如意輪寺

吉野詣の最後は如意輪寺。金峯山寺のある中心部とは、一つ谷を隔てた別の尾根筋にあります。寺伝によると、延喜年間に醍醐天皇の帰依を受けた日蔵道賢上人によって開かれたとされています。ここも修験の道場として信仰を集めたようですので、金峯山寺とも関係はあったのでしょう。ともあれ、草創期のことはよくわからないようです。元は真言宗でしたが、一度荒廃して再興した後は浄土宗になっています。
さて、ここには後醍醐天皇陵があります。塔尾(とうのお)陵とも呼ばれています。手許に本物の三種の神器を有すると主張し、南朝として吉野で執政をしつつ自らの子を各地に送り込んで幕府に対抗しましたが、延元4年(暦応2年、1339)、京都への復帰は叶わず吉野の金輪王寺(御所)で死去しました。享年52。
「たとえ骨が『南山』(吉野)の苔に埋もれようとも、魂は常に『北闕』(京都)の空を飛ぶだろう」(意訳)との言葉を遺したとされ、京都復帰への並々ならぬ思いを抱いたまま世を去りました。墓も、陵墓としては唯一京都方面である北を向いています。
一方、足利尊氏は天竜寺を建立して供養しますが、以後も足利将軍家は後醍醐の「怨霊」を恐れ続けることとなったようです。たとえば足利義政は、東山山荘(現在の銀閣寺)に後醍醐の位牌を祀っていたそうです。
時期のせいもあったでしょうけれども、歴代で最も有名とも言える天皇の墓所にしては、ひっそりとしていました。
まあ、陵墓は正直観光には不向きとはいえますが…。
こちらは、その傍らにある世泰(ときやす)親王陵。南朝3代目の長慶天皇の子。ただ、墓は後世に造られたもののようです。
このお寺にまつわるエピソードに関わるものとして、墓の下には、楠木正行(まさつら)の髻(もとどり)塚があります。
正行はご存じ楠木正成の子で、南朝方の有力武将として河内国を本拠に活動した人です。勢力を失いつつある南朝方にあって、山名・細川連合軍を打ち破るなど奮戦しましたが、正平3年(貞和4年、1348)に河内国四條畷(現大阪府四條畷市)での戦いにおいて、幕府軍を率いる高師直・師泰兄弟に敗れて自害しました。その勢いに乗った高師直らは、一挙に吉野まで攻め寄せて、吉野は灰燼に帰したとも言われています。南朝の天皇だった後村上天皇(義良)は、吉野からさらに山深い賀名生(あのう、現奈良県五條市[旧南吉野村])に逃れています。
さて正行は四條畷へ合戦に赴く際に後醍醐陵に参拝しており、遺髪として奉納した髻を供養したがこの塚だとされています。
また、その折りに決死の覚悟を示すため、如意輪堂(如意輪寺の本堂)に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という辞世を刻んで行ったとされています。負けるとわかっていながら決戦に臨む姿は、軍記物としては打って付けの題材ということになりますかね。
ちなみに宝物館や庭園、多宝塔などもありますが、時間の都合などで今回はパスしました。本堂はあいにく修理中で覆われていたため、写真は載せません。今の本堂は、近世初頭の築のようです。
■奈良県吉野町
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