
2月末に松山へ行ったわけですが、そのついでに松山城へ登ってきました。住んでいた頃は見慣れた光景だったわけですが、離れてみるとまた行きたくなるもんです(笑)。それでも登ったのは10年ぶりくらいかなあ。
伊予松前(まさき、「正木」とも)城(現愛媛県松前町)を支配する加藤嘉明が、関ヶ原合戦の功績により伊予で20万石を与えられ、慶長7年(1602)から新たな本拠として築いたのがこの松山城です。ただし完成は嘉明が陸奥会津へ転封になった後の寛永4年(1627)とされ、当時は蒲生定知が城主でした。寛永12年(1635)には久松松平定行が城主となり、以後幕末まで久松松平氏の居城となりました。
右写真の天守(重要文化財)は安政元年(1854)の再建で、幕末のものとはいえ現存天守として知られています。
訪問時はすでに閉まっていて、中には入らず。ちなみに本丸までは自由に来られます(夜は途中の門を閉めていたような気がしますが)。

松山城は特に石垣が美しいことで有名ですね。私が学生だった頃は、左写真の辺りで春先に花見をやったりしましたが(笑)。
右写真は、大手門(今は遺っていません)をくぐり本丸へ向けて登るとある戸無(となし)門(重要文化財)。シンプルな造りですが、17世紀前半の築とされ、寛政12年(1800)に建て替えられた旨の棟札があるそうです。

さらに登ると次に現れるのが、左写真の筒井門と、その奥にある棟続きの隠門と続櫓(重要文化財)。右写真は門をくぐった反対側から撮ったもので、左側が隠門になります。隠門と続櫓は慶長期の築城当時のものと考えられています。筒井門は松前城から移築されたものだったとされますが、戦後に放火によって焼失してしまい、その後復元されたものです。

左写真は、大手門跡から本丸方面を眺めた風景で、右に見えるのが筒井門です。
そして左に見えるのが、太鼓門(戦後の再建)をくぐって本丸に入るとある、右写真の太鼓櫓。本丸の隅櫓です。これも戦災で焼失しましたが、戦後に再建されました。

次に大手門跡から麓の二の丸方面に下りて行くと、斜面に左写真の石垣が見られます。これは登り石垣というもので、倭城の築城で初めて取り入れられた様式とも言われているそうです。全国的に見ても珍しい遺構でしょうか。
そして二の丸は庭園になっていますが、さらに三の丸方面へ向かうと右写真の大規模な虎口があります。ここは槻(けやき)門跡で、最大の櫓門だったとされています。事実上、ここが城の表玄関ということになるのでしょう。この門から延びた先には、高札場(札の辻)があったようです。

左写真は三の丸跡。昔は競輪場や野球場があったんですが、すっかり撤去されて広場になっています。発掘調査も行われたようで、今後は史跡公園として整備していくのでしょうか。
右写真は、愛媛県庁の前にある東御門櫓台石垣跡。町と城跡とを結ぶ公園の入口のような所にあります。昔はもっと雑に扱われていたような気がするんですが、綺麗に整備されたようですね。
以前よりも整備も進んでいて、改めて見てもやはり立派な城ですね。今回は見ませんでしたが、天守の中の展示スタイルも改善しているといいのですが(笑)。
■愛媛県松山市
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