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2011年10月

2011.10.30

筑波 北条の史跡

Tsukubahojo_29_2Tsukubahojo_28_2小田城から街道筋を真壁方面へ少し行った所にある北条地区。ここはかつて筑波山の登山口として栄えた所で、今も当時の町並みが多く遺っています。
そして、その町並みを眺めるように聳えるのが、左写真の多気(たき)城跡。諸事情があって今は登ることは出来ませんが、数年前に発掘調査がされており、多くの中世当時の遺構が発掘されています(詳しくはこちら)。

この多気城は、平国香を祖とする常陸平氏嫡流である大掾(だいじょう)氏の惣領・多気義幹が鎌倉初期に築いたと言われています。ただし多気義幹は守護八田知家との抗争に敗れて没落しており、今に遺る遺構は戦国期に整備されたものだったとされています。誰の手によるものかは、諸説あってはっきりしないようです。

右写真は、集落の中心部にある八坂神社の五輪塔。かつては別当寺の吉祥院にあったものだそうです。銘によると天文6年(1537)のもので、中から経筒が見つかっているとのことです。

Tsukubahojo_4Tsukubahojo_5そこから少し歩くとあるのが、左写真の毘沙門天種子板碑。鎌倉期にものとされています。右写真は、その傍らにあった五輪塔。

Tsukubahojo_12Tsukubahojo_13こちらの左写真は、日向廃寺跡。平安末から鎌倉初期にかけての遺構とされており、多気氏によって建立されたものではないかとされているようです。
右写真は、城の麓にあたる所にある無量院の境内に立つ多層塔。延文6年(1361)の銘が確認されています。小田氏の一族である中久木氏に関係するものとされています。これも別の場所にあったものが移されたそうです。

Tsukubahojo_17Tsukubahojo_19左写真が、「多気太郎」と呼ばれる多気義幹の墓とされる五輪塔です。傍らには右写真の小さな五輪塔が多くあり、被官のものだったと伝わっているそうです。

Hirasawakanga_1Hirasawahachiman_1集落から少し離れた所には、左写真の平沢官衙遺跡があります。国史跡。古代の常陸国筑波郡役所跡だそうです。1975年の調査で確認され、その後本格的な発掘調査がされ、現在では史跡公園として整備されており、建物もいくつか復元されています。かなり本格的に観光地として整備したようですが、その効果はいかほどだったのでしょうかね。

右写真は、その近くにある平沢八幡神社の石造六角地蔵宝幢。16世紀末頃のものとされています。

Tsukubafumonji_5Tsukubafumonji_6_2そして、集落からはちょっと離れていますが、左写真は小田氏の祈願寺として建立されたという普門寺にある多層塔。室町期のもので、小田氏の供養塔と言われています。
右写真は、普門寺から見た筑波山。雲がかかってしまったのが残念…。

■茨城県つくば市

2011.10.29

危機脱出

久々の大ピンチでしたが、なんとか原稿が締切に間に合いました。
…と思ったら、また新たな依頼状が(笑)。

ともあれこれで年内締切の原稿はなくなりました。年明けに難敵が控えているんですが、しばらくは授業準備の方に力を入れつつ、のんびり史料を探したりしたいと思います。今年の科研申請はパスしたものの、来年は出さないとなあなどと思うと、その準備は早めにしておかねば。

原稿に追われながらも、合間を縫って昨日は神保町の古本まつりに行ってきました。めぼしいものは少なかったという印象。土日にならないと目玉が出なかったりするのかなあ。
釣果は、佐脇栄智『後北条氏の基礎研究』(吉川弘文館、1976年)のみ。値段を書くのは自粛します(笑)。たぶんだいぶお得だったとは思いますが…。

2011.10.23

火の車

今月末締切の原稿が、かなり危機的な状況。直前まで放置しておいたツケが回ってきたわけですが、相当な焦りをもって執筆中です。

時折息抜きがてら記事を更新することはあるでしょうけれども、また更新頻度がしばらく落ちます。まあ、すでにだいぶ頻度は落ちてしまってはいるのですが…。

今週に予定されている研究会はとても行けそうにないなあ…。関係者のみなさま申し訳ありません。

2011.10.16

小田城跡

Odajo_5Odajo_9小田城跡へ。国史跡。前回訪問時は既に日が暮れてしまい何も見られなかったので、リベンジ。

宇都宮氏の分家で、鎌倉初期の御家人である八田知家が、12世紀末に築城したとされています。建久4年(1193)に常陸国守護となって下野国から移ったそうで、その際に築かれたと考えられているのでしょうか。
その後子孫は小田氏を名乗り、南北朝期には南朝方として活動。延元3年(1338)には当主の小田治久が北畠親房を招き入れたことは知られている通りで、親房はこの地で『神皇正統記』と『職原抄』を執筆しました。しかし北朝(幕府)方の高師冬に攻められ、興国3年(1342)に小田治久は降伏。親房は結城氏を頼って関城(現茨城県筑西市[旧関城町])へ移りました。

以後の小田氏は小田城周辺の所領を維持し、康暦2年(1380)の小山義政の乱では小山氏に味方して鎌倉府の追討を受けるものの、その後は鎌倉府に従ったようで、永享の乱では鎌倉方として戦い戦後に所領を減らされたそうです。以後関東が戦乱状態になると、小田氏も周辺領主との合従連衡や内訌などを経ています。

戦国期の小田氏は佐竹氏との関係を深めて安定的な支配を行っていたものの、永禄5年(1562)に当主の小田氏治が後北条方に寝返って逆に佐竹氏らと争いました。しかし永禄12年(1569)に佐竹義重によって小田城は落とされ、小田氏治は藤沢城(現茨城県土浦市)へ敗走しました。

小田城はその後佐竹方として太田資正、そしてその子である梶原政景が支配し、慶長7年(1602)に佐竹氏が出羽久保田(秋田)へ転封になると、廃城となりました。小田氏は最後まで後北条氏とともに活動し、その滅亡とともに没落。後に結城秀康の家臣になったそうです。

Odajo_16Odajo_18写真のように、小田城はまったくの平城といった印象です。三重の堀と土塁に囲まれた広大な縄張りを誇っており、中核は八田氏の居館として出発したものの、戦国期にかけて拡大していったものと考えられています。

Odajo_15このように、現在は中心部分の発掘調査とともに整備も行われています。整備については、賛否は分かれるところでしょうけど…。「小田城趾」の石碑があるはずなんですが、どうやら撤去されていたようです。

Odajo_4Odajo_2小田城のシンボルとも言えるのが、左写真の巨大な五輪塔。写真ではわかりにくいですが、2m以上の高さがあります。この地域はこのような巨大な五輪塔が点在していることで知られています。
右写真は、その脇にあった五輪塔群です。

Tsukubaoda_1Tsukubaoda_12城跡のある集落の中にも、中世の石造物が点在しています。左写真は建長5年(1253)の銘の入った供養碑? ええ、手許に資料がなくて詳細は忘れました(笑)。前年には忍性が小田氏の招きでかつて小田にあった極楽寺という寺院に入っており、もしかしたらそれと関係するかも? なお、極楽寺跡にも中世の宝篋印塔などがありますが、山の上にあるため今回はパス。

右写真は、延寿院石造五輪塔。銘によると、天文7年(1538)に妙西禅尼ら(小田氏関係者?)の33回忌のために建立されたものとのことです。肉眼で見えたかどうかは忘れました…。

Tsukubaoda_7Tsukubaoda_3左写真は、集落内の長久寺にある石灯籠。鎌倉中期のもので、関東では現存最古とされています。西大寺系の様式だそうで、元は先述した極楽寺にあったものとされています。
長久寺の墓所には、右写真のようにちらほら五輪塔を見かけました。中世のものも混じっていそうです。

■茨城県つくば市

2011.10.14

【受贈】『織田信長』

桐野作人『織田信長―戦国最強の軍事カリスマ』(新人物往来社、2011年)受贈。ありがとうございます。
『歴史読本』で長らく連載されていた記事をベースに、大幅に加筆をして刊行されたものです。

本書のテーマは副題にある通り、織田信長を「軍事カリスマ」と位置づけて叙述されているところにあると理解しました。他の並み居る戦国大名を押しのけて信長が覇権を築き上げたのは、何よりもまず戦争における強さにあったということです。
もっとも単に信長を神格化しようとするのではなく、一方でその限界があったことにも留意されています。すなわち初期の信長はその規模の小ささによって個人的な力量が大きく左右したと見られるものの、領国と戦線が拡大した後期においては、信長個人の軍事的力量よりも、組織的な要素が重要となるシステマティックな戦争へと変貌した、という見通しを立てています。

本書は一言で言えば信長の一代記・伝記という位置づけになろうかと思いますが、意外とまとまった形での信長の伝記というのは少ないので、偉そうな物言いで恐縮ですが、その点貴重な成果なのではないかと思います。そして幅広く関連史料を博捜されており、文献リスト単体でも大変参考になります。

伝記と呼ばれる人物史は、どちらかというと今の歴史学では消極的な評価を与えられがちで、特に戦争の具体的経緯が中心の叙述はほとんど注目されません。しかし、当時の時代状況を勘案すれば無視するわけにはいかない論点でもあり、その意味では歴史学の持つ構造的な弱点を埋めた貴重な一冊ではないかと思います。

4404040733織田信長
桐野 作人
新人物往来社 2011-09-24

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2011.10.11

恒例の京都、初めての東寺

Toji2011_2Toji2011_110月の三連休は、恒例の日本史研究会大会。今年も出席しました。
土曜の全体会報告は直接専門とは関わらないのですが、過去の地震に関わるものや現在の労働問題など、いろいろと刺戟を受けました。とりわけ戦後における労働政策・行政の問題について鋭い指摘がされていたのが印象に残っています。できれば、授業の場で学生に還元できればいいなあ、と思いました。
後日、↓の本を読んでみたいと思います(内容の詳細はこちら)。

4763406043ワーキングプア原論―大転換と若者
後藤 道夫
花伝社 2011-06

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さて、日曜の部会報告がもちろん最大の目的だったわけですが、こちらも興味深く聞かせていただきました。最近はやや興味が遠のいてはいるのですが、数年前に興味をもっていろいろと勉強したテーマだったので、当時の記憶を廻らせながら聞いておりました。
またぞろ懲りもせず質問してしまいましたが…、ご容赦ください。ただ、今年は質問する人の世代が随分若返りましたね。そういう意味でも、画期となる報告になるかもしれません。

というわけですが、実情はまたもや飲みに行っただけではないかという感も(笑)。とにかくよく飲みました。また、今年は空き時間に東寺宝物館の「東寺文書」企画展を見に行きました。実は、お恥ずかしながら東寺は初めて。時間がなかったのでくまなく見て回ることはできませんでしたが、写真の金堂と御影堂(ともに国宝)などの写真を撮ってきました。五重塔は、まあ近世だしね…(笑)。

報告者はじめ、関係者のみなさんお疲れさまでした。
そして日常へ。原稿が締切をすぎてしまって、やばい…。

2011.10.07

【受贈】『比叡山と室町幕府』

三枝暁子『比叡山と室町幕府―寺社と武家の京都支配』(東京大学出版会、2011年)受贈。ありがとうございます。
本書の主題は書名の通りなのですが、中世後期を中心として、比叡山やその末社である祇園社・北野社による都市支配について分析したものです。そして、このテーマでは当然ながら京都に置かれた幕府との関係がどのように推移していったかが重要であり、その様相を明らかにすることが本書の主眼ということになります。

比叡山の存在は、寺院としての意義のみならず、中世史を研究する上で政治史や経済史などあらゆる分野において重要であることは言うまでもありません。とはいえ織田信長の焼き討ちなどの歴史もあって必ずしも史料が豊富に遺されているわけではないのが悩みの種といえます。そこで本書では比較的史料が多く遺されている末社の祇園社や北野社に注目して分析が進められています。

そのなかで個人的には、近年分析が少なくなった被差別民(犬神人・非人など)の研究が所載されていることは重要だと思っています。被差別民に代表される社会の暗部とでもいいますか、大きなひずみ部分に焦点を当てることも、歴史学としては重要な使命だと思うのですが、中世については史料が少ないこともあって研究は多くないのが現状です。是非とも広く読まれて欲しいなと思います。

そして、私も企画側として関わった歴研大会報告による論考が大幅に加筆されています。当日は「「公方」の都の成立」という結論部分に対する議論が活発になるのを私は期待していたんですが、それほど大きな反響が得られませんでした。本書において改めて本格的な論考としてこのテーゼが提出されたことで、どのような反響があるか注目したいところです。(誤解を招かないよう強調しておきますが、もちろん私がこの語を考案したのではなく、すべて著者である三枝さんのオリジナリティに属するものです。)

まだ必ずしも読みこなせていませんが、単なる中世後期の寺社の分析に留まらず、政治史あるいは都市史にも積極的に踏み込んで構築された内容となっており、読み応えは十分だと思います。とりわけ室町期の研究がさらに活性化する起爆剤となることを期待いたします(なんか他人事のようですが(笑))。

4130262297比叡山と室町幕府―寺社と武家の京都支配
三枝 暁子
東京大学出版会 2011-09-12

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2011.10.05

牛久城跡

Ushikujo_3_3Ushikujo_6牛久沼のほとり、牛久城跡へ。

天文年間後半(1550年頃)に、この地域の領主だった岡見治広が築城したとされています(治広は幼少のため、実際は一族の岡見頼勝のようですが)。岡見氏は下総相馬氏の一族とされていますが、実際は小田氏の一族が入って当主になっていたようです。小田氏や常陸土岐氏と連携していたようで、16世紀後半には後北条氏の麾下となっています。一方で常陸下妻(現茨城県下妻市)を支配し、佐竹氏と関係の深い多賀谷氏と対立して激しく争いました。結果的には後北条氏の援軍に期待して牛久城へ軍勢を招き入れることもあり、城自体も後北条氏の手がかなり入ったようです。この辺りは、典型的な「境目の領主」だったと言えます。

天正18年(1590)に豊臣秀吉方の軍勢に攻撃を受けて落城。岡見治広は後に結城秀康の家臣になったそうです。
牛久城は由良国繁に与えられましたが、近世に由良氏は旗本(高家)になったため、元和9年(1623)に廃城となりました。

Ushikujo_11Ushikujo_12縄張りは比較的単純な印象ですが、かなり大規模です。国人領主(国衆)クラスでは、単独でここまでの規模にするのは難しいように感じました。対佐竹の前線であるという重要性からして、おそらく後北条氏がかなり関与したのでしょう。

Ushikujo_16Ushikujo_17左写真は二の丸。広大です。どれだけ建物があったのかはわかりませんが、もしあれば結構な規模になったのではないかと思います。
右写真は、本丸と二の丸を隔てる空堀(だったと思います…)。

Ushikujo_30Ushikujo_41本丸と二の丸を繋ぐ腰曲輪。ここもかなり広大です。

Ushikujo_31Ushikujo_29左写真が本丸。ここもかなりの規模。
右写真は、確か本丸の辺りからちょっと見えた牛久沼。当時は今よりもっと大きかったはずですね。今の規模は、溜め池とあまり変わらない感じがします。沼が堀の役割を果たしていたことでしょう。

Ushikujo_47Ushikujo_49三の丸以下にも城が広がっていたようですが、こちらは現在は宅地化しています。
そして、その住宅地の中にある得月院。牛久出身の近代画家である小川芋銭(うせん)の墓もありますが、目的は右写真の五輪塔。文禄3年(1594)の銘が刻まれています(でも肉眼ではよく見えなかったような?)
得月院は由良国繁の母である「妙印尼」が開いたとされていることから、その妙印尼の墓と考えられているようです。

Ushikujo_53得月院の近くに交差点があり、ここが牛久城の大手門跡とされています。今はその痕跡を確認することはできないのですが、絵図の検討や発掘なので比定されているのでしょうか。事実であれば本丸からは数百メートル離れており、かなり大規模な城郭であったことがわかります。こちらに空中写真があります。

■茨城県牛久市

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