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2014年1月

2014.01.31

【受贈】『週刊新発見!日本の歴史』26号

『週刊新発見!日本の歴史』26号(朝日新聞出版、2013年)を、執筆者のEさんより受贈。ありがとうございます。複雑な家系を的確に読み解く力量は感服。

戦国時代(主に前半)を対象とした内容となっており、近年の研究成果を踏まえつつも平易な筆致。難しいことを難しく書くことは難しくないのですが、平易かつ高度な内容の文章を書くのが一番難しいなか、貴重なお仕事だと拝察します。

戦国期の中でもメインテーマは「一揆」。最近では活発に活動している研究者もおられますが(笑)、従来の一揆のイメージと現在の研究水準とは多くの点で異なっていることについて、わかりやすく解説されています。

個人的には、『大乗院寺社雑事記』がフィーチャーされている点に関心を持ちました。この史料は研究者の間では知らぬ者のない室町~戦国期の基本史料でありながら、いまいち一般には知名度が高くないというか、そもそも中世の奈良について専門家も一般にもあまり関心が高くない感がしていますので(かくいう私も不案内なのですが…)、その現状を突破する足がかりになればいいなと思います。

B00GLZX4BK週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/29号 [分冊百科]
朝日新聞出版 2013-12-17

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2014.01.26

山口(3) 龍福寺(大内氏館跡)

Ryufukuji_1Ryufukuji_5山口の史跡といえば龍福寺。大内氏の居館跡として知られています。国史跡。

この場所は永和4年(正平15、1360)に大内弘世が築いたとされ、以後大内氏の居館として滅亡するまでありました。天文20年(1551)に大内義隆が陶晴賢の反乱により自害した後、弘治3年(1557)に毛利氏の攻撃を受けて大内氏は滅亡。
龍福寺は、その起源は瑞雲寺という寺院に始まるとされていますが、大内義隆の菩提を弔うために毛利隆元によって現在地に建立されました。

現地看板によると、居館跡は100間四方の堀と土塁に囲まれた一画にあったと言われています。

左写真の山門は近世に遡るようです。右写真の本堂(重要文化財)は、解体修理の際に見つかった墨書などにより、文明11年(1479)築であることがわかっています。昔は瓦葺きだったところ(確か前に来た時はそうだったなあ)、最近茅葺きに改められたようです。
この本堂は大内氏の氏寺だった興隆寺の釈迦堂だったとされ、龍福寺が火災に遭った後の1883年に、現在地に移築されたそうです。

Ryufukuji_3Ryufukuji_4左写真は、境内にある宝現霊社。大内氏歴代の「神霊」を祀る施設で、龍福寺の鎮守として位置づけられているそうです。大内教弘が隣接する築山館に築いたのが始まりとされ、近世に現在地に移されたようです。
右写真は大内義隆の供養塔。

Ryufukuji_7Ryufukuji_8境内の西側は発掘調査がされたようで、溝や土塁の遺構が見られます。土塁は土台だけで、本来はもっと高いか塀が巡っていたのでしょうか。

Ryufukuji_10そして北西角にある庭園跡。枯山水の様式で、16世紀初頭のものと考えられているようです。

境内には展示施設もあり、文書や肖像などが見学できます。これは昔来た時とほとんど同じだったな…。

■山口県山口市

2014.01.17

【受贈】『室町期大名権力論』

藤井崇『室町期大名権力論』(中世史選書14、同成社、2013年)受贈。ありがとうございます。

「室町期大名権力」という言葉は著者が提唱するものですが、それがいかなる権力であるのか、従来の当該期の大名権力に対するイメージとはどの点で異なるのか、が本書の最も大きなテーマなのではないかと思います。
そこで念頭に置いているのは当然ながら「室町幕府―守護体制論」で、序章にもある通り、この理論の批判が主眼となっています。そこで対象とするのは大内氏であり、南北朝期から応仁・文明の乱後までの時期について緻密な実証分析を進められます。
その上で、大内氏が鎌倉・室町幕府御家人制を模倣しながらも、それは大内氏が「室町幕府吏僚」としての限界を示すのではない、とします(226ページ)。終章では分国支配に守護職が不可欠だったわけではないとし、「守護」を強調するのではなく室町期独自の広域的支配を行う地域権力という性格を重視して「室町期大名権力」と呼ぶのがふさわしい、としています。

この分野は近年活発に議論されているところでもあり、それに一石を投ずることが期待されます。ただ、「室町期大名」という用語の基礎になった概念として「大名領国制」論が挙げられています。その善悪はともかくとして、主に戦国期の大名権力を対象とした概念を室町期のそれに適用することについては、より慎重な議論があるように思えます。そもそも「大名領国制」は室町期までの大名権力(「守護大名」)とは異なる権力構造を有するという議論から出発していると理解しているので(間違っていたらすみません)、この点についてどのように説明がされるのか、聞いてみたいところです。

あと、これだけ緻密な分析をしているだけに、索引がないのは非常に惜しいところですね。
ともかくも、ドクターの同期の上梓を喜びたいところです。あとがきにあるように、この分野の研究ももちろん深めていくことを期待する一方、今でも荘園制への「復帰」もまた待ち望んでいます(笑)。

4886216501室町期大名権力論 (同成社中世史選書)
藤井 崇
同成社 2013-12-10

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2014.01.04

【受贈】『室町幕府と地域権力』

大薮海『室町幕府と地域権力』(吉川弘文館、2013年)受贈。ありがとうございます。私がいただいて良かったのかと少々恐縮しておりますが…。

室町期の武家権力を包括する概念として「室町幕府―守護体制」という理論が存在することはよく知られており、通説といってよい地位を占めていると言ってよいでしょう。そして地域支配においては国人領主と呼ばれた武家領主が盤踞しており、国人は幕府直属かあるいは各国の守護によって軍事力として編成されていました。
しかし本書は、地域支配を担う存在は守護や「国人」と一般に呼ばれる純粋な武家領主層以外にも存在することを重視するものであり、その典型である北畠氏を中心に、飛驒の姉小路氏や大和興福寺なども対象として地域支配の実態(修正:この部分は著者の意図を誤解している懸念があるので、「室町幕府の支配構造」に書き換えます)を分析したものです。そこで国人を含む彼ら地域領主を「知行主」と総称して把握すべきだとし、改めて中央政権たる幕府と地域領主との関係を構築すべきだと説きます。

既発表論文が中心となってはいますが、新稿も読み応えがあり、とりわけ終章において「知行主」概念の有効性を論じた箇所は頷くところが多かったです。

ただ、疑問というほどではないですが…いくつか。従来の国人という呼称は身分呼称であり、北畠氏のような存在を把握できないという批判は納得なのですが、では、これまで議論されてきた国人領主による地域支配の具体像と、新たに提唱した「知行主」によるそれとは、同様なのか、相違するのか。本書を読む限りではほぼ同様と捉えていると思われますが、それで誤解はないでしょうか。

そうだとしてそこで一つ考えるのは、その場合の「地域支配」とはそもそも実態がどうだったか、というところです。これは時期的な差異もあるので一言で表すことは難しいでしょうけれども、例えば「知行主」が「支配」する地域というのは、それは排他的な一円領(つまり「知行主」による完全な排他的支配=「領国」)と理解すべきなのか、あるいは在京領主の荘園や他の小領主などの支配地も含み込んだものだったのか。その場合、「知行主」はそのような荘園や所領とはどのような関係にあったのか。北畠氏と伊勢神宮領との関係などこの点について触れている箇所が全くないわけではないのですが、本格的に論じられてはいないと感じました。これは無い物ねだりな感が強いので、今後の議論の展開に期待したいところです。

この点が気になるのは、取りも直さず守護との関係です。「知行主」は職掌を示す用語ではなく、守護と単純に比較することはできない(むしろ本書の論旨はそこにある)ので的外れな話かもしれないのですが、例えば伊勢国では大雑把に言えば南北を分断して守護と「知行主」とが棲み分けしているという感がするものの、仮に地域支配や軍事動員をめぐって競合する場合があるとすればどういう事態が想定されるのか、といった点が気になります。この点はいくつか示唆されている部分もありますが、もう少し突っ込んだ議論を伺いたいところです。

もう一つは形式的な構成の問題なのですが、終章で有効性について論じられつつも、序章で「知行主」について触れていないのは一読者としては少し戸惑いました。第一部第一章で先行研究による「分郡主」等の有効性を批判して「知行主」を用いるとありますが、むしろ終章の議論を序章で展開することは難しかったでしょうか。
「知行主」という概念そのものに私は今のところ異論はないのですが(ブラッシュアップは必要だと思うものの)、冒頭で北畠氏を「知行主」と定義したことについてはあまり多く語られない一方、終章でその定義の有効性を論じる体裁だと、読み手によってはトートロジーに感じるかもしれません。

最後は単なる感想ですが、いずれにせよ、これを契機として従来国人と呼ばれた地域領主について、研究の進展に合わせてどのように概念規定すべきであるか、活発な議論が交わされていくことを期待します。

4642029176室町幕府と地域権力
大薮 海
吉川弘文館 2013-12-06

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2014.01.03

山口(2) 瑠璃光寺

Rurikoji_1Rurikoji_4山口といえばお馴染み瑠璃光寺。応仁元年(1467)に戦死した陶弘房の菩提寺として、妻の仁保氏が本拠である仁保荘内(現山口市)に建立した安養寺を起源としています。この安養寺は明応元年(1492)に瑠璃光寺と名を改めた後、天正14年(1586)に吉川元春が海翁寺と改めたものの、すぐに名を瑠璃光寺に戻したそうです。元禄3年(1690)に現在地に移転しました。

Rurikoji_3Rurikoji_5瑠璃光寺といえば、この五重塔(国宝)。嘉吉2年(1442)の築とされています。この地はかつて大内義弘の菩提寺として建立された香積寺(こうしゃくじ)があった場所で、その義弘を弔うために弟の大内盛見が建てさせたものとされています。

香積寺は大内氏滅亡後もしばらくあったようですが、慶長9年(1604)に毛利輝元によって廃寺・解体され、萩で隠居所(四本松邸)として移築されたそうです。

Rurikoji_2こちらも名物というか、境内にある大内弘世の銅像。山口に本拠を構え、大内氏を有力大名に押し上げた立役者ということでしょうか。寺院の歴史とは直接関係はありません。

■山口県山口市

2014.01.01

ブログ10年

新年明けましておめでとうございます。
今年も無事新年を迎えることができて感謝しております。

去年もアウトプットの面ではあまり成果が挙がりませんでしたが、今年は反省して精進したいと思います(毎年言っている気もするけど…)。

ついに今年は10の位が一つ上がってしまいます。これからの10年は公私共々正念場となりそうなので、自覚して大事に過ごしたいものです。

このブログも、今年で10年になりました。そろそろブログというメディアが役割を終えつつあるような感もするわけでして、今や細々と続けている状態ですが、まだしばらくは続けたいと思います。
今年も宜しくお願いします。

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