名札だけ取る贈与
先日の『兼見卿記』の勉強会で、贈与に関して面白い記事があったので紹介がてら書き留めておきます。
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向勧修寺(晴豊)即対面、(中略)御太刀三振借用候、(中略)付札、(吉田)兼見・兼治ト候、如此参長橋局(高倉量子)、御太刀二振進上之、即御披露、被取札即御返也、(中略)参 仙洞(正親町院)、先参帥御局御太刀二振、予(兼見)・侍従(兼治)分也、付札進上之、(中略)仰云、今日ハ御徳日也、御太刀被返之由御理也、(中略)参若宮(良仁)様、中山(親綱)亭ニ御座也、御太刀一腰進上之、付札、御徳日也、今日無御返之義候由仰、
… ―『兼見卿記』天正18年(1590)8月1日条(抜粋、括弧は引用者注)
豊臣秀吉が小田原を制圧して奥羽へ進出しようとする情勢にあって、京都では八朔のため吉田兼見は挨拶回りをしているわけですが(この日、子の兼治は関東から京都へ戻る途中)、その際昵懇にしている勧修寺晴豊をまず訪れています。そこで太刀3振を借用し、それに「兼見」「兼治」と書いた札を付けています。そして長橋局にその太刀2振を礼として進上するわけですが、贈られた長橋局は、札だけ取って太刀は返しました。その後院御所に参り、祗候している帥御局という女性にまた太刀2振を進上。これにも名前の書いた札が付けられていましたが、院は徳日(凶日)だと言う事で進物は受け取らずそのまま返しました。次に後陽成天皇の子である「若宮」良仁を尋ね(ただし本人は中山親綱の所へ出かけて不在)、これまた札の付けた太刀1腰を進上したところ、今度は徳日ということで今日は返せないと言われてしまいました。記事にはありませんが、兼見はおそらく焦ったことでしょう(笑)。
桜井英治さんの近著で、現代人から見ると実に形式的に過ぎる中世の贈与の実像が語られましたが、中世末期というか、いわゆる中近世移行期という段階にあっても、現代人から見ればまさしく極度に形式的な贈答が繰り返されていたことがわかります。
ただ、吉田兼見と武家(主に京都所司代の周辺)との遣り取りでは現金(たいていは銭)が用いられているようで、この記事ほど形式的な様子はあまり見えません。むしろ公家社会の中でこのような特異な風習が織豊期においても維持されていたと言えるのかもしれません。
この時期においては、公家社会での贈与に特徴的な風習と仮定するならば、一般に言われる16世紀の困窮した公家社会の中で、それでも年頭・八朔・歳暮の儀礼を維持する場合に、なるべく個々の経済的負担を小さくする方策として自然と継承されてきた自己防衛のシステムと言えるのかもしれません。
ただまあ、記事をざっと見てもこういう形式的な贈与事例はそれほど多いわけでもないので、どこまで一般的だったかはわかりません。ただし、贈られてすぐにそれを返すという事例が結構認められますが、その解釈には注意を要することを示しているでしょう。すなわちすぐに返すという行為は、贈られた側がその内容に不満を示したものとして理解されることも多いわけですが、実はそうではない可能性(贈与という行為そのものを確認できればよく、品物を受領する必要はないと考えている可能性)もあるように思えます。この点は注意深く記事を検討する必要がありそうです。
もちろん記事のような儀礼に対して、果たして“形式的”という価値判断をして良いかどうかも考える必要があるわけですが、ここではそれについて立ち入らないでおきます。








































































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