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2012年9月

2012.09.24

竹生島

Sugaurachikubushima_59春先に行った竹生島。菅浦から船で渡りました。琵琶湖北部にある小さな島ですが、古来信仰の対象となってきました。国史跡・名勝に指定されています。

Sugaurachikubushima_18Sugaurachikubushima_19島に鎮座する竹生島神社。かつては都久夫須麻(つくぶすま)神社呼ばれ、竹生島明神とも称される神社で、島全体が境内地となっています。
菅浦の須賀神社に伝わる、乾元元年(1302)のものとされる菅浦と竹生島を描いた絵図に描かれたのが、現存する最も古い姿だとされています。左写真にある五輪塔はこの絵図にも描かれており、代替わりしていなければ鎌倉時代からあったということになります。

Sugaurachikubushima_33Sugaurachikubushima_37こちらは本殿(国宝)。伏見城の遺構として有名なもので、豊臣秀頼によって寄進されました。内部は狩野永徳・光信によって黄金に装飾されています(見られませんでしたが)。

Sugaurachikubushima_46Sugaurachikubushima_47そしてこちらは、宝厳寺唐門(国宝)。元は豊国廟の正門だったとされ、徳川家康によって寄進されました。宝厳寺(ほうごんじ)は都久夫須麻神社の神宮寺でしたが、神仏分離令によって別々になりました。当初は廃寺になる予定だったものの、地元の反対で残ったそうです。唐門の奥にある観音堂(重要文化財)も、伏見城から移されたと言われています。

Sugaurachikubushima_44Sugaurachikubushima_42左写真がその観音堂。アングルが近すぎて何が何やらですが(笑)。右写真が、神社と観音堂を繋ぐ渡廊(重要文化財)。秀吉が使用した船を用材にしたという伝承があるそうです。

Sugaurachikubushima_49Sugaurachikubushima_51左写真は本堂。右写真は、本堂の手前にある石造五重塔(重要文化財)。鎌倉時代のもので、比叡山で取れる「小松石」で造られたものだそうです。中世の竹生島は比叡山との関係が深かったことから、その縁によるものでしょうか。

なお、さらに上には三重塔があり、その傍らにある宝物殿で中世のものを多く含む「竹生島文書」などの文化財を見学することができます(有料)。

〔2012.10.4追記〕
宝厳寺唐門の記述につき、一部修正しました。ご指摘くださった灰屋さんありがとうございました。

■滋賀県長浜市(旧びわ町)

2012.09.20

北口本宮富士浅間神社

Kitaguchihongu_5Kitaguchihongu_10富士吉田の中心に鎮座する、北口本宮富士浅間神社です。富士山の北側からの登山口である吉田口は「北口」という別名を持つことから、この社名が付いたようです。

由緒は勝山の浅間神社と同じく8世紀後半の富士山の噴火を起源としており、最初に富士山を登ったという伝説もある役行者こと役小角(えんのおづぬ)との関係も由緒には記されているようです。後に富士講と深く関わっており、その開祖とされる角行との縁も言い伝えられています。ともあれ、近世に富士講が盛んになると、富士山の登山口として吉田の街の発展とともに大いに栄えたようです。
右写真の拝殿は18世紀初頭の築のようです。奥にある本殿(重要文化財)は、元和元年(1615)に谷村城主だった鳥居成次によって建てられたとされています。

Kitaguchihongu_2Kitaguchihongu_3参道で見かけたもの。左写真は仁王門の礎石。神仏習合を示すものだったため、神仏分離令によって撤去されたそうです。
右写真は「角行の立行石」。慶長15年(1610)に角行が吉田で行った荒行に用いられた石だと言われているそうです。

Kitaguchihongu_12Kitaguchihongu_16左写真は西宮本殿(重要文化財)。文禄3年(1594)に、当時の谷村城主であった浅野氏重によって建てられたとされています。当初は本殿として建てられたものだったようです。

右写真は東宮本殿(重要文化財)。こちらが最も古く、永禄4年(1561)に武田晴信(信玄)が上杉政虎(のち輝虎、謙信)に対する戦勝祈願のために造営したものと伝わっており、こちらも当初は本殿として建てられたものだそうです。
戦国から江戸初期にかけてこの地域の領主がめまぐるしく変わりますが、それに応じて本殿が造営されたことがわかります。領国支配の安定化の上で重視された活動だったのでしょう。

Jogyoji_3こちらは歩いて数分のところにある上行寺。今は小さな寺院ですが、『勝山記』に登場する寺院です。現在も日蓮宗でした。おそらく吉田の浅間神社(北口本宮)の別当寺だったのではないかと思われます。身延山別院とのことですが、『勝山記』を見ると戦国期から身延山との関係が深いことが窺えます。

これでこのシリーズは終了です。

■山梨県富士吉田市

2012.09.15

『戦国・織豊期の西国社会』刊行につき

私も寄稿しました論文集が下記の内容で刊行されます。
一般の流通ベースには乗らないので、宣伝がてらお知らせすることにしました。
詳細は刊行元の日本史史料研究会にお問い合わせください。(この記事を書いている時点では、まだ同会HPには本書の案内はないようですが。)

私の原稿は、近年取りかかっている中近世移行期の記録類を悉皆調査している成果の一部です。
私のはともかく、ほかの気鋭のみさんの論文があまた掲載されているので(たぶん今回も電話帳のような厚さなのでしょう)、よかったら手に取ってみて下さい。

それにしても、コピーもできない厚さなので、抜き刷りどうしようかなあ。


日本史史料研究会論文集2
戦国・織豊期の西国社会(2012年10月10日刊行予定)
天野忠幸 片山正彦 古野貢 渡邊大門 編
(A5版 1166頁 本体4800円+送料450円=5250円)
32名で論じる戦国・織豊期の西国社会

第1部 足利将軍権力の実像
1戦国期の大名邸御成と在京大名(浜口誠至) 2足利義材の流浪と西国の地域権力(山田貴司) 3戦国時代の足利将軍に関する諸問題(山田康弘) 4永禄の政変以降における足利義栄と将軍直臣団(木下昌規) 5大和晴完とその故実について(木下聡) 6戦国末期の室町将軍と朝廷―禁裏大工職相論を中心に―(神田裕理)

第2部 畿内政治史の展開
7摂津国上郡における守護代薬師寺氏―戦国前期の拠点・国人と守護をめぐって―(中西裕樹) 8地域社会における室町幕府―守護体制とその変質について―細川京兆家分国讃岐国を素材に―(古野貢) 9細川晴国小考(岡田謙一) 10細川晴国・氏綱の出自と関係―「長府細川系図」の史料批判を兼ねて―(馬部隆弘) 11松永久秀家臣団の形成(天野忠幸)

第3部 西国地域史の様相
12室町期島津氏「家中」の成立と崩壊―南九州における戦国的状況の出現過程―(新名一仁) 13戦国期近江における国人領主の展開―永原氏を中心に―(新谷和之) 14尼子氏による出雲国支配機構の遷移(戸谷穂高) 15天文・永禄年間における赤松氏の権力構造―晴政・義祐期を中心にして―(渡邊大門) 16毛利分国の諸領主層について(村井良介)

第4部 豊臣期の政治動向
17羽柴秀勝の丹波支配について(片山正彦) 18羽柴秀保と豊臣政権―朝鮮出兵と大和支配の事例を中心に―(北堀光信) 19豊臣期の摂関家と武家(水野智之) 20豊臣政権下における筑後国人領主と在地支配―小早川秀包領国を中心に―(光成準治) 21『御湯殿上日記』と秀次事件―「むしちゆへ」「御はらきらせられ候」―(矢部健太郎)

第5部 戦国・織豊期の社会・経済・宗教
22在地徳政論再考―伊勢・近江を中心に―(呉座勇一) 23戦国期大坂本願寺教団体制の地域的実態―西国の場合―(安藤弥) 24天正四年興福寺別当職相論と織田信長(金子拓) 25戦国織豊期の九州北部の村落連合と村落構造―筑前早良郡五ヶ村―(廣田浩治) 26銀貨普及期京都における貨幣使用―『鹿苑日録』の分析を中心に―(川戸貴史) 27大徳寺正受院文書の復元的研究(杉山巖)

第6部 徳川権力の展開
28松平家忠上洛する―「家忠日記」文禄三年の欠損記事の復元―(大嶌聖子) 29肥前名護屋における徳川家康(平野明夫) 30浪人長宗我部盛親と旧臣(平井上総) 31大坂夏の陣における遭遇戦の実態―八尾・若江の戦いにおける津藩藤堂家を例に―(長屋隆幸) 32十七世紀初頭における大阪湾の海上軍事―小浜光隆の動向を中心として―(小川雄)

〔追記〕論文タイトルを一部修正しました。

2012.09.13

今夏最後の遠征

この夏休み最後の出張から昨日帰ってきました。

名古屋での中世史研究会40周年記念大会に出席。私はそのうちほんの少しの期間だけ奉仕した時期はありましたが、その縁もあって懇親会で発言を求められるなど(笑)、いろいろとお気遣いいただきました。
早くも50周年が視野に入っている感じですが、今後のますますのご発展をお祈りします。シンポジウムではまたしても余計なことを喋ってしまい、進行を妨げてすみませんでした。会場が勝手知ったる場所だったので、つい気が大きくなってしまいまして…。

さて、その後は能登の巡見に行ってきました。ちょうど七尾城などには行きたいと思っていたところなので、まさに渡りに船といった感で。ただ、体調管理に失敗して七尾城登城に体力がついていかず討ち死に。運動不足に情けない思いです。このほか初めて時国家に行ったりと充実した時間を過ごせました。

ここまではよかったのですが…。この後予期せぬトラブルがありました。詳細はここでは控えますが(何が起きたかさっぱりわからないと思いますが、ご容赦ください)、とにかくすべての関係者にとって最善の方向へ進展することをひたすら祈っております。

2012.09.06

【受贈】『偽りの外交使節』

橋本雄『偽りの外交使節―室町時代の日朝関係』(歴史文化ライブラリー351、吉川弘文館、2012年)受贈。ありがとうございます。
昨年出版された『中華幻想』(勉誠出版)は主に室町期の日中関係についてがテーマでしたが、こちらは日朝関係がテーマ。著者が長らく取り組んでこられた、「偽使」問題から対外関係の様々な姿について説き起こしています。

具体的には、外交文書や外交儀礼、とりわけ日本側が渇望した大蔵経の実際の価値、はたまた文化交流など、とにかく多角的な叙述になっていて、中世後期における日朝関係の研究の到達点をサーベイするための絶好の一冊と言えると思います。

ただ個人的に面白いと思ったのは、「ニセモノ」を追究した結果、実のところはむしろ「ホンモノ」とは何かという問題がクローズアップするという指摘でした。私も貨幣史をやっていて、悪銭の問題に特に興味があるので常々思っていることでもあるので、とても共感が持てる。「グレー」とか「マージナル」とか「両性具有」とか、表現はいろいろあれど、このような状態を放置することはあまり好まれない傾向があり、最後には白か黒かという決着を付けたがることも多いように思う(日常生活よりもむしろ研究の世界の方がより強固かもしれない)。もちろんそれが研究の上で重要な問題意識ではあるのだけれども、あまりにはっきりさせようとしすぎると、かえって本質が見えなくなってしまうということも考えようによってはあるのではないだろうか。
こうした“曖昧さ”というか、ぶっちゃけていえば“どっちでもいいよ”的なスタイルが、いわゆる「国家」間交渉という最もシビアな場面においても適応しうる可能性があるということは、中世東アジアという世界を考える上で一つのヒントになるのではないかという気がしました。

なんだかとりとめのない感想ですが、良かれ悪しかれ現在的な問題であるテーマについて、歴史的な視点から思索するための手引きとして広く読まれることを期待します。

464205751X偽りの外交使節: 室町時代の日朝関係 (歴史文化ライブラリー)
橋本 雄
吉川弘文館 2012-08-21

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2012.09.02

2012年サマーセミナー雑感

Ss2012_1Ss2012_2今年の中世史サマーセミナーに参加してきました。
合計4回目かと思ったけど、数え直したら5回目でした。それでもこの歳でこの回数は多くはないですね。20代の頃は資金難で一度も行けなかったためだが。

さて、初日のシンポの会場の冷房が故障していたいうトラブルで幕を開けたものの(頭がボーッとしてあまり内容が頭に入らなかった)、その後は大きなトラブルもなく楽しむことができました。運営のみなさんに御礼申し上げます。

とはいえ、8月の北関東はやはり暑い。その分天気が良かったのは奇貨とすべきかもしれないが、開催時期なども含めてなんとかならんものか、などと思ったりもした。まあこれはあくまで暑さに弱いいち個人の感想として。

来年は愛媛でやることになる模様。おそらく四国は初めてらしい。私も縁のある土地だが、もう離れて15年になるしなあ…。というわけで、助太刀は期待しないで下さい(笑)。よほどの事情がない限りは参加したいと思います。

ちなみに写真は、左は新田荘故地にある円福寺の新田氏墓所。珍しく凝灰岩を使った墓石群。右写真は金山城跡大手の溝の遺構。こちらは発掘調査中で普段は見ることが出来ないので、貴重な機会でした。石垣の遺構が出たそうで、これは今後議論を醸す成果らしい(詳しいことはよくわからないが)。

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