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2011年12月

2011.12.30

【受贈】『記憶の歴史学』

金子拓『記憶の歴史学―史料に見る戦国』(選書メチエ519、講談社、2011年)受贈。ありがとうございます。

まだ途中までしか読んでいないのですが、「記憶」をキーワードとして展開される史料論、という位置づけになるでしょうか。一般に二次史料と呼ばれる軍記や家譜などの史料や日記に書かれた記事をひもときながら、それらが記録として書き残される背景、あるいはそれらの記事が記録として選択される背景などについて、精緻な分析を基に明らかにしていきます。

展開される叙述はとても刺戟的です。人口に膾炙する伝承などのエピソードがどのように生まれ、受け継がれてきたのか。それが仮に事実ではないことが明らかであったり、事実とはとても考えられないようなものである場合、えてしてそれが事実ではないと断じるのみで済まされることが多い。しかしそれらが“事実ではないにしても”、どのような経緯で生み出され、受け継がれてきたかということの検証は、いわば「歴史認識の歴史」という部分で好個の素材であることは、これまでの多くの研究成果があることからも認知されているところでしょう。
それは例えば『太平記』や「忠臣蔵」にまつわる研究などがよく知られていますが、本書は戦国期に時期を絞りつつ、『信長記』(『信長公記』)を中心としながらも、一般的には知名度は高くない様々な史料を駆使して興味深いエピソードを多く紹介しています。

中でも中心として取り上げられているのが、『兼見卿記』です。これは私も勉強会を通して読む機会があり(そして著者には多くのご教示をいただきました)、すでに論文で用いたこともあります。この日記は当時の政治・文化・社会を読み解く上でとてもためになる史料であり、本書においてその魅力が余すところ無く紹介されているように感じました。この史料の活字化が途中で止まっているのはなんとももったいないというか、問題というべきであり、対処が急がれるのですが…。

まだ読破していないので、じっくり拝読します。そして単に史料に書かれた情報のみならず、その背景にある深みを読む大切さと面白さを体感したいと思います。ともかくも、これから研究を志す修士レベルの人にはお勧めしたい一冊です。

4062585227記憶の歴史学 史料に見る戦国 (講談社選書メチエ)
金子 拓
講談社 2011-12-10

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2011.12.28

「中国化」という視点

與那覇潤『中国化する日本―日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋、2011年)読了。日本近現代史を専門とする若き研究者が、大学で行っている講義をもとに書かれた一冊。
内容は中世以降の日本通史といったところですが、その切り口は従来のものとは異なり、「中国化」というユニークな概念を用いています。そこでモデルにされる「中国」とは、宋朝の中国(本書では「近世」とする)とします。一方日本の近世(江戸時代)をもう一方の極に設定し、日本の歴史は「中国化」と「江戸時代化」の鬩ぎ合いによって展開したという見解が本書の主題となっています。

では、具体的に言って宋朝のどのような部分が「中国」的であるか。内藤湖南の見解を引きつつ、「経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみ」(31頁)であるとし、具体的な政策としては科挙制度と「郡県制」に注目しています。門戸を基本的に問わない官僚採用システムを取り入れたことで身分制を廃止した一方、地縁や同業者などによる共同体のような中間的組織を排除し、政治権力を中央(皇帝)が掌握する政治体制が具体的にイメージされていると理解しました。(もちろんほかにも挙げられている要因はあるのですが。)

「郡県制」に対置される概念は、「封建制」だとします。日本の近世ではこの封建制が強固であり、身分制の存在はもとより、中央権力が一手に権力を引き受けるのではなく、その下で様々な共同体が福祉などを分掌して社会が成り立っていました。そして日本では明治維新によって「中国化」を図りながら、明治中期からこの「江戸時代」的な社会への回帰が進み、結果的に到達した極点が大戦期の「総力戦体制」であり、これは実は極端に社会主義的な要素を持っていたと指摘しています。この辺りのダイナミズムの描写は、さすがこの時代を専門とするだけあって、興味深かったです。


ほかに内容は多岐にわたるのですが、要点を整理すればこんなところでしょうか。個人的な感想としては、大学の授業としてはアリだなと思いました。教養としての日本史をどのような形で大学での講義として成立させるかと考えた場合、著者が端々で指摘する最新の研究との橋渡しとなる役割が必要でありますが、その点は多くの参考文献が掲載され、さらには年表や索引といった気配りもあって、意欲がよく伝わってきます。そして講義では、淡々と歴史の流れを解説するのではなく、ある程度大胆な枠組みの提示や話術によって聴衆を惹き付ける努力も必要です。その意味で、このようないわば「大胆な仮説」は私にとっても大いに参考になります。

むろん、特に中世で細かい部分かもしれませんが気になった箇所はありました。例えば平氏がグローバル化に対応して貨幣(中国銭)の積極的受容を図った(「中国化」)のに対し、源氏はどちらかというと鎖国的な姿勢を崩さかった(「江戸時代的」)という二項対立的な視点は、ほかの時代の叙述でも常に見られるわけですが、もちろん歴史はそんなに単純な話ではありません(代銭納はむしろ東国から普及していきます)。ただ、だからといって本書を全否定するのではなく、中世なら中世の専門家として、丁寧な分析を対置しながら議論を深めるような建設的な動きへと進むことを期待したいところです。

無い物ねだり的に気になったのが一点。権力(支配者)と民衆(被支配者)との関係を考えた場合、税の位置づけは重要なわけですが、歴史的に見れば、日本においては古代以来人頭単位での賦課を建前とする一方で、実態としては、中世から近世にかけては共同体単位で負担する(内部での負担割合は共同体自身が調整する)体制がむしろ“下から”出来上がるという点が注目されます。本書でも村請についての言及はありますが、本来の人頭単位賦課がまさに「中国」的な賦課体系と見れば、近代の税制改正はまさしく「中国化」の根幹であり、「江戸時代」的な村請の否定によって新たに整備されたものということになるのでしょう。このような歴史を持つことを踏まえた上で、現在もかまびすしい税の問題をどのように歴史の延長線上に位置づけられるかについて、近現代史の専門的な視点から踏み込んだ見解を聞いてみたいと思いました。

あとは余計な一言ですが、やや時事的なエピソード(ネタ)が多くて、かえってそれが本書の賞味期限を縮めてしまう懸念があります。その際には増補改訂版を出されるのでしょうかね(笑)。ともかくも、本書は世間の注目を集めているようですが、歴史認識に関する冷静な議論の深化を期待したいところです。

4163746900中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史
與那覇 潤
文藝春秋 2011-11-19

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2011.12.25

藤崎城跡と周辺の中世板碑

Fujisaki_2Fujisaki_6青森から弘前方面へ南下して藤崎へ。国道7号線沿いの住宅地にある八幡宮は、かつて藤崎城があった場所とされています。

ここは、東北の日本海側から北海道(蝦夷地)にかけて勢力を築いた安藤(安東)氏発祥の地とされています。康平5年(1063)の前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の遺児が津軽に逃れ、その子孫が安藤氏を名乗ったとのことです。
ただ、この辺の信憑性は微妙かも…? 安藤氏は安倍貞任の直系の子孫ではなく、傍流の子孫だったという説もあるようです。鎌倉期には北条氏の御内人として見られ、当初はこの藤崎にあった可能性はあるものの、後に十三湊を見下ろす十三湖北岸の福島城(現:青森県五所川原市[旧市浦村])を本拠としていたとも言われています。この辺りは史料もほとんど無いのでなかなか確定させることは難しいでしょうね。

南北朝期には一族間で紛争があり、室町期になると出羽秋田郡を本拠とする上国(かみのくに)氏と、津軽を本拠とする下国(しものくに)氏に分裂。下国氏は南部氏との抗争に敗れて蝦夷地に逃れましたが、その後幕府の調停によって出羽檜山(現:秋田県能代市)に復帰。戦国期には下国安藤愛季(ちかすえ)が上国氏を統合して両家の当主となり、近世になると秋田氏を名乗り、常陸宍戸(現:茨城県笠間市)を経て陸奥三春(現:福島県三春町)の藩主となりました。

Fujisaki_4Fujisaki_5というわけで、この地域が安藤氏の重要な拠点であったことは確かのようですが、この藤崎が最初の本拠であったかについては諸説あるようです。ただ、城跡とされる場所には土塁の遺構らしきものが遺っており、領主の居館が存在した可能性は高そうです。
右写真は、土塁の上にあった板碑。

Fujisaki_10城跡から車で数分行った所にある法光寺の板碑。正和元年(1312)の銘が確認できることから、「正和の板碑」と呼ばれています。ちなみに、この藤崎は北条時頼の廻国伝説にも登場するそうです。

Fujisaki_11Fujisaki_13住宅地を離れた林檎畑の広がる一画に、庭園として整備された公園があります。ここには「延文の板碑」と呼ばれる板碑があります。こちらは延文4年(1359)の銘を確認できました。北朝年号であることから、この時期には既にこの地域は北朝方の影響下にあったことがわかります。
右写真は、傍らにあった残欠。

Fujisaki_14同じ場所には、五輪塔もありました。どれほどの規模かははっきりしませんが、鎌倉から南北朝期にかけてこの地域を支配する領主が存在したことを窺わせます。

■青森県藤崎町

2011.12.22

研究会リンク集(日本中世史に関係するもの)【一時避難所】

◆北海道・東北
東北学院大学中世史研究会:『六軒丁中世史研究』、大会案内
東北史学会(東北大学):『歴史』、大会案内
東北大学国史談話会:『国史談話会雑誌』、大会案内
日本思想史研究会(東北大学):『年報日本思想史』、例会案内
宮城歴史科学研究会:『宮城歴史科学研究』、大会案内
米沢史学会(米沢女子短期大学):『米沢史学』、イベント案内

◆関東
学習院大学史学会:『学習院史学』、大会案内
鎌倉遺文研究会:『鎌倉遺文研究』、例会案内
軍事史学会:『軍事史学』、大会案内
建築史学会:『建築史学』、大会案内
交通史学会:『交通史研究』、大会案内
国史学会(国学院大学):『国史学』、大会・例会案内
駒沢史学会(駒沢大学):『駒沢史学』、大会案内
駒沢大学大学院史学会:『駒沢大学史学論集』、大会案内
再興中世前期勉強会:『段かづら』、例会案内
ジェンダー史学会:『ジェンダー史学』、大会案内
史学会(東京大学):『史学雑誌』、大会・例会案内
社会経済史学会:『社会経済史学』、大会・例会案内(各地域部会もあり)
上智大学史学会:『上智史学』、大会・例会案内(現在リンク切れ。こちらへ)
上智大学大学院文学研究科史学専攻院生会:『紀尾井史学』、例会案内
駿台史学会(明治大学):『駿台史学』
戦国史研究会:『戦国史研究』、例会案内
専修大学歴史学会:『専修史学』、大会案内
全史料協:『記録と史料』
千葉城郭研究会:『千葉城郭研究』、イベント案内
千葉歴史学会(千葉大学):『千葉史学』、大会案内
地方史研究協議会:『地方史研究』、大会・例会案内
中央史学会(中央大学):『中央史学』、大会案内
中世城郭研究会:『中世城郭研究』、イベント案内
東海大学史学会:『東海史学』、大会・例会案内
東京学芸大学史学会:『史海』、大会・例会案内
東京女子大学読史会:『史論』、大会案内
東京歴史科学研究会:『人民の歴史学』、大会・例会案内
日本アーカイブズ学会:『アーカイブズ学研究』、大会案内
日本計量史学会:『計量史研究』、イベント案内
日本古文書学会:『古文書研究』、大会・例会案内
日本史史料研究会:刊行物、研究会等案内
日本城郭史学会:『城郭史研究』、大会案内
日本大学史学会:『史叢』、大会案内
日本風俗史学会:『風俗史学』、大会案内
白山史学会(東洋大学):『白山史学』、大会案内
法制史学会:『法制史研究』、大会・例会案内
美術史学会:『美術史』、大会・例会案内
民衆史研究会(早稲田大学):『民衆史研究』、大会案内
室町期研究会:例会案内
メトロポリタン史学会(東京都立大学・首都大学東京):『メトロポリタン史学』、大会・例会案内
立教大学史学会:『史苑』、大会案内
立正大学史学会:『立正史学』、例会案内
歴史科学協議会:『歴史評論』、大会案内
歴史学研究会:『歴史学研究』、大会・例会案内
歴史学会:『史潮』、大会・例会案内
歴史教育者協議会:『歴史地理教育』、各種イベント案内
歴史地理学会:『歴史地理学』、大会・例会案内
早稲田大学史学会:『史観』、大会案内

◆中部
伊勢中世史研究会:例会案内
信濃史学会:『信濃』、総会・例会案内
織豊期研究会:『織豊期研究』、例会案内
中世史研究会:『年報中世史研究』、大会・例会案内(あるいはこちらも参照)
名古屋歴史科学研究会:『歴史の理論と教育』、例会案内

◆近畿
鷹陵史学会(仏教大学):『鷹陵史学』、大会案内
大阪市立大学日本史学会:『市大日本史』、大会案内
大阪歴史科学協議会:『歴史科学』、大会・例会案内
大阪歴史学会:『ヒストリア』、大会・例会案内
大谷大学日本史の会:『大谷大学史学論究』『歴史の広場-大谷大学日本史の会会誌-』、大会案内
海域アジア史研究会(大阪大学):例会案内(旧サイト
京都民科歴史部会:『新しい歴史学のために』、大会・例会案内
芸能史研究会:『芸能史研究』、大会・例会案内(東京例会もあり)
神戸史学会:『歴史と神戸』、大会案内
神戸大学史学研究会:『神戸大学史学年報』、大会案内
史学研究会(京都大学):『史林』、大会案内
都市史学会:『都市史研究』、大会案内
奈良大学史学会:『奈良史学』
奈良歴史研究会:『奈良歴史研究』、例会案内
南都仏教研究会:『南都仏教』
日本史研究会:『日本史研究』、大会・例会案内
日本思想史学会:『日本思想史学』、大会案内
日本思想史研究会(立命館大学):『日本思想史研究会会報』、例会案内
東アジア恠異学会:例会案内
仏教史学会:『仏教史学研究』、例会案内
遊戯史学会:『遊戯史研究』、総会・例会案内
洛北史学会(京都府立大学):『洛北史学』、大会案内
和歌山地方史研究会:『和歌山地方史研究』、大会・例会案内

◆中国・四国
伊予史談会:『伊予史談』、例会案内
岡山地方史研究会:『岡山地方史研究』、例会案内
芸備地方史研究会(広島大学):『芸備地方史研究』、大会案内
高知海南史学会(高知大学):『海南史学』、大会案内
四国中世史研究会:『四国中世史研究』、例会案内
広島史学研究会(広島大学):『史学研究』、大会・例会案内

◆九州・沖縄
鹿児島地域史研究会:『鹿児島地域史研究』、例会案内
九州史学会(九州大学):大会案内
九州史学研究会:『九州史学』、大会・例会案内
九州歴史科学研究会:『九州歴史科学』、例会案内
七隈史学会(福岡大学):『七隈史学』、大会案内
南島史学会:『南島史学』、大会案内

研究会リンク集を避難します

5年前からアップデートを停止していたものの、使い勝手がよくて使っていたHP作成用のフリーソフトがついに動かなくなってしまいました。

そして、今やHP作成のフリーソフトって絶滅してるんですねえ…。今もあるテキスト入力型のHTMLエディタには慣れていないので、仕方なくHPビルダーとかの有料ソフトを買わないといけないようですが、そこまでして更新を続ける意味はあるのかとも。今やHPをちまちま更新する時代ではなくなった感じですからねえ。

ただ、研究会のリンク集は私にとっても重宝していたので、ブログの方に転載してこちらでアップデートの対応をしていきたいと思います。
なお、ブログの左上にある史跡記事リンク集もHPに張り付いていたものですので、今後しばらく更新できなくなります。ご了承ください。

2011.12.21

三内丸山遺跡

Sannaimaruyama_7Sannaimaruyama_2中世ではないのですが、青森の遺跡といえば三内丸山遺跡。日本最大級の縄文時代の集落遺跡で、特別史跡に指定されています。
青森県は元々縄文時代の遺跡がいくつか見られる地域ですが、この三内丸山遺跡もその存在自体は古くから知られていました。ただし本格的な発掘調査は、野球場を建設するためとして1992年から始まりました。そうすると重要な発掘成果が次々と出てきたため、史跡として保存することになりました。
私が高校で習った頃にはまだほとんど存在が知られていなかったので、たぶん教科書には載っていなかったと思いますが、今では必ず載っている有名な遺跡と言ってよいでしょう。

Sannaimaruyama_8Sannaimaruyama_3現在は遺跡に展示等の施設が併設されていて、発掘された遺物も展示されています。この遺物も重文クラスのものがごろごろとあり、見応えがあります。あと、いくつも売店があって、ちょっとした観光名所になっていました。


Sannaimaruyama_4Sannaimaruyama_6左写真に見える櫓のような木組みはこの遺跡のシンボルになっています。柱穴の配置からなんらかの祈祷の施設だったと推定されているようで、このような復元展示になっています。ま、その真偽については素人なのでよくわかりませんが…。

復元展示が多くありますが、右写真のような遺構展示もいくつかされていました。これまた素人なもんで詳細はよくわからないのですが…。(現地にはもちろん説明板があります。)

当日は天気が悪かったのですが、いい天気の日は開放感があっていいでしょうねえ。

■青森県青森市

2011.12.16

伝北畠氏墓所

Namioka_46Namioka_45浪岡の郊外、林檎の集荷場や田んぼが広がる地区の一角に、2箇所に分かれて北畠氏のものとされる墓石が遺っています。

上記写真がその一つで、中央にある石碑(「北畠累代の墓」と書かれている)には、1882年(明治15)に明治天皇が巡幸した際、太政大臣の三条実美が題字を揮毫したそうです。その当時には結構ちゃんとした五輪塔が遺っていたそうなんですが、戦時中に逸失したそうで、現状は右写真のような有様。

Namioka_49Namioka_48こちらは近くにあるもう一つの「墓所」。こちらの方はまだそれっぽい五輪塔がありました。石の組み合わせは変わってますが(笑)。分家の北畠守親の墓所という言い伝えがあるそうです。

■青森県青森市(旧浪岡町)

2011.12.12

【受贈】『贈与の歴史学』

桜井英治『贈与の歴史学―儀礼と経済のあいだ』(中公新書2139、中央公論新社、2011年)受贈。ありがとうございます。

桜井さんが長年取り組んでこられた、室町期の贈与にまつわる儀礼と経済との関係について、新しい知見も交えられながら平易に解説しておられます。とはいえ、さすがと思わせる鋭い指摘も多くちりばめられていて、読み応えのある一冊になっています。

それこそ当時の記録類を見た人ならば、毎日のように記される贈答記事にうんざりしたことのあることが多いと思うのですが(笑)、そのありきたりな贈答記事から興味深い事実を次々と明らかにしています。過去に論文などの形で取り上げられた事例も多いのですが、一冊としてまとめられるに当たって問題関心もクリアになっていて、改めて贈与の持つ「コスモロジー」について勉強になりました。


個人的な事情に引き付けていえば、確かに贈答という名目での遣り取りをすべて「儀礼」として処理していいのかどうか、貨幣の贈答記事の処理に悩んでいる身としては、改めて考えさせられることになりました。史料上では「礼」とされる日常的な金銭の遣り取りの中には、よく見るとなんらかの対価としてなされているものもあります。もっともそれを単純に「売買(経済活動)」とするにも躊躇するものもあり、区別が難儀なところです。
まあ実質的にはなんらかの対価としてなされる贈答というものは、現代の我々の身の回りにもないわけでもないですが、そういうのが果たして好意的な贈答(儀礼)のか、(半)強制的な事実上の「税」なのか、はたまた別の形で表現されるべきものなのか。私自身はまだしばらく悩みそうです(笑)。

4121021398贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)
桜井 英治
中央公論新社 2011-11-24

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2011.12.07

浪岡城跡

Namioka_39Namioka_1やっとGWの青森編です(笑)。
まずは浪岡城跡。いきなりほぼメインの史跡です。国史跡。

浪岡城の築城年代は明確ではありませんが、応仁年間頃(15世紀後半)と考えられています。「浪岡御所」と呼ばれた浪岡北畠氏によって築かれ、戦国期には本拠となった平城です。

周知の通り、元弘3年(1333)に後醍醐天皇は奥羽を制圧するため、子の義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)を、北畠親房・顕家父子を補佐に付けて派遣しました。彼らは後に奥羽を離れましたが、顕家の子とされる北畠顕成が浪岡に本拠を据えたのが、浪岡北畠氏の始まりとされています。(うーむ…眉唾?(笑))
実のところは、地域に影響を及ぼす南部氏が安藤氏に対抗するために北畠顕邦(顕家の曾孫とされる人物)をこの地に送り込んだと考えられているようで、当初から南部氏の影響を強く受けていたようです。

15世紀後半の当主は北畠顕義という人物で、この人が浪岡城を築いたと考えられています。この頃になると浪岡北畠氏は叙爵されていたようであり、少なくとも朝廷では正当な北畠氏の末裔として処遇されていたようです。

戦国期には浪岡を本拠として津軽一帯で勢力を築きますが、依然として南部氏の勢力下にありました。永禄5年(1562)には内訌が発生し(「川原御所の変」と言うそうです)、弱体化。天正6年(1578)に北畠顕村が大浦城(現:青森県弘前市)の大浦(津軽)為信に浪岡城を落とされて自害し、浪岡北畠氏は没落しました。一族は南部氏や安藤(秋田)氏に仕えたそうです。浪岡城も落城によって廃城になったと考えられます。

Namioka_5Namioka_8城は元は川の中州だったと思われる高台に形成されていたようで、川が天然の堀の役割を果たしていたのでしょう。

上に載せた案内板の縄張りにもあるように、「内館」の真下からスタート。左写真がその「内館」です。ここが主郭ということでしょうか。比較的広大な曲輪で、今は周囲に桜が植えられています(そして満開でした(笑))。
右写真は、内館と西館を隔てる一角。見る限りでは、堀が二重になっている様子が窺えます。

Namioka_10Namioka_16左写真は、内館と西館の間の堀から北館方向を眺めたもので、奥にあるのが北館の曲輪です。
右写真は、逆に北館から左に内館、右に西館を眺めたもの。

Namioka_23Namioka_26左写真は、北館から左奥に内館、右に西館を眺めています。そういえば、堀の下は枯れ草が埋まっていましたが、かなりぬかるんでいました。
右写真は、北館の様子。ここは発掘調査によって建物跡が見つかっているようで、発掘の様子を紹介する看板や、柱穴の復元展示などがされていました。

Namioka_36Namioka_37左写真は東館。さらに奥にも曲輪があった可能性も見られましたが、今は道路で隔てられており、その向こうは宅地化していました。
右写真は、東館の崖。それほど高くはないですが、かつては堀がもっと深かったのかもしれません。

Namioka_42Namioka_43こちらは、城の傍らにある浪岡八幡宮。社伝では、大同2年(807)に坂上田村麻呂が宇佐八幡を勧請したのが始まりとされています。でもまあ、浪岡城は築城時に四隅に神社を勧請したとされており、そのうちこの八幡は源氏である浪岡北畠氏が氏神として創建したのでしょう。近世には弘前藩から祈願所として保護を受けたそうです。

近くに「中世の館」(旧浪岡町歴史資料館)と呼ばれる資料館があり、浪岡城に関する展示や図録を販売しています。訪問の際はこちらも必見です。

■青森県青森市(旧浪岡町)

2011.12.04

「都」の空気

またすっかり放置してしまいました…。
このところ土曜日に研究会が入るためドタバタしてしまい、なかなか落ち着きません。こんな状態が年末まで続きそうです。なぜか今月の24日だけは空いているんですけどねえ(笑)。


そんな中、昨日は初めて朗読会に行ってきました。思ったよりたくさん人が来ていて混雑していたのは驚きました。

私は来春で東京(周辺)へ来て10年になりますが、物心ともども余裕のない日々を過ごしてきたこともあって、コンサートや演劇などの様々な文化的イベントにはほとんど足を運ばずに来ました。それゆえ酒以外に趣味がない情けない状態になってしまったわけですが…(笑)、都会の持つメリットといえば、やはりこういうイベントが様々なジャンルでたくさんあって、その場へのアクセスが比較的容易であることにあるでしょう。
なにかと日常的には殺伐とした空間ではあるものの、それが田舎とは決定的に違う点であり、都会の持つポテンシャルでもあります。歴史的に見ても、様々な芸能文化が華やぐのは、やはりその時代における「都」だったことは疑いのないところ。東京が人を吸い寄せる「都」であり続けるのは、そういう基盤のしっかりしていることが大きな要因だろうなと思いました。

一方この間、大阪では大きな動きがありました。教育の方で大きな議論を巻き起こしそうですが、そんななか、市の交響楽団が経費節減でリストラになりそうだという報道がありました。財政難で抱える余裕がないという言い分ももっともだと思います。しかし、東京に比肩する、あるいはそれを超える「都」にならんとする街が、決して“カネにはならない”文化的基盤を縮小へと誘導することが果たして妥当なことなのだろうか。ほかに方法はないだろうか。
…などと考えたりした一日でした。

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