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2010年12月

2010.12.31

2010年が暮れて

毎年大晦日になると思うわけですが、今年もあっという間でしたねえ。

今年はあまり成果を出すことはできませんでした(去年ゼロだったことに比べればまだましですが)。やはり夏の暑さにやられたのを引きずった感じです。
とはいえ地道に史料めくりを細々と続けていたので、それが今後に活きればいいなと思います。


年末に立て続けに原稿依頼が舞い込む。先方としては、原稿依頼を年内に済ませてしまいたいということなのでしょうね。受ける方としては、なんかもやもやした年越しになったというか…(笑)。もちろん、依頼していただくことは光栄なことであるというのを前提として。

別に3月締切の原稿があるけど、未だ全く手つかず。ちょっとまずい。早急に取りかかりたいと思います。
来月はゼミで報告があるし、その準備も…。授業の準備も…。ぶつぶつ。
…とまあ、ちっともすっきりしませんが(笑)、とりあえず今日は何もかも忘れて、(一人で)のんびり年越しをしたいと思います。
来年は私にとって激変の年になりますが、それはまた年が明けてから追々ご報告いたします。

それでは良いお年を。

2010.12.27

法観寺(八坂の塔)

Yasaka_2Yasaka_3六道珍皇寺から清水坂を登り、清水寺へ…は行かず(笑)、北に折れると見えるのが大きな五重塔。「八坂の塔」の通称を持つ法観寺の五重塔(重要文化財)です。

法観寺は臨済宗建仁寺派の寺院で、聖徳太子創建の伝承があります。発掘調査によって飛鳥時代の瓦が出土したそうで、その頃には寺院のあったことは確実のようです。治承3年(1179)に焼失し、仁治元年(1240)に禅宗寺院として復興しました。
現在は五重塔のほか、太子堂と薬師堂のみからなる寺院です。室町期になると五重塔が山城国の利生塔となりましたが、永享8年(1436)に焼失。直後に足利義教によって再建がはかられ、永享12年(1440)に完成。これが現在に伝わっています。応仁の乱で法観寺も被災したようですが、この五重塔は無事でした。

Yasaka_7実は私はあまり詳しくは知らなかったのですが、東山観光のスポットになっていて、平日にもかかわらず多くの観光客が来ていました。写真は、八坂の塔から西へ延びる道。観光向けに整備された感じです。この道をまっすぐ行くと、建仁寺の山門に着きます。

Yasaka_8さらに祇園方面に向かうとあるのが、この高台寺表門(重要文化財)。桃山時代のものとされています。今回は時間などの都合上、高台寺には行きませんでした。

■京都市東山区

2010.12.25

六波羅蜜寺・六道珍皇寺

Rokuhara_2東山を北へ。(今の)五条を越えてしばらくするとあるのが六波羅蜜寺
天暦5年(951)に空也が開いた真言宗智山派の寺院です。当初は「西光寺」と呼んだそうで、天台宗の寺院でした。有名な空也像(重要文化財)を所蔵しています。本尊は十一面観音像(国宝)。写真の本堂(重要文化財)は貞治2年(1363)のものだそうです。

空也は醍醐天皇の子とする説もあるようですが、出自は不詳。尾張国分寺で得度し、勧進で諸国を巡り歩いたことで知られ、「市聖」と呼ばれています。

Rokuhara_3そして六波羅は、よく知られた通り鎌倉時代には政治的に重要な場所となりました。元々源頼朝が住んでいた所で、鎌倉幕府が開かれると六波羅探題が設置されました。
写真は鎌倉期の宝塔で、「阿古屋塚」と呼ばれています。現地の看板によると、「平家の残党、悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五条坂に住む白拍子・阿古屋を捕らえ、代官畠山重忠は彼女が景清の所在を心に秘めていることを知っていたが、弾かせた三味線・琴などの調べに一点の乱れのないことに感動して彼女を釈放する」ということだそうです。(原典は浄瑠璃らしいですが)

Rokuhara_5周辺の風景。見える建物は六波羅蜜寺の隣にある六原小学校。六波羅探題の所在地に比定されています。

室町期になると足利義詮によって修理され、この時真言宗となりました。子院は後に廃絶したものの、歴代の権力に保護を受けて現在に至っています。


Rokudochinnoji_1Rokudochinnoji_3こちらは、六波羅蜜寺の近くにある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ちんこうじ、とも)。愛宕寺(おたぎでら)の異称を持つとされています(それぞれ別の寺という説もあります)。来歴は不明な点が多いのですが、9世紀前半の建立と言われている寺院で、中世は東寺の末寺でした。近世に建仁寺の影響下となり、臨済宗となり現在に至っています(臨済宗になったのは室町期という説もあります)。

この寺院は、小野篁ゆかりの寺という伝承で知られています。彼は夜ごと井戸を掘って閻魔大王の裁判の補佐をしていたという言い伝えがあり、境内にはそれとされる井戸があります(普段は非公開)。また、彼は境内に閻魔堂を建立したとも言われているそうです。そういうこともあって、最近はやりの「パワースポット」として知名度が上がっているようです。

■京都市東山区

2010.12.24

豊国神社

Toyokunijinja_1Toyokunijinja_2三十三間堂や京都国立博物館(京博)の北側にある豊国(とよくに)神社。ご存じ豊臣秀吉を祀る神社です。

現在の京博の敷地はかつて方広寺のあった所とされており、豊国神社は秀吉死去翌年の慶長4年(1599)に、秀吉の廟所かつ方広寺の鎮守として創建されました。
豊臣氏が滅亡すると神号を剥奪され、豊国神社も新熊野(いまくまの)神社(現京都市東山区)の摂社とされましたが、明治維新の際に明治天皇の命令によって現在地に復興したそうです。

右写真の唐門(国宝)は、西本願寺の唐門とほぼ同じ時期のもので、伏見城の遺構と言われています。二条城や南禅寺金地院を経て、現在地に移築されました。

Toyokunijinja_4Toyokunijinja_6左写真が、境内にある方広寺梵鐘(重要文化財)。徳川氏と豊臣氏の全面戦争のきっかけになった有名な鐘ですね。家康がいちゃもんを付けた文言(「国家安康」「君臣豊楽」)の部分は、白枠で囲ってあります。

今の豊国神社は、かつて方広寺大仏殿のあった場所です。右写真は、その石垣。
「東山大仏」と呼ばれた方広寺大仏殿は、秀吉の並々ならぬ熱意をもって天正16年(1588)から造営が始まり、奈良東大寺大仏を凌ぐ規模だったとされています。しかし完成間近だった文禄5年(1596)に、大地震によって大仏は大破(仏殿は無事だったらしい)。秀吉の命によって結局大仏は再建されず破却され、善光寺如来を移して本尊としたそうです(これ自体は普通の仏像なので、その様子は相当異様だったらしい)。

秀吉死後、子の豊臣秀頼が大仏の再建を目指しましたが、慶長7年(1602)に大仏殿とともに焼失(年代は異説あり)。さらに再建が図られ、慶長17年(1612)に完成しました。そして慶長19年(1614)には梵鐘が造られたわけですが、これが豊臣氏滅亡を招くきっかけとなりました(方広寺鐘銘事件)。

その後も地震などの被害を受けましたが、寛政10年(1798)に落雷を受けてほぼすべての伽藍を焼失。以後は再建されませんでした。

往事を偲べるのは、石垣と梵鐘くらいといったところでしょうか。かつて巨大な仏殿があったというイメージがなかなかわきません。

Toyokunijinja_8そしてこちらが、近くにある耳塚。秀吉による朝鮮出兵によって、日本へ持ち帰られた朝鮮・明の兵の鼻・耳を供養したものです。慶長2年(1597)に築かれ、相国寺住持の西笑承兌(さいしょうじょうたい)によって供養が行われました。

とまあ、表向きは秀吉のしおらしさがイメージされるわけですが、この頃は大仏殿造営によって多くの参拝客を集めた地でもあり、それを利用して群衆に対し朝鮮出兵での勝利のアピールを大々的に行う意図があったとも言われています。そう考えると、だいぶイメージも変わりますね。
いずれにせよ、日本の歴史上において代表的な「負の遺産」の一つです。

参考文献:
河内将芳『秀吉の大仏造立』(法蔵館、2008年)

■京都市東山区

2010.12.22

忘年会ラッシュ

多くの方がそうだと思いますが、私もただいま忘年会シーズン真っ直中。さすがに飲み疲れ気味です。
いつものごとく、ビールだけを浴びるように飲んでます(笑)。

加えてイレギュラーな予定が入ったりして、てんてこ舞いです。明日からは少し落ち着きそうなので、腰を据えて史料めくりをしたいなあ。あと、ここの更新も。そして年賀状も…(まだ葉書を買ってもいない)。

近い将来について、なんとか光明が差してきました。詳しくは後日にでもまた。

2010.12.17

三十三間堂

Sanjusangendo_7Sanjusangendo_9京都編は東山へ。その代表的史跡の、蓮華王院本堂(国宝)です。「三十三間堂」ですね。修学旅行等ではお馴染みの観光地といったところでしょうか。

Sanjusangendo_1Sanjusangendo_8後白河院が譲位した後に住んだ邸宅・法住寺殿のあった所で、長寛2年(1165)に、邸宅の一角に平清盛の援助を得て伽藍が整備されました。寿永2年(1183)に源義仲の襲撃を受けて邸宅は焼亡したものの(法住寺合戦)、この時は伽藍は焼け残ったようですが、鎌倉期に焼失。文永3年(1266)に本堂(三十三間堂)を再建しました。この時のものが今に伝わっています。「通し矢」の行事でも知られていますね(江戸時代になってから始まったそうですが)。
お隣には法住寺がありました(右写真)。

Sanjusangendo_18この写真は裏側。
本尊は千手観音(国宝)で、堂内には1000体の千手観音像が鎮座しており、圧巻です。このほか、鎌倉期の木造二十八部衆立像(国宝)があります。

Sanjusangendo_5Sanjusangendo_11左写真は、境内にある「法然塔」。元久元年(1204)の後白河院13回忌の際に法然が法要を営んだそうで、それにあやかって参拝する人も多いそうです。

右写真は、「夜泣泉」(よなきせん。「泉」は、正しくは[酉泉])。『古今著聞集』に「極楽井」として記されているものだそうで、水の湧き出す音が人のすすり泣きのように聞こえるからこの名が付いたとのことです。今は、夜泣きが治るという御利益があると言われています。

Sanjusangendo_12Sanjusangendo_13三十三間堂は、豊臣秀吉が好み、京都でしばしば滞在した所としても知られています。交通面での利便性の高さや、平清盛や後白河院にあやかったことが理由と言われています。それが高じて、北隣に方広寺を建立するに至ったわけです。
アングルが悪いのですが、左写真が境内から見た方広寺南大門(重要文化財)。元は別の所(もう少し北でしょうか)にあり、豊臣秀頼が現在地に移築させたと言われています。

右写真は、その門から続く築地塀(重要文化財)。方広寺を造営する際に整備されたとみられ、「太閤塀」とも呼ばれています。
今はほとんど跡形もなくなってしまった方広寺を偲ぶ数少ない遺構ですね。

■京都市東山区

2010.12.16

但馬と丹後の史跡巡り

AmanohashidateTakedajo_23先日、但馬・丹後を中心とした史跡巡りに出かけてきました。年末にこの予定を入れたために、スケジュールが詰まってしまった感もありますが…。

多くの史跡を見ることが目的ですが、もう一つはやっぱりカニ。城崎温泉でカニづくしとなりましたが、すばらしかったです。もちろん温泉にも浸かって、言うことなし。こんな贅沢な旅行も、これからしばらく難しくなりそうです。

主に兵庫・京都の日本海側が中心になったのですが、新大阪駅を起点にしたこともあり、初日を有馬温泉泊にして北摂も少し廻りました。最後は丹波の史跡も少し廻って帰ってきましたが、三日間の走行距離がとんでもなくなりました(笑)。300km超えてるかも。

ただ、天気が…。最終日に天橋立に行った時には天気も回復したのですが(左写真)、二日目の竹田城跡(右写真)は残念な結果となりました(まあ、これはこれで珍しい景色かもしれませんが)。是非晴れた日に再訪したい。
こんな天気でしたが(しかも平日)、若いカップル?や家族連れの方々も来てました。恐るべし城ブーム。

Ayabeankokuji_1ここ用のネタ集めも兼ねて(笑)、今回もマニアック史跡を多く見てきました。写真は、綾部にある安国寺の宝篋印塔。この地域はかつて上杉荘と呼ばれた荘園で上杉氏の名字の地とされており、足利尊氏がここで誕生したという伝承があります。そして、真ん中の宝篋印塔は足利尊氏の墓と伝わっています。詳しいことはまた別途。

予定を詰め込んだため結構駆け足になったのですが、それでも廻りきれませんでした。地図で見るのと実際に車で走るのとでは、距離感がまったく違ってました。機会を見付けて再訪したいところです。

2010.12.11

年末を忘れる

12月に入って予定が詰まっており(忘年会が例年ほどではないにもかかわず)、身動きが取れない状態に陥りました。なんだか自分の研究もあまり手に付かない(これは単なるさぼりかも?)。

…というわけで、ここの更新が滞っています。しばらくこの状態が続きそうです。

そんな中、ついに念願の一眼デジタルカメラ購入。早速使う機会がありそうですが、これまでとどれだけの違いが出るのか。まあ腕が良くなるわけではないので、たかが知れているかもしれないけど。

文書撮影とかを考えて、接写に強いのがいいとかいろいろと店員に注文を付けたりしたけど、よくよく考えると(というか深く考えなくても(笑))、文書撮影の機会は年に何回あるのやら。宝の持ち腐れかも?
ただ、今年のサマーセミナーで撮影させていただいた文書(もちろん許可をいただいて)のうち、花押を接写した写真が悉くピンぼけしていてショックだったので(笑)、新しいカメラには少なからず期待しています。


ああ、早く来い来い冬休み。曜日の都合上、年内の授業が来週で終わるのは有り難い。でも、年始は松の内から授業が始まるけど…。
勤務先大学(まあ出身大学ですが)全体では、4日からもう授業らしい(一部の方に3日からと言ったのはさすがに間違ってました(笑))。近年はなんだか教員も学生もせわしなくなっちゃいましたねえ。もっとも、4~6日あたりは既に休講通知がずらりと並んでますが、私はしっかりやります(笑)。

2010.12.06

西本願寺・東本願寺

Nishihonganji_2Nishihonganji_3ここからは、9月末に行った京都ほかの史跡シリーズです。

最初に行ったのは西本願寺。今更?と言われそうですが、実は中に入ったのは今回が初めてです。山号は龍谷山。浄土真宗本願寺派の本山です。
本願寺の歴史は有名ですので長々とした説明は省略しますが、天正8年(1580)の石山合戦終結後、宗主の顕如は石山(大坂)を退去して紀伊の鷺森(現和歌山市)に移りました。一方顕如の長子の教如は織田信長への徹底抗戦を主張して対立。のちに和睦しましたが、これが東西分裂の火種になりました。

天正13年(1585)に顕如は豊臣秀吉から大坂天満に土地を与えられて復帰。しかし逃亡者を匿うなどして秀吉から叱責されるなどのトラブルに度々見舞われたようで、それが要因だったのかはわかりませんが、天正19年(1591)に京都の堀川六条に移転しました。それが今の西本願寺の地です。

右写真は本堂にあたる阿弥陀堂(重要文化財)。宝暦10年(1760)築。その横には御影堂(重要文化財)もありましたが、なぜかこちらは写真を撮るのを忘れていました(近世だからいいや、って思ったのかもしれない(笑))。
いずれも巨大な建物で壮観です。

Nishihonganji_7Nishihonganji_8西本願寺には織豊期の有名な建築物が多くあります。その一つがこの唐門(国宝)。伏見城の遺構という説がありますが、近年では、寛永年間(徳川家光の頃)に改造された可能性が指摘されているようです。そう言われると、日光東照宮の装飾に似てないこともない、というか…。ともあれ絢爛豪華な、当時を代表する門です。

この唐門は勅使門と考えられているようですが、境内にある飛雲閣(国宝)へ続く門として使われていたそうです。飛雲閣(聚楽第の遺構)は普段は非公開なので残念ながら拝観できませんでしたが、屋根がちょろっと見えました。
このほか書院も国宝に指定されていますが、中には入れず。さらに天正9年(1581)築の能舞台(国宝)とか、国宝の文化財を数多く所蔵していますが、気軽に見られるのは残念ながら唐門だけでしょうかね。

Higashihonganji_2Higashihonganji_3そしてこちらが烏丸七条にある東本願寺。真宗大谷派の本山で、正式には「真宗本廟」と呼ぶそうです。

天正20年(1592)に顕如が死去すると教如が継承しましたが、ほどなく秀吉によって廃されて三男の准如を宗主としたため、両派の対立が激化。秀吉死後も対立が続き、関ヶ原合戦後に徳川家康の働きかけで後陽成院から教如には京都の烏丸七条の地を与えられ、移りました。
結果、准如の系統が西本願寺、教如の系統が東本願寺として分裂し、現在に至っています。この分裂は、本多正信の入れ知恵だったいう説もあるそうです(真偽のほどはどんなもんでしょうか)。

中世に遡る文化財が遺る西本願寺とは異なり、東本願寺は江戸時代に度々火災に遭っており、古いものは多く遺ってはいませんが、親鸞真筆の「教行信証」(国宝)を所蔵しています。
左写真の御影堂は、19世紀末の築。隣には阿弥陀堂がありますが、私の訪問時は修理中でした。

■京都市下京区

2010.12.03

実感なき師走

このところ、特記すべきこともない平凡な毎日です。
そしてこの時期の決まり文句のようなものですが…、もう年末ですねえ。

この一年、あまり捗らなかったなあ。とりわけ夏の猛暑が響きましたが、そうは言っても結局は自らの努力が足りないせいだということになりますね。それに最近は新たな問題関心に反応するアンテナが錆び付いてきた感も。いけません。

そろそろ来年度の身の振り方も考えなければなりません。これが悩みの種。
いろいろ悩みは尽きないですが、ぼちぼちやっていくしかありませんね。


とりあえず今は少々多忙気味なためか、考えることも後ろ向きです(笑)。

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