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2013年8月

2013.08.30

松前(福山)城跡

Matsumae_10Matsumae_2上ノ国から一時間ほど南下すると松前へ。その中心にある松前(福山)城跡です。国史跡。

北海道(蝦夷島)の渡島半島にいつ頃日本人(和人)が居住するようになったかについては、はっきりと年代が確定しているわけではないようですが、14~15世紀には生活の痕跡が発掘されているようで、本格的には中世後期に移住が始まったようです。そのうち出羽の大館(現秋田県大館市)を本拠として十三湊を拠点に支配を築いていた安藤氏が南部氏との抗争に敗れ、一族が海を渡って渡島半島を本拠とするようになったと考えられています。
15世紀後半になると(下国)安藤氏は秋田へ拠点を再び移した後、松前は下国政季に与えられたと言われています。上ノ国の花沢館には蠣崎(かきざき)氏が拠りましたが、永正10年(1513)に松前をアイヌが襲ったところに乗じて蠣崎光広が松前を奪取し、本拠としました。以後は蠣崎氏が安藤氏から認められる形で支配を行ったようです。

天正18年(1590)には当時の当主・蠣崎慶広が豊臣秀吉に従い、九戸一揆にも参戦。これにより松前の支配を認められて独立した大名となりました。秀吉死後は徳川家康と関係を築き、蠣崎氏から松前氏に名字を改め、近世大名として松前を支配。アイヌとの交易・交渉窓口(「四つの口」の一つ)の役割を果たすことになりました。

天守は戦後すぐまで現存していたようですが、1949年の火事で全焼。その後地元の熱意によって復元されたそうです。天守の前にある、安政元年(1854)築の本丸御門(重要文化財)は焼失を免れたそうです。

Matsumae_17Matsumae_19この辺りも復元のようですが、北海道にあるとは思えない雰囲気ですね。

Matsumae_21Matsumae_24左写真は二の丸あたりの風景。右写真は城跡から見た町並み。江戸時代には多くの廻船が航行していたのでしょう。ここを起点に日本海を経て越前・若狭、あるいはさらに関門海峡を経て大坂まで廻船が往来していました。「北前船」と呼ばれたことは有名ですね。

Matsumae_3Matsumae_7左写真は、本丸御殿裏にある松前神社。もとは松前氏の氏神として建立された施設を期限とするようですが、近代になって地元の鎮守として現在地に築かれたそうです。

右写真は、本丸御門脇にある、旧本丸表御殿玄関。寛永年間(17世紀前半)に御殿が焼失した後、伏見城の遺構が移されたものと言われているそうです。近代になって小学校の門に転用されたそうですが、現在は城跡内に保存されています。

■北海道松前町

2013.08.27

四国初のサマーセミナーへ

Ssehime2013_1Ssehime2013_2先日開催された、中世史サマーセミナーに参加してきました。半世紀の歴史を持ちながら四国は初めての開催とのことで、去年から楽しみにしていました。私も愛媛にゆかりがあるので、感慨もひとしおです。

初日の道後巡見では、一瞬にして暑さにやられるという思わぬ失態で体調を崩してしまい。ご迷惑をおかけしました。以後は体調も回復し、報告会や最終日の巡見は楽しみました。

とりわけ私が楽しみにしていたのが最終日の海上クルーズで、今治から来島を経て大三島まで船で移動できたことはとてもいい経験になりました。あいにく天気は良くなかったので、また天気のいい時にチャンスがあるといいのですが。
左写真の来島は、実は初めて行きました。城跡のみならず岩礁ピットも見ることが出来て良かったです。
右写真は大山祇神社を経て行った能島。こちらは何度か来たことがありますが、今年に国史跡に指定されたようで、以前に比べるとだいぶ整備が進んだなという印象です。
村上水軍博物館では所蔵文書も拝見。

あっという間の三日間でした。実行委員のみなさまのおかげで非常に充実した内容で、たいへんお世話になりました。来年(愛知)は今のところ参加できるかは未定ですが、体の動く限りは積極的に参加を続けたいと思います。ただ、夏の暑さには段々体がついていかなくなってきましたが…(深夜の宴会も(笑))。

2013.08.17

勝山館跡

Kaminokuni_1Kaminokuni_41ここから函館周辺の史跡シリーズ。昨年の晩秋(というか北海道は既に冬でしたが(笑))に行きました。

まずは勝山館跡。数少ない北海道の中世史跡の一つですね。国史跡。資料館が併設されているのですが、既にシーズン終了ということで閉まってました。
安東氏の被官として松前に拠点を構えている蠣崎季繁に身を寄せていた武田信広が、長禄元年(1457)のコシャマインとの合戦によって功績を挙げたとしてこの地を与えられて築いた館とされています。武田信広は若狭武田氏の一族とされており、彼の存在が日本海の流通の活発さを体現するとしてよく知られています。後に彼が事実上蠣崎氏を乗っ取ることになったと言われています。
ただし、実際に武田信広が与えられた地は当初別の所だったとされ、後に勝山へ移ったとする説が有力のようです。館内にある館神八幡宮が創建されたのは文明5年(1473)とされ、もしくはこの時期に築かれたのかもしれません。永正11年(1514)に信広の子である蠣崎光広が松前に入り、勝山は支城としてその弟である高広が守りました。

諸説ありますが、以後16世紀末にかけて勝山館を拠点に上ノ国は流通拠点として栄えたようですが、近世になってその中心は松前へ移ったようです。

Kaminokuni_44Kaminokuni_38港がよく見える山の斜面に、土塁と堀で囲んだ区画内に平坦面をいくつも並べる形で形成されています。左写真が土塁と橋。右写真が、入ってすぐ右側にある客殿跡です。

Kaminokuni_28Kaminokuni_29左右を覗くとこんな感じ。

Kaminokuni_18Kaminokuni_27左写真は、一番上の区画にある館神八幡宮の跡地です。右写真は、上から下を見た様子。

Kaminokuni_8_2こちらは搦手口。さらに上にはアイヌの墓とされる遺構や、詰めの城とされる山もありました。

Kaminokuni_47_3Kaminokuni_51続いて麓の史跡。こちらは上ノ国八幡宮。文明5年(1473)に武田信広が建立したと伝わっています。源氏である由縁でしょうか。北海道に現存する最古の神社建築だそうです。本殿は明和7年(1770)築。
右写真はその脇にある、旧笹浪家住宅(重要文化財)。幕末頃の築とされ、北海道の古民家として貴重なもののようです。こちらもシーズンオフで閉まっていました。残念。

Kaminokuni_52Kaminokuni_55もう一箇所は、上国寺。創建年代は諸説あるようですが、おそらく戦国期にはあったのではないでしょうか。現在の本堂(重要文化財)は、宝暦8年(1758)築だそうです。

あとは同じく国史跡である館跡が周辺にいくつかありますが、時間と天候の関係上断念しました。そのうち花沢館跡は、多くの銭が出土したことでも知られています。

■北海道上ノ国町

2013.08.12

【受贈】『富裕と貧困』

井原今朝男編『富裕と貧困』(生活と文化の歴史学3、竹林舎、2013年)受贈。ありがとうございます。先日、編者の別の御著書の書評をさせていただきましたが、そのお返しとして頂戴しました。恐縮です。

最近は戦後歴史学の反動で経済史的分野はあまり注目されなくなってしまいましたが、そんな中、気鋭の方々による中世経済史研究の現在を多彩に論じた内容となっており、とても読み応えがありました。

論文の内容を個別に取り上げて感想を述べることはやめますが、私が発表した文章をいくつか訂正しなければならないことを教えていただくなど、とても勉強になりました。

このシリーズは少々値が張りますけれども(分量もともかく、今の時代にはなかなか珍しいほど豪華な装丁です)、一線の研究者がそれぞれ最先端の研究成果を発表している貴重な成果と言えると思います。

4902084228富裕と貧困 (生活と文化の歴史学)
井原今朝男
竹林舎 2013-05

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2013.08.07

【受贈】『信長の大戦略』

小林正信『信長の大戦略―桶狭間の戦いと想定外の創出』(里文出版、2013年)受贈。ありがとうございます。

前著『正親町帝時代史論』(岩田書院、2012年)の一部を一般向けに叙述された内容とのことで、ですます調でわかりやすく書かれています。孫子の「兵は詭道なり」という言葉に注目しつつ、信長の戦略を「想定外の創出(ディスロケーション)」と位置づけて信長の人物像や戦略、権力の構造などについて述べられています。

もっとも、中世後期から戦国期にかけての政治史的な流れも追った上での「信長像」の位置づけを目指す内容になっており、比較的長期間のスパンで政治史の位置づけも行われています。

常に注目の的になっている織田信長という人物の歴史的意義について、より活発な議論が進められることを期待します。

4898064035信長の大戦略―桶狭間の戦いと想定外の創出(ディスロケーション)
小林 正信
里文出版 2013-07

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2013.08.02

宇都宮城跡

Utsunomiya_16Utsunomiya_27二荒山神社からまっすぐ南に向かうとある、宇都宮城跡。今はほとんどが市街地化してしまい、本丸と二の丸の一部だけが公園として残っています。(史跡としての保存活動もあるようです

宇都宮氏が築城したとされていますが、具体的な年代は不明のようです。ただ、南北朝期には近世の三の丸の辺りまで縄張りが広がっていたようで、中世の居館としてはかなり巨大だったと言えるかもしれません。

慶長2年(1597)に豊臣秀吉によって宇都宮氏が改易とされると(理由は今もよくわかっていないようです)、これまた会津で家中騒動を起こした蒲生秀行(秀隆)が入封。関ヶ原合戦の後、慶長6年(1601)に蒲生氏が会津へ復帰すると、代わって徳川家中で重きをなす奥平家昌が入りました。この時に宇都宮が城下町として本格的に整備されたようです。
そして、元和5年(1619)には徳川家康の側近だった本多正純が入りました。この時城郭整備が進められたようですが、それがかえって災いし、元和8年(1622)に幕府から咎められて失脚。いわゆる「釣り天井事件」と呼ばれていますが(「釣り天井」の設置自体は事実ではない)、本多正純が失脚したこの事件は近世初期の政変の一つとしてよく知られていますね。
その後再び奥平氏が入った後は譜代大名が入れ替わり城主となり、18世紀後半に入った戸田氏が維新まで続きました。

写真の櫓(復元)は「清明台」と呼ばれ、天守閣の代わりになった櫓だったとされているようです。
本丸には天守は築かれず、御殿が建っていたようです。

Utsunomiya_20Utsunomiya_22土塁の上から見た本丸。奥に二の丸がちらっと見えます。

土塁が高いのが特徴的でしょうか。ただ、遺構がこんな状態なのは、よく知られたこととはいえちと寂しいですね。なお、土塁の中に展示施設があり、宇都宮城の歴史を知ることができます。

■栃木県宇都宮市

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