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2012年12月

2012.12.31

2012年 年末

今年は私にとってあまり大きな変化のない一年でしたが(社会情勢はともかく)、怠慢からの不完全燃焼は去年に続いてしまったかなあと反省しております。

一応は論文を2本出すことができましたが(あと書評1本)、これも事実上は去年以前の仕事であり、今年は執筆の面では書評や論文ではない原稿を書くばかりで、「論文」と言えるようなものはほとんど書けませんでした。
今後の研究方針についてやや迷いもあるゆえでもあるのだけれども、正直に言って、就職したことによる「燃え尽き」に陥っている懸念を自覚しています。それを払拭すべく、来年こそはという思いで頑張りたいところ。

もっとも、いつものことながら、言うは易しなわけですが(笑)。でもせめて1本くらいは投稿したいなあ…。

何かと忙しいであろう年末年始、みなさんもお体に気をつけて、良いお年をお迎え下さい。
私は、今日は(一人で)飲みますが(笑)、今週は久々に何もない一週間なので、上記の決意を実践すべく研究に頭をシフトしたいと思います。来週はもう授業だし…。

2012.12.27

年末進行中

授業を含む校務は先週末で終わったのですが、その後急遽出張(という名の旅行?)を入れたため(そしてちょっと体調を崩したため)、ドタバタです。

今から年賀状を書いています。そもそもプリンタも壊れていたので、それを買うところから始める始末。
なんとか年内に仕上げるべく奮闘中です。
あと、校正一本を冬休み中に終わらせねば…。思ったよりやりたいことをできる時間が少なくなりそう。あるだけまだましなのですが。

2012.12.19

石神井城跡

Shakujii_1_5Shakujii_3_3東京の西郊・練馬の石神井(しゃくじい)公園。この一画が中世の城跡だったことはよく知られています。

中世においてこの地域を支配した豊島(としま)氏の本拠だったとされています。豊島氏は秩父平氏の一族で、周辺の領主である江戸氏や葛西氏とも同族でした。弘安5年(1282)から石神井郷を支配していたことが知られており、この頃から本拠としていたものと考えられています。
中世後期には嫡流が鎌倉公方、庶流が山内上杉氏の被官になったようですが、文明9年(1477)に嫡流の豊島泰経・泰明兄弟が長尾景春に味方したため、太田道灌の攻撃を受けて落城。豊島氏は没落しました。

Shakujii_6_3Shakujii_2_3左写真が主郭にあたる所です。空堀の遺構が確認できるでしょうか。遺跡保存の趣旨から、今は主郭に立ち入ることはできません(事前予約すれば入れるようですが)。残念ですが仕方有りませんね。

右写真は、公園内にある姫塚。豊島泰経の二女である照姫が落城時に池に入水したという伝承があり、それを祀るものです。

なお、公園にはふるさと文化館があり、展示施設もありました。

Shakujii_8_2Shakujii_7_2ここからは周辺の散策。まずは三宝寺。応永元年(1394)に豊島氏によって建立されたと言われています。豊島氏の帰依を受けたことは、公園の池が「三宝寺池」と呼ばれているところからも窺えます。落城後は、公園も境内という位置づけになったのでしょう。

三宝寺は、近世には将軍家の保護を受けており、徳川家光の鷹狩りの際には、休憩所になったそうです。左写真の山門は、家光が来訪したことを受けて「御成門」とも呼ばれています。現在の門は後の時代の再建のようですが。

Shakujii_10_2そして、境内には「守護不入」の石碑が。中世のものではないようですが(笑)。寺の高い格式を示すものとのことです。

Shakujii_9_2次は、お隣にある道場寺。こちらも豊島氏によって開かれたとされる禅宗寺院で、豊島氏の菩提寺にもなっています。その後は後北条氏の保護も受けたようで、発給文書を所蔵しています。

Shakujii_11_2Shakujii_12_2最後は、少し離れた所にある氷川神社。こちらも応永年間(14世紀初頭)に豊島氏によって建立されたとされています。豊島氏没落後はこの地域の鎮守として崇拝されたそうです。
右写真の石灯籠は、元禄12年(1699)に豊島泰盈が寄進した旨が刻まれています。江戸時代には旗本になった一族がいるようなので、その関係者でしょうか。

■東京都練馬区

2012.12.12

館山のやぐら群

Tateyamayagura_3Tateyamayagura_4知る人ぞ知る事実ですが、房総半島の特に旧安房国の地域では、「やぐら」の遺構が多く検出されています。やぐらは鎌倉で始まった文化と考えられていることや、旧江戸湾の湾奥部では分布が見られないことから、中世における房総の葬送文化は鎌倉から海を渡って入ってきたことが明らかとなっており、注目を浴びています。

というわけで、そのうちの代表的なやぐらを見学しました。上の写真は千手院やぐら。

Tateyamayagura_2Tateyamayagura_5千手院は堂舎ではなく、左写真のやぐらが信仰の場となっています。ここに安置されている地蔵菩薩像には、文和2年(1353)の銘があるそうです(ただし本物は、博物館にあるかも)。
そして、このやぐらの上には右写真の宝篋院塔があります。南北朝期のものと考えられています。

Tateyamayagura_9Tateyamayagura_10そしてこちらは、館山のやぐらでも代表的なものとされている水岡やぐら。場所は集落内の民家の裏側にあるので、地元の方に聞かないとなかなか見付けるのは難しいかもしれません(また、場所自体も私有地のようです)。私はたまたま地元の方がいらっしゃったので、快くokをいただいて見学しました。

このやぐらでは彫刻もかなりはっきり確認することができます。最も古いものは鎌倉時代に遡るようですが、室町時代に彫られたものもあるようです。

Tateyamayagura_12Tateyamayagura_14周辺には、ほかにもやぐらと覚しき遺構があります。こちらははっきり憶えていないのですが、水岡地区にある「内田やぐら」と呼ばれるやぐらではなかったかと。(自信は無いですが)

■千葉県館山市

2012.12.09

【受贈】『豊臣政権の法と朝鮮出兵』

三鬼清一郎『豊臣政権の法と朝鮮出兵』(青史出版、2012年)受贈。ありがとうございます。
前著に続いて出版された本書は、豊臣政権の政策の中心である石高制の問題や、著名な法令についての詳細な分析が中心となっています。また、タイトルにあるように、豊臣秀吉が推進した朝鮮出兵に関連する論文が収められています。今でも、朝鮮出兵研究の基本文献として位置づけられている重要な論考ですが、これでより参照しやすくなったといえますね。

法令についての分析は、「人掃令」「キリシタン禁令」「海賊禁止令」といった、政権にとって重要でありながら、その存在の有無というレベルで議論が続けられてきた、重要なテーマについて検討したものです。そして、近年議論されている「惣無事」令について、早くからなされていた批判の論考も収められています。

前著と同様に論文は初出時のものですが、巻末にそれぞれ補注があり、現在の研究水準との関係についても自ら触れておられます。豊臣政権の研究の推移や今後の課題を確認する上でも、本書は重要な意味を持つものと思います。

私も豊臣政権期について社会経済の側面からもう少し掘り下げてみたいと思っているところですが、その際には本書に大いに学ばせていただきたく思います。

4921145482豊臣政権の法と朝鮮出兵
三鬼 清一郎
青史出版 2012-11

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