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2013年3月

2013.03.31

「東ユーラシアの出土銭」コメント

いよいよ年度末。論文が出せなかった昨年度に比べれば、今年度は2本出すことができたので(実は昨年度に書いたものですが)、まずまずとしたいと思います。

といっても、これで満足しているようでは…。もちろん、数を出せばいいというわけではないですが、そんなことを言っているとすぐに怠けてしまうので、来年度は少し自らに鞭打って頑張りたいと思います(毎年言っている気もするが)。

既に脱稿済みの原稿のほかにも、幸いにも構想中のネタがいくつかあるので、それを着実に仕上げていきたいと思います。まだ調べないといけないことや考えないといけないことがあるので、粗製濫造とならないよう、焦らずに…。

さて、先日は新潟大学の講演会「東ユーラシアの出土銭」において、「永楽銭からみた東ユーラシア」と題したコメントをしてきました。私のコメントは、タイトルは壮大ですが中身はもろにドメスティックな日本史の内容で、なんともお恥ずかしい限りです。
三宅俊彦さんの講演は、中国を中心とした東ユーラシア(東アジア+東南アジア)で発掘された一括出土銭(一括して大量に出土した銭)の発掘情報を網羅して分析したもので、特に最近判明した東南アジアでの発掘状況などを知ることができて、とても勉強になりました。最近「内向き」な私も大いに刺戟を受けました。

コメントについては、中国ではなぜか永楽通宝の出土例が稀であるという点について、日本における永楽通宝の流通に関する近年の研究の紹介を交えて、いくつかの問題提起をしました(つもりです)。三宅さんや、参加された方々から色んなご指摘をいただき、参考になりました。

今後もこのような機会があれば、積極的に参加したいと思います。また、新潟大学の方々から報告書などをたくさん頂戴しました。ありがとうございました。

年度が替わっても、私の所属は変わりません(新たに一箇所非常勤で行きます)。来年度も宜しくお願いいたします。

488621309X中国の埋められた銭貨 (世界の考古学)
三宅 俊彦
同成社 2005-01

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2013.03.24

小丸山城跡・長齢寺

Komaruyamajo_2Komaruyamajo_5能登編です。七尾の市街地にある小丸山(こまるやま)城跡。前田利家が築いた城として知られています。

能登を支配下に収めた織田信長は、天正9年(1581)に前田利家を七尾へ入部させましたが、峻険な山城であったため、平時の居城として天正10年(1582)にこの城を築きました。利家は翌年の賤ヶ岳合戦後に金沢(尾山)へ移転したため、七尾には代わって弟の前田安勝が入り、以後はその子らが引き継ぎましたが、元和元年(1615)に廃城となりました。

左写真が主郭と思われる場所。小高い丘の上にあり、市街地を見渡す程度の高さがありました(下の写真)。
右写真は、前田利家夫妻の銅像。大河ドラマの時に造ったのでしょうか。

Komaruyamajo_15Komaruyamajo_17左写真は、堀を隔てたもう一つの大きな曲輪。「天性丸」と呼ばれているようです。右写真は、その堀(遊歩道)を下から撮影したものです。

すっかり公園になっていて城跡らしさはあまりありませんが、平時の居館として整備されたことを考えれば、まあこんなものでしょうか。

Komaruyamajo_9Komaruyamajo_8左写真は本丸にあった日像上人像。現地の石碑によると、文永6年(1269)に「千葉県平賀」(現印西市[旧印旛村]か)に誕生し、日蓮の死後に出家して日朗の弟子となった人物で、後に七尾で布教を行ったそうです。
下総平賀氏出身の人物とされ、南北朝期に布教に貢献して京都妙顕寺の開山になった人物です。この下総平賀氏というのがよくわからないのですが、なんらかの伝承が残っているのでしょうか(私が知識不足なだけかもしれませんが)。
右写真は本丸からの眺め。

Choreiji_1小丸山城の北方には、攻撃に備えるための防御を兼ねて29の寺院群を配置しました。これを山の寺寺院群と呼んでいます。

そのうち長齢寺へ参拝。所蔵している文化財も見学しました。ここは前田氏の菩提寺で、前田利家が新たに建立した寺院です。

Choreiji_2Choreiji_5左写真は、本堂の左側にある、前田利家の父母の墓所。右側が父である前田利春(休岳公)の墓で、右が母である長齢夫人の墓とされています。

右写真は、同じく境内にある宝篋院塔で、右が前田利家、左が長男の前田利長の供養塔だそうです。

■石川県七尾市

2013.03.20

春休みもどこへやら…

気がついたら春休みもあと十日しかない。しかし、やりたかったことの半分も出来ていない始末。やはり物事というのは上手くいかないようにできていますねえ(何を今更)。

さて、ふとしたきっかけで、来週は新潟で講演会のコメントをすることになりました。就職して以来、研究で頭を使う機会が確実に減ってしまったので、ここでトレーニングしておきたいと思います。

新年度へ向けて、周囲ではいろんな動きがあります。去年に続いて、長年親しくお付き合いをしてきた人たちが遠方へ移ることになり、感慨深いものがあります。新天地での活躍を期待するとともに、振り返って我が身にも鞭打って精進いたします。

…ああ、来年度は月曜1限に授業が。

2013.03.13

秩父 浄蓮寺

Chichibujorenji_3Chichibujorenji_2秩父の山間にある浄蓮寺。正応元年(1288)開基とされる日蓮宗の寺院です。松山城(現埼玉県吉見町)を支配した上田氏の菩提寺とされています。

上田氏は武蔵七党のうち西党の末裔とされ、扇谷上杉氏の被官でしたが、戦国期には後北条氏に従った外様国衆とされる一族です。元々は相模を本拠としていたようですが、15世紀半ばに武蔵国比企郡へ進出し、松山城を拠点として支配を固めていったと考えられています。後北条氏の滅亡後は消息が不明となっています。

Chichibujorenji_9Chichibujorenji_8境内には中世の板碑と思われる遺物があります。左写真は、「上田右京亮板碑」とされるもので、天正17年(1589)の銘が確認されます。右写真は銘からはわかりませんが…、中世かなあ? どうでしょうかね。

Chichibujorenji_12Chichibujorenji_13左写真の板碑は、肉眼や写真では年号を確認できませんが、中世ではないかと思いました。右写真のものは、これも天正17年と読めるように思うのですが、確信は持てません。

Chichibujorenji_23Chichibujorenji_19そしてこちらは、上田氏墓所。かつては別の所にあったものが移されたそうです。左(奥)から蓮好(政広)、宗調(朝直)、蓮調(長則)の墓であることが銘から確認されているそうです。
このうち上田朝直(ともなお)は扇谷上杉氏の被官でしたが、没落後に北条氏康に従い(一時は上杉謙信に従っていますが)、北条方として活動した人です。天正10年(1582)とされています。その子の長則は翌天正11年(1583)に没したそうです。
上田氏については、お寺が所蔵する慶長8年(1605)の過去帳により詳細が追えるとのことです。

■埼玉県東秩父村

2013.03.10

新田荘遺跡 反町館跡・円福寺

Nittasorimachi_4Nittasorimachi_8去年のサマーセミナーで廻った史跡のうち、未紹介のものをば。
まずは、新田荘遺跡として国史跡になっている史跡です。

写真は反町館跡。現在は照明寺の境内となっています。この地域は中世は村田郷と呼ばれる地域で、新田岩松氏の一族のうち、「堀内殿」と史料に見られる一族の館跡とされています。鎌倉~南北朝期にかけて築かれたとされ、戦国期になって拡張されたようです。

Nittasorimachi_2Nittasorimachi_6左写真のような堀が覆っています。右写真は、境内に遺る土塁と覚しき遺構。

Nittaenpukuji_4Nittaenpukuji_17そして、こちらは円福寺。13世紀半ばに新田政義が築いた寺院とされています。
新田政義は御家人でしたが、寛元2年(1244)に京都大番役中の自由出家によって由良郷別所に蟄居となったとされています。その居所に接して築かれたのがこの円福寺だったようです。
右写真の石幢は長享3年(1489)の銘が確認されています。「宗悦上座」「宝泉禅門」銘もあり、前者は横瀬国繁、後者は岩松満国の法名とされています。

Nittaenpukuji_8Nittaenpukuji_11そしてこちらが、新田氏累代の墓所。凝灰岩製で、ほかではあまり見ない、白い色をしています。
うち一基からは元亨4年(1324)に「沙弥道義」が72歳で逝去した旨が刻まれており、新田基氏の墓と推定されています。

■群馬県太田市(反町館跡は旧新田町)

2013.03.03

【受贈】『偽りの秀吉像を打ち壊す』

山本博文・堀新・曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』(柏書房、2013年)を、編者の堀さんならびに執筆者のEさんの連名で受贈。ありがとうございます。

なかなか前衛的な題名ですが(笑)、『消された秀吉の真実』(柏書房、2011年)の続編に当たる位置づけとなっています。一般の読者を重視してですます調の叙述になっていますが、内容はまさしく最新の研究成果と評価すべき内容です。

どの執筆者も丹念に史料を読み解き、現代語訳も提示しながら(ここは重要)、丁寧に分析を進めています。読みやすいので、歴史を専攻する日本史の学部生の入門書としても良いのではないかと思いました。

政治史ではないのですが、最近は私も豊臣政権期について関心を寄せて史料を探っていることもあり、私自身とても勉強になりました。それとともに、いわゆる中近世移行期と呼ばれるこの時代をどのように評価すべきなのか、従来の理解とは異なる形での議論が多くなってきた気がします。本書もその成果の一つと言えるでしょうし、さらなる議論の喚起を期待したいと思います(なんだか他人任せですが)。

4760142177偽りの秀吉像を打ち壊す
山本 博文ほか編
柏書房 2013-01

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2013.03.02

博物館網走監獄(網走刑務所跡)

Abasihri_5Abasihri_8道東ネタをもう一つ。博物館網走監獄。「網走刑務所」として有名な、近代の監獄跡です。例の映画でよく知られていますが(笑)、実は私はそれよりは少し下る世代なので、そこらへんにはあまり思い入れはないです。

1890年(明治23)に設置された監獄で、一旦閉鎖された後に再び設置され、1922年(大正11)に網走刑務所という名称になりました。過酷な環境であったせいか特に重罪人の収容所とされたそうで、有名人では、徳田球一が収容されたそうです。1984年(昭和59)に刑務所は市内の別の場所へ移転し、現在は博物館になっています。

Abasihri_12網走の観光地といえばここ、といったところですかね。写真が旧庁舎。1912年(明治45)築。

Abasihri_22Abasihri_27収容施設。今は食堂などが入っており、当時の食事が味わえるようでした。

Abasihri_30Abasihri_35こちらは、「五翼放射状平屋舎房」。五つの平屋の建物が放射状に伸びる形状になっています。これも1912年築。

Abasihri_43こちらは教誨堂。1912年築。更正のための施設ですが、戦後は舞台などが設置され、受刑者の娯楽の場としても用いられたそうです。

ほかにも復元を含めていろんな建物があり、展示も充実していました。

■北海道網走市

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