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2013年5月

2013.05.30

2013年歴研大会のことなど

歴研大会でお会いしたみなさまには、お世話になりました。
いつものように飲んでばかりでしたが(笑)、二日目の報告をしっかり聞く程度の体力は温存できました。

ただ、近年の中世後期の領主をめぐる議論は複雑になり、正直言って最近の議論にはあまりついてけなくなってしまいました(よってほぼ耳学問)。そもそも領主とはなにか、また、領主を領主たらしめているものはなにか、などなど、専門家の間では共通認識があるとは思うのですが、その辺の整理が私の頭ではできなかったので、議論に参加するのも難しかったです。

今後活字化され、さらに議論が進むでしょうから、それを読んで勉強したいと思います。

なお、兵農分離については私自身は直接立ち入りませんが、豊臣政権期の財政構造や大名の地域支配や知行の実態については、今は少しずつ考えているところです。どこかで報告したいとは思っているので、その際はいろいろとご教示賜れば幸いです。報告を拝聴して、いろいろと示唆をいただきました。

…祭りの後は、いつもの雑事に紛れている毎日。

2013.05.24

春のお祭り

連休以後、それなりに色々あったような気がするけど、日常に流されてしまってあまり印象に残る出来事がありません…。
これも老化の一種なのかなあ(笑)。

さて、今週末は例年通り歴研祭り大会。私は今年度月曜1限に授業があるので、日曜の部会懇親会には行けませんが(去年も行かなかったけど)、それ以外の種々イベントには顔を出す予定です。各地からおいでのみなさん、お会いした際は宜しくお願いいたします。
諸々の事情により今まで歴研大会では質問をしたことがないのですが、今年は質問できるかな…。

なお、購入予定の書籍は20万円近くに(笑)。

2013.05.17

時国家

Kamitokikuni_20Kamitokikuni_4能登半島の日本海側、先端部に近い地域にある上・下の両時国家。網野善彦さんが注目したことで知られていますね(同『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』中公新書1503、1999年)。私も学部生の頃、講演で時国家のお話を伺うなどして興味を抱いており、いつかは行きたいと思っていました。この度実現。

時国家は近世において豪農としてのみならず、廻船業を営んで多くの下人を抱えていたことが明らかとなり、網野さんが「農業中心史観」を批判する重要な素材となりました。

写真はそのうち上時国家。母屋は18世紀の築で、重要文化財に指定されています。近世は天領の大庄屋となっています。

Kamitokikuni_16Kamitokikuni_17個人的に目を惹かれたのが、この江戸時代のお金(笑)。たまたまかもしれませんが、金は確か無かったので、銀を主に使う地域だったということなのでしょうか。

Tokikuni_2Tokikuni_4そしてこちらが、海寄りにある時國(下時国)家。こちらも重要文化財。時国家は寛永11年(1634)に分立し、こちらの家は加賀藩領となりました。塩業や廻船業で財を成したとされています。

両家とも庭園は国名勝になっています。

Tokikuni_26Kamitokikuni_27左写真は、時國家の敷地内にある安徳天皇を祀る廟。時国家の祖が平時忠とされることによります。

右写真は、かつての絵図を参照した結果、両時国家の支配する田地を分けると思われる道。左が山側で、おそらく上時国家(天領)、右の海側が下時国家(加賀藩領)だったと思います。
能登半島の日本海側となると山がちな地形という印象ですが、この地区はやや広大な田園風景が広がっていました。むしろ時国=廻船というイメージの方が強くなっていたのですが、それもまた単純な理解で、農業もまた両家を支える重要な生業であったことを窺わせます。

Noto_10さらに先端部の方へ進むとあるのが、平時忠一族とされる墓。
去年の大河ドラマの記憶が新しい所ですが、時忠は平清盛の妻・時子の弟で、また妹の滋子が後白河院の女御となり、その縁から平氏一門の一員として朝廷で権勢をふるいました。しかし文治元年(1185)に壇ノ浦で捕縛され、能登へ配流となり、文治5年(1189)に能登で没しました。
時国家は、時忠の子・時国を祖とするとされています。

■石川県輪島市(時忠墓は石川県珠洲市)

2013.05.06

能登国分寺跡

Notokokubunji_15七尾城の麓の平野部に広がる能登国分寺跡。国史跡。

ここに国分寺跡があったことは古くから知られており、近代になって発掘が進んだとのことです。
能登国分寺は承和10年(843)に築かれたそうです。多くの国分寺は8世紀半ばに築かれていますが、能登は現地の困窮が甚だしく、整備が遅れました。国分寺を開くに当たっても、すでにあった寺院を転用したとされています。
中世に一旦廃れた後、戦国期には能登畠山氏によって再興されたようですが、畠山氏の没落とともに衰退しました。
能登の守護館跡はどこにあったかはっきりしないようですが(七尾城の麓とする説が有力?)、この国分寺のあった辺りは城から少し離れているものの、国府のような施設があったのかもしれません。

Notokokubunji_4Notokokubunji_7現地一帯は公園になっているようでした、展示施設もありましたが(有料)、訪問時間が遅かったため入れず。

Notokokubunji_10Notokokubunji_11これが塔の跡と礎石。ほかの国分寺に比べると規模がだいぶ小さいような気がしました。やはり建立の経緯のせいでしょうか。(もっとも、中心部分の礎石が本物で、周囲の小さな石は別のものでしょうけれども。)

■石川県七尾市

2013.05.04

連休出張

先日、日本史研究会の例会に出席。久しぶりに自らの専門に関わる研究報告を拝聴してきました。
時代は中世前期で、今私が取り組んでいる時代とは異なるのですが、私は今まで知らなかった史料を用いておられるなど、刺戟的な報告でした。私が見る限りでは聴衆も多く、盛況のように見受けられました。

その後は懇親会も出ましたが、こちらは一点こぢんまりというか(笑)。院生くらいの若手が居なかったのはちょっと寂しかったですが(前日に某パーティがあったためかもしれないとのことですが)、時間ぎりぎりまで楽しく過ごさせていただきました。

来春は沖縄へ行けるかも?など、期待の膨らむ話題も多くすることができました。
最近は私自身あまり研究報告をしなくなったのですが、やればいろんな刺戟を受けられそうなので、さぼってばかりはいられないなあ…とむしろ反省させられた出張でした。

さて、連休の残りは校正と原稿と今度の報告準備と…。(全部できるはずがない)

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