牛久城跡
天文年間後半(1550年頃)に、この地域の領主だった岡見治広が築城したとされています(治広は幼少のため、実際は一族の岡見頼勝のようですが)。岡見氏は下総相馬氏の一族とされていますが、実際は小田氏の一族が入って当主になっていたようです。小田氏や常陸土岐氏と連携していたようで、16世紀後半には後北条氏の麾下となっています。一方で常陸下妻(現茨城県下妻市)を支配し、佐竹氏と関係の深い多賀谷氏と対立して激しく争いました。結果的には後北条氏の援軍に期待して牛久城へ軍勢を招き入れることもあり、城自体も後北条氏の手がかなり入ったようです。この辺りは、典型的な「境目の領主」だったと言えます。
天正18年(1590)に豊臣秀吉方の軍勢に攻撃を受けて落城。岡見治広は後に結城秀康の家臣になったそうです。
牛久城は由良国繁に与えられましたが、近世に由良氏は旗本(高家)になったため、元和9年(1623)に廃城となりました。

縄張りは比較的単純な印象ですが、かなり大規模です。国人領主(国衆)クラスでは、単独でここまでの規模にするのは難しいように感じました。対佐竹の前線であるという重要性からして、おそらく後北条氏がかなり関与したのでしょう。

左写真は二の丸。広大です。どれだけ建物があったのかはわかりませんが、もしあれば結構な規模になったのではないかと思います。
右写真は、本丸と二の丸を隔てる空堀(だったと思います…)。

左写真が本丸。ここもかなりの規模。
右写真は、確か本丸の辺りからちょっと見えた牛久沼。当時は今よりもっと大きかったはずですね。今の規模は、溜め池とあまり変わらない感じがします。沼が堀の役割を果たしていたことでしょう。

三の丸以下にも城が広がっていたようですが、こちらは現在は宅地化しています。
そして、その住宅地の中にある得月院。牛久出身の近代画家である小川芋銭(うせん)の墓もありますが、目的は右写真の五輪塔。文禄3年(1594)の銘が刻まれています(でも肉眼ではよく見えなかったような?)
得月院は由良国繁の母である「妙印尼」が開いたとされていることから、その妙印尼の墓と考えられているようです。
得月院の近くに交差点があり、ここが牛久城の大手門跡とされています。今はその痕跡を確認することはできないのですが、絵図の検討や発掘なので比定されているのでしょうか。事実であれば本丸からは数百メートル離れており、かなり大規模な城郭であったことがわかります。こちらに空中写真があります。
■茨城県牛久市
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