〆切原稿、なんとか間に合わせました。まさに「間に合わせた」というのがしっくり来るていたらく。いかんなぁ…。
さて、昨日は大阪歴史学会の大会に行ってきました。確か2年ぶり。
個人的には戦国期の摂津の国人領主についてのIさんのご報告が目的でした。討論時間が短くて(ここは強調しておきたい(笑))質問しそびれたので、備忘の意味を込めてここでこっそり書いておきます。
(1)
これは当日別の方から質問がありましたが、南北朝期では「在地領主」と呼んでいる存在が「室町中期」になると「国人領主」と呼ばれる勢力に呼び変えられている点について、その過程が不明瞭に見受けました。
どうやら、転換のメルクマールについては、荘園における沙汰人や請負代官になることを特に重視しておられたようだけど、原因と結果の関係が曖昧では?(「国人領主」になったから請負代官の候補になる、という筋道だってあるし、それも当然想定しておられたようだが…)
第一章小括で「流通支配や領主間相互の血縁関係、在地寺院との関係調整を通じて、室町中期までに台頭した勢力が国人領主層として発展」とされているけれども、この結論はあまりに一般的過ぎないか。現段階ではその内実を問う議論になっているので、そこでの独自の見解をもっと聞きたいです。
(2)
摂津勝尾寺・箕面寺の史料から様々な「地侍」が関与していることを指摘していたが、「地侍層」の存在形態に関する見解がよくわからなかった。レジュメ中には「所属」とか「上下関係」とかいろんな言葉で表現されているけど、それぞれ国人領主と具体的にどのような関係だったのかが不明。
(3)
結局のところ、「摂津における国人領主と地域」というのは、どのように位置づけられるものなのか。「おわりに」では、摂津の国人一揆は「その主体となった国人層は小規模であり、他国と異なり惣国一揆や地域的公権力へは発展しない」とするが、それがなぜなのかもう少し踏み込むべきでは。
一つに守護権力の弱さを要因として挙げられているようだけど(逆に荘園領主の影響力を大きく見ている)、あくまで一般的な理解に立つならば、そもそも惣国一揆の発生するような地域は総じて守護権力が弱体である(あるいは敗北し去っている)ような気もするが…? この理解が正しいならば、大きく齟齬していることになりますが。
地域社会と権力との関わりについて、戦国期であっても荘園領主という存在が無視できないというのは大いに賛同できるのですが、そうであるならば、荘園領主と地域社会との関係についてもうちょっと突っ込んだ議論が必要じゃないかなぁと思いました。この辺は無い物ねだりですが、単に守護に対するパワー・オブ・バランスの客体でしかないような印象を受けたのは少し残念です。