久々比神社・雅成親王墓

こちらは久々比(くくひ)神社。延喜式内社。創建年代は不明だそうですが、「久々比」とはコウノトリを意味するそうで、『日本書紀』にも但馬国からコウノトリが献上されたという逸話があることから、その献上者を祀ったという伝承もあるそうです。
その後の来歴もよくわからないようで、地域の小さな神社として今まで受け継がれてきたのでしょうか。

右写真の本殿(重要文化財)は、1971年(昭和46)の解体修理によって墨書が発見され、その記述から永正4年(1507)の築であることがわかりました。三間社流造と呼ばれる様式だそうです。ただし、棟札や墨書によると近世以降にいくつかの修理や改変が加えられているそうです。
そして、JR豊岡駅を越えて西側にあるのが、この雅成親王墓。雅成は後鳥羽院の子で、六条宮と呼ばれました。源実朝の死後に将軍候補として挙がったようですが、後鳥羽は拒否。承久の乱によって父や兄に連座して但馬へ配流となりました。但馬では守護太田昌明の監視下で軟禁されたそうで(御所はやはり兄の順徳院が流された佐渡と同様、「黒木の御所」と呼んだらしい)、建長7年(1255)に56歳で没。
しかし、どうやら雅成は後鳥羽の死後に一度赦免されて京都へ戻っているらしく、九条道家の失脚とともに再び但馬へ流され、この地で没したという説もあります。歌集が有名だそうですが、私は無粋なものでその辺は…。
■兵庫県豊岡市







































































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