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2011年11月

2011.11.24

小峯御鐘ノ台大堀切

Kominehorikiri_2Kominehorikiri_4小田原の市街地から少し離れた所に、大きな堀切があります。中世小田原城の遺構として最も有名なもので、小峯の大堀切と呼ばれています。天正18年(1590)の落城直前に整備されたものと考えられています。中でも写真の東堀が著名で、ほかに中堀と西堀がありますが、中堀は道路になっています。

Kominehorikiri_5_2Kominehorikiri_9現地看板によると、「この堀切は本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の攻撃を防御するために北条時代末期に構築されたもので、小田原城の西側を防御する最も重要な場所であったと考えられます」とのことです。
また、幅はおよそ20~30mあり、深さは約12m。全国的にも最大級の規模を誇ります。障子堀の痕跡も確認されているそうです。

本丸からはかなり離れた場所にこれだけの大規模な堀切があるのは、中世の城郭ではほかに無いのではないかと思います。小田原城がいかに巨大な城郭であったかがしのばれます。
…とはいえ、今回は本丸訪問はパス(笑)。

Hojohaka_1小田原駅近くの繁華街に、後北条氏のものとされる墓所があります。
右から北条氏政夫人(武田晴信の娘・黄梅院?)、北条氏政、北条氏照の墓と伝わっているそうです。左にある笠塔婆型墓碑にその旨が刻まれているそうですが、おそらくは後世にそのように言い伝えられるようになったのでしょうね。

■神奈川県小田原市

2011.11.18

石垣山城跡

Ishigakiyama_3Ishigakiyama_4小田原の郊外、笠懸山という山にある石垣山城跡。「一夜城」の別名で知られる山城跡です。国史跡。

天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原攻めに際して駐屯地として築かせた城で、一夜にして築いたという伝承から、有名な別名が付いています。もちろん実際は一夜で築けるはずはなく、大規模な動員を行ったものの、2,3ヶ月ほどはかかったようです。

Ishigakiyama_11Ishigakiyama_12写真のように城を囲う石垣はかなり立派なもので、特徴としては近世城郭と言えるもののようです。この時期になると、築城技術がかなり進んで、大規模化もしていたことがわかります。

この石垣山城は秀吉が滞在した所として知られ、下向した千利休や側室の淀殿らもここへ招いて、ともに過ごしたと思われます。小田原が落城すると役割を終え、そのまま廃城となりました。石垣は関東大震災で被害を受けたそうで、大きな石があちこちに転がっていました。

Ishigakiyama_30Ishigakiyama_29写真が本丸。左写真の部分がやや高くなっていて、天守とはいわないまでも櫓かなにかがあったのかもしれません。
かなり広大で、秀吉をはじめ多くの人々がここで滞在するための規模を備えた様子が窺えます。

Ishigakiyama_15Ishigakiyama_22左写真は、本丸下にある南曲輪。ここはあまり広いスペースではなく、一般的な山城の曲輪と同じくらいか。
右写真も、同じく本丸下にある西曲輪。ここは比較的広大です。

Ishigakiyama_31Ishigakiyama_48左写真は、本丸からみた二の丸。公園になっていて、出店もありました(笑)。ここもかなり広大です。
右写真は、逆に二の丸から本丸方向を見たもの。石垣が遺っていました。

Ishigakiyama_49Ishigakiyama_52左写真は、二の丸にあった櫓台跡とされる遺構。見た目は土塁のように見えるのですが(笑)、発掘調査で遺構が出たのでしょうかね。
右写真は、二の丸の先にあるやや細長いスペース。ここも削平されているようなので、なんらかの施設があったのかもしれません。

Ishigakiyama_70Ishigakiyama_33左写真は、二の丸の下にある井戸曲輪。すり鉢状になっていて、周囲を石垣が覆っています。これがまるまる井戸だったとされるのですが(実際に底には水が湧いていました)、規模が大きすぎてにわかには信じられません。
本当に単なる井戸でこれだけの規模の施設を造らせたとすれば、秀吉の権力の凄さとともに、ちょっと狂ってるんじゃないかという気すらします(笑)。

ちなみに二の丸の先は藪化していましたが、まだ曲輪がありそうでした。段状にいくつか曲輪があったのかもしれません。

右写真は、城から小田原を眺めた様子。丸見えです。ここを抑えられてはひとたまりもないですね。

■神奈川県小田原市

2011.11.14

山中城跡(2)

Yamanakajo_40Yamanakajo_42主郭方面へ登っていきます。
左写真は、三の丸堀と呼ばれる堀跡。右写真は、田尻の池と呼ばれています。飲料水の確保のために当時からあった貯水施設と考えられているようです。ただ、ここは馬の飲料水を確保する施設だったと言われています。根拠のほどはよくわかりませんが…。

Yamanakajo_49Yamanakajo_54さらに登ると、一番奥に西の丸と呼ばれる曲輪がありますが、この周囲は立派な畝堀が巡っています。ここがこの城跡で一番の見所と言えるでしょうかね。

Yamanakajo_60Yamanakajo_83左写真の、左側が西の丸です。二の丸の下にある出丸のような位置づけになっているようです。
右写真が、西の丸と二の丸を繋ぐ橋。手前が二の丸です。

Yamanakajo_68Yamanakajo_82見た目の違いがほとんどわかりませんが(笑)、左写真が西の丸、右写真が二の丸です。
二の丸はやや傾斜があり、平坦ではありませんでした。発掘で遺構が出たのかもしれませんが、こんな傾斜地に建物を建てたのかなあという疑問も。西の丸は攪拌された可能性があり、建物遺構は確認できなかったそうです。

Yamanakajo_87Yamanakajo_94左写真は、二の丸と本丸とを繋ぐ橋。「本丸西橋」と呼ばれています。
右写真が、本丸。言われないと本丸だとは気づかないような雰囲気です(笑)。周囲を比較的立派な曲輪が囲っていて、確かにここが中心部ということになるのでしょうけれども、現地ではあまりそういう雰囲気は感じませんでした。

Yamanakajo_95Yamanakajo_96さらに奥へ。左写真の「本丸北橋」を渡った先には、右写真の北の丸があります。ここはかなり広大かつ平坦な曲輪で、雰囲気としてはこちらの方が本丸のような感もありました。

Yamanakajo_98Yamanakajo_104北の丸の周囲は、左写真のような比較的深い堀が巡っています。山中城はかなり整備の手が入っていますが、この辺りだけ鬱蒼としていて山城跡らしさ?が出ています。

右写真は、本丸と北の丸に挟まれている天守台跡。ただ、建っていたのは本格的な天守というよりも、井楼や高櫓といった建物ではないかと考えられているようです。ここも攪拌されていて遺構は確認できなかったそうです。

ほかにも様々な遺構があり、見やすいように整備されているので見応えがあります。車がないと来るのは困難ですが、是非一度は見ておきたい城跡ですね。

■静岡県三島市

2011.11.11

山中城跡(1)

Yamanakajo_58Yamanakajo_7次は4月末に行った山中城跡です。小田原から国道1号線を通って箱根を越え、少し下りた所にあります。つまりは、旧東海道沿いの交通の要衝に築かれた城で、関東の出入り口を固める目的がありました。国史跡。

築城年代ははっきりしませんが、1560年代頃に北条氏康が築いたと言われています。この時は駿河へ進出した武田氏に対抗するためだったと考えられているようです。
もっともこの城が有名なのは豊臣秀吉による小田原攻めの時で、いまだ城自体が未完成であったとされますが、北条氏勝や松田康長らが拠って羽柴(豊臣)秀次以下の大軍を迎え撃ったことで知られています。しかし衆寡敵せず。半日で落城したとされ、そのまま廃城となりました。

Yamanakajo_13Yamanakajo_15今も遺構の中心を国道が走っていて、まさしく交通の要衝であった様子が窺えます。
今はだいぶ整備がされていて、とても見学がしやすくなっています。また標高も高いため、暖かい時期には爽やかな感じがします。風光明媚な公園として訪れる人も多いようです。

右写真は、出丸御馬堀と呼ばれる遺構。大規模な畝堀です。

Yamanakajo_22Yamanakajo_25この辺りの外周には、左写真のような堀が巡っています。「岱崎出丸一の堀」と呼ばれています。
右写真では、左側にその堀があり、右側の少し高い所が「岱崎出丸」と呼ばれる曲輪です。調査の結果、未完成だったとのことです。ここは間宮康俊が守り、討ち死にしたとされています。

Yamanakajo_27Yamanakajo_4そして、さらに先の、遺構の先端部分?にあるのが、左写真のすり鉢状の曲輪。どういう目的で造られたものなのかはちょっとわかりませんでしたが…。

右写真は、城跡のすぐ近くを通る旧東海道。石畳は最近になって復元されたもののようですが、一部は江戸時代当時のものが混じっているのかもしれません。街道として本格的に整備されたのはもちろん山中城が廃城になった後ですが、中世末期においても既に街道として利用されていたと考えることはできるのでしょう。

次は国道を挟んで反対側の、主郭方面へ行きます。

■静岡県三島市

2011.11.05

松山城

Matsuyamajo_58Matsuyamajo_152月末に松山へ行ったわけですが、そのついでに松山城へ登ってきました。住んでいた頃は見慣れた光景だったわけですが、離れてみるとまた行きたくなるもんです(笑)。それでも登ったのは10年ぶりくらいかなあ。

伊予松前(まさき、「正木」とも)城(現愛媛県松前町)を支配する加藤嘉明が、関ヶ原合戦の功績により伊予で20万石を与えられ、慶長7年(1602)から新たな本拠として築いたのがこの松山城です。ただし完成は嘉明が陸奥会津へ転封になった後の寛永4年(1627)とされ、当時は蒲生定知が城主でした。寛永12年(1635)には久松松平定行が城主となり、以後幕末まで久松松平氏の居城となりました。

右写真の天守(重要文化財)は安政元年(1854)の再建で、幕末のものとはいえ現存天守として知られています。
訪問時はすでに閉まっていて、中には入らず。ちなみに本丸までは自由に来られます(夜は途中の門を閉めていたような気がしますが)。

Matsuyamajo_5Matsuyamajo_38松山城は特に石垣が美しいことで有名ですね。私が学生だった頃は、左写真の辺りで春先に花見をやったりしましたが(笑)。
右写真は、大手門(今は遺っていません)をくぐり本丸へ向けて登るとある戸無(となし)門(重要文化財)。シンプルな造りですが、17世紀前半の築とされ、寛政12年(1800)に建て替えられた旨の棟札があるそうです。

Matsuyamajo_33_2Matsuyamajo_36さらに登ると次に現れるのが、左写真の筒井門と、その奥にある棟続きの隠門と続櫓(重要文化財)。右写真は門をくぐった反対側から撮ったもので、左側が隠門になります。隠門と続櫓は慶長期の築城当時のものと考えられています。筒井門は松前城から移築されたものだったとされますが、戦後に放火によって焼失してしまい、その後復元されたものです。

Matsuyamajo_12Matsuyamajo_21左写真は、大手門跡から本丸方面を眺めた風景で、右に見えるのが筒井門です。
そして左に見えるのが、太鼓門(戦後の再建)をくぐって本丸に入るとある、右写真の太鼓櫓。本丸の隅櫓です。これも戦災で焼失しましたが、戦後に再建されました。

Matsuyamajo_40Matsuyamajo_51次に大手門跡から麓の二の丸方面に下りて行くと、斜面に左写真の石垣が見られます。これは登り石垣というもので、倭城の築城で初めて取り入れられた様式とも言われているそうです。全国的に見ても珍しい遺構でしょうか。

そして二の丸は庭園になっていますが、さらに三の丸方面へ向かうと右写真の大規模な虎口があります。ここは槻(けやき)門跡で、最大の櫓門だったとされています。事実上、ここが城の表玄関ということになるのでしょう。この門から延びた先には、高札場(札の辻)があったようです。

Matsuyamajo_55Matsuyamajo_65左写真は三の丸跡。昔は競輪場や野球場があったんですが、すっかり撤去されて広場になっています。発掘調査も行われたようで、今後は史跡公園として整備していくのでしょうか。

右写真は、愛媛県庁の前にある東御門櫓台石垣跡。町と城跡とを結ぶ公園の入口のような所にあります。昔はもっと雑に扱われていたような気がするんですが、綺麗に整備されたようですね。

以前よりも整備も進んでいて、改めて見てもやはり立派な城ですね。今回は見ませんでしたが、天守の中の展示スタイルも改善しているといいのですが(笑)。

■愛媛県松山市

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