れた所に、右写真のような板碑もありました。詳しい由来はよくわかりませんが、中世のものだと思います。

Ochiaikannon_3こちらは少し離れて、名取川河口の近くにある落合観音堂。このお堂は近世初期の様式のもので、棟札によると寛永4年(1627)のものと考えられています。本尊は十一面観音像。

Ochiaikannon_5Ochiaikannon_8観音堂の傍らには石造物が並んでいますが、そのうちいくつかは中世の板碑とおぼしきものが確認できます。修復の跡もありますが、なかなか立派なものです。年代は不明のようです。

この地域は中世の板碑が比較的よく遺っているようで、ほかの場所にもあったようですが、とりあえず代表的な場所を見て回りました。

■仙台市太白区

2010.10.23

【受贈】『中世政治史の研究』

阿部猛編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)を、執筆者のIさんより受贈。ありがとうございます。

既に話題になっていますが、1100頁を超える圧倒的な論文集。内容は、比較的若手に属する論者が個々の問題関心に基づいて書かれたものです。
本書はISBNを取得しているものの、一般の流通ルートには乗っていないため定価はありません(頒価は4800円)。昔風に言えば「自費出版」とか「私家版」いう部類に属することになるでしょうか。今風(なのかどうかはわかりませんが)に言えば、「同人」の出版形態を取っているというイメージですかね。
対象とする時代は比較的前期に寄っていて、戦国期のものは比較的少なめの印象ですが、一口に中世史と言ってもこれだけ多彩なテーマがあることを体感できて刺戟的です。

それにしても、分厚くて重い。外へ持ち出すのはなかなか大変です。喫茶店で読書に耽るというにはやや不便なのが少々残念(笑)。そもそも手に持って読むのはほとんど不可能ですが。家でじっくり腰を据えて読むのが最適のようです。
最近はこちらのような大著も出ていたりして、分厚い論文集の出版が続きますね。出版社から出す場合は、かつては上下巻に分割するのが一般的だったのでしょうけど、そうしなくなったのはコストの問題なんでしょうかね。

なお、頒布については刊行元の日本史史料研究会HPをご参照ください。

2010.10.22

勉学の秋?

近況の小ネタです。

今期も古文書の授業を担当していますが、単位上では半期区切りなので、後期から初めて出席する学生が大半(どうやら1年生が多い)。
というわけで最初は私が読んでみる形で講義をやっているわけですが、いきなり読み間違えるという大失態(笑)。まあ途中で気づいて訂正したものの、非常にばつが悪い。失望して履修をやめる学生がいなければいいのだけど…。
履修(予定)者は、前期は女子が多かったけど、後期は男子が多い。偶然だろうけどうまくバランスが取れてるということでしょう(笑)。←ま、前期が鎌倉、後期が室町・戦国ということも影響したか。

以前とある文書群から荘園関係史料を見かけ、その現地の自治体史を見ると翻刻されていなかったので、「おお、未活字文書を発見したか」と揚々として暇を見付けては翻刻をしていたのですが、最近出た大著(バレバレですが(笑))をめくっていると、この史料について言及してあることに気づく。しかも、隣町の自治体史で翻刻されているらしい…。

そうだよなあ、地域的に考えて把握されてないわけないわなあ。
数ヶ月の浮き浮きした気分が一瞬にして吹っ飛びました。まあ、個別荘園をメインテーマにした論文にするにはやや史料的にネタ不足を感じたので、諦めが付いて良かったのかもしれません。餅は餅屋とでもいうか、余計なことには手を出すなという天罰だったとも言えますか。
もっとも、あくまで網羅的に史料を蒐集・分析して力業でなんとかできるかもしれない、という未練も。ともあれせっかく集めたので、焦らずしばらく史料を眺めて考えたいと思います(あと、大著も読破せねば(笑))。


さて、そろそろ月末締切の原稿に取りかかろう…。

2010.10.21

名取熊野三山

Natorikumanohongu_1Natorikumanohongu_2仙台の南、名取は東北において特に熊野信仰が盛んだった地域として知られています。
特に中世においては別当の家が武士化して奥州藤原氏と密接な関係を持ったとも言われています。

一般的には「熊野神社」を勧請して信仰の拠点とする場合が多いのですが、名取では珍しいことに三山(本宮・新宮・那智)をそれぞれ勧請して神社を建立していて、それらは今に続いています。

冒頭の写真は熊野本宮社。縁起によると、保安4年(1123)に「名取老女」によって勧請されたと伝わっています。
ただし、元々は少し離れた別の所にあったそうで、現在地には万治元年(1658)に移ったとのことです。戦国期から伊達氏から保護を受ける関係にあったと言われています。現在の社殿は、17世紀末に改築されたものだそうです。

Natorikumanoshingu_1Natorikumanoshingu_5次はこちら。現在は三山を合祀した形で熊野神社となっていますが、かつては新宮社と呼ばれていました。祭神は今も速玉男大神(新宮)のようです。創建の由緒は本宮社と同様ですが、こちらは源頼朝の奥州征伐の際に立ち寄ったという伝承があります。仙台藩の保護を受けたようで、今も立派な境内から推測するに、三山の中では最も隆盛を誇った様子が窺えました。

Natorikumanoshingu_3Natorikumanoshingu_9左写真は境内の一角にある新宮寺文殊堂。文政2年(1819)に伊達斉村によって再興されたものとされています。文殊菩薩を本尊とし、一切経も伝わっている仏堂で、前近代の神仏習合の様子を遺したものと言えるでしょうか。
ちなみに右写真は境内にあった頼朝の腰掛け石です。

Natorikumanonachi_1Natorikumanonachi_2こちらは熊野那智神社。山の上にあります。本宮が麓にあって那智が山上にある、という立地もなかなか面白い。私は見られませんでしたが、背後にはしっかり滝もあるそうです。
神仏分離の際には懸仏などを地中に埋めたそうで、それが戦後発見されて文化財の指定を受けています。近世はこちらも仙台藩の保護を受けていたそうですが、現在では三山のうちで最もひっそりとしていた感を受けました。山の上という立地のせいなのでしょうか。

Natoriterayama_2那智神社の麓では中世墓や板碑が数多く発見されています。一括して発見された板碑の数は宮城県でも随一だとかで、「大門山遺跡」と呼ばれています。発見された板碑は大半が13世紀後半から14世紀後半にかけてのものだそうです。

…しかし、現地と覚しき場所に行ったのですが、遺跡を示す看板があるのみで、肝腎の板碑群はまったく見付けられず。地元の方にも聞いて廻ったのですが、結局よくわかりませんでした。遺跡のあったと覚しき場所は宅地造成がされていて(その調査で墓が発見された?)、もしかしたらそれによって破壊されてしまったのでしょうか? それとも探し方が悪かったのか?
発見された板碑の行方も含めて、ちょっと気になります。

で、写真はその近くにあった板碑。「寺山地区の板碑」と言われるもので、ともに弘安9年(1286)の銘が確認されています。かなり大型で立派なものであることから、熊野別当の供養塔と考えられているそうです。

熊野三山について、詳しくはこちらをどうぞ。

■宮城県名取市

2010.10.18

【受贈】『古文書の語る地方史』

佐藤孝之編『古文書の語る地方史』(天野出版工房発行・吉川弘文館発売、2010年)を、執筆者のIさんより受贈。いつもありがとうございます。本書の内容について、詳しくはこちらこちらをどうぞ。

本書の冒頭に「一点の古文書から地方の歴史、村や町の歴史を語る」とありますが、これが的確にコンセプトを示しています。戦国末期から幕末維新期にかけて(要するに近世)の様々な文書のみならず、棟札なども題材として、史料からわかる様々な歴史像について語られた一冊です。

私もささやかながら古文書の授業で「文書こそ歴史学の基本中の基本」と宣っているわけですが(笑)、それを改めて自覚させられます。

本書の特徴としては、一つには白黒ではありますが文書の写真が大きく掲載されていることでしょうか。文書写真を眺めるだけでも楽しいです。そしてもう一つは、巻末に史料整理のノウハウについての解説が掲載されていることです。特に近世以降の研究者にとっては必須の情報なわけですが、意外と体系だって学ぶ機会があるわけではないので、こういう情報が整理されているのはとてもありがたいことです。

この本、早くも在庫僅少とのことで。ご同慶の至りです。

4642080430古文書の語る地方史
佐藤 孝之編
天野出版工房 2010-08

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2010.10.16

仙台中心部の板碑

Yodomifudo_1訪問順はバラバラですが、ここで仙台の中心部周辺にある一点ものの板碑を3箇所まとめて紹介します。

まずは広瀬川のほとり、澱(よどみ)不動尊にある板碑(地図はこちら)。写真ではわかりにくいですが、わりと背の高い板碑で、2m近くあったと思います。
梵字はキリーク(阿弥陀如来)で、三つ描かれていることから、阿弥陀三尊を本尊としていることがわかります。
銘によると「兵衛太郎」という人物の供養のために建てられたもので、文永10年(1273)の年号が確認されています(肉眼で見えました)。仙台周辺でも最も古い板碑の一つとされています。

Sendaiitabi_1こちらは、大崎八幡宮の近くの来迎寺にある板碑。延元2年(1337)の銘が確認されています(肉眼で見えました)。梵字はアン(普賢菩薩)です。左側の銘文が切れており、なんらかの理由によって左側は欠落してしまったようです。現地看板によるt「モクリコクリの碑」(「ムクリコクリ」の仙台訛り?)の一つとされているそうです。
南朝年号が刻まれていることから、南朝勢力の与した人が建てたものと考えられるわけですが、この時期は広瀬川周辺で南朝勢力が優勢だったということになるのでしょうか。

Sendaizennoji_1Sendaizennoji_3最後は少し離れて、3代藩主・伊達綱宗の菩提寺である善応寺の板碑。こちらは「蒙古の碑」と呼ばれるものです。梵字は「ラ」だそうです(金剛悲地蔵)。銘によると弘安5年(1282)のもので、弘安の役の直後に建てられたことから、蒙古襲来の供養の意味が推測されているようです。一説によると、渡来僧の無学祖元が命じて造らせたとも言われているとか。
銘は変わった字体で、文意はほとんどわかりませんでした。一見すると意味不明な字体が刻まれるなど謎が多く、この板碑の背景を巡って長く論争になっているようです。
ただ、この板碑、ほんとに弘安のものなのでしょうかね? その辺は科学的に裏付けが取れているのでしょうか(安易に疑うのはよくないのですが)。
…とまあ、いろいろと謎の多い板碑です。

■仙台市青葉区(澱不動尊・来迎寺)
■仙台市宮城野区(善応寺)

2010.10.14

経ヶ峯伊達家墓所(瑞鳳殿)

Zuihoden_12Zuihoden_13再び仙台へ。仙台城の麓にある経ヶ峯伊達家墓所。伊達政宗の廟所である瑞鳳殿(ずいほうでん)がある所ですね。

Zuihoden_15Zuihoden_18左写真が政宗御霊屋の瑞鳳殿です。桃山建築として戦前は国宝に指定されていましたが、戦災で焼失。現在のものは戦後に再建されたものです。
ここに政宗の遺体が安置されていましたが、調査によって政宗の身長や顔つき、血液型までわかったことで有名ですね。資料館が併設されていて、政宗の棺などの遺物が展示されていました。
右写真は、脇に並ぶ殉死者の墓です。

Zuihoden_24ほかに、歴代藩主の廟所もあります。こちらは2代藩主・伊達忠宗の霊屋である感仙殿。これも戦後に再建されたものです。

Zuihoden_27そしてこちらは3代藩主・伊達綱宗の霊屋である善応殿。こちらも戦後の再建。
このほか、9代・周宗(ちかむね)、11代・斉義(なりよし)とその夫人の墓所などもありました。これらの墓はすべて儒教形式のようでした。

Zuihoden_25感仙殿の近くにはこのような板碑がありました。たぶん中世のものだと思うのですが、字はあまり読めなかったように記憶しています。

■仙台市青葉区

2010.10.11

日本史研大会2010

二週続けて京都へ。

恒例の日本史研究会大会。今年は近世史部会の方をメインに聞いていました。中世史部会は討論の途中から出席。
近世史の方は17世紀前半が対象で、私の専門とする時代とはかなり近かったのですが、率直に言って中世と近世の「断絶」を体感しました…。いや、報告がどうのというのではなく、私の不勉強ぶりのことなのですが。研究史とか論点などが、やはり中世と近世とでかなり違うので、不勉強な私はその辺の理解に付いていくのが大変だったといったところです。

でも、かねてより近世初頭の幕藩体制については勉強したいと思っていたので、いい機会を得ることができました。
ただ、各大名における「家老」の形成過程については、それぞれの大名の石高の規模などで類型化するよりも、やはり少なくとも戦国期からの流れで個々の大名家中の構造を理解した方がいいような気がしたのですが。討論の中で、「家老」の出自として織田・豊臣政権期の与力との関係を話しておられたような気がするのですが、ほかの要因を考えた方が…という気も(あくまで私見ですが)。
いずれにせよ、類型化・普遍化がいかに難しいかをよく理解できました。

中世史の方は…、すみません。私の理解が追いつかないというのが正直なところでして(西暦3ケタの時代はさすがに厳しい(笑))。ただ、当該分野では研究史の画期を成す報告かもしれない、という雰囲気は感じました。

土曜は中世の個人報告が2本ということで、多くの方がお見えでしたが、対外関係史を専門とする方々が多くおいでだったのが印象的でした。この方面の皆さんには昔からお世話になっていながら不義理を続けていたので、ご挨拶する時も恐縮しきり。そろそろご恩に報いたいと思いつつも、今の水準にこれから追いつくのはほぼ不可能という現実が…。


存分に本を買えるのは多分今回が最後ということで多少奮発しましたが、いくつか買いそびれる。やっぱり事前にリストを作っておくべきでした…。
購入本の中で特筆すべきは、『織田信長文書の研究』を思い切って購入したことか。すぐに使うかどうかはともかく、やはり備えておきたいので。今買わないともう買えそうにないし(笑)。


それにしても今年も浴びるように飲んだわけですが、日曜は午後まで体調が回復せず難渋しました。来年は行けるかどうかわからないけど、そろそろ節制しないといけませんね。ああ、トシを取るとはこういうことなのか。

お世話になったみなさん、ありがとうございました。

2010.10.07

多賀城廃寺跡

Tagajohaiji_1Tagajohaiji_7東北歴史博物館の近くにある、多賀城廃寺跡。

寺院の来歴についてはほとんど不明のようですが、奈良時代に陸奥国府・鎮守府と同時に設置された官寺跡と考えられているようです。建物の配置は、大宰府の観世音寺に類似しているともされています。

発掘調査では「観音寺」と書かれた遺物が出ているそうで、寺名が「観音寺」であった可能性が指摘されています。

Tagajohaiji_10Tagajohaiji_11現在ではなかなか往事の姿を想像することは難しいですが、礎石を見るになかなか立派な建物があったことは想像されます。古代寺院の遺跡であることは確実なようですから、国家レベルが関与する大規模な寺院であったことが窺えました。

横着ですが(笑)、詳しくはこちらをどうぞ。

■宮城県多賀城市

2010.10.04

師匠の還暦を祝う

先日は現師匠の還暦を祝う会を、弟子の企画で開催しました。
(「現」と付くのは、私はこれまでいろいろと遍歴している故です。)
還暦といってもこれで隠居するのではなく、益々のご活躍を誓うお言葉がありました。
ちゃんちゃんこはカープのビジターユニフォームを贈呈(お約束)。

私は、還暦を迎える頃にはまだ体力があるかなあ。いや、無事還暦を迎えることが果たしてできるのだろうか…?

そしてこれを機に、やや便乗な感もありますが(今更記念論集もないだろう、と師匠に書かれてしまいました(笑))、記念論集の池享編『室町戦国期の社会構造』(吉川弘文館、2010年)を出しました(詳しくはこちら)。

価格がちと…なので強くおすすめするわけにはいかないのですが、是非とも日本史研あたりで手にとっていただいて、余裕がおありでしたらお買い求めください(もしくは図書館への購入希望のほどをどうかひとつ…)。
もちろん売れたからといって執筆者の懐が潤うわけではないのですが、出たら後はどうでもいいや…というのも無責任な気もしますので。
私はこれまであまり企画ものにお声がかからなかったので、論集に論文を書くという経験は実質的に初めてでした。編集作業をやったわけではないのですが、できるまでの経緯についていろいろと勉強になりました。

ちなみに私は、有名な「天正大判」に注目して金の話を書きました。「天正大判」の初鋳年は天正16年(1588)と辞書類はおろか教科書にも書かれているわけですが、この“定説”を否定しました。その当否の判断は、お読みになっていただければ…。

4642028919室町戦国期の社会構造
池 享編
吉川弘文館 2010-10-15

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2010.10.03

京都・寺内町・日根野

Kyotoetc_1毎年恒例のゼミ旅行。学部生が多くて今年も総勢20人を超えたので車で廻るプランを立てにくく、メインを京都にして一部班別行動の形式となりました。

初日は東西の本願寺の後、三十三間堂から祇園まで歩くコース。昔はこれくらい大したことないと思っていたところでしょうけれども、結構疲弊しました…。ちと暑かったとはいえ、体力の衰えが顕著のようです。
写真は途中の六道珍皇寺にて。

Kyotoetc_2Kyotoetc_3二日目は班別行動。京都に行ったはずなのに、なぜか?寺内町と日根野へ行くことに。実は私はいずれも未踏だったので、よい機会ということで同行しました。

左写真は今井(現奈良県橿原市)。一帯の町並みと景観を保存する活動が根付いているようで、なかなかな風情でした。平日なので人は少なかったですが、土日は大阪から多くの観光客がおいでなのでしょうか。

その後富田林にも行きました。こちらも今井ほどではないですが、旧寺内町の一帯の保存に力を入れているようでした。

そして、さらに足を伸ばして日根野へ。さすがに結構遠い…。右写真は奥に当たる「入山田」の辺り。中世(特に戦国期)では有名な荘園故地ですが、結構山奥というか、それほど耕地は多くないようでしたね。この辺はわりとイメージ通りだったというか。
日根野から京都まで戻ったわけですが、高速を使ってもざっと2時間強(笑)。結構な強行軍でした。

そして三日目は、嵐山から桂川沿いに用水を見てまわり、勝龍寺城跡や大山崎へ行って帰ってきました。特に大山崎町歴史資料館のFさんには、展示解説などでお世話になりました。多くの図録を頂戴して恐縮です。

実は、私は山崎についてはちゃんと文書などを読んでおらずあまり詳しくなかったのですが、実際に歩いて俄然興味がわきました(遅い(笑))。今度改めてじっくり史料に当たってみたいと思います。
今度の授業で「離宮八幡宮文書」を使おうかとも思ったのですが、諸事情によりそれは断念。ただし代わりに「革嶋家文書」は使いたいなと。

ああ、そろそろ授業の準備に本腰を入れねば。すぐにまた日本史研もあるしなあ。
…10月に入ってもなかなか落ち着きません。

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