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2012年2月

2012.02.26

名札だけ取る贈与

先日の『兼見卿記』の勉強会で、贈与に関して面白い記事があったので紹介がてら書き留めておきます。


向勧修寺(晴豊)即対面、(中略)御太刀三振借用候、(中略)付札、(吉田)兼見・兼治ト候、如此参長橋局(高倉量子)、御太刀二振進上之、即御披露、被取札即御返也、(中略)参 仙洞(正親町院)、先参帥御局御太刀二振、予(兼見)・侍従(兼治)分也、付札進上之、(中略)仰云、今日ハ御徳日也、御太刀被返之由御理也、(中略)参若宮(良仁)様、中山(親綱)亭ニ御座也、御太刀一腰進上之、付札、御徳日也、今日無御返之義候由仰、
…         ―『兼見卿記』天正18年(1590)8月1日条(抜粋、括弧は引用者注)

豊臣秀吉が小田原を制圧して奥羽へ進出しようとする情勢にあって、京都では八朔のため吉田兼見は挨拶回りをしているわけですが(この日、子の兼治は関東から京都へ戻る途中)、その際昵懇にしている勧修寺晴豊をまず訪れています。そこで太刀3振を借用し、それに「兼見」「兼治」と書いた札を付けています。そして長橋局にその太刀2振を礼として進上するわけですが、贈られた長橋局は、札だけ取って太刀は返しました。その後院御所に参り、祗候している帥御局という女性にまた太刀2振を進上。これにも名前の書いた札が付けられていましたが、院は徳日(凶日)だと言う事で進物は受け取らずそのまま返しました。次に後陽成天皇の子である「若宮」良仁を尋ね(ただし本人は中山親綱の所へ出かけて不在)、これまた札の付けた太刀1腰を進上したところ、今度は徳日ということで今日は返せないと言われてしまいました。記事にはありませんが、兼見はおそらく焦ったことでしょう(笑)。

桜井英治さんの近著で、現代人から見ると実に形式的に過ぎる中世の贈与の実像が語られましたが、中世末期というか、いわゆる中近世移行期という段階にあっても、現代人から見ればまさしく極度に形式的な贈答が繰り返されていたことがわかります。
ただ、吉田兼見と武家(主に京都所司代の周辺)との遣り取りでは現金(たいていは銭)が用いられているようで、この記事ほど形式的な様子はあまり見えません。むしろ公家社会の中でこのような特異な風習が織豊期においても維持されていたと言えるのかもしれません。

この時期においては、公家社会での贈与に特徴的な風習と仮定するならば、一般に言われる16世紀の困窮した公家社会の中で、それでも年頭・八朔・歳暮の儀礼を維持する場合に、なるべく個々の経済的負担を小さくする方策として自然と継承されてきた自己防衛のシステムと言えるのかもしれません。

ただまあ、記事をざっと見てもこういう形式的な贈与事例はそれほど多いわけでもないので、どこまで一般的だったかはわかりません。ただし、贈られてすぐにそれを返すという事例が結構認められますが、その解釈には注意を要することを示しているでしょう。すなわちすぐに返すという行為は、贈られた側がその内容に不満を示したものとして理解されることも多いわけですが、実はそうではない可能性(贈与という行為そのものを確認できればよく、品物を受領する必要はないと考えている可能性)もあるように思えます。この点は注意深く記事を検討する必要がありそうです。
もちろん記事のような儀礼に対して、果たして“形式的”という価値判断をして良いかどうかも考える必要があるわけですが、ここではそれについて立ち入らないでおきます。

2012.02.19

革秀寺

Kakushuji_1Kakushuji_3弘前の市街地からほど近く、郊外の住宅地の中にある革秀寺(かくしゅうじ)です。津軽山の山号を持つ曹洞宗の寺院で、津軽為信の菩提寺・墓所です。慶長14年(1609)に、子の津軽信枚が建立したとされています。同時に信枚(当時は「信長」)は寺領として藤崎村(現青森県藤崎町)内などの地を与えており、かつては藤崎にあった寺庵を移転させたとも言われています。

右写真は本堂(重要文化財)。創建当時のものと思われ、茅葺きが雰囲気を出していますね。
境内にはこの地域では最も古いとされる庭園がありますが、見られず。なぜ見なかったのかは忘れましたが…(笑)。

Kakushuji_11さて、こちらには津軽為信の廟所があるわけですが、残念ながら中には入れず。というわけで、外からなんとか撮影しようと頑張りましたが(笑)、あまりいいアングルでは撮れず。

Kakushuji_8Kakushuji_13これが為信の霊屋(重要文化財)。内部は極彩色で豪華に彩られているそうです。また、中には石造塔婆や秀吉の木像もあるそうです。弘前城にも秀吉を祀る施設があるなど、大抜擢された恩を感じていたのでしょうか、秀吉に対する崇敬の念が強かった様子が窺えます。

■青森県弘前市

2012.02.17

高照神社・大浦城跡

Takaterujinja_1Takaterujinja_3岩木山神社から弘前市街へ向かうとあるのが、高照(たかてる)神社。弘前藩4代藩主の津軽信政を祀る神社です。

信政は津軽氏が藤原氏の末裔であるとして春日神社への信仰が篤く、幕府神道方の吉川惟足に師事していました。そこで吉川の神道に基づく神社を領内に建立しようとし、宝永5年(1708)から造営されたのがこの神社です。信政自身は完成を見ずして亡くなりましたが、正徳2年(1712)に彼の廟所が境内に築かれています。当初は「高岡霊社」と呼ばれていたようですが、近代になって高照神社と名を改めました。

Takaterujinja_4Takaterujinja_13境内の建物は最近国の指定を受けています。左写真の拝殿(重要文化財)は、7代藩主の津軽信寧(のぶやす)が築かせたもの。18世紀後半のものとなるでしょうか。右写真は本殿(重要文化財)。こちらは正徳2年(1712)築です。

Takaterujinja_5Takaterujinja_9左写真は、拝殿脇にある手水舎。築年代は不明ですが、拝殿と同時期の可能性があるとされています。
右写真は、これも拝殿脇にある神饌殿。倒壊しかかってます。修理費用の捻出が難しいためにこんな状態なんだとか。なんとかなるといいのですが。

Takaterujinja_14Takaterujinja_18本殿の奥の長い参道(左写真、馬場だったそうですが)を行くとあるのが、右写真の津軽信政廟所(重要文化財)です。
信政は17世紀後半の藩主で、検地の実施や諸産業の発展など、藩政に尽力した人として評価されています。また、先に書いた吉川惟足のほかにも儒学者の山鹿素行に師事するなど、学問にも積極的に取り組んだことで知られています。宝永7年(1710)に弘前で没。


Ourajo_1Ourajo_3そしてさらに市内へ向かうとあるのが、大浦城跡。戦国期の大浦氏の本拠となった城跡です。…が、石碑があるだけで、それらしき遺構などは何もありません(笑)。発掘調査によって城跡遺構が出たようなのですが、埋められてしまってはなにもわからず。右写真は石碑の脇にある津軽中学校で、これがもしかしたら居館跡だったのかもしれません。

文亀2年(1502)に鼻和郡種里(現青森県鰺ヶ沢町)の領主だった大浦光信が築城し、その子・盛信が城主になったと言われています。諸説あるもののこの光信は南部氏の一族だったとされ、南部氏の津軽進出に伴ってこの地に拠点を構えたという説が有力のようです。その後大浦が本拠となり、津軽為信が文禄3年(1594)に堀越城へ移るまで居城となっていました。弘前城築城によって廃城となったと考えられているようです。
史料が少なく、16世紀の状況もわからないことが多そうですね。

■青森県弘前市(旧岩木町)

2012.02.15

岩木山神社

Iwakiyamajinja_1Iwakiyamajinja_2岩木山の麓にある岩木山(いわきやま)神社です。社伝によれば、宝亀11年(780)の創建。延暦19年(800)に坂上田村麻呂が東北平定の礼として山頂に社殿を建立したとされています。(異説もあるようですが、ここでは省略。)
麓では十腰内(とこしない:現青森県弘前市)に麓宮が建てられた後、寛治5年(1091)に現在地に移転。その当時は百沢寺(ひゃくたくじ)という寺院で、おそらくは修験道場だったのでしょう。神仏分離令によって神社となりました。

中世では地元の領主層からの帰依を受けていたようですが、天正17年(1589)に岩木山の噴火によって堂舎が焼失したらしく、その後は弘前藩の保護によって再興されました。百沢寺にあった仏像は、一部が長勝寺に伝わっているそうです。永正14年(1517)の釣灯籠があるそうです。

Iwakiyamajinja_3現在の社殿の多くは近世に建立されたものです。左写真は楼門(重要文化財)。津軽信枚によって寛永5年(1628)に築かれたとのことです。元は百沢寺の山門でした。

Iwakiyamajinja_4Iwakiyamajinja_5左写真正面に見えるのが拝殿(重要文化財)。これは百沢寺の本堂だったもので、寛永17年(1640)築。
拝殿の手前にある中門(重要文化財)は、元禄7年(1694)築だそうです。


そして右写真が本殿(重要文化財)。これも元禄7年(1694)に、津軽信政によって建立されました。左側の奥門(重要文化財)も同時に建てられたものです。黒漆が映えていました。拝殿を囲む瑞垣(重要文化財)も同時期のものです。

■青森県弘前市(旧岩木町)

2012.02.14

親知らずを抜く

懸案だった親知らずですが、昨日ついに抜きました。

真横を向いていてかつ歯茎に隠れている厄介な部類だったらしく、普通よりも時間がかかり、しかも腫れが相当ひどく、現時点では食事もままならない状態。普段はそれほど痛みはないんですが、口を開けるのは難しい状態。顔の形もすっかり非対称です(笑)。

あと数日は腫れが引かないようで、しばらく食事に難儀するのが辛いなあ。それと、これでは集中力が持たず(言い訳かもしれないが)、作業はほとんどストップ。後に響くので、明日からは復帰しないと。

春休みのうちに反対側の親知らずもと考えていたけど、こちらも長引くと春休みを棒に振ってしまいかねないので、夏休みへ先延ばしするなど、ちょっと考え直した方がいいかなあ。

2012.02.12

天満宮の板碑・国吉の板碑

Iwakitenmangu_1Iwakitenmangu_6上皇宮から岩木川を挟んで対岸の側にある天満宮。弘安年間(1280年代頃)に現地に遷座したとされていますが、後に荒廃したようで、慶長8年(1603)に津軽為信が再興したとされています。

Iwakitenmangu_3Iwakitenmangu_5こちらは、境内に板碑が遺されています。年号が確認されているものでは永仁4年(1296)が最も古く、康永3年(1344)や観応2年(1351)の銘の板碑も確認されています(どれがどれだかったかは忘れましたが…)。中世になんらかの宗教施設があったことは確実なようで、また、南北朝期のものはいずれも北朝年号である所が示唆的です。

Kuniyoshiitabi_1Kuniyoshiitabi_2岩木川をさらに上流へ向かった国吉地区の田んぼの真ん中に、板碑を集めた一角があります。計12基の比較的大型の板碑が並んでおり、壮観です。

Kuniyoshiitabi_3Kuniyoshiitabi_5左写真の左側の板碑が年号の判明するものでは最も古く、正和5年(1316)のものです。その右(写真の中央)の板碑は文保元年(1317)。ほかに元応3年(1321)と嘉暦4年(1329)のものが判明しています。いずれも14世紀前半に集中しており、あるいはこの頃に開発が進んだということを示すのでしょうか。文書の残りが少ない地域にあっては、こうした資料の活用が期待されますね。

■青森県弘前市(天満宮は旧岩木町)

2012.02.11

上皇宮

Jokogu_1Jokogu_2岩木川のほとり、今は林檎畑が広がる山裾の一角にある上皇宮。道から中に入った所にあって、見付けるのに苦労しました(笑)。

紙漉沢という地区にありますが、ここは南部信政に浪岡を逐われた長慶天皇が元中2年(1385)に身を寄せ、応永10年(1403)にここで死去したという伝承があります。子の「盛徳親王」(玉川宮?)が菩提寺を建立したとされ、それが現在では神社となり上皇宮となっています。実際に戦前までは陵墓参考地に指定されていたそうです。

長慶天皇にまつわる伝承は各地にありますが、実像があまりわからない南朝天皇として知られていますね。実際にどこで没したか不明で、諸説あるものの決め手に欠けるのが現状です。ただ、没年は応永元年(1394)が有力のようで、当地に伝わるものとは異なっているようですが、中世後期から近世にかけて伝承が大切に受け継がれてきた様子が窺えます。

■青森県弘前市(旧相馬村)

2012.02.07

長勝寺構

Choshojigamae_1Choshojigamae_3弘前城の南西に建てられた長勝寺。寺伝では、享禄元年(1528)に大浦盛信が父の菩提として陸奥国種里(現青森県鰺ヶ沢町)に建てたのが始まりとされる禅宗寺院で、大浦氏が堀越城に移った際に現在地に移転したとされています。慶長15年(1610)に移転したとのことで、時期的に考えても、弘前城の築城に合わせて移された可能性が高そうですが。

左写真は三門(重要文化財)。寛永6年(1629)に津軽信枚が建立したものです。以後改修がなされ、現在の姿になったのは文化6年(1809)とのことです。
右写真は本堂(重要文化財)。慶長15年(1610)の築で、現在地の移転に際して建てられたものです。その右側には文亀2年(1502)築で、移転時に移されたという庫裏(重要文化財)があるんですが、修理中でした。

Choshojigamae_4Choshojigamae_5そしてこちらは鐘楼。右写真の銅鐘(重要文化財)は、嘉元4年(1306)の銘が確認されています。寄進者の銘に北条貞時の名があり、また津軽曽我氏惣領・安藤氏の一族の者と思われる人物の名もあります。北条氏と津軽との関係を見る上で貴重なものです。

Choshojigamae_6Choshojigamae_10そして当然のこととして、津軽氏の墓所となっています。こちらはお寺の方の案内がないと中に入れないようでしたので、外から見える所だけ撮影。霊屋(重要文化財)は、初代夫人・二代夫婦・三代・六代のものがあります。
また機会があれば、中に入って拝観したいです。

Choshojigamae_20_6Choshojigamae_18左写真は、参道手前にある黒門。右写真は、参道脇にある栄螺堂。
この門から内側は、弘前城築城にあたって領内寺社が移転して寺町を形成したとのことで、元和元年(1615)には入口に空堀・土塁・枡形も設置されました。このように寺町全体で惣構を形成することは全国的にも珍しいもので、「長勝寺構」と呼ばれ国史跡となっています。

Choshojigamae_22Choshojigamae_13そこで遺構を探したのですが、枡形の名残となっている道路は門の手前にありました。ただ空堀は一部遺っているとされるものの見つからず、土塁は門の手前に少し確認できたのですが、これでしょうかねえ(左写真の奥)。

右写真は、長勝寺から北の方向(多分)を眺めた風景。城や長勝寺に比べるとかなり落ち込んでいて、天然の要害を形成していました。

■青森県弘前市

2012.02.02

低きに流れぬように

あともう少し。来週になればなんとか余裕ができそうなんだが…。

とか言っていたらもう2月。このまま老いていきたくはない、という切実な悩みが頭をもたげてきます(笑)。
ただ、来週になっても研究に没頭というわけにはいきそうにないなあ。差し迫った原稿、安請け合いしてしまった?報告準備などなど。そうこうしているともう新学期の準備とかも考えねばならない。

それと、いよいよ親知らずを抜くことになりそう。授業に入る前には済ませておかないとなあ。

ともかくも、このまま流されていかないように気をつけねばならない。

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