裏六甲と呼ばれる、六甲山系の北側の山間部へ。今では鄙びていますが、かつては街道も通り、播磨へ抜ける交通の要衝だったようです。
その中心とも言える淡河(おうご)にある石峯寺(しゃくぶじ)。寺伝では651年(白雉2)に孝徳天皇の勅願寺として開かれたとされ、天平19年(741)に行基が薬師堂を建立した法相宗の寺院で、その後弘仁14年(823)に空海が訪れて真言宗に改宗したとされています。どの辺まで事実かはわかりませんが…、鎌倉期には存在していたことは確かなようで、中世に最盛期を迎えたとされています。戦国期にかけて戦火に遭い、やや規模を縮小させて今に至っています。
この地域の領主である淡河氏は元は北条氏の一族とされ、承久の乱の後に入部しました。石峯寺が菩提寺だったかどうかはわかりませんが、南北朝期の寄進状が遺っているそうで、保護を受けていたと考えられます。
ただし淡河氏は南朝方に与したため幕府方の赤松氏と対立し、暦応2年(1339)に淡河で合戦となっています。その後淡河氏は幕府方に転じたようで、いわば国人領主となりましたが、後には赤松氏の影響を強く受けるようになり被官化していったと思われます。嘉吉の乱で赤松氏が没落した後は山名氏に従い、石峯寺も山名氏から安堵を受けたようです。
応仁の乱の後に赤松氏が復権した後は、淡河氏は東播磨の守護代で三木城(現兵庫県三木市)を本拠とする別所氏の麾下となりました。そして天正7年(1579)に別所氏は羽柴秀吉の兵糧攻めを受けますが、淡河氏も籠城し、落城とともに没落しました。その後淡河は赤松氏一族の有馬則頼に与えられたそうです。なお、関連文書などがこちらで紹介されています。

とまあ、室町から戦国期にかけてはなかなか興味深い歴史を持つ地域なんですが、それはともかく、このお寺には中世の痕跡がいくつか残されています。その一つが、左写真の薬師堂(重要文化財)。はっきりとはわかりませんが、明応年間頃(15世紀末)の築とされています。和様と天竺様からなる折衷様とのことです。
右写真は本堂。こちらは時代は下るようです。

そして、堂々とそびえる三重塔(重要文化財)。国指定文化財の三重塔としては最大級だそうです。もともとこけら葺きだったのを戦後に銅板葺きに改めたらしい。こちらも詳しい年代は不明ですが、室町中期の築とされています。

こちらは、確か本堂にかかっていた鰐口。正和4年(1315)の銘がある鰐口を所蔵しているそうなんですが、これがそうでしょうか。あるいはレプリカ? 近くで見られないのでよくわかりませんでしたが、どうでしょう。

そして、石造物もあります。左写真は、暦応4年(1341)に「一結(いっけつ)衆」と呼ばれる信仰集団が建立した五輪塔です。領主によるものというより、比較的庶民に近い人々が寄進したものと考えられ、当時の信仰の在り方を考える上でも貴重なものなのでしょう。
そして周囲には右写真のような小さな石造物もありました。中世のものも混じっていそうです。
■神戸市北区
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