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2011年1月

2011.01.31

特別展「江」

「江」だけではなんのことやらという感じですが(笑)、もちろん今年も企画された、大河ドラマにタイアップした特別展でして、開催されている江戸博へ見に行きました。肝腎のドラマの方はともかく、大河と連動した企画展は毎年充実しているので、可能であればなるべく見に行くようにしています。(もっとも幕末だと行かないんですが。)

当然ながら女性に注目した構成になっていましたが、さまざまな調度品に加えて浅井長政や豊臣秀吉の書状などもあり、見応えがありました。文書は散らし書きが多く、読むのはかなり難儀でしたが…。

平日午後に行ったせいもあり、比較的すいていて快適に見ることができました。土日は混みそうなので、見に行くならやはり平日がおすすめです。


思えば、博物館へ行ったのは随分久しぶり。時間的余裕が多少減ったのと、見に行きたいと思う展示になかなか巡り会えなかったこともあるが、もっと大きいのは精神的余裕が相当減ったためだろうなあ。このところは何かと追い立てられているような切迫感にしばしば支配されることがあります。年を重ねるといろいろと悩みの種が増えていくから、ということなのでしょうねえ。…と、なぜか最後は辛気くさい話に(笑)。

2011.01.25

日根野

Hineno_1中世史研究で最も有名なフィールドの一つ、日根野です。私は今回が初訪問。時間の都合などもあってくまなく回ることはできませんでしたが、とりあえず基本的な場所を押さえてきました。

日根(日根野)荘は文暦元年(1234)に摂関家の九条家領荘園となり、戦国期まで続きました。当初は少し山に入った所にある、写真の入山田(いりやまだ)村から開発が始まり、用水の確保に伴って徐々に平野部が開発されていきました。合計5か村から構成されるようになりましたが、南北朝期には日根野・入山田の両村以外は守護に押領され、以後はこの2か村からなりました。
一方、在地では荘園支配に応じて設定された区分とは異なる独自の共同体(村)が徐々に形成されるようになり、荘園制下にあって独自の地域秩序が形成されたことが注目されてきました。

そしてハイライトは、文亀元年(1501)に領主の九条政基が自ら下向してきたことでした。しかも彼は滞在期間中に詳細な日記を遺したことにより(『政基公旅引付』)、当時における村の生活をつぶさに理解できることで多くの研究者を惹き付けてきました。永正元年(1504)に根来寺の代官請が成立し、政基は帰京。天文期まで荘園支配は続いたようですが、16世紀後半になると不知行となり事実上荘園支配は崩壊しました。

荘園経営については、「九条家文書」などに関連文書が多く遺されており、基本的には『泉佐野市史』などでほぼすべて活字になっています(と思う)。詳しくは、研究も多いのでそちらをどうぞ…(ぼろが出るとまずい(笑))。

Hineno_2Hineno_5こちらは、入山田にある火走(ひばしり)神社。本殿は元和8年(1622)築。滝宮(たきのみや)大明神と呼ばれ、入山田の惣鎮守でした。

Hineno_3アングルが悪いのですが、こちらは本殿の隣にある幸(みゆき)社(重要文化財)。室町期のものとされています。

Hineno_8こちらは、長福寺跡とされる場所。確定されているのかどうかは、私にはよくわかりませんが…。この辺りに、九条政基が滞在していたとされています。

Hineno_11Hineno_20そして、平野部に下りてきた所にある日根野村の地域。その鎮守の日根神社です。当時は大井関社と呼ばれていたそうで、名称からして用水がいかに重視されていたかがわかります。こちらは今も立派な神社です。豊臣秀吉の侵攻によって焼亡しましたが、豊臣秀頼によって再建されたそうです。

Hineno_21Hineno_13左写真が本殿。桃山期のものとされており、秀頼による再建当時のものでしょうか。

右写真は、末社の比売神社本殿。中世の日根野で大井関社と並ぶ神社として絵図にも描かれた溝口社が、この神社だとされています。室町期のものと推定されています。

Hineno_24Hineno_28左写真は、日根神社の隣にある慈眼院。元は日根神社の神宮寺だったそうです。文永8年(1271)築の多宝塔(国宝)や鎌倉期の金堂(重要文化財)がありますが、要予約のため今回は見られず。外からはそんなのがあるようには見えなかったんですが…。

右写真は、住持池。十二池とも呼ばれる溜め池ですが、中世の開発に伴って築かれたものとされています。今も農業用水で使われているのでしょうか。

■大阪府泉佐野市

2011.01.20

寺内町・富田林

Tondabayashi_5Tondabayashi_13かつて寺内町のあった富田林へ。元々は荒れ地であったという所に、戦国期に町衆によって開発されて寺内町となったことで知られています。

寺内町となった場所は周囲よりやや高台になっていて、右写真のように、周縁部はかなりの高低差が今もあります。

Tondabayashi_9Tondabayashi_12富田林は、永禄3年(1560)に本願寺一門寺院である興正寺(現京都市下京区、当時は大坂の天満にありました)の証秀(蓮如の孫)がこの地を買得し(河内守護代の安見直政から買ったとする説もあり)、近隣の中野・新堂・毛人谷(えびだに)・山中田の4か村百姓が開発したとされています。周囲に土塁を巡らした構造だったそうです。現在は土塁の痕跡はよくわかりませんでしたが。

写真は町の中心にある興正寺別院。当初は富田林御坊と呼ばれた真宗の拠点寺院であり、寺内町の中核を担いました。本堂は寛永15年(1638)築。左写真の表門はそれより遡るもので、桃山時代と言われています。

歴史については、詳しくはこちらをどうぞ。

Tondabayashi_1Tondabayashi_6町割りはほぼ当初のまま遺されているそうで、それだけでも風情がありますが、中には古い建物もあって雰囲気を醸し出しています。

左写真は旧杉山家住宅(重要文化財)。基礎部分は17世紀のもので、現状の形になったのは延享4年(1747)頃とされています。
元は造り酒屋の家だったそうです。
右写真は木口家住宅。18世紀中期築と推定されています。元は木綿商人(のち瀬戸物商)だったとされています。

■大阪府富田林市

2011.01.19

久々の報告など

久しぶりに研究報告をしたものの、出来はいまいち。
作業の性格からして完成までまだ時間がかかるから仕方ないとはいえ、現時点での結論がもうちょっとはっきり打ち出せるようにしないとなあ。でも、その方法がまだわからず五里霧中です。まあ、ぼちぼちやっていきます。

話は変わって、今年はイベントを一つぶちあげようと思っているのですが、予定通りの時期に開催できるかどうか暗雲が立ちこめる。少し先延ばしするしかないかなあ。まあ、これもぼちぼちやっていきます。

今年の大河ドラマですが、第2回で挫折決定。なんだろうなあ、世間の評判はわからないけど、私が大河ドラマに求めるものってこういうのじゃないんだよなあ。別に史実でがっちり固めろと言うわけじゃないんだが…。
まあ、日曜の夜がテレビに縛られることなく自由時間になるのは、悪いことではないですね(笑)。

2011.01.15

寺内町・今井

Imai_22一旦京都を離れ、一路南下。かつての寺内町で、近世の町並みの雰囲気を遺す今井へ行きました。

この地域は、元は興福寺一乗院領の荘園だったとされていますが、戦国期になると石山(大坂)と吉野を結ぶ要衝だったこともあって、一向一揆の拠点となったようです。天文元年(1532)には大和の国人(「国民」)である越智氏によって門徒が討伐されたと言われています。

Imai_1Imai_3しかし徐々に門徒の拠点として形作られます。天文12年(1543)には道場の称念寺が建立され、寺内町となっていきました。
写真は、今も中心部にある称念寺。本堂(重要文化財)は近世初期のものとされています。

Imai_11Imai_13よく知られた通り、寺内町の特徴として町の周囲に土塁と堀を巡らすなどの自衛の設備が整備されたことです。今もその堀の復元?が見られます。寺内町の整備は郷民によって進められており、その中心人物は今井兵部という人でした(本願寺の一門という説あり)。

こうして商業都市として発展を見せましたが、本願寺と権力者との対立にも巻き込まれることとなり、天正2年(1574)に織田信長配下の明智光秀に攻め寄せられ、武力を奪われて土塁も破却されました。しかし「大坂並」と呼ばれた都市としての特権的地位は安堵され、道場も復興されて寺内町の機能は維持されたようです。

近世になると郡山藩領となって名目上は「郷中並」とされたそうですが、実際には町場として機能し続けて維新を迎えました。既に17世紀前半には、私札(独自に発行した実質的な紙幣)の「今井札」が流通したことでも知られています。

Imai_16こちらは、今西家住宅(重要文化財)。慶安3年(1650)築とされています。今西家は十市氏の一族川井権兵衛清長が永禄9年(1566)に移住したことに始まるとされています。
中も見学させていただきました。かなり天井が高く、立派な家だったことが実感できました。中に牢屋が設置されていたのが印象的でした(奉行所のような役割を担っていたらしい)。

Imai_8Imai_23ほかにも近世の建物が点在しています。左写真は豊田家住宅(重要文化財)。元は材木商の家だったそうです。寛文2年(1662)の築。
右写真は上田家住宅(重要文化財)。葛下郡片岡城(現奈良県上牧町)の城主・片岡新助の子孫で、元亀元年(1570)に当地に移住した家とされています。近世は今西家や尾崎家とともに惣年寄を務めた家で、酒造業を生業としていたそうです。

ちなみに、織豊期の茶人として知られる堺の豪商・今井宗久はこの今井の出身という説もありますが、実際は近江国高島郡今井市(現在地不詳)の出身というのが有力のようです。

場所は近鉄大和八木駅やJR畝傍駅から近い市の中心部ですが(最寄りは近鉄八木西口駅)、今井には観光用の駐車場が無いので要注意です。

■奈良県橿原市

2011.01.14

建仁寺

Kenninji_11東山編の最後は建仁寺
建仁2年(1202)に源頼家を開基として建立された寺院で、開山は入宋僧の明庵栄西。禅宗を日本に伝えた人として有名ですね。京都で最も古い禅宗寺院です。鎌倉中期に渡来僧の蘭渓道隆が入ると道場となり、室町期には五山に列しました。この頃が最盛期とされており、応仁の乱の後に荒廃。16世紀末期に安国寺恵瓊が復興させました。かの有名な俵屋宗達による「風神雷神図」(国宝)を所蔵していることでも知られています(京都国立博物館に寄託)。

写真の勅使門(重要文化財)は、平氏の邸宅の遺構という説もありますが、様式から見て鎌倉後期のものと考えられているようです。

Kenninji_6Kenninji_9左写真は三門。「望闕楼」の額がかかっています。近世のもので、近代になって安寧寺(現浜松市西区[旧静岡県雄踏町])から移築したものだそうです。

右写真は、境内東側にある浴室。寛永5年(1628)築とされています。浴室といっても当時は蒸し風呂(サウナ)ですね。

Kenninji_5Kenninji_4左写真は法堂。明和2年(1765)築。
右写真の奥にちらっと見える建物が、方丈(重要文化財)。元々は安芸安国寺(現在は不動院、広島市東区)にあったもので、恵瓊が慶長4年(1599)に移築しました。当初は桃山時代の画家である海北友松の障壁画があったそうです(現在はこれも京博に寄託されているとか)。

■京都市東山区

2011.01.10

新春の上洛

土曜は日本史研究会のシンポジウム「移行期からみた中世と近世」に出席。100人を大きく超える出席者だったそうで、大盛況でした。
最近の中近世移行期の研究情況はどうも「中世」と「近世」のニッチになっている印象があるわけですが、必ずしも関心が低下したわけではないということでしょうか。大学の講座や研究会の構造の問題があってなかなか相互交流が難しい状態ですが、今後ともこういう機会が積極的に持たれることを期待します。まあ、頼ってばかりではだめなのですが…。

当日の報告内容は多彩で、勉強になりました。ただ、報告や議論を聞いていて(今回はおとなしく聞いてました(笑))、この時代を対象とした研究は今後どのように進めて行くべきかといった所は、なかなか共通認識を得るのは難しいなとは思ったりもしました。もっとも、それだけ解決すべき課題が多く存在するということでもあると思いますので、私は私なりの課題を解決すべく努力したいと思います。今回の報告が近々活字になるようなので、そこでまた考えたいところです。

さて、今回も懇親会に出席しましたが、どうも私は京都で何度も同じ話をしているらしい…(指摘された点以外に、同じ人に同じ質問をしたことにも後で気づきました(笑))。大いに反省いたします。そもそも与太話ばかりではなく、少しは研究の話もしないといけませんね(笑)。

空き時間には吉田神社へ参詣。私は個人的には「神祇不拝」ですが(笑)(真宗門徒というわけではない)、去年は『兼見卿記』を使って論文を書いたので、そのお礼というか、改めて境内を歩いてみたかったので。



話は変わって、大河ドラマを見ましたが、予想以上に無難な作りだったように思ったものの、それゆえか?なんかインパクトに欠けたなあ。はっきり言えば、ありきたりな内容だった感じ。これから独自色が出てくるんでしょうけど、それが受け入れられるかどうかでしょうかねえ。
ただ、小谷城のCGはなかなか良くできていたと思いました。

2011.01.05

八坂神社

Yasakajinja_1祇園のシンボル、八坂神社です。有名な話ですが、この名前は近代になってから呼ばれるもので、前近代は祇園社あるいは感神院と呼ばれていました。
写真の石鳥居(重要文化財)は、正保3年(1646)築。

Yasakajinja_2Yasakajinja_3社伝では、656年(斉明天皇2年)に素戔嗚尊を祀ったのを始まりとされていますが、実質的には貞観18年(876)に同所に建立された観慶寺と、藤原基通が寄進した精舎が始まりと考えられています。以後、観慶寺は境内の薬師堂を指し、全体の名称は祇園社感神院として定着していったそうです。

平安期から祭礼の御霊会(祇園会)が重要な祭礼として位置づけられ、長く守られてきました。要するにこれが祇園祭ですね。古代国家における中枢神社の二十二社に列しましたが、興福寺、のちに比叡山延暦寺の支配下となり、中世以降は特に商人の信仰が篤く、座を形成した彼らは神人として祇園社に属しました。そのため京都における商業活動に深く関わることとなり、時には武家権力や延暦寺とも軋轢を生んだことはよく知られています。

近世になると権力的な要素は失いましたが、引き続き商家の信仰を集めていました。かつては現在の円山公園の辺りまで境内でしたが、近代になって現在と同じ境内に縮小したそうです。

Yasakajinja_5Yasakajinja_8左写真が本殿(重要文化財)。「祇園造」と呼ばれる独特の造りで、承応3年(1654)築。
右写真は、四条通りからの参道入口にある楼門(重要文化財)。こちらは境内に遺る唯一の中世建築で、明応6年(1497)築です。でも近年塗り直したのか、見た目はあまり古さを感じませんでした。

■京都市東山区

2011.01.03

【受贈】『鎌倉期官人陰陽師の研究』・『陰陽道史料目録』

赤澤春彦『鎌倉期官人陰陽師の研究』(吉川弘文館、2011年)、同『陰陽師史料目録―院政期~鎌倉期篇―』(日本史史料研究叢書6、日本史史料研究会、2010年)を受贈。ありがとうございます。

私は直接専門を同じくしているわけではないのですが、著者とは、長らく切磋琢磨する研究仲間です。一挙に重厚かつ重要な成果を出されたことを慶びたいと思います。

安倍晴明の人気沸騰ぶりに比べて、中世の陰陽師といっても一般にはほとんど浸透していないのが現状。一般はともかくも、研究者間でもほとんど同じような状態なのはもっと問題で、その克服に精力的に取り組んだ成果と言えるでしょう。
もっとも、単に中世の陰陽師の存在を明らかにして終わるというものではなく、当時において彼らの存在がどのように国家あるいは社会に関係していたか、が主題となるでしょう。そこへどのように切り込んでいるかについては、本書を手にとってご確認してみてください。

そして目録の方ですが、著者のこれまでの足跡がそのまま一冊になった内容と言えるのでしょう。8200件近くも立項されており、圧巻。索引や資料を付ける配慮もされているのには敬意を表したいと思います。今後、鎌倉期の陰陽師研究をする上では避けて通れない業績です。

4642028935鎌倉期官人陰陽師の研究
赤澤 春彦
吉川弘文館 2010-12

by G-Tools

2011.01.02

2011年謹賀新年

明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

正月しかまとまった時間がないので、ここは気合いを入れてゼミ報告準備を…と思いつつも、やはりなかなかうまくいかないもんです。ここまでぐうたら三昧なので、これから励みたいところ。
今週はもう授業があるし、ちっともお祭り気分になれません(笑)。

そして今週末にはいきなり京都でイベントがありますが、楽しみにしております。西のみなさまには、新年のご挨拶ができれば幸いです。もっとも関東の方々にも、京都で新年初めて会うことになりそうな…。

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