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2011年8月

2011.08.29

【受贈】『中世武士団構造の研究』

田中大喜『中世武士団構造の研究』(校倉書房、2011年)受贈。ありがとうございます。

本書は主に鎌倉から南北朝期にかけての「武士団構造」を研究したものです。武士団とは「武士という社会集団」のことであり、その存在形態を究明することによって、武士が支配階級として君臨した中世社会の特質が明らかになるという問題関心が主眼となっています。

その分析視角としては、研究史では領主制論が中心となっていたわけですが、近年では領主制論を相対化する動向を受けて、大きく三つの分析軸を設定しています。それらは「俗縁的結合と惣領制」「地域社会のなかの武士団」「高権力とイエ支配権」であり、それぞれのテーマに分けて分析がされています。
そのうち「地域社会のなかの武士団」というのは若干抽象的なので付言すると、地域社会の結節点となる場(いわゆる「都市的な場」などの流通拠点や流通路)への武士団の関わりを具体的に明らかにすることによって、地域社会と武士との関係を支配・被支配という関係に限定されない形で位置づけようとするものと理解されます。

個人的には「人返法」を取り上げた第三部第四章が興味深かったです。中世社会における百姓は去留の自由があるのかどうかについて長い議論があり、近年では去留の自由が一般的だったという理解が浸透しつつあります。しかしそうではなく、人返法(逃散・逃亡の自由の否定)が普遍法として社会に浸透しており、年貢未進等による逃散に対処する債権回収の手段として適用されたと指摘しています。
民衆に対する債権回収が最終的に人身売買(身売り)にまで及ぶことは江戸時代ではよく知られている話で、史料が多くはないとはいえ中世にも一般的にそのような慣行が存在した可能性の高いことは予想されます。それだけに、債権者による債務者の身柄確保が、重要な債権回収手段として法的に担保されていたとする点は説得力があります。ただ、債務者の身柄確保が唯一の債権回収手段ではないことも確かで、いわゆる「壊取(こぼちとり)」などの資産回収の強制執行も中世では広く認められているところであり、それらの法慣習の運用との関係がどうなっていたのか、などといろいろと考えさせられるところです。

本書の中心の論点とは違うところで長々と述べましたが(笑)、中世における武士あるいは領主を扱った最新の研究成果として広く読まれることを望みます。

4751743201中世武士団構造の研究 (歴史科学叢書)
田中 大喜
校倉書房 2011-08

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2011.08.27

石龕寺

Sekiganji_1Sekiganji_7このシリーズの最後は、石龕寺(せきがんじ)。寺伝によると、587年に聖徳太子によって開かれたと言われています。
左写真の仁王門は鎌倉期のものとされています。扁額が小野道風のものとされる古いもののようだったのですが、写真撮り忘れ。右写真は本堂に当たる毘沙門堂。

この寺院は、足利尊氏との関わりで知られています。『太平記』によると、観応の擾乱の折に一時京都を逐われて播磨に逃れた尊氏は、足利義詮と仁木頼章らをここに滞在させたとされています。この頃には足利氏の保護を受けていたことが知られます。

天正7年(1579)の明智光秀による丹波攻めによって、仁王門を除き焼失。江戸時代に復興したとのことです。今は紅葉の名所として知られているようです。

Sekiganji_8_2Sekiganji_9境内にある堂舎。右写真は焼尾神社という社で、創建は仁治2年(1241)とされています。石龕寺の鎮守だったようです。

Sekiganji_15Sekiganji_3左写真は仁王門に安置されている仁王像(重要文化財)。像内に墨書があり、仁治3年(1242)に仏師肥後法橋定慶という人によって造られたものとのことです。撮影はこのアングルが限界でした。

右写真は、仁王門前にある町石。石龕寺には参道に中世の町石が遺されています。25基が現存していて、中には応永6年(1399)に願主乗泉という人が寄進した旨が銘で確認できる町石があるとのことですが、日も暮れてしまい残念ながら今回は見つかりませんでした(地元の人にも聞いたんですけどね…)。ちなみに写真の町石は、銘はあるようでしたがよくわかりませんでした。

このほか足利尊氏が寄進したとされる鰐口など、多くの文化財を所蔵しています。機会があれば紅葉の季節に再訪してみたいですね。

■兵庫県丹波市(旧山南町)

2011.08.23

コピペはバレると心得よ

試験当日の病欠者を対象として追試を行ったが、試験問題は本試験と同じものを出題した。おそらく受験者もそれを想定しているだろうから、多少はまともな答案が出てくることを期待したが、結果は…。

ものの見事にほぼ全文コピペ。

自筆ノートの持ち込みは可としていたので、それを守っていたならば、わざわざノートに書き写してきたということか(追試は事務が試験監督をするので私は確認していない)。まったくの無駄な努力というべきだ。せめて参考書を写してくるくらいであれば…と思ってしまうのが情けない。

私は基本的に教場試験をすることにしていて、レポートは極力採用しない。レポートにするとどうしても誘惑に負けてコピペに走る(そして単位を落とす)学生が出てしまうからだが、その不安が早速現実のものとなった感。

もしかしたら大学生やこれから大学に進学する予定の高校生などもここを見ているかもしれないと想定して書きますが、コピペはどんなに偽装しても絶対バレます。その道の専門家である教員を甘く見てはいけない。コピペには、専門家がすぐに見極められるポイントがいくつもあるのです。

そして、バレると損をするのは自分だけです。安易にコピペに走らず、教科書・参考書・ノートを頼りに、どんなに拙くても自分の言葉で答案を書くこと。そのまじめな姿勢はちゃんと教員に伝わります。ちょっと点数は足りないけど、努力に免じて単位を与えるということは往々にしてあります。迂遠ではあっても安易な道を選ばないで、ちょっとばかりの苦労をする方が自分のためになると心得てもらいたい。


もっとも今回の場合、コピペした文章がそのままオリジナルだとしても、多分単位は認定していないが。所詮は授業内容を踏まえた文章になっているはずがないからです。ネットで転がっているような内容ならば、大学で授業をする意味なんかない。少なくとも私の授業は、そのつもりでやっている。

2011.08.19

黒井城跡と興禅寺・万松寺

Kuroi_1Kuroi_18丹波を南下。黒井城跡まで来ました。ただし時間的に登るのは無理だったので、麓の史跡を。

この地域はかつて春日部と呼ばれており、春日社領荘園だったと言われています。南北朝期に赤松則村(円心)の子である貞範が足利尊氏より恩賞としてこの地を与えられ、黒井城を築城したとされています(築城時期については諸説あり)。貞範に始まる赤松氏の一流は春日部赤松氏と呼ばれ、有力な分家となりました。ちなみに、足利義持の寵愛を受け、応永34年(1427)に当主赤松満祐出奔事件のきっかけを作った赤松持貞は、春日部家の出身です(貞範の孫)。

その後の詳しい経緯はよくわからないようですが、15世紀末になると代官だったと思われる国人の荻野氏が実質的にこの地域を支配したようで、16世紀になると、黒井城はその一族か被官と思われる赤井氏が居城としていました。赤井直正が荻野氏から乗っ取ったと言われ、直正はのちに荻野氏を名乗ってもいます。荻野氏との関係ははっきりしませんが、いわゆる主家乗っ取りなのでしょうか?

16世紀の丹波は守護細川京兆家の内訌に振り回されましたが、16世紀半ばには赤井氏が丹波国氷上郡をほぼ制圧し、船井郡の内藤氏や多紀郡の波多野氏と割拠したようです。
ところが元亀元年(1570)に赤井(荻野)直正は但馬の山名祐豊を攻撃したことによって織田信長と不和になり、天正3年(1575)にはその配下明智光秀の攻撃を受けました。当初は波多野秀治の援軍によって撃退したものの、天正7年(1579)に波多野氏の本拠八上(やがみ)城(現兵庫県篠山市[旧篠山町])が落城して瓦解し、黒井城もその後間もなく落城。赤井氏は後に徳川氏の家臣(旗本)になったそうです。

明智光秀による丹波支配が始まると、黒井城には被官の斎藤利三が入りました。この時期に利三の子として産まれたのが、かの春日局(ふく)です。本能寺の変後は秀吉被官の堀尾吉晴が城主となりましたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦の際に徳川方として赤井時直(直正の弟)が蜂起して占領する事件があったそうで、この戦後に廃城となりました。

Kuroi_2Kuroi_4城跡には登れなかったのですが、その麓にある写真の興禅寺は、平時の居館跡とされています。後世の補修が入ってはいるようですが、堀や石垣が今も遺されています。

Kuroi_5Kuroi_6左写真が本堂。この境内が、春日局生誕地に比定されています。
右写真は、境内にある宝篋印塔。左側のものは文安5年(1448)、右側のものは嘉吉3年(1443)の銘が確認されています。(肉眼で確認できたかどうかは記憶曖昧。)
これらは元々ここにあったわけではなく、赤井氏の菩提寺とされる千丈寺から移されたものだそうです。

Kuroi_9そしてこちらが、少し離れた所にある千丈寺の敷地内に現在も遺る宝篋印塔。ただ、現地には堂舎が見られず、廃寺になってしまったのでしょうか。いずれも室町期のものとされ、赤井氏の供養塔と推定されています。

Kuroi_14Kuroi_17車で10分ほど行くとある万松寺(右写真は)にある宝篋印塔(左写真)。こちらも別の場所にあったものを移したものだそうです。比較的大きく、状態もかなり良さそうでした。南北朝期のものとされています。

■兵庫県丹波市(旧春日町)

2011.08.17

丹波安国寺

Ayabeankokuji_5Ayabeankokuji_4丹波へ入り、安国寺へ。寺伝によると、正暦4年(993)頃に地蔵菩薩を本尊として建立された寺院とされています。
当初は光福寺という名でしたが、暦応元年(1338)に足利尊氏による諸国安国寺設置によって丹波国の安国寺となりました。康永元年(1342)に、尊氏によって南禅寺僧の天庵妙受が住持となり、彼が安国寺の始祖となっています。戦国期以降に勢力を失ったようですが、本尊の木造釈迦如来像(重要文化財)などの仏像や文書が今に伝来しています。
左写真の山門は、天保14年(1843)築。右写真は本堂に当たる仏殿で、こちらは寛保3年(1743)築とのことです。

Ayabeankokuji_10Ayabeankokuji_11左写真は庫裏で、右写真は方丈。いずれも近世のものです。

Ayabeankokuji_1安国寺のあるこの地域は、中世は上杉荘という荘園のあった所です。この荘園の成立についてはよくわからないようですが、宗尊親王の将軍任官に伴う鎌倉下向に随行した藤原(勧修寺)重房が、建長4年(1252)に幕府より所領として与えられたのがこの上杉荘でした。これにより、重房は上杉氏を名乗りました。つまり室町・戦国・江戸と長らく大名として生き抜いた上杉氏の名字の地に当たります。

境内にある写真の宝篋印塔は南北朝期のものとされ、中央が足利尊氏、左が尊氏母の清子、右が尊氏妻の登子(とうし/とうこ)の墓と伝わっています。安国寺の文書によると、尊氏と登子の遺骨が当寺に奉納されたと記されているものがあるそうで、それによって建立されたと伝わっているようです。
実際に遺骨が奉納されたかどうかはわかりませんが、清子が上杉頼重の娘(重房の孫)であるという由縁によるものでしょう。ここを尊氏生誕地とする説もあるそうです。

なお、ちゃんと調べたわけではありませんが、上杉氏による上杉荘支配についてはよくわからないようです。ただ、発掘調査によって関係すると思われる館跡が確認されているらしい?

■京都府綾部市

2011.08.12

天橋立 智恩寺

Amanohashidate_6Amanohashidate_1日本三景の天橋立。この地に建つ智恩寺です。
寺伝によれば、延喜年間(10世紀前半)の創建とされています。「知恵の文殊」「切戸(きれと)の文殊」との異称があり、安倍文殊院(奈良県桜井市)と金戒光明寺(京都市左京区、あるいは大聖寺[山形県高畠町]など)とこの智恩寺を合わせて「三文殊」と呼ばれています。
天橋立の対岸には丹後一宮の籠(この)神社があることからも、おそらくは天橋立が信仰の対象となり、その経緯で建立された寺院ではないかと考えられているようです。

左写真の山門は明和4年(1767)築。門前には土産屋などが立ち並んでいます。平日でしたが、観光客でそこそこ賑わっていました。
右写真は本堂に当たる文殊堂。元は13世紀に建てられたものとされ、一部建材は当時のものが遺っているそうですが、多くは17世紀半ばに宮津藩主の京極高国によって修理されたものとされています。

Amanohashidate_3そしてこちらが多宝塔(重要文化財)。遺された墨書などにより、明応10年(1501)築であることがわかっています。これまで中世の多宝塔をいくつか見てきましたが、こちらのものは全体的にややスリムな感じ? 当時の流行だったのでしょうか。

Amanohashidate_10Amanohashidate_13左写真は、境内にある石造宝篋印塔。和泉式部の歌塚という伝承があるそうです。多宝塔が築かれた明応年間に、砂に埋まっていた歌塚を掘り出し、今の歌塚が築かれたと言われています。実際のところはわかりませんが、宝篋印塔自体は中世のものと思われ、状態も良さそうでした。

右写真は、その隣にある石造地蔵菩薩立像。銘によると、右側のものは応永34年(1427)に大江越中守(法名永松)の発願により造られたものだそうです。また左側のものは、永享4年(1432)に三上因幡守(沙弥祐長)の発願によるとのことです。ただ、肉眼では銘を確認できませんでした。

Amanohashidate_19そしてロープウェーケーブルカー(でしたね)で山を登り、お決まりの写真。これだけ撮ってそのまま下りました(笑)。

天橋立といえば、雪舟筆の天橋立図(国宝)が有名ですが、そこにも智恩寺の多宝塔が描かれています(→こちら)。製作年代は雪舟晩年の16世紀初頭で、現存する多宝塔を描いたものと考えられているようです。

■京都府宮津市

2011.08.11

久美浜 本願寺

Tangohonganji_2Tangohonganji_3ここからは丹後へ。久美浜にある本願寺。浄土宗の寺院です。
寺伝では、天平2年(730)に行基の開山とのことで、寛弘元年(1004)に源信(げんしん)の中興とされています。建久3年(1192)には法然が訪れ後白河院追善の法会が開かれたと言われていますが、実質的にはこの頃に開かれたのでしょうか。
右写真は勅使門で、この法会の際に訪れた勅使を迎えるために建てられたとも言われているようです。

Tangohonganji_7Tangohonganji_6左写真が本堂(重要文化財)。鎌倉期のものと考えられています。

■京都府京丹後市(旧久美浜町)

2011.08.07

待ち遠しかった夏休み

授業、試験、採点、そしてオープンキャンパス等々の仕事が終わり、やっと本格的に夏休みに入りました。
勤務先は小規模なだけあって、新人かどうかはお構いなし。いろんな仕事をすることで経験を積んでいるという実感はあります。大変ではあるけど。
覚悟はしているけど、来年度からはさらに授業が大幅に増えそうな感じなので(いろんな同僚の人から言われる(笑))、今年の夏休みは特に貴重です。

満を持して研究を、…と行きたいところだけど、何からすればいいのかあれこれ考え、途方に暮れる。なんか研究のやり方を忘れてしまった不安でいっぱいですが(笑)、光陰矢の如しなので早くペースを作りたい。

7月まではいくつか依頼原稿を抱えていてそれもなかなか大変だったが、あらかためどが付いたのも精神的にはいい傾向。ただ、そのうちの一つは早速校正が来ました。なんでも原稿のストックが少ないそうですが、なかなか大変ですねえ。

やっと?本格的に暑くなって個人的には辛いところですが、お互い頑張って乗り切ってまいりましょう。私は夏ばてしないのが取り柄ですが(だから痩せない(笑))、みなさんも十分な暑さ対策を。


そういえば、以前の健康診断の結果、肝臓の数値は平常でした。ありがたや。中性脂肪に要注意とのことらしいが…。

2011.08.01

城崎 温泉寺

Kinosaki_6Kinosaki_8有名な温泉地の城崎。近世以前は「湯島」と呼ばれていたそうです。その中心にある温泉寺です。寺伝によると、天平10年(738)創建で、聖武天皇から山号と寺号を受けたとされています。それ以後の詳しいことはよくわかりませんが、温泉の鎮守の役割を担った寺院であることが想像されます。

右写真の山門は18世紀後半の築のようです。

Kinosaki_9Kinosaki_10山門に安置されている仁王像。運慶・湛慶作と伝わっているそうですが…。

Kinosaki_11こちらは麓にある薬師堂。19世紀初頭の築。ここから本堂へはロープウェーもありますが、歩いて登ります。(結構疲れました(笑))

Kinosaki_12そしてやっとのことで辿り着いたのが、この本堂(重要文化財)。室町初期の築とされ、単層入母屋造とのことです。
中には入れませんでしたが、木造十一面観音立像(重要文化財)など、平安期の仏像が安置されているそうです。城崎美術館が併置されており、所蔵している仏具等が展示されているそうです。(今回は入らず。)

Kinosaki_15Kinosaki_16左写真の鐘楼は近世初期の築とされています。そこから階段を登るとあるのが多宝塔。こちらは18世紀後半の築。

Kinosaki_18Kinosaki_17そして多宝塔の脇にあるのが、左写真の宝篋印塔(重要文化財)。鎌倉末期のものとされています。私は編年に詳しくはないのですが、下っても南北朝期くらいかなという印象です。残存状態は良好です。

右写真は、鐘楼の脇にあった石造物。五輪塔はもしかしたら中世にかかるかも?という印象でした。

■兵庫県豊岡市(旧城崎町)

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