記事検索

  • Googleによる全文検索

    ウェブ全体から検索
    サイト内検索
無料ブログはココログ

Tools

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月

2015.01.25

【受贈】『中世の荘園空間と現代』

海老澤衷・酒井紀美・清水克行編『中世の荘園空間と現代―備中国新見荘の水利・地名・たたら』(アジア遊学178、勉誠出版、2014年)受贈。ありがとうございます。

以前刊行された『中世荘園の環境・構造と地域社会』の姉妹編というべきもので、現地調査に基づいた調査結果がまとめられています。具体的には史料上に見られる地名の比定からはじまり、その地域の生業を跡づけるための水利や耕作状況などの調査結果が主な内容となっています。

とりわけ、最近のIT環境の進歩に応じた新たな調査方法など(GPSの活用など)も紹介されており、他の場所を実際に現地調査する上でも参考になる内容となっているように思います。

地名比定については論者によっても意見の分かれる所がまだ残されているなど、完璧に跡づけられたわけではないですが、現時点における新見荘の現地調査結果については、最高峰の水準にあるのではないかと思います。

少し話が逸れますが、私も調査に同行した際、裏表紙に写真が採用されている内ノ草地区(中世では「宇津草」)を歩く機会を得ました。かなり奥まった所に当たるせいもあってか、耕作は今でも行われているのですが、もう住んでいる人はいないようです(屋敷はあったものの普段は生活していないようです)。
こういう集落はもはや全国にあまたあるでしょうし、これからどんどん増えていくのではないかと思います。それとともに地域の記憶も薄れていくでしょう。もはや月次な言葉ではあるのですが、今後は何が出来るのかを考えさせられます。

4585226443中世の荘園空間と現代 備中国新見荘の水利・地名・たたら (アジア遊学)
海老澤 衷・酒井 紀美・清水 克行編
勉誠出版 2014-12-15

by G-Tools

2015.01.07

韮山の中世史跡

Ganjojuin_4Ganjojuin_6韮山は中世史において重要な役割を果たした地域ですが、その痕跡を辿りました。

まずは願成就院。文治5年(1189)に北条時政が建立したとされ、時政の菩提寺となっています。源頼朝による奥州征伐の戦勝祈願のために建てられたと伝わっています。以後は北条氏の氏寺となったようで、『吾妻鏡』によると境内には大御堂が建立されたといい、これは戦国期の小田原北条氏の史料にも見られます。ただ伊勢宗瑞の韮山攻めによって焼失したようなので、その後に再建されたのでしょう。

Ganjojuin_1Ganjojuin_3その大御堂はもうありませんが、その跡地がここのようです。現在は国史跡に指定されています。

Ganjojuin_7Ganjojuin_8右側が、境内にある北条時政の墓です。
左は足利茶々丸の墓。彼は堀越公方として当地に居を構えた足利政知(義政の弟)の子で、延徳3年(1491)、伊勢宗瑞の攻撃を受けてこの願成就院で自刃しました。

Hirugashima_1Hirugashima_2次は韮山城からほど近い蛭ヶ島。蛭ヶ小島とも言いますが、源頼朝配流の地としてよく知られています。平治の乱で父源義朝が討たれた後、永暦元年(1160)に頼朝はこの韮山へ流されました。実際の居住地ははっきりしないようですが、北条時政の館に住んでいたと考えられており、おおよそこの辺りに推定されているようです。

Horigoe_5Horigoe_6そしてこちらが堀越御所跡。永享の乱の後に内乱状態になった関東へ幕府が介入すべく、その橋頭堡として長禄元年(1457)に将軍足利義政が弟の政知を派遣したことに始まります。一旦は鎌倉へ入ったものの、廃墟と化しており拠点とするには適さなかったとされ、この地を拠点としたと言われています。足利持氏の子で下総古河に拠点を構える足利成氏(古河公方)と激しく対立しましたが、政知は大きな功績を挙げることなく、上杉顕定の調停で文明14年(1482)に成氏と一旦和睦。その後膠着したまま延徳3年(1491)に死去しました。跡を継いだ茶々丸については上記の通り。

発掘調査は既にされたと見受けられますが、現在は埋め戻されて原っぱになっています。右写真は、近くにある井戸の跡。確か「北条政子の産湯の井戸」という伝承があるという話だったような。

Horigoe_8Nirayama_2そしてしばらく歩くとあるのが、円成寺(えんじょうじ)跡。ここは執権北条氏の居館跡とされている場所です。
北条氏は桓武平氏流で、伊豆田方郡北条を名字の地とした一族です。
鎌倉幕府滅亡後は、一族がこの地に移って寺院を建て、供養を祈ったとされています。それが円成寺ですが、尼寺として室町期まで続いたようです。発掘調査によって、中世の遺物が出土しているそうです。

Nirayama_4Nirayama_6円成寺跡から山裾を歩いていると、左写真の五輪塔があります(上に違うものが乗っていますが)。正安4年(1302)の銘が確認されており、現地看板によると静岡県内最古の五輪塔だとか。

右写真はこの五輪塔がある真珠院。ここは、源頼朝の子を産んだものの殺された伊東祐親の娘「八重姫」が入水した地という伝承があります。境内には五輪塔のほかに南北朝期の宝篋院塔や磨崖仏もあるそうです。

Shinkoji_1Shinkoji_3そしてさらに歩くとあるのが信光寺。武田信光の廟所とされています。信光は甲斐源氏の信義の子で、源頼朝の挙兵にいち早く従い、元々傍流でしたが嫡流が誅殺されたために家督を相続しました。後には伊豆国守護になったとも言われており、その縁でここに寺院が建立されたのでしょうか。宝治2年(1248)没。右写真がその墓です。

■静岡県伊豆の国市(旧韮山町)

2015.01.03

【受贈】『古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い』

新城市設楽原歴史資料館編『古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い』(風媒社、2014年)を、執筆者のYさんより受贈。ありがとうございます。

このところ議論が白熱している長篠の戦いですが、地元の視点でこの戦いやその背景について分析したもので、元は市の広報紙で連載していたものだそうです。
ですので、一般の方にも読みやすく、それでいて近年の成果が詳しく紹介されています。

合戦の舞台となった長篠城や設楽原の地理的環境が詳しく解説されているのは面目躍如といったところでしょう。また、この地域を含む東三河の領主たち、例えば菅沼氏や奥平氏などの系譜につても詳しく解説されています。戦国期の三河はまだ不明な点も多く、一般にも馴染みの薄い地域の一つではないかと思うのですが、本書は彼らの動向を知る上で貴重な成果となっています。

また、戦争に関わる史跡の写真や解説も多く、ガイドとしても有用ではないかと思います。私が長篠に行ったのはもう10年以上前ですが、その時もくまなく回れたわけではないので、再訪することがあれば本書を参考にしたいと思います。

4833105675古戦場は語る―長篠・設楽原の戦い
新城市設楽原歴史資料館編
風媒社 2014-12-16

by G-Tools

2015.01.01

謹賀新年2015

一年が早く感じるようになりました。
本年も宜しくお願いいたします。

ブログの方は更新頻度が激減しましたが、一応まだしばらくは続けるつもりですので、宜しければお付き合いください。
ただ、方向性を失いつつあるというか、SNSが最盛期になりブログにしかできないことにどのようなことがあるのか、私自身見いだせないでいます。なにかアドバイスがあるといただきたいところですが。

私のキャリアでは特に思い当たる節目はない年ですが、例年のごとく地道を目標にがんばっていきたいと思います。
まあ、ともあれ、与えられた仕事を着実にこなすことですね…。
みなさんにとって幸多き一年でありますことをお祈りします。

(※追伸:今年の年賀状は諸事情により簡略化しました。素っ気なくてすみません。)

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

Amazon

最近のトラックバック