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2011年2月

2011.02.24

常陸の城跡と生ワイン

UshikuUshiku2先週末は毎年恒例の、とある勉強会の合宿。今年は牛久と筑波周辺の史跡を巡見しました。

左写真は牛久城跡。結構立派な城跡でした。後北条氏の手も入っているので、その頃に整備された遺構でしょうか。雰囲気は小机城跡に似ています。

そして、夜は牛久にあるシャトーカミヤ(右写真)。歴史のあるワイナリーで、建物は重要文化財です。ここの売りは殺菌処理をしていない「生ワイン」。非常に飲みやすく、閉店が9時じゃなければ延々飲んでしまって次の日に響くところでした(笑)。

翌日は筑波山の麓あたりの史跡を廻り、小田城跡などを見てきました。やや寒かったですが、天気にはそこそこ恵まれたので、いい旅となりました。

この旅はわりと幅広い年齢層の方が参加するというイメージがあったのですが、今回はなんと私が最年長…。トシを感じるなあ。
見てきた史跡は、また後日紹介したいと思います。

2011.02.18

大山崎 離宮八幡宮

Rikyuhachiman_7Rikyuhachiman_6このシリーズの最後は、大山崎へ。その中心に鎮座する離宮八幡宮です。

山崎は、平安京の成立によって徐々に港町として発達していったとされており、嵯峨天皇の時代(9世紀初頭)には離宮があったことがわかっています。その際、別称として「河陽(かや)」と名付けられました。
その後離宮の機能は失ったようですが、代わって山城国府が置かれ、官衙としての機能を有することになりました。宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)を勧請して成立したという離宮八幡宮の創建は貞観2年(859)とされていますが、国府との関わりで設置されたのでしょうか。ほぼ同時に、淀川対岸の男山に石清水八幡宮(現京都府八幡市)も建立されました。その後離宮八幡宮は、石清水八幡宮の末社となりました。

以後、中世にかけて山崎は淀川水運の拠点となり、商業の町として発展しました。特に有名なのは、灯油として普及していた荏胡麻油の取扱です。石清水および離宮八幡宮神人として保護を得た山崎の商人が独占的に携わり、莫大な利益を得たと考えられています。また、室町期になると金融に携わる商人も現れていることがわかっています。

以後、戦国期にかけて時の権力者の保護を受けてきましたが、京都の度重なる戦乱と堺・大坂などの都市の発達によって徐々に地位を低下させていったようです。最終的には織田信長による楽市楽座によって決定的な打撃を受け、近世には菜種油の普及によって衰退していきました。

ちなみに社殿は元治元年(1864)の禁門の変で被災し、さらには明治8年(1875)に境内地に鉄道が敷設されて(現在のJR東海道線)縮小。現在の社殿は昭和4年(1929)に再建されたものです。

Rikyuhachiman_5Rikyuhachiman_2離宮八幡宮は多くの中世文書を所蔵していることで知られています(「離宮八幡宮文書」(重要文化財))。この文書群によって中世商業の具体像が明らかになった、極めて貴重な史料ですね。

右写真は、「かしき石」と呼ばれる礎石。この地にはかつて相応寺という寺院があったとされ、その名は『土佐日記』にも登場するそうです。その三重塔のものとされており、廃絶後は手水のために使われていたそうです。
境内にはほかに室町期の牓示石があるそうですが、そんなのあったかなあ?

Rikyuhachiman_9山崎は山城と摂津の国境に形成した町で、今も京都府と大阪府の境界が町の中を走っています。その大阪府側にあるのが、この関大明(せきだいみょう)神社(大阪府島本町)。社殿は室町期のものとされています。

参考文献:
大山崎町歴史資料館企画展図録『都とともに―大山崎と洛外の町―』(同資料館、2004年)
(※同資料館学芸員の福島克彦さんより受贈。ありがとうございました。)

■京都府大山崎町

2011.02.13

勝龍寺城・神足城・開田城跡

Shoryujijo_13Shoryujijo_9次は、中世は「西岡(にしのおか)」と呼ばれた京都西郊地域へ。この地域は、室町~戦国期にかけて村単位で小規模領主(当時は「被官衆」と呼ばれた土豪で、国衆と定義されてもいます)が活動していた様子を示す史料が比較的多いことで知られています。それゆえ、戦国期における畿内の小規模な在地領主の研究で注目されてきました。

まずは、その中心地域の神足(こうたり)にある勝龍寺城跡へ。ここは名前の通りかつては半ば要塞化した寺院があったとされており、地域の土豪の軍事拠点になっていました。しかし永禄9年(1566)に、対立していた三好氏(三人衆)の攻撃を受けて敗れ、三人衆の一人の岩成(石成)友通が勝龍寺に入りました。この頃から、城郭としての本格的に整備されたと考えられています。

Shoryujijo_20Shoryujijo_23こちらは、現在の主郭(本丸)の様子。

しかし、永禄11年(1568)に織田信長が上洛すると岩成友通は天王山(山城・摂津の国境)に拠って対抗するも敗れて没落。代わって元亀2年(1571)に入ったのが、足利義昭の側近だった細川藤孝(幽斎)でした。彼は、重層的支配を否定し一元的支配を意味する「一職支配」を信長から与えられたことは有名ですね。藤孝は大規模な普請を行ったようで、現在の勝龍寺城の遺構はこの時に形成されたと考えられています。

天正8年(1580)に細川氏が丹後へ国替えとなり、以後は京都所司代の村井貞勝の支配下にあったようですが、天正10年(1582)の本能寺の変によって明智光秀が支配した後、光秀滅亡とともに一旦廃城となりました。
その後は寛永10年(1633)に永井直清が山城長岡藩主として再整備を行ったようですが、慶安2年(1649)に摂津高槻藩(現大阪府高槻市)へ転封となり再び廃城。以後は再建されませんでした。

Shoryujijo_22Shoryujijo_24現在は史跡公園として整備されています。再建?天守があり、中は資料館になっていました。主郭には、左写真のような石造物が。どういう経緯のものかはわかりませんが…。右写真は、主郭外側にある「沼田丸」と呼ばれる曲輪跡です。

Shoryujijo_6Shoryujijo_5左写真は、近くにある神足神社。ここは神足城跡とされています。城跡というより、領主の居館跡というイメージですが。
神足氏は西岡の土豪の中でも代表格の一族の一つで、土豪はいえ在地領主クラスの規模だったと考えられています。この神足は、九条家領荘園の小塩荘(散在荘園)の中核にも当たり、永正2年(1505)には領主の九条政基が神足城に滞在しています(日根野から戻った翌年で、精力的な人だ)。

ちなみに右写真は竹藪にしか見えませんが(笑)、土塁と堀の跡です。こちらは細川藤孝が勝龍寺城を整備した際のものとされています。

Kaidenjo_4Kaidenjo_6そしてこちらは、阪急長岡天神駅前のマンション敷地内にある、開田(かいでん)城跡の土塁。この辺りは開田村と呼ばれた地域で、やはりここを支配する中小路氏の居館跡とされています。中小路氏は地域の鎮守と思われる開田天神(現在の長岡天満宮)の神主だったようで、今も末裔が長岡天満宮の神官をされているそうです。
この開田城は、『大乗院寺社雑事記』文明2年(1470)4月27日条に山名是豊らが攻撃したとある記事が初見とされていますが、この記事は同じ西岡の鶏冠井(かいで)城(現京都府向日市)の誤りだそうで(読みが似ているためか)、実際には15世紀末から16世紀初頭頃に築かれたようです。

参考文献:
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(日本史リブレット26、山川出版社、2004年)

■京都府長岡京市

2011.02.12

桂川用水を歩く

桂川西岸地域は、中世に灌漑の用水路が整備され、形を変えつつも基本的には現在に受け継がれています。

Arashiyama_1Arashiyama_2左写真は、お馴染み嵐山の渡月橋。ただ、今回はこちらがメインではなく、渡月橋の上流側にある右写真の堰。桂川大堰と呼ばれており、これが桂川用水の基点です。

この灌漑で潤う桂川西岸地域は、中世では上桂・下桂の上流地域から、革島・久世などの下流にかけて11箇所の荘園からなり、「十一箇郷」と総称されていました。また、松尾社は用水の鎮守の役割を担っていたようです。

そのうち今回歩いたのは上桂の地域です。上桂荘は中世には七条院領の荘園になり、宇多院を経て東寺に寄進されました。室町期の代表的な東寺領荘園の一つとして知られています。
ちなみに一方の下桂荘は長講堂領の荘園で、一部は近衛家領にもなっていました。日野家が領家として管轄していたそうです。こちらは史料が少ないのでよくわからないようですが。

Arashiyama_3Arashiyama_4桂川大堰から分かれた水は、この一ノ井堰から取水され、用水へ水が流れていきます。中世の取水口はここではなく、もう少し下流だったとも言われているそうですが。

Matsuo_6こちらは、用水と松尾社の参道が交叉する所。

ここから阪急上桂駅に向かって、用水沿いに歩きました。ただ、時期的に水を流す時期ではなかったので、いくつかの取水施設を見たものの見応えがなかったので写真を撮らず(水が流れていないと、ゴミが溜まっていたりするので…(笑))。こちらを参照。

Katsuragawayosui_1Katsuragawayosui_3左写真は、用水の分岐点。確か右が上桂荘方面、左が下桂荘方面だったかな。
右写真は、上桂の鎮守の御霊神社です。

これまでの研究によって中世の用水がかなり正確に復元されていることで知られています。実際に歩いてみて、現況との異同について明確にわかるわけではありませんが、今もそこそこ田んぼが残っていて、多少なりとも想像力をかき立てられます。
ただし、用水そのものは伊勢湾台風によって大きな被害を受けたそうで、その後再整備された過程でだいぶ変わったと言われています。

私は上桂荘の研究にはあまり詳しくなく、史料もじっくり読んだことはないんですが、今後史料を読むことがあれば、実見した風景を想像しながら考えてみたいと思います。まあ、もしそうなればもっとじっくり見学し直す必要がありそうですが…。

■京都市西京区

2011.02.09

泰斗の書評会など

先日、東京歴史科学研究会主催で『深谷克己著作集』(校倉書房)の書評会があったので出席。といっても、当日まですっかり忘れていて大遅刻。着いた頃にはもう討論でしたが…。

近世史研究について情けなくなるほど無知なので、ちょっとは勉強したいという思いに駆られて出席したわけでして、その点では大いに勉強になりました。現代社会の諸問題と研究に対する問題関心の密接な関係について議論が盛り上がったのは興味深かったです。

その辺では、中世よりも現代に近い近世史の強みということかな。もっとも、当然かもしれませんが、中世史との関わりについては言及が多くはありませんでした。近世史をやっている人にとって中世史というのはあまり参考になる点が多くはない、という側面もあるんだろうなあ。私一人で何ができるわけでもありませんが、討論を聞きながら学徒の一人として勝手に考え込んでいました(笑)。

ともあれ、先達の業績を受けて今後の近世史研究がどのように進んでいくのか、少なからず興味を抱いたのでした。いつものごとく、その後は浴びるように飲んで帰宅。


毎年のことですが、卒論・修論・博論に向けて動きのある時期になりました。それぞれについていろんな場所で慰労する機会があり、前途洋々を期するのでした。かつて書いていた頃の苦悩を考えれば二度と経験したくはないですが(笑)、私にはもう完成させた喜びを味わう機会が無いことを思うと一抹の寂しさを覚えたりもします。勝手なもんです。

2011.02.05

松尾大社

Matsuo_2Matsuo_4再び京都から。…といっても、京都の西の外れ、桂川西岸の山裾に位置する松尾(まつのお)大社です。社伝によれば、大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、秦氏の氏神として造営したのが始まりとされています。秦氏は5世紀頃から葛野(かどの)と呼ばれたこの地域に居住しており、在地信仰を発祥として建立されたものと考えられています。

古代から中世前期にかけて何度も行幸を受けており、京都にあってもトップクラスの有力神社だったことがわかります。中世にも多くの荘園を抱え、また酒造業者の信仰を集めたとされています。酒造業者の尊崇は今に続いていて、境内には多くの酒樽が奉納されていました。

近世においても幕府から保護を受けており、近代に官幣大社となりました。明治維新まで秦氏の末裔が神主を継承していたそうです。もっとも、実態としては摂社の月読(つきよみ)神社長官を継承していた中臣氏系の伊岐氏が実権を握っていたそうですが。

Matsuo_12Matsuo_18左写真が楼門。近世初期のものとされています。
右写真は拝殿。本殿とは少し離れており、独特の配置です。

Matsuo_10そして、こちらが本殿(重要文化財)。応永4年(1397)築とされていますが、実際は天文11年(1542)に大修理が施されていて、この時のものが伝わっています。「松尾造」という独自の建築技術が用いられているそうです。

Matsuo_16境内には「亀ノ井」と呼ばれる、名水が沸くとされる井戸もありますが、見落としました(笑)。
そして、境内にあったのがこの「樽うらない」。実際にやらなかったのでどうやって占うのかはわかりませんでしたが、ネットで調べてみると体験談がたくさんヒットしますね。珍しいので写真は撮っておきました(笑)。

■京都市西京区

2011.02.04

年度末進行はじまる

まだ2月になったばかりですが、年度末絡みで雑事が増えてきました。

授業の方は、昨日の試験で終了。室町・戦国の古文書を読んだわけですが、やはり鎌倉に比べて戦国はくずし字が格段に難しいので、出題は見送って室町期の文書を出題。まだ採点してないけど、出来はどうか。

文書様式が体系立っている鎌倉期は説明がしやすかったけど、徐々に崩れてくる室町期は少し説明に手間取った。とりわけ難儀なのが、やはり御教書が変質してしまうこと。本来の御教書(奉書)も依然としてあるのに将軍直状も同じく御教書と呼んだりして、当時の人は混乱しなかったんですかねえ。
ここで学生が混乱すると挫折の元なので(笑)、今後機会があればもっと説明の方法を工夫した方がいいかもしれないなあ。


そして、今の身分も今年度までなので、その絡みでいろいろと忙しい。お恥ずかしながら、このところはちっとも「研究」と呼べるような作業ができていません。まあしばらくは仕方ないか…。
ここの更新もすっかりペースが落ちていますが、来週からは少し時間に余裕ができるので、ぼちぼち更新していきたいと思います。史跡ネタもまだ残ってますしね。

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