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2011年9月

2011.09.26

馴馬城跡・来迎院・大統寺

Nareumajo_1次のシリーズは、2月に行った茨城南部の史跡です。

初めは龍ヶ崎市立歴史民俗資料館の脇にある馴馬(なれうま)城跡。暦応4年(興国2年、1341)に南朝方が「河内内馴馬楯等引退」という文献史料があるそうで(『太平記』ですかね?)、この頃には南朝方の拠点となっていたとされています。さらには康永3年(1344)にも南朝方の春日顕国という人物が「馴馬沼田城」に立て籠もり、北朝方の宍戸朝里らによって攻略されたとのことです。その後の状況は不明のようで、南北朝期の城跡とされています。

Nareumajo_4Nareumajo_6といっても、右写真の堀切らしきもので雰囲気を感じられるものの、どれが遺構なのかははっきりとはわからなかったというのが率直な感想。左写真は、左側が少し落ち込んでいるので、もしかしたら堀なのかな?といったところ。
曲輪らしき削平地もありましたたが、竹藪になっていて写真はいまいちなため掲載は見送ります。


Raigoin_1Raigoin_2次は車で数分行ったところにある来迎院。こちらの来歴はまったくわからないようですが、右写真の多宝塔(重要文化財)が知られています。
室町後期のものとされ、関東以北では現存最古の多宝塔です。一説には、16世紀に江戸崎城(現茨城県稲敷市[旧江戸崎町])主の土岐治英が建立したとも言われていますが、宝珠の銘文によると弘治2年(1556)に土岐治英が修理した旨が記されており、建立年代はさらに遡るものとされています。
多宝塔は東日本ではほとんど見られないので、その点でも貴重なものです。


Daitoji_5Daitoji_4次は町の中心部で、龍ヶ崎城の麓にある大統寺。天正13年(1585)創建の曹洞宗の寺院です。当時の龍ヶ崎城主であった土岐胤倫(たねとも、治英の子)が建立しました。本堂は近世の再建。

常陸土岐氏は美濃源氏として知られる土岐氏の傍流で、当初は原氏を名乗っていましたが、江戸崎城を本拠として土岐氏を名乗ったようです。龍ヶ崎城主の土岐胤倫はそこから分家し、永禄10年(1567)頃に本拠としたとされています(それ以前は龍崎氏という領主がいたらしい)。
常陸土岐氏は北条氏との関係を深めたために佐竹氏と対立し、一度龍ヶ崎城を落とされたこともありました(のち奪還)。しかし天正18年(1590)の豊臣秀吉の北条征伐の際にも北条氏方に与したことから再び佐竹氏の攻撃を受け、落城。没落しました(18世紀に取り立てられて旗本になったそうです)。

Daitoji_1Daitoji_3この大統寺は土岐氏の菩提寺だったようで、墓所も遺されています。左写真が、その墓所とされる宝篋印塔と五輪塔。かなり立派で、確かに領主クラスのものと覚しき規模でした。時代も中近世移行期としても問題なさそうですかね。
右写真は、墓地にあった五輪塔の残欠と思しきもの。これも結構立派です。

ちなみに龍ヶ崎城自体はパス。高校の敷地になっていることと、遺構の残存状況が今ひとつだということだそうです。

■茨城県龍ヶ崎市

2011.09.23

後期始まる

さて、夏休みもおわり、今週から授業開始…。と思いきや、私の一発目の授業は台風接近による休講となり、来週に持ち越しとなりました。
今期はかなりコマ数がゆるめなので、研究の貯金(?)をしておきたいところだけど、なかなか気分が乗ってこないというか…。ちょっと堕落気味なので気合いを入れ直さねば。やっと涼しくなったことだし。もっとも、さしあたっては今月末締切の原稿という眼前の課題をクリアせねばならない。これがなかなか厄介で悪戦苦闘中。
なお、執筆した書評が先日刊行されました。しかし今年はこれだけになりそうだなあ。これではいけない。

そして例年通り秋の学会シーズンが到来。古文書学会がこの週末にあり(日曜はもしかしたら行くかも)、その後の日本史研大会も近づいてきましたね。つい最近まで、まだだいぶ先だと思っていたけど、早いものだなあ。
来月末にはさらに西の方で是非とも出席したいイベントがあるものの、どうも校務と重なることが濃厚。特に行きたいのは日曜なので、この日だけはなんとか確保して強行軍で行けるかどうか思案中。はてさてどうなりますことやら?

2011.09.19

吉田神社

Yoshidajinja_1Yoshidajinja_2京大へ行ったので、空き時間を使ってすぐ近くの吉田神社へ。こちらは再訪ですが、前回は写真を撮ってないので、ほぼ撮影目的で行きました。

Yoshidajinja_4Yoshidajinja_7神楽岡と呼ばれる丘陵を境内とする神社です。健御賀豆知(たけみかずち)命・伊波比主(いわいぬし)命・天之子八根(あめのこやね)命・比売(ひめ)神の四座を祭神としており、本殿もそれぞれ並んで建っています(写真では見えませんが…)。

9世紀半ばに藤原山蔭(藤原北家魚名流)が氏神として建立したのが始まりとされ、山蔭の孫が一条天皇の母(円融天皇女御)になったことによって、10世紀後半頃から朝廷の保護を受けるようになったとされています。
以後は京都における藤原氏全体の氏神としての役割を担っており、摂関家からの保護も受けたそうです。

鎌倉期になると神祇官僚の卜部氏が社司となり、吉田家を名乗って神社の経営を担うようになりました。室町期には有名な吉田兼倶がいますね。兼倶が提唱した「吉田神道」が朝廷に受け入れられました。はじめは現在の京大のキャンパスの辺りに社殿があったようですけれども、この頃に現在地に移ったようです。

戦国期には吉田家は神祇大副を世襲して朝廷での地位を高め、公卿に昇るまでになりました。この時代では、なんといっても吉田兼見が有名ですね。織田信長らとも親しかった彼の遺した日記は、織田・豊臣政権期の政治・社会情勢を知る上で恰好の素材となっています。とりわけ本能寺の変前後の情勢の記事をめぐっては、事件の推移とも絡んで長らく議論の材料とされてきたところでもあります。

なお、現在の本殿は慶安元年(1648)の再建とされています。近世にも朝廷や幕府の篤い保護を受け、全国ほぼすべての神社において神職を得るには吉田家の許状が必要となったため、絶大な権力を築き上げました。その機能は、近代の神社本庁に継承されていきました。

Yoshidajinja_8Yoshidajinja_12左写真は本殿近くにある若宮社。元々本殿に祀られていた祭神を南北朝期に遷したものだそうです。建物自体はこれも慶安元年築だそうです。

右写真は少し山を登るとある神龍社。「神龍大明神」の神号を持つ吉田兼倶を祀った社です。『兼見卿記』にも神龍社で祈祷を行う様子がしばしば記されています。また、かつては菩提寺である神龍院も境内にあったようで、『舜旧記』を著し、方広寺の経営に深く関わった梵舜(兼見の弟)が院主となっていました。

Yoshidajinja_13Yoshidajinja_14そして、本殿から少し離れた一角にあるのが、この大元宮(重要文化財)。吉田神道の「根本殿堂」とされる宗教施設(斎場)で、現在のものは慶長6年(1601)築。近世における神祇に関わる行政の中心となった施設でもあったようです。
ただ、意外にも意匠には神仏習合の様式も見られ、ほか陰陽五行の思想も反映されているとのことです。私にはその辺りのことはよくわかりませんが…。「八神殿」とも呼ばれたそうで、建物自体も八角形をしているようです。(写真では中がよく見えませんね。)

■京都市左京区

2011.09.17

慈照寺(銀閣寺)

Ginkakuji_17年初に京都へ行った折りに、銀閣寺へ行きました。恥ずかしながら、実は初訪問。

現在の正式名称は東山(とうざん)慈照寺。あえて説明するまでもないですが、足利義政が山荘として造営した「東山殿」が、義政死後に彼の遺命によって禅宗寺院となり、現在に至っています。
もっとも、本来の義政の菩提所である相国寺塔頭の慈照院は相国寺境内にあります。足利尊氏の菩提所である等持院と、別途洛中に造営された等持寺のような関係になるのでしょうか。いずれにせよ、義政と最も関係の深い史跡として有名であり、当時の文化を偲ぶ文化財が今に遺る名所として知られています。

Ginkakuji_23Ginkakuji_4そして、「銀閣寺」という別名を象徴するのが、もちろんこの銀閣(国宝)。正式名称は観音殿で、義政晩年の長享3年(1489)築。1階は心空殿、2階は潮音閣と呼ばれています。禅宗の影響を受けた楼閣建築で、15世紀後半の代表的建築物としてよく知られています。

Ginkakuji_10銀閣の前にある池の真ん中に置かれた、「大内石」。十三夜の際に、ここに月の影が来るよう計算されて置かれたという説もありますね。銀閣そのものも月見の楼閣とする説の一環なのですが、実際はどうだったのでしょう(こちらの記事参照)。

銀閣は、その名とは裏腹に銀箔を貼った形跡のないことが調査により明らかになっています(実際は漆喰が塗られていたらしい?)。そもそも銀閣という名も近世になってから付いた名称で、金閣との対比によっていつしかそう呼ばれるようになったと思われます。

Ginkakuji_13そしてもう一つ代表的建築として知られているのが、この東求堂(とうぐどう、国宝)。東山殿の持仏堂として建立されたもので、義政の住居スペースとして使用されたと考えられています。

中を拝観することはできなかったのですが、あまりにも有名なのが、内部にある同仁斎(どうじんさい)。四畳半の空間に現存最古の床の間がしつらえられており、違い棚が取り入れられたあの部屋ですね。現在に繋がる日本の住居建築の原初的形態としてとても貴重な遺構とされています。(こちらに写真があります。)

Ginkakuji_15境内には、宝篋印塔の残欠もありました。中世のものかは微妙ですかね。

■京都市左京区

2011.09.15

飛騨の史跡から名古屋で研究会

Emayakata_46Shirakawago_88先週は、スケジュールが合ったので出身ゼミの合宿(というか旅行)に混ぜてもらいました。
今年は飛騨。この地域の史跡はほとんどが初めて行くところなので、とても楽しませてもらいました。最終日はやや天気が悪かったものの、概ね天気にも恵まれて運が良かった。

東京から貸し切りバスに乗り込み、安房峠を越えて飛騨入り。最初は神岡へ行き、神岡城跡と左写真の江馬氏館跡。地元の方に解説もしていただき、非常に有意義でした。
その後は飛騨安国寺へ。国宝の経蔵を所蔵している所ですが、それ以上に?、かつての研究仲間が副住職として在住しているので、旧交を温める目的もありました。その目的を無事果たせた。高山泊。

二日目は白川郷へ(右写真)。言わずと知れた世界遺産ですが、平日午前ということもあって観光客はやや少なめか。それでも外国人を含めて多くの人が観光に来ていました。高速道路開通の効果も大きいんだろうなあ。個人的には一向一揆の拠点だった所というイメージを持ちながら歩きました。

午後は高山市内散策。高山ラーメンを食し、整備されている陣屋跡と高山城跡など。午後数時間ではちょっとタイトで、またじっくり歩きに来たいものです。周辺の城跡も行けなかったし…。そして下呂泊。

三日目は午前中に下呂周辺の史跡をまわり、東京へ帰る面々と別れて私は名古屋へ。名古屋の先輩と酒を酌み交わし(飲み過ぎた(笑))、翌日は中世史研究会の大会に出席。院政期の陵墓についての報告で、とてもわかりやすく勉強になりました。…いや、そうか授業や講演ってのはこういう風にやるべきだなあ、と、プレゼンの技術についてもとても勉強になりました。私がこのレベルに達するには、まだまだ精進が足りないなあ…。

こうして、充実した日々を過ごして帰ってきました。幹事はじめ、各地でお世話になったみなさんありがとうございました。

2011.09.06

成田から銚子の日帰り旅

Narita_3Narita_117月に房総半島一周で使った「ちばフリーパス」をまた使った日帰り旅の第二弾。切符が8月末までだったので、先週に駆け込みで利用しました。

今回は成田経由で銚子まで行きました。昼前に出発し、昼時に成田着。成田山参道(左写真)の「川豊」という店で鰻重を食す。事前にネット(「ぐるなび」だったか)で調べたら「上うな重」が2000円で、こりゃお手頃と思って入ったわけですが、実際に行ったら2300円に値上げしてました。今年は鰻が高騰していると聞いたので、その影響なんでしょうねえ。でもまあうまかったです。

その後成田山新勝寺へ(右写真)。写真は本堂の前。なにやらお坊さんの行列が。
例の節分の豆まきってここでやってるんでしょうかね。典型的な観光地化した寺というイメージそのままでした。

Narita_23成田駅へ戻り、銚子行きを待つ。成田へ着いた際に時刻表をチェックしていたものの、どうも時刻を勘違いしていて50分待ち。それならもっとゆっくり歩いて見ればよかった…。

ともあれ成田線で銚子へ向かうものの、所要時間は1時間半(笑)。なめてましたが、千葉は広い。

Choshi_14Choshi_5そして銚子に着き、そのまま銚子電鉄に乗って犬吠駅(左写真)で下車して犬吠埼へ。右写真は犬吠埼灯台。

Choshi_10こちらが犬吠埼から見た太平洋。本州最東端。見渡す限りの水平線でした。

犬吠駅へ戻り、銚子電鉄といえばとかつて話題になったぬれ煎餅を買おうと思ったけど、午後5時をまわって売店が閉まってました。「ぬれ煎餅アイス」ってのがあり、食ってみたかったのだが…。

銚子駅からは特急で帰ろうと時刻表を見ると、1時間半待ち(笑)。駅前をぶらつこうと思っても、駅前はなにもない。天気も怪しい。仕方がないので駅前の土産物屋でぬれ煎餅と干物などを買い(干物を買った店では少しおまけしてもらいました)、発車時刻までのんびり待って帰ってきました。

結構思い付きだったのでわりとせわしない旅でしたが、リーズナブルなわりに満足感は得られました。今度銚子へ行く際には、ヤマサかヒゲタの工場見学でもしてみたり(授業のネタ用)、利根川の河口まで行ってみたいな、と思ったりもしました。 いつになるかはわかりませんが…。

2011.09.02

今年も新見荘調査へ

Niimi201108_1Niimi201108_2もう十日ほど前ですが、今年も新見の調査に参加させていただきました。

今回は、私は内ノ草という地区の調査に同行しました。鎌倉期の検注帳では「宇津草」と記されている地区で、おそらくは荏胡麻畑がかつて広がっていたところに、鎌倉期に新田開発が行われたと考えられている所で知られています。
今の市の中心部からはかなり山間に入った地区で、中国山地に典型的な中山間地域です。最近までは住民もいたのですが、今は皆さん比較的便利な地域に引っ越してしまったそうで、今は集落の住民はいなくなってしまったそうです(ただ、耕作は続けているなど、完全に廃墟になったわけではないようです)。
おそらく、10年もすれば日本のあらゆる所でこういう集落が増えるのでしょうね…。

聞き取り調査もしつつ、耕作の現況や墓石などを調べたのですが、山間なだけあって藪へ分け入る場面が多く(笑)、それを想定した服装ではなかったため、結果的にドロンコに…。いやはや。
右写真は、そのさなか見付けた五輪塔群。おそらく中世のもので良いのではないかと思われます。

それにつけても、改めて新見荘というのは山間部の荘園だったことを思い知らされました。とはいえ、それでもなお中世段階でかなりの山奥まで田んぼが整備されていた(湿田とはいえ)ことに逆に驚かされもしました。

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