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2012年1月

2012.01.24

消息短信がてら

相変わらずですが、またもや余裕が無く更新が止まっています。
しばらくこの状態になりそうです。2月になるとだいぶ時間的余裕が出来そうではあるのですが…。

新聞広告で知ったんですが、田中健夫さんの『倭寇』が講談社学術文庫で出たんですね。旧版(教育社歴史新書)を持っているだけに買うかどうかは迷うところですが、解説次第かなあ。本屋で手にとってから買うかどうか考えます。

406292093X倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)
田中 健夫
講談社 2012-01-12

by G-Tools

2012.01.15

弘前城

Hirosakijo_30Hirosakijo_13津軽観光で外せない観光地といえるでしょう。弘前城です。国史跡。丁度桜が満開で、かつ天気も良く最も映える日に訪問できました。もっともその分すごい観光客でしたが(笑)。2011年5月5日撮影。

中世までこの地域は高岡あるいは鷹岡と呼ばれていたようで、それゆえ高岡城・鷹岡城の別名があります。4万7000石の石高を持つ弘前藩津軽氏の居城であることは言うまでもありませんね。

津軽氏は、岩木山麓の大浦(現青森県弘前市)を本拠とする大浦氏をその前身としますが、出自については不明というのが実情です。本姓は当初藤原氏を名乗っていたようですが、実際に藤原氏の末裔であるかはわかりません。あるいは南部氏(甲斐源氏)の一族という説もあるそうです。いずれにせよ、16世紀に南部氏がこの地域へ勢力を拡げるとにわかに擡頭し、ついには当主の大浦為信が南部氏の勢力を駆逐して独自の支配を確立させていきました。奥羽仕置によって安堵された後、為信は津軽氏を名乗りました。

関ヶ原では徳川家康に従い津軽の支配を確実なものとした津軽為信は、慶長8年(1603)に高岡で新たに築城に着手しましたが、完成を見ず慶長12年(1607)に京都で死去。その子・信枚(信牧とも、のぶひら)が跡を継ぎ、慶長16年(1611)に城が完成。同時に地名も弘前と改めました。

そして著名な通り、天守(重要文化財)は全国で12ある現存天守の一つです。修理は入っているものの、現在の天守は創建時のものです。

Hirosakijo_1Hirosakijo_19左写真は三の丸追手門(重要文化財)。ここが城に入る正門に当たります。そして中へ進むと、右写真の二の丸南門(重要文化財)へ。いずれも創建時のもの。

Hirosakijo_35Hirosakijo_51そして本丸へ。左写真は土塁。右写真が天守。ご覧の通りの行列だったので、この時は中には入りませんでした。

Hirosakijo_48Hirosakijo_60左は本丸の様子。御金蔵跡のあたり。かなり広大で、本丸に御殿があったようですね。
右写真は、本丸未申櫓跡。

Hirosakijo_62Hirosakijo_80そして左写真は、その未申櫓跡あたりから眺めた景色。手前に堀が見えますが、見にくいかもしれませんが奥には川が流れており、あたかも二重の堀のようになっています。そしてその向こうには岩木山が見えるのですが、あいにく雲が。

右写真は、本丸下にある「館神跡」。豊臣秀吉を祀るために津軽信牧が建てた社があった所で、秀吉の木造が安置されていたそうです。

Hirosakijo_87Hirosakijo_107左写真は、館神跡から本丸方向。近世城郭らしい石垣。
右写真は、丑寅櫓(重要文化財)。これも現存。ほかにも現存する櫓や門があるんですが、人に酔ってしまい(笑)、再訪を期すことにしました。まあ、実のところは時間がちょっと足りなかったのですが。

■青森県弘前市

2012.01.12

年始の耳学問

どうしようか直前まで悩んでいたが、先ほどの三連休は帰省ついでにこの時期恒例の貨幣史の研究会に出席。今回は近世中後期日本の貨幣についての報告。直接専門としているわけではないが、大いに示唆を得ることができて良かったです。

そして、帰省したついでに?神戸市博の企画展を見に行きました。近世の南蛮屏風や長崎での貿易の様子を記した絵画、あるいは蘭学が入ってきてからの日本絵画の変遷について。正直言って普段はあまり絵画には興味がないのですが(文書好き)、混雑していなかったこともあって、今回はわりとじっくり見学してきました。面白かったです。

久しぶりに行ったので常設展も回ってみたのですが、相変わらず前近代の展示が貧弱ですねえ…。かつて近世兵庫の企画展をやっていたようで、その図録を確保したが(最後の一冊だったかも?)、常設展の方もなんとかなりませんかねえ。まあ兵庫は発掘調査もあまりままならないようで、遺物もあまりないんだろうけど。

来週頭に授業が終わり、テストを終えれば本格的に原稿に取り組まねば。締切がどんどん迫ってくる。原稿の性格上締切を延ばせないので、プレッシャーが大きい。

2012.01.07

石川城跡・堀越城跡

Hirosakiishikawajo_1Hirosakiishikawajo_3弘前の南には中世の城跡が点在しています。こちらは石川城跡。「石川城」という名称は周辺の砦をすべて合わせた総称として呼ばれることもあるようですが、ここはその中心となる城で、別名は大仏ヶ鼻城とも言われています。現在は大仏公園という公園になっています。

16世紀前半のこの地域は南部氏の勢力下にあったようで、天文2年(1533)に南部政康の二男・高信(系譜は諸説あり)が派遣された際に築いたのがこの石川城だったとされています。以来、高信は石川氏を名乗りました。彼は安藤(安東)氏の侵攻をはねのけるなどの活躍をしたと言われています。

Hirosakiishikawajo_7Hirosakiishikawajo_9公園として整備されているので、どこまでが遺構と考えるべきなのか、正直言ってはっきりとはわかりませんでした。

右写真は城から南の方向を眺めたもの。平川という川の畔に建っています。街道も走っており、安藤氏の侵攻に備える役割が窺えました。


Tsugaruhorikoshijo_2Tsugaruhorikoshijo_9そして、こちらはその近くにある堀越城跡。小高い丘に築かれた石川城とは打って変わって、城というよりは居館跡と言った方が良さそうです。国史跡。城の中には今は熊野宮という神社があります。

こちらは南北朝期の建武3年(1336)、北朝方の曽我貞光という人物が築いたとされています。その後の動向は不明のようですが、戦国期にも城郭として機能していたようで、元亀2年(1571)には大浦(津軽)為信がこの堀越城を拠点として石川城を攻略し、落城させたと言われています。ちなみに石川高信はこの際に自害したという説もあるようですが、生き延びたという説もあるようで、はっきりしないらしいです。

石川城落城によって南部氏は津軽での拠点を失い、以後は大浦(津軽)氏が勢力を拡大していきました。為信は文禄3年(1594)に本拠を大浦城から堀越城へ移し、慶長16年(1611)に弘前城を築いて移転。堀越城は一国一城令によって廃城になりました。

Tsugaruhorikoshijo_3Tsugaruhorikoshijo_8いかにもな方形の居館遺構で、堀や土塁がはっきりと確認できます。こういう素朴な遺構もかえって魅力的です。
北側には二の丸跡もあり、わずかに遺構も確認できました(詳しくはこちら)。

■青森県弘前市

2012.01.03

乳井神社

Nyuijinja_2さらに南下して、弘前にある乳井(にゅうい)神社へ。かつては福王寺という寺院だったようで、坂上田村麻呂が毘沙門天を祀ったのが始まりという伝承があります。ただ、創建は承暦2年(1078)とされているそうです。

現存する社殿は津軽信義が明暦元年(1655)に再建させたものです。神仏分離令が出されるまでは、毘沙門天が安置されており、田村麻呂の伝承が生まれたのもそのような経緯があったためなのでしょう。

Nyuijinja_3Nyuijinja_4さて、この神社の境内には中世の石造物と思われる板碑や五輪塔などが出土し、置かれています。おおむね鎌倉末期から南北朝期にかけてのものとみられ、現存するものでは津軽地方でも比較的早い時期のものとのことです。分布に関する専門的なことはわかりませんが、14世紀前半に関東あるいは畿内などとの交流が進んだ結果ということになるのでしょうか。

右写真の板碑は、嘉元2年(1304)の銘を肉眼で確認できました。

Nyuijinja_5Nyuijinja_6さらに丘の上の林檎畑の中に、このような石塔群があります。中でも中央にある五輪塔はほぼ完形で遺されている貴重なものです。残念ながら年代のわかる銘は確認されていないようですが、これも鎌倉後期のものと考えられているようです。

■青森県弘前市

2012.01.01

謹賀2012

明けましておめでとうございます。

今やSNSやツイッターなどのネットメディアが増えてきて、ホームページのみならずブログの存在意義も徐々に揺らぎつつありますが、やはり長文を書き残せるという点でのブログの使い道が脅かされていはいないようです。
本年も細々と続けてまいりたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

昨年は社会全体で大きな画期となった年になりそうですが、私にとっても節目となる一年になりました。まだまだ未熟で周囲に迷惑をかけっぱなしですが、少しずつ成長していきたいと思います。
一方、本務たる研究方面では、情けなくも論文という体裁のものは一つも出せませんでした(書かなかったわけではないのですが…と言い訳)。幸いにもたくさん依頼をいただいたため、その執筆に傾注した一年だったかなあ。

さて、今年の抱負をどうすべきか。やはり論文を最低でも2本くらいは書かないといけませんね。もっとも、数が出ればいいというわけではなく、質の向上にも取り組まねばなりません。
そうとはいえ、年初からなかなか厄介な締切原稿を抱えてはいるのですが…。まずはそれが「仕事始め」ですねえ。

校務等々ほかにも様々な課題はありますが、それを乗り切るためにも、ともかく今年も健康に過ごせればいいなと思います。そのための努力は全然していませんが(笑)。そろそろなにか考えないといけないかなあ。まずはといってはなんですが、実は数ヶ月前についに禁煙したので、それを続けたいと思います。

それでは、皆さんにとってもよい一年となりますことをお祈りいたします。

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