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2012年3月

2012.03.27

玉前神社

Tamasakijinja_1Tamasakijinja_3JR外房線の上総一ノ宮駅から歩いて数分の所にある玉前(たまさき)神社。駅名からもわかる通り、上総国一宮です。

社伝では神代の創建とも伝わるようですが、詳しい時期は不詳。『日本三代実録』にその名が見られ、9世紀に存在したことは確実です。寿永元年(1182)には源頼朝が妻政子の安産祈願のために平良常を派遣しているそうです。上総介として知られる平広常は、一宮である玉前神社で頼朝の戦勝祈願と東国の泰平を祈らせたともされています。広常は寿永2年(1183)に謀反のかどで誅殺されましたが、その後にその祈願を頼朝が知って悔やんだという伝承もあるそうです。

その後、永禄年間(1560年代頃)に後北条氏と里見氏との戦乱に巻き込まれて社殿が焼失したそうで、神体も一時移転したと言われています。天正5年(1577)に現在地に遷り、その後里見氏、徳川氏から保護を受けました。

Tamasakijinja_4Tamasakijinja_12境内に入ると、意外とこじんまりとしています。一度焼けてしまったことも影響しているのでしょうか。

右写真は、平(上総)広常の顕彰碑。近くの高藤山城を本拠としたとされ、この地域を支配する有力武士団の棟梁でした。源頼朝挙兵に際しての功労者の一人として評価されていますが、先に触れたように謀反の罪で殺害されてしまいました。殺害された経緯をめぐっては、巨大な勢力を有していたことなど、いろいろな理由が推測されているようです。

Tamasakijinja_7Tamasakijinja_11そして本殿が…、なんと修理中(笑)。中の様子を覗いたのが右写真です。本殿は貞享4年(1687)築。なお、和鏡の梅樹双雀鏡(重要文化財)を所蔵しています。また元亀2年(1571)の銘の経筒もあるそうです。神楽などの祭礼も無形民俗文化財に指定されています。

Tamasakijinja_15Tamasakijinja_16左写真は、本殿脇の建物。こちらも古そうでしたが、詳細はわからず。
右写真は、末社の十二神社。近隣にあった12の鎮守を合祀した神社のようです。

Tamasakijinja_9そしてこちらが神楽殿。宝永7年(1710)築。文化財にも指定されている祭礼で重要な役割を果たすのでしょうね。

■千葉県一宮町

2012.03.23

館山城跡

Tateyama_2Tateyama_15昨年夏に行った、館山城跡です。戦国期房総の領主である里見氏が築いた城として知られています。東京湾口の房総半島側にある重要拠点として築かれたものと考えられています。

天正6年(1578)に、当時は岡本城(現千葉県南房総市[旧富浦町])を本拠としていた里見義頼が築城を命じ、天正8年(1580)頃には城郭として機能していたようです。完成したのは、里見義康(義頼の子)の代となった天正18年(1590)とされています。以後、館山が里見氏の本拠となりました。

里見氏は「惣無事」に違反したとして豊臣秀吉に上総国を削られて、所領は安房一国となったものの、関ヶ原合戦で徳川家康に味方して加増。しかし慶長19年(1614)に大久保忠隣(ただちか)が失脚した折、当主の里見忠義(義康の子)が忠隣の孫を娶っていたために連座となり、そのほかにも咎を言い立てられて改易。伯耆倉吉(現鳥取県倉吉市)に事実上の配流となりました。館山城もこの時に破却され、廃城。そして元和8年(1622)に忠義が死去し、里見氏は滅亡しました。この時8人の家臣(人数は異説あり)が殉死したとされ、それが曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルとなりました。

現在は本丸に模造天守が建っており、「南総里見八犬伝」に関する展示がされているそうです(私は入らず)。見てわかるように、天守は犬山城をモデルにした様子が窺えます。

Tateyama_6Tateyama_10左写真は、本丸から南の方向にある一段下の曲輪。この辺は城跡っぽいです。
右写真は本丸の一角。左写真を撮った辺りです。

Tateyama_12Tateyama_13左写真は本丸。結構広さを感じました。右写真は、本丸にある浅間神社。関東大震災の後に勧請されたそうです。意外と新しいんですね。

Tateyama_18Tateyama_23左写真は、本丸の一段下の区画。二の丸ということになるんでしょうかね。公園として整備されていて、城跡の雰囲気はあまりありませんでした。
さらにそこから下りて行くと、右写真のような堀切がありました。全体的に公園化している中で、ここはいかにも城跡っぽい雰囲気がありました。ただ、夏場は蚊に辟易…。

Tateyama_25さらに下りて行くと、殉死した8人の家臣の墓があります。それぞれの実名は不詳。殉死した家臣の遺骨は密かに館山に運ばれ、葬られたという言い伝えもあるそうです。墓石自体は近世初期でもいけそうかなという感はしました。

■千葉県館山市

2012.03.19

春の遠征二件

Myohoji_1Omurosengen_2すっかり時機を逸したネタですが、今月の始めにとある勉強会の合宿(=旅行)で河口湖へ行きました。もっとも私は一日のみの日帰り参加でしたが。
別の勉強会で『勝山記』を読んでいるので、そのフィールドとなった地を是非見て回りたいとかねてより思っていたので、いい機会となりました。

左写真は、河口湖畔にある妙法寺。『勝山記』は別名『妙法寺記』と呼ばれますが、その名前はこの寺が由来です。
右写真は、こちらも湖畔にある富士御室浅間神社。ここが『勝山記』の書かれた所です。別当寺である常在寺も隣接していました。

このほか、本栖湖畔にある本栖城跡や、富士吉田の関連史跡も見学してきました。午後はあいにくの雪となり気候的には厳しかったですが、充実した一日でした。


Sugaurachikubushima_22Sugaurachikubushima_109さてもう一つは、先週末にこちらも合宿で菅浦と竹生島に行ってきました。菅浦は二度目でしたが、竹生島は初めてだったので、存分に堪能してきました。しかし飲み過ぎと寝不足で二日目は撃沈。帰りは京都で特別公開している寺院を見ようと思っていたんですが、とてもそんな体力がなく断念。すぐに新幹線で帰ってしまいました。若干心残りではありましたが、充実した合宿で楽しかったです。ただ、この合宿の将来的な展望はやや寂しいものとなりそうな感じですが…。

今年の春休みは大々的な旅行はできませんでしたが、それなりにリフレッシュする機会が得られて良かったです。あとはもう新学期の準備だなあ…。

2012.03.14

名札だけ取る贈与(続)

先日取り上げた札だけ取って献上品は返却する八朔の贈答の事例ですが、史料を繰っているとまた一つ見付けました。


禁中へ御タノムノ大刀[糸巻]進上了、後刻冷(冷泉為満)同進上了、札ヲ付之、言経[上]・言緒[上]如此了、持明院(基孝)ヨリ進了、長橋殿(持明院孝子)マテ進了、則披露、札ヲノケラレ御返トテ被下了、
…     ―『言経卿記』慶長5年(1600)8月1日条(抜粋、[ ]は割注、( )は引用者注)

今度は関ヶ原合戦直前の時期、丁度同じ日に伏見城が陥落し、鳥居元忠が自刃した日。京都も騒然としていたようですが、そんな中、日記の記主である山科言経(ときつね)は八朔として後陽成天皇に太刀を進上しています。後には義理の兄弟(妻の兄弟)である冷泉為満も同じように進上したようです。言経が献上した太刀には札を付けており、そこには「言経上」「言緒上」と書いたとのことです(言緒(ときお)は言経の子)。持明院基孝を通じて長橋局(基孝の娘)に進上した後に天皇に披露され、そこで札を取り、「お返しとして(太刀を)下された」とあります。

ここでは「返却」というよりは「返礼」という意味合いが感じられますが、いずれにせよ名前が書かれた札だけ取って、献上した太刀をそのまま返すという作法がここでも確認されます。

私は今まであまりこの件に関心が無くおそらく読み飛ばしていたのですが、真剣に調べると事例はもっと見つかりそうです。またある程度傾向が窺えるわけですが、このような儀礼はおそらく、織豊期の八朔における公家衆から天皇に対する贈与において見られるものであるということです。(もしかしたら後陽成天皇の個人的な意向である可能性も?)

実はこの儀礼については専論があるかもしれませんが、そこまでは調べていません。論文にする予定も考えていないので、もし先行研究が無かったらネタにどうぞ(笑)。卒論くらいにはなるかも?

2012.03.13

春はもうすぐヵ

校務あり依頼原稿あり、そして飲みあり(笑)の毎日。それなりに充実した春休みとはいえるのかなあ? 今週は校務がほとんどないので、性根を入れて史料をめくりたいと思います。今の私に必要なのは、小難しい話を捏ねくり回すよりも地道に史料に当たることかなあとは思っておりまして(拙著は色々と批判も受けたし)、まだ当面はその方針で行きたいと思います。

しかし来週になるともう新学期の影がちらつく…。来年度は新規に担当する科目があるので、その準備もしないとなあ。
また、私の周囲では来月から新たな道へ進む方が多くいらっしゃいます。重畳至極。丁度私の年代が“動く”時代になったということなのでしょう。こんなところでささやかではありますが、新天地でのご活躍をお祈りします。
なかなか暖かくならないとはいえ、良くも悪くも春はすぐそこ。

2012.03.06

飯詰(高楯)城跡

Takatatejo_4Takatatejo_10やっと青森編も最後。飯詰城跡です。高楯城とも呼ばれています。

南北朝期に後醍醐天皇近臣という藤原景房が築城したという伝承があり、戦国期には朝日氏という一族の居城だったとされています。天正6年(1578)に当時城主だった朝日行安が、大浦為信に浪岡を逐われた北畠顕村を保護。大浦為信に抵抗しましたが、天正16年(1588)に落城して壊滅したと言われています。

Takatatejo_2Takatatejo_9とはいえ、素人目には城跡だったのかどうかすらよくわからずで…(笑)。右写真の奥に忠魂碑の建つ一画があり、そこが本郭とされているようですが、遺構とは関係ないと思って写真に撮りませんでした(笑)。

こちらに詳しいので、ご参照ください。

■青森県五所川原市

2012.03.05

公卿塚・石仏板碑群

Hirosakiitabi_2Hirosakiitabi_3弘前の郊外、中別所地区には中世の板碑が多く遺されている所があります。

板碑群は二箇所のまとまりに別れていますが、上記写真はその一つの区画である「公卿塚(くげづか)」と呼ばれている板碑群です。2m弱ほどの比較的背の高い板碑がいくつかありました。種子のほか、銘が読み取れるものもありました。

Hirosakiitabi_4Hirosakiitabi_6一方、こちらは小振りな板碑。

Hirosakiitabi_5Hirosakiitabi_7背の高い板碑のうち2基。右のものは弘安10年(1287)と読めましたが、あまり自信はありません。

Hirosakiitabi_10Hirosakiitabi_13一方こちらは、すぐ近くにある「石仏」と呼ばれる板碑群です。こちらにも大小様々な板碑が置かれています。はじめからすべてここにあったわけではなく、おそらく周辺地域の板碑が集められたのでしょうね。

Hirosakiitabi_11Hirosakiitabi_18中でも目を引くのが、右側の板碑(重要美術品)。正応元年(1288)の銘のあるもので、願主として「源光氏」の名が確認できます。この人物は長勝寺梵鐘の檀那にも見られる名前で、当時におけるこの地域の事情を考える上で貴重な資料となっています。こちらで拓本が見られます。
岩木山麓で採れる輝石安山岩を利用しているそうで、石材は地元で調達したようですね。


公卿塚・石仏をすべて合わせると47基あるそうで、年代はすべて鎌倉期と推定されています。おそらく12世紀後半から13世紀前半にかけてのものでしょうか。北条氏を中心とした鎌倉幕府の勢力が浸透するに従って、このような板碑も製作されたのでしょう。

■青森県弘前市

2012.03.03

もう3月な生存報告

ああ、早くもあと一ヶ月で春休みが終わってしまう。

結局、依頼原稿を仕上げて終わってしまいそうだなあ。これではいかんのだが。少しでも史料を読んでストックしないといけないのだが。

また間が空いたので、埋め草日記でした。
ちなみに来年度の授業は月・火で固められたようです。あわよくば週2などというふざけた出勤体制も可能かと思わせるが、もちろんそううまくはいくはずもないだろうなあ。

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