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2010年11月

2010.11.30

小峰城跡

Kominejo_27JR白河駅の裏手にそびえる小峰城跡です。言わずと知れた、白河(白川)結城氏の本拠ですね。

結城氏は数ある秀郷流藤原氏のうち、惣領格といえる小山氏の一族です。源頼朝に従軍した小山政光の三男・朝光が下総国結城(現茨城県結城市)を本拠として結城氏を名乗りました。また結城朝光は恩賞として陸奥国白河荘(現白河市)を与えられました。朝光の孫にあたる結城祐広が白河を分与され、この一流が白河結城氏と呼ばれています。(遺された文書の宛所は「白川殿」「白河殿」とのみ書かれることが多いので、実際は白河(白川)氏と呼ぶべきかもしれませんが、通例的に結城氏のまま呼ばれることが多いのでそれに従います。)
鎌倉期は惣領の結城氏がやや力を失う一方、白河結城氏は本家を凌ぐ力を持ったと言われています。

南北朝期には下総結城氏が北朝に属した一方、白河結城宗広は南朝方に従い、東国における南朝方で重きをなしました。宗広は伊勢で死去しましたが、子の親朝が小田城(現茨城県つくば市)に居た北畠親房と何度も書状を取り交わしたことは有名ですね。
しかし南朝方の退潮が明らかになるに連れ、康永2年(1343)に結城親朝は北朝方に寝返りました。これが東国における北朝優位の情勢を決定づけることになりました。同じ年、北畠親房も吉野へ逃れてゆきました。

同じ頃、結城親朝はこの小峰城を築き、次子の朝常は分家して小峰氏を名乗りました。以後しばらくは支配が安定し、永享の乱から結城合戦にかけて混乱に巻き込まれる下総結城氏とは対照的に、白河結城氏は南奥における幕府方の有力領主として幕府も一目置いていたようです。

しかし永正7年(1510)に白河結城政朝と小峰朝脩との間で内訌が発生。朝脩が自害する事件が起きました(「永正の変」)。小峰氏は岩城氏を頼ったことで外部勢力の介入を招き、結城政朝は那須へ逃れる事態となりました。それまでは白川(搦目[からめ])城が本拠でしたが、これ以後この小峰城が本拠になったと考えられているそうです。

その後も近隣領主を巻き込んで戦乱状態となり、権勢が衰えてゆきました。天正7年(1579)には佐竹義重に白河を攻略され、義重の子の義広を結城氏の当主として乗っ取る事件も起きました(のち義広は芦名氏の当主となり、白河結城氏は元の当主で義広の義父となった結城義親に復しました)。
天正17年(1589)に芦名氏が滅亡すると伊達氏の麾下となりましたが、翌年に小田原不参によって改易。所領を失った白河結城氏は、結局伊達氏の家臣となりました。

Kominejo_6Kominejo_7二の丸(多分)は広大な公園になっています。かつては多くの建物があったのでしょうけれども、何もないと広々とした感がします。右写真の石垣は本丸のもの。
近づくとかえってわかりにくいのですが、新幹線から見える石垣はなかなか立派な印象です。
ちなみに、二の丸には展示施設があり、古文書の複製などが展示されています。

Kominejo_5Kominejo_13左写真は本丸を囲っている堀。おそらく近世のものでしょうか。右写真は、本丸から見た二の丸。

Kominejo_16Kominejo_10こちらは本丸。近世には御殿があったようです。右写真は本丸から見た天守閣。最近復元されたようですが、安全上一度に入れる人数が制限されています。団体で訪問する際は注意が必要です。

結城氏没落後は関一政が城代となった後会津領となり、関ヶ原合戦後は蒲生氏領として町野吉氏が入りました。その後寛永4年(1627)に丹羽長重が入り、白河藩となります。その後は譜代大名が入れ替わり立ち替わりの状態となりましたが、有名どころの藩主では、18世紀後半の藩主久松松平氏に養子で入り、天明の飢饉を乗り切った功績を買われて幕政で活躍した松平定信がいますね。
最後は戊辰戦争で戦場となり、小峰城は灰燼に帰したそうです。

今年のサマーセミナー編はこれで終了です。

■福島県白河市

2010.11.26

八槻都々古別神社

Yazukitsutsukowake_46Yazukitsutsukowake_50常陸太田から白河へ抜ける「棚倉街道」を通り、常陸から陸奥へ入るとある八槻都々古別(やづきつつこわけ)神社。
この地域には「近津三社」と呼ばれた3つの神社があり、その一つがこの神社です。元は八槻近津神社と呼ばれており、現在の神社名は近代になってからです。農耕神としての性格を持ち、今に伝わる御田植は国の重要無形文化財に指定されています。

Yazukitsutsukowake_49中世においては修験の拠点として有名で、聖護院や熊野三山との繋がりを持ち、神主は「八槻別当」と呼ばれています。そのためかつては多くの堂舎も立ち並んでいたと言われています。また、奥州一宮も称しました。
在地との関係においては、白河結城氏と関係を深めたようで、同氏は旦那にもなっています。

Yazukitsutsukowake_5Yazukitsutsukowake_38こちらは神社の近くにある大善院八槻家住宅。右写真は堀と土塁なんですが、相変わらずわかりにくいですね(笑)。
大善院は中世後期に神主と八槻別当を兼帯した院家で、元は高野氏と言ったそうですが、八槻氏を名乗りました。戦国期を中心に白河結城氏・芦名氏・佐竹氏などの発給文書を所蔵しており、今回はその一部を拝見することができました。なお、「八槻文書」として『棚倉町史』で活字化されています。

Yazukitsutsukowake_44Yazukitsutsukowake_2左写真は、神社のそばにある如意輪寺の境内にある供養塔。元徳4年(1332)の年号が確認されています。確か肉眼でうっすら見えたかように記憶しています(記憶曖昧ですが…)。銘によると、逆修のものであることがわかっています。

右写真は、神社の脇にある古道跡。少なくとも近世の絵図にも描かれている道で、中世まで遡ることができるのではないか、ということでした(確か)。

■福島県棚倉町

2010.11.22

常陸太田の史跡(再訪)

Hitachiota_7Hitachiota_8今更ながらですが、中世史サマーセミナーで行った史跡をいくつか。

まずは、常陸太田の中心部です。佐竹氏の本拠である太田城とその周辺地域に当たり、佐竹氏に関係した史跡があります。
個人的には二度目でしたが、前回行かなかった所にも行きました。その一つが写真の馬場八幡宮。社伝によると、天喜4年(1056)に奥州へ向かう源頼義が当地にあった熊野社に陣を張り、そこに石清水八幡宮を祀ったのがはじまりとされ、のち康平3年(1060)に八幡宮が勧請されたと言われています。永保3年(1083)には、後三年の役にかかって源義家・義光もここで戦勝を祈願したと伝わっています。
そして応保元年(1161)に佐竹昌義(源義光の孫)が社殿を造営し、佐竹氏の庇護を受けました。実質的にはこの辺りからが今の神社の系譜に繋がる話といったところでしょうか。佐竹氏転封後も、水戸藩徳川氏の保護を受けました。

Hitachiota_12こちらが本殿。正確な建築年代は明確ではないようですが、慶長3年(1598)に佐竹義宣が建立した水戸八幡宮本殿に共通する様式が見られることから、この時期に建てられたものと推定されています。現存の本殿との関連が推測されているものに、天正8年(1580)に佐竹義重によって社殿を造営した旨が記された棟札が遺っているそうです。

Hitachiota_23そして太田城跡再訪。前回の記事とは別アングルの土塁(?)跡です。

Hitachiota_27Hitachiota_17左写真は、二の丸跡に建つ若宮八幡宮。応永年間(15世紀初頭)頃に佐竹義人(義仁)が鶴岡八幡宮を勧請して建立したとされています。元は城内の別の所にあったようですが、宝永5年(1708)になって現在地に移ったそうです(あるいは同じ場所で規模を拡大させた?)。
右写真は、旧茨城県立太田中学校講堂(重要文化財)。写真は後ろからです。1904年(明治37)築。

この時行った佐竹寺は前回の記事をどうぞ。あまり代わり映えしないので…。

Shojuji1_14Shojuji1_27左写真は正宗寺(しょうじゅうじ)にある佐竹氏墓所。こちらも再訪(前回の記事)。こちらでは、中世文書と銭の入っていた壺を見せていただきました。
確か正宗寺の一括出土銭は本堂の地下から出土したのではなかったかと記憶していますが、223232枚を数え、発掘されたものの中では全国的に見ても五指に入るほど膨大な数です(鈴木公雄『出土銭貨の研究』東京大学出版会、1999年参照)。今のところ15世紀後半に埋められたと推定されています(最新銭は「朝鮮通宝」)。それが入っていた壺も巨大でしたが、ほぼ完形で出土しているように見えました(補修の程度はよくわかりませんが)。眼福。

右写真は、境内の脇にある那珂通辰(なか・みちとき)の墓。こちらは、今回初めて拝見。
那珂氏は秀郷流藤原氏の一族とされ、南北朝期の当主である通辰は、陸奥から南下する南朝方の義良親王と北畠顕家に与して北朝方の佐竹貞義と戦いました。建武3年(1336)に南朝方の拠点であり楠木正家(正成の甥)が拠る瓜連(うりづら)城(現茨城県那珂市[旧瓜連町])が陥落すると、那珂通辰以下一族34人(43人とも)はここで自害した(あるいは殺害された)と言われているそうです。

墓は五輪塔の一部なのでしょうか。見た目は中世のもののようですが、いかがでしょう。

■茨城県常陸太田市

2010.11.20

【受贈】『日本中世貨幣史論』

高木久史『日本中世貨幣史論』(校倉書房、2010年)受贈。ありがとうございます。

もちろん著者の研究は読んできたわけですが、本書を出されるに当たり手を入れられたようですので、改めて読みつつ学びたいと思います。少し前にいただいたのですが、読んでしましたい本がたまっているものでして…、これから読みます。
高木さんは、私が今まで研究をしてきた中で最も身近かつ影響を受けた研究者のお一人であり、ご著書の上梓を慶びたいと思います。個人的には、「やっと出ましたね」と申したいところです。
本書には拙著への鋭い批判(書評)も掲載されていますが、いただいたご批判については、今後の研究成果の形でお応えしていきたく存じます。

中世の貨幣史の研究は量産されてきましたが、その中での本書の白眉となると、一つにはやはり撰銭令の性格の位置づけがあるでしょう。私は撰銭令についてはわりとおろそかにしてきたという反省点もありまして、本書に学びつつ、私なりに撰銭令と権力あるいは貨幣との関係について、基礎的な史料の分析から議論をできないかと考えているところです。はてさて形になるかどうか…。

私の話はさておき(笑)、本書は、やや議論が複雑化している中世とりわけ戦国期の貨幣史研究の到達点として位置づけられるものと言えるでしょう。安くはないですが、多くの方に読まれることを願っています。

4751742604日本中世貨幣史論 (歴史科学叢書)
高木 久史
校倉書房 2010-11-25

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2010.11.16

その乱はどんな乱?

こちらの意見に賛成。

歴史的な事件に年号を冠するのは楽だけど、それだと単にタイトルが時期を示すだけに過ぎず、事件の中身とタイトルとが対応していないのは歴史教育の面でも大きなマイナスだと思います。暗記科目からの脱却を目指すのであれば、暗記を必要とする名称は極力排除してゆくべきでしょう。

だいたい年号がコロコロ変わる南北朝期以前ならともかくも、長く続く年号が多い室町・戦国期は、私にもすぐには事件の内容を思い出せない名称が多い。例えば「天文の乱」なんて、日本列島各地でどれほど同じ名前の事件があるのやら(そもそも天文年間なんて、時代そのものが「乱」と言えなくもない)。少なくとも、35年も続き、最初と最後とで全然時代情況が違う「応永」とか、24年もある「天文」とかいう年号だけを冠するのはやめるべきだと思いますね(20年続く激動の時代「天正」も)。

応永の乱
永享の乱
嘉吉の乱
享徳の乱
応仁・文明の乱
長享の乱
長享・延徳の乱(「長享の乱」とは別)
永正の乱
大永の乱
享禄の乱
天文の乱(少なくとも2つある)

ざっと思いつくものを挙げましたが、これがそれぞれどんな事件か全部わかる人が専門家でもどれほどいるのか。
しかし、改めて眺めてみると壮観ですね…(笑)。「明応の乱」というのもあるらしく、使われてない年号の方が少ないのではないかと。

しかも、たとえば「土岐康行の乱」は名前がタイトルになっているのに、なぜ「明徳の乱」(山名氏清の乱)と「応永の乱」(大内義弘の乱)は年号なのか。こういう統一性のなさも生徒を苦しめる要因ではないだろうか。


教育現場では議論されているのかもしれませんが、こういう名称を作る研究者の側も少しは反省する必要があるように思います。もっとも、私もこれまで無批判に使っていましたので…(笑)、自戒として。

2010.11.15

捏造事件から学ぶこと

岡村道雄『旧石器遺跡捏造事件』(山川出版社、2010年)読了。

世間的には今更感がないでもないけど、かの捏造事件を毎日新聞がスクープしたのは2000年11月5日。ちょうど10年を期に出版されたもの。発覚直後、著者は関連する遺跡の発掘に関わっていたために、マスコミに捏造の張本人とも疑われたことのある人なので、コンセプトとしては内在的な検証ということになるのでしょう。

いくつか記述の重複がある気もしたけど、捏造に関わった遺跡の調査の経緯について丁寧に記述されていて、具体的によく理解できました。もちろん著者の記憶に負っている部分も多いでしょうから、客観的な検証を経たものかどうかは留保が必要でしょうけど。

既に出されているほかの検証本でも書かれていることだと思いますが、結局のところ類例の少ない旧石器の傍証手段がほとんど無かったことが、捏造を見抜けなかった要因の一つだったようです。この点、考古学は比較的客観性の高い自然科学的手法が導入されているからこそ、むしろその結果に対する批判や再検証をしにくくする側面があったのかなあ、などと思ったりしました。

この点文献史学の側では、歴史的事実の発掘については相当の客観的手法が確立されているとはいえ(だからこそ史料の偽造という行為が時々ある)、研究の目的である歴史像の提示については常に仮説に留まり批判に晒されるという人文科学特有の性格を持っているので、この事件のような懸念は比較的小さいかもしれません(時折ある研究者の学説が「教典」のように信奉されることはあるが、それに対して批判的な研究者が絶滅することはない)。しかし、著者の述懐・反省は他山の石としたいものです。

研究を続けていくと知己の方々も徐々に増加しますし、それらの方々と協働することもキャリア形成(=歴史像の構築)のためには必要になることが多いので、必然的に馴れ合いの関係が多少なりとも生じてきます。旧石器の分野については、関わる研究者の「仲間意識」が四半世紀にもわたる捏造の温床になったようですが、かといって研究者同士が常日頃猜疑心をもって火花を散らすというのも現実的でもないわけですから、この辺のバランスをどう制御するかが課題ということになるでしょうか。

世間的には、捏造の張本人であるF氏(一応イニシャル)が指を切り落としていた話とかがセンセーショナルに報じられていますが、ともあれF氏を断罪して終わるのではなく、学問に携わる人すべてがこの事件からどんな教訓を得るか、というのが大事なのでしょうね(まあ、こんなことは私が言うまでもないことなのですが)。

本書の読後感はあまり清々しくはないですし、著者以外のF氏周辺の人々についての言及が少ないなどやや不満の残る点もありますが、学問とは何かを振り返る機会にはなる一冊といったところでしょうか。

4634150085旧石器遺跡捏造事件
岡村 道雄
山川出版社 2010-11-03

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2010.11.12

【受贈】『笑雲入明記』(そして自説修正)

村井章介・須田牧子編『笑雲入明記―日本僧の見た明代中国』(東洋文庫798、平凡社、2010年)を、須田さんより受贈。ありがとうございます。

1451年から幕府によって明に派遣された僧侶である笑雲瑞訢([言斤])(しょううんずいきん)による旅行記。「允澎入唐記」の名で「史籍集覧」のシリーズに収録されていましたが、改めて宮内庁書陵部所蔵の「入唐記」を底本とし、諸本を検討して校訂をと注釈を加えたものです。
私もかつて史籍集覧から一部引用したことがあったのですが、「允澎入唐記」の名称は適切ではないとある方からご指摘を受けたところでした…(笑)。

注釈と、所々に挿入されている経由地の写真(白黒ではありますが)がすばらしいですね。可能であれば、この本を片手に実際に足跡を辿ってみたいものです。関連する参考史料も掲載されていて、中世後期の日明関係史における必読文献ということになりますね。

ところでかつて参照した時には気がつかなかったのですが、ぱらぱらとめくっていると興味深い記事が。

「太監出給価新銭三千万[宣徳分]」(1454年4月26日条)
→「太監、価の新銭三千万[宣徳分]を出給す。」(p.155)

とあり、宣徳通宝と明記されている点。これは『大乗院日記目録』享徳3年(1454)10月13日条の「宣徳銭到来」の記事を裏付けることがわかります。私も引用していたのですが、なぜか見落としたようです。

ただ、同年5月17日条には「阮太監、価の銭銅三千万を出給す。」(p.157)とあることにつき、その注では、「南京で貰った分は宣徳通宝であったと推測されるが、杭州府での支給分は宣徳通宝に限らなかったか」(p.163)とされています。
この点については、この時得た「新銭」が実は永楽通宝だったのではないかという指摘もあるので、その点が配慮されているのでしょうか。私はとりあえず『大乗院日記目録』の記述に従ってすべて宣徳銭と捉えましたが、今後議論のある所かもしれません。もっとも、ほかに史料があるかとなると微妙ですが…。


ちなみに私はかつて、同年6月5日条にも「三万貫」とあることから、合計9万貫文もらったかもしれないが評価は保留する旨記しました。本書では、この日の「三万貫」は上記の5月17日条の銭と同一と判断しています。そうであれば、この使節が得た銭は合計6万貫文となるわけですが、これも本書によると『明実録』と一致するとのことです。

これは私もかつて書いた文章で掲出した史料によるところでは、この使節に随行したと思われる貿易商の楠葉西忍が後年、「今度宝徳度ニモ、料足六万貫」と語っていることがわかります(『大乗院寺社雑事記』文明5年[1473]6月17日条)。上述の『明実録』の記述はうっかり見落としたのですが、この時得たのは「6万貫文」であることは確定したと言えますね。
私のかつて書いた文章では評価が曖昧だったのですが、この点を修正したいと思います(まあ、別途ちゃんとしかるべき形でそれを表明する必要があるわけですが、それはその機会が来たらということで)。


私の関心に沿って細かい話を並べましたが、当時の対外交渉の様子が活き活きと描かれた貴重な史料ですし、読み下しもしっかりしていて比較的読みやすくなっているので、興味のある方にはおすすめです。

4582807984笑雲入明記 日本僧の見た明代中国 (東洋文庫)
笑雲瑞キン著、村井 章介・須田 牧子編
平凡社 2010-10-21

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2010.11.07

陸奥国分寺跡

Mutsukokubunji_7Mutsukokubunji_5仙台周辺の史跡シリーズもようやく最後。JR仙台駅から車で5分ほどでしょうか。Kスタ宮城の近くにある陸奥国分寺跡です。
右写真の中央の辺りが、かつての伽藍の中心とされています。

国分寺については説明するまでもないと思いますが、国府からは多少離れています。鎌倉期までは寺院としての機能を保っていたようですが、南北朝期に衰退。戦国期に、この地の領主である国分盛重(実は伊達晴宗の子)が復興させたとされています。(国分氏は後に佐竹氏の家臣になったそうですが)

Mutsukokubunji_3近世に入ると、例によって(笑)伊達政宗が造営を行いました。写真がその一つで、慶長12年(1607)築の薬師堂(重要文化財)です。

Mutsukokubunji_11Mutsukokubunji_4左写真は、薬師堂の脇にある白山神社。近世の陸奥国分寺の鎮守として建立されたもので、本殿は寛永17年(1640)に伊達忠宗によって建てられたとのことです。…ただ、明らかに外見はそれとは違うので、見えているのは覆い屋でしょうか(あるいは本殿はこの奥にある?よくわかりませんでした)。

右写真は境内にあったもの。鐘楼でしょうか。
このほか近世後期築と思われる準胝(じゅんてい)観音堂というお堂もありましたが、撮影に失敗しました。

Mutsukokubunji_8Mutsukokubunji_13境内で見付けた礎石たち。左写真はおそらく廻廊のものか。右写真は礎石の大きさや配置からして塔のものと思われます。

ちなみに今の国分寺もすぐそばにあります。詳しくはこちらをどうぞ。

■仙台市若林区

2010.11.04

銀閣は月見の楼閣か?

昨日、NHKをつけたらたまたま「ワンダー×ワンダー」という番組で「銀閣 幻の“月の御殿”」というのをやっていたので見ました(再放送だったようです)。

今春まで銀閣(正しくは慈照寺観音殿)の修理をやっていて、その過程で発見された事実をもとに作られた内容でした。以前ハイビジョンで特集をやっていたそうですが(こちら参照)、うちではハイビジョンは映らないので…。できればこっちを見てみたいなあ。

番組の主張は二つ。一つは、どうやら銀閣の外壁には白土が塗られていて、さらに大量の明礬で覆っていたらしいという話。創建時のものなのか、後の時代のものなのかは番組中でぼかしていましたが、ネットで関連記事を探ってみると、どうやら新聞報道ではこの話は見当たりません。記事ではおおむね創建当時は漆塗りだったとされていて、少々見解が異なるような印象を受けました。まあ、この辺は議論が決着していないから錯綜しているということなのでしょうか(なにか「大人の事情」があったりする?)。

そしてもう一つは、銀閣は長享3年(1489)9月13日の十三夜における観月に合わせて計算されて造られたのではないか、というお話。これは以前から建築史研究者の方が主張しておられるようですが、それに沿ったCGはなかなか見事で、感心しつつ見ていました。

しかし…。

確かに、足利義政が銀閣から十三夜を眺めることができたのはこの年だけなので(翌年1月に死去)、その点説得力もあります。でも、もし義政が健在だったら翌年以降はどうなるのでしょうか? 天文には詳しくないのですが、十三夜の月は毎年同じ軌道を通るのであればまあ納得もできますが、その辺どうなのでしょう。
あと、義政がこの年東山殿で十三夜の観月を行ったという記事が不思議とありません。やってないことはないと思うのですが、「銀閣の上棟を祝う」という主張を裏付けるには少々不審です。

それと、気になるのは肝腎の天気。『蔭凉軒日録』の長享3年9月13日条は、「天陰不雨」(つまり、曇り空)とあります。意外にも14日条がなくて(『大乗院寺社雑事記』によると、この日の奈良は「少雨」)、15日条は「小雨」とのこと。どうやら月見をするには天気が良くなかった可能性が高いです。決定的なのは、『御湯殿上日記』の13日条に「月おもハしからす」と書かれていて、残念ながら月は見えなかったと考えられます。
となると、仮に銀閣が月見のために造られたとして、満を持して十三夜を迎えたものの、肝腎の月は雲に隠れて見えなかったと思われます。これが義政を落胆させて死期を早めたというのならば、なんともはやというべきですが(笑)。

月の軌道を緻密に計算して造られたという仮説は魅力的なのですが、実際はどうだったのかについては、なかなか結論を出すのは難しいかもしれないなあ、と思ったりもしました(個人的な感想ですが)。あと、番組中では義政が月に執着したという印象の描写がありましたが、この辺の「イメージ」は理解できつつも、どこまでのっかっていいものやら、というのが正直な感想でした。月に自らを見立てる権力者っていつの時代にもいるしなあ…と思ったりもするわけでして。


世間的には地味な室町時代にあって、こういう視角からの研究は衆目を引きつける点で敬意を表したいのですが、私はやはり地味に史料を漁っている方が性に合うな…と思いました(笑)。

2010.11.01

【受贈】『戦国期の真宗と一向一揆』

新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』(吉川弘文館、2010年)を、執筆者のKさんとMさんの連名でご恵与賜りました。ありがとうございます(内容の詳細はこちら)。

名古屋で行われている一向一揆の研究会による成果で、編者の古希記念でもあるとのことです。どたばたしていてまだ精読していないのですが、一向一揆というとどうしても議論が石山合戦に集中しがちな感もありますれども、本書ではそれにこだわらず戦国期の一向一揆について多角的に分析しているといった印象です。特に織田政権との関係についての論考が多いのは、織豊期研究会に関わる方が多く執筆されているという点で面目躍如といったところでしょうか。

私も一向一揆に関して小文を書いたことがあるので、その縁あって恵与くださったものと存じますが、それ以後まともに勉強していないので…、改めて勉強させていただきたいと思います。

4642028900戦国期の真宗と一向一揆
新行 紀一編
吉川弘文館 2010-10

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