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2011年7月

2011.07.26

久々比神社・雅成親王墓

Kukuhijinja_1Kukuhijinja_2こちらは久々比(くくひ)神社。延喜式内社。創建年代は不明だそうですが、「久々比」とはコウノトリを意味するそうで、『日本書紀』にも但馬国からコウノトリが献上されたという逸話があることから、その献上者を祀ったという伝承もあるそうです。
その後の来歴もよくわからないようで、地域の小さな神社として今まで受け継がれてきたのでしょうか。

Kukuhijinja_3Kukuhijinja_8右写真の本殿(重要文化財)は、1971年(昭和46)の解体修理によって墨書が発見され、その記述から永正4年(1507)の築であることがわかりました。三間社流造と呼ばれる様式だそうです。ただし、棟札や墨書によると近世以降にいくつかの修理や改変が加えられているそうです。

Masanari_3そして、JR豊岡駅を越えて西側にあるのが、この雅成親王墓。雅成は後鳥羽院の子で、六条宮と呼ばれました。源実朝の死後に将軍候補として挙がったようですが、後鳥羽は拒否。承久の乱によって父や兄に連座して但馬へ配流となりました。但馬では守護太田昌明の監視下で軟禁されたそうで(御所はやはり兄の順徳院が流された佐渡と同様、「黒木の御所」と呼んだらしい)、建長7年(1255)に56歳で没。

しかし、どうやら雅成は後鳥羽の死後に一度赦免されて京都へ戻っているらしく、九条道家の失脚とともに再び但馬へ流され、この地で没したという説もあります。歌集が有名だそうですが、私は無粋なものでその辺は…。

■兵庫県豊岡市

2011.07.24

日帰りで房総半島一周

まだテストと採点は残っているけど、前期の授業が終わったのと、この週末は特に予定もなかったので、千葉県内の鉄道一日乗り放題のフリーパス(1800円)を使って房総半島を一周してきました。

まずは、内房線で館山へ行く。着いた際には雨が降っていたのでどうなることやらと思ったけど、すぐにやみました。
次に乗る電車を時刻表で調べた後、昼飯。店は事前に色々と調べていたけど、時間的にあまりのんびりできない感じなので、駅前の回転寿司に入る。まあそこそこかな。安くはなかったけど。 館山には回転寿司の有名店が別にあるようですが、駅から遠いので選択肢に入らず。

20110723_120110723_2腹ごしらえをして、徒歩で館山城まで。片道25分くらい。城跡の麓にある市立博物館で見学して、登城。左写真が頂上から市街地の眺め。右写真が本丸。天守閣はもちろん模造、というか、明らかに犬山城をモデルにした模様。中は南総里見八犬伝にまつわる展示がされているらしいが、今回はパス。
博物館では、『さとみ物語―戦国の房総に君臨した里見氏の歴史』(第二版、同博物館、2010年)を購入。里見氏の歴史についてまとまった本。

20110723_3登った道から反対側を降りると、しばらくして堀切がありました。この辺でやっと城跡らしさを感じる。さらに降りると、右写真の供養塔。里見氏が改易になった時に殉じた八人の遺臣を祀ったもの。この八人が八犬伝のモデルになったわけですね。
城跡について詳しくは、また忘れた頃にでも…。

歩いて駅へ戻り、安房鴨川行きに乗る。結構混んでいたけど、千倉でどっと降りてガラガラに。鴨川で外房線の電車に乗り換えて上総一ノ宮へ。

20110723_4駅から歩いて10分弱で上総一宮の玉前(たまさき)神社へ。境内は小さく、しかも本殿が修理中で残念。でも、隙間から修理の様子を少し覗くことができました。柱しか残ってなかったけど、それはそれで興味津々。

駅へ戻るが、しばらく電車がないのでのんびり休憩。最寄り駅まで行ける特急が来たので、それに乗って帰りました。
結局、特急等を使ったので交通費は結構かさんだけど、それでも通常運賃よりはかなり安く済みました(はず)。
8月下旬にまた使える期間があるので、今度は利根川沿いへ行ってみようかと画策しています。

2011.07.17

中嶋神社・酒垂神社

Nakajimajinja_1Nakajimajinja_4ここからは豊岡の中世関連史跡を訪問順に。
まずは中嶋神社。延喜式内社。この地域は「三宅」と呼ばれるように古代の屯倉があったものとされています。日本神話に見られる田道間守命(たじまのもりのみこと)を祭神としています。常世の国から不老長寿の薬「非時香果(ときじくのかぐのみ)」を持ち帰ったということだそうで、その由縁から「菓祖」とされ菓子業者の信仰を集めているそうです。
その後、7世紀初頭に田道間守の子孫の豪族・三宅連(みやけのむらじ)が創建したと言われているとか。

Nakajimajinja_5田道間守の碑。ともあれ、古代豪族の氏神として建立された神社であることは確かなようです。

Nakajimajinja_6Nakajimajinja_7左写真は拝殿で、右写真の鮮やかな建物が本殿(重要文化財)。室町期の築とされています。


Sakataru_1Sakataru_4こちらは、酒垂(さかたる)神社。こちらも延喜式内社。
社伝によると、杜氏の祖神を祀る神社で、郡司だった物部韓国連久々比命が発祥とされています。中世では大蔵明神と呼ばれていたそうです。

右写真が本殿(重要文化財)。棟札によると文安元年(1444)築。棟札によると、荘園領主の宝幢寺(現鹿王院)や、公文・神主・名主百姓等が勧進によって造営されたことがわかるそうです。近世に改変が加えられましたが、戦後に元の形に復元されました。

■兵庫県豊岡市

2011.07.16

出石神社

Izushi_3Izushi_6出石へ。蕎麦を食べた後に訪れたのが、出石神社。但馬国一宮です。国府は少し離れた所にあったものの、中世後期には出石に守護所が置かれて山名氏の本拠地となりました。この神社の近くに山名氏の居館もあったと思われます。

神社のすぐ裏手の山には、山名氏が本拠とした此隅山(このすみやま)城跡もあり、行きたかったのですが天気や時間の関係で今回は断念。南北朝期に山名時義が築いたとされています。16世紀後半には少し離れたさらに急峻な山に有子山城を築いて移り、結局落城しましたが、近世にはその麓が城下町として発展しました。宝永3年(1706)に信濃上田から仙石氏が移封した際、蕎麦を持ち込んだのが出石そばの始まりとされています。

Izushi_8Izushi_9左写真が拝殿。右写真奥が本殿。今の社殿は大正時代に再建されたものだそうです。

Izushi_10こちらは、近くで発掘された鳥居の残欠。平安期のものという説明書きがありましたけど、実際のところはどうなんでしょうね?

■兵庫県豊岡市(旧出石町)

2011.07.15

竹田城跡

Takedajo_63Takedajo_60ここからは但馬東部の史跡をいくつか。
その中でも代表格なのが、この竹田城跡。中世山城の縄張と石垣がほぼ完形で遺されている、日本でも数少ない城跡として有名ですね。

竹田城は、15世紀半ばに但馬守護の山名持豊(宗全)が重臣の太田垣氏に築かせたのが始まりとされています。時代は嘉吉の乱によって山名氏が播磨守護を獲得した頃とされており、播磨支配との関係で要衝に築かせたのでしょうか。
その後16世紀後半まで太田垣氏が支配したものの、天正5年(1577)からは羽柴秀吉の攻撃を受けて落城。太田垣氏は没落し、代わって城主となったのは秀吉の弟の羽柴秀長でした。天正13年(1585)には、赤松広秀(斎村[さいむら]政広)が城主となりました。彼は関ヶ原ではじめ西軍に荷担したのち東軍に寝返って鳥取城を攻撃したものの、城下を焼き討ちしたことを咎められ、自害。これによって竹田城も廃城となりました。

現在の遺構は、赤松広秀時代に整備されたものと考えられています。
上の写真は、大手門のあったとされる辺りです。ご覧の通り、訪問時は土砂降り。日頃の行いの良さが出ました(笑)。ガスがひどくて遠くまで見通せませんでした。今度は是非晴れている日に再訪したいものです。

Takedajo_50Takedajo_39左写真は三の丸で、そこから本丸方面を見たのが右写真。

Takedajo_38Takedajo_32そしてこちらが二の丸。何もないとかなり広く見えます。

Takedajo_25Takedajo_23そして、本丸。右写真は、本丸から二の丸・三の丸方面を眺めた景色です。晴れているとここがビュースポットなんですが。

Takedajo_19Takedajo_20本丸下の「平殿」と呼ばれる曲輪。右写真は、そこから二の丸とは反対方向(南二の丸・南千畳方向)を見た景色です。

Takedajo_8Takedajo_10こちらは、本丸西側の「花屋敷」と呼ばれる曲輪と、そこから本丸方向を見た景色。

竹田城は冬の朝の雲海がまた見所のようなのですが、今回の景色はそれに近いでしょうか(笑)。まあ、晴れているのと雨が降っているのとでは全然趣は違うでしょうけど…。
晴れた日の鮮やかな写真はほかのサイトでたくさんあると思いますので、それらもご参照ください。

■兵庫県朝来市(旧和田山町)

2011.07.13

少々疲れの溜まる頃

ここの更新ペースが落ちていますが、仕事のペースもかなり落ちております…。
元々暑さに弱いのですが、今年は早々に梅雨が明けてしまい、例年になく辛い夏になりそう。節電云々とかいう問題もあるしなあ。

まして職場のエアコンの調子が悪く、職場でほとんど仕事が出来ず、さらに作業が滞っています。今週末にはエアコンを交換することになったので、来週からは取り戻していかないと。なにせ今月締切の原稿を2つ抱えていますが、まだ一文字も書いていません(笑)。

授業の方は、1コマが今週で終了(再来週に試験)。日本経済史の概説(通史)で、今期は明治維新までやるつもりだったものの、結局享保の改革で時間切れ。手探り状態だった古代で時間が掛かった上、少しネタを詰め込みすぎたのかも。話したいネタをかなり端折ったりしたが、取り戻せないままでした。改善する余地があることを痛感。

ま、なにはともあれ新しい体験が多く、それなりに楽しんでやっています。とはいえ、自分の研究だけに没頭できる春までの環境がいかに恵まれていたかを改めて思い知らされています(笑)。夏休みはちょっと頑張らないと…。

ちなみに、後期から始まるゼミには13人が参加する予定。私にとって初めてのゼミ生たちの未来やいかに?

2011.07.11

有馬温泉の史跡

Arima_6Arima_8言わずと知れた歴史ある温泉地の有馬。中世の記録類などの史料にも時折登場しており、古くからの湯治場でもありました。この辺の説明は省略します。

左写真は、太閤の湯殿館という資料館にある中世の湯船の遺構。湯船と言っても当時は蒸し風呂が主流で、この風呂もそうだったようです。
右写真は、湯殿館の脇にある石垣。古いものだと聞いたような気がするのですが、実際はどうでしょうかね。

Arima_2Arima_9左写真は、その近くにある念仏寺。天文7年(1539)創建とされ、北政所(おね、ねね)の居所跡だったとも言われているそうです。写真の本堂は正徳2年(1712)築で、有馬温泉では現存最古の建物だそうです。

右写真は、極楽寺。上記の湯殿跡は、このお寺の境内から見つかりました。聖徳太子創建の伝承があり、現在の建物は近世に再建されたものです。

Arima_10そして、界隈でもひときわ大きな伽藍を構えているのが、温泉寺。寺伝では行基の創建とされています。有馬温泉の鎮守とも言える役割を担った寺院で、天正4年(1576)に一度焼失したものの、豊臣秀吉によって再建されました。
写真は薬師堂で、近世に再建されたもの。本尊は中世のものとされる、波夷羅(ばいら)大将立像(重要文化財)です。
廃仏毀釈によって、薬師堂を除く堂舎は解体されてしまったそうです。なお、当初は真言宗でしたが、近世に黄檗宗に改宗しています。近くには、温泉寺の鎮守である湯泉神社がありますが、こちらは立ち寄らず。

■神戸市北区

2011.07.04

六条八幡神社

Rokujohachimangu_12Rokujohachimangu_11淡河から南へ山を一つ越えるとあるのが山田地区。旧播磨国美囊(みなぎorみのう)郡に属する淡河から、摂津国八部(やたべ)郡に入ります。余談ながら、山田と淡河との間では、中世に堺相論があった旨がわかる史料もあるそうです。

その山田の中心に鎮守として鎮座する、六条八幡神社(八幡宮とも)です。
縁起によると神功皇后の行宮跡とされ、長徳元年(995)の創建と伝わっています。その後、山田の領主となった源為義(六条判官)が、京都の六条左女牛(さめうし)八幡を遷して再興したともされています。

ただし山田荘と呼ばれたこの地域は、12世紀には平家領だったとみられており、文治3年(1187)に平家没官領となったこの地を源頼朝が源氏に縁のある左女牛八幡(現在は東山の若宮八幡宮社、京都市東山区)に寄進したそうです。この神社が勧請されたのは、それによるものと考えられています。
右写真は薬師堂です。神仏習合色を遺しています。

Rokujohachimangu_9Rokujohachimangu_8左写真が拝殿、右写真が本殿。本殿は貞享5年(1688)築です。

Rokujohachimangu_7Rokujohachimangu_5そしてこちらが三重塔(重要文化財)。実際の明るさは右写真の状態でして(笑)、文明の利器のすばらしさを実感しました。

この塔は文正元年(1466)の築。和様とのこと。鷲尾綱貞という人物が寄進したもので、檜皮葺の質実剛健な造りです。

■神戸市北区

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