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2012.05.20

高山陣屋

Takayamajinya_4Takayamajinya_6高山の中心部へ。こちらは高山陣屋です。国史跡。

近世当初は金森氏が高山城を本拠とした城下町でしたが、元禄5年(1692)に金森氏が転封となった後は幕府の直轄領となり、この場所に代官所が設置されました。当初はかなり広大な敷地を誇ったようですが、18世紀半ばに縮小されたとのことです。以後幕末まで代官所として使用され、維新後は県の庁舎として転用されて明治末年まで使用されました。

Takayamajinya_18Takayamajinya_10建物は改修されていはいますが近世に使われてた陣屋が現存したもので貴重です(唯一らしい)。元々は18世紀半ばに建てられたものですが、19世紀に度々改修されているようです。

Takayamajinya_12Takayamajinya_15とはいえすべてが遺っているわけではなく、建物の残っていない箇所は、どんな建物があったかを想像できるようになっています。

Takayamajinya_16Takayamajinya_13このように、蔵もいくつかあります。左写真は「書蔵(かきぐら)」と呼ばれた蔵だそうで、元は天保12年(1841)に築かれたもの。

右写真の蔵は規模の大きいもので、中は江戸時代の高山についての展示がされていました。確か撮影禁止だったので写真はなし。

■岐阜県高山市

2012.05.16

白川郷

Shirakawago_88Shirakawago_105飛騨といえば、誰もが思い浮かぶであろう世界遺産の白川郷。高速道路が出来てだいぶ行きやすくなっていました。といっても、私は今回初訪問だったのですが。

元々は摂関家領の白川荘があったとされた地域ですが、中世になると真宗の道場が築かれ、その後成立した照蓮寺(現在は高山別院として高山市街に所在)が真宗の拠点となっていきました。
15世紀後半になると、信濃国松代(現長野市)出身という内ヶ島氏がこの地へ移り勢力を拡げたとされています。この内ヶ島氏は真宗とも関係が深く、一向一揆と関係を結んで戦国期には所領を拡大していったようです。しかし天正13年(1585)の地震によって居城の帰雲(かえりぐも)城が崩壊。城下町もろとも壊滅したと伝えられ、内ヶ島氏も滅亡しました。

歴史的にも一向一揆の拠点となった地域として個人的には興味深いのですが、何よりも多くの人にとって白川郷といえば合掌造り。右写真は、その代表格ともいえる和田家住宅(重要文化財)。庄屋を務めた家だそうで、江戸時代末期の築のとても立派な家です。

Shirakawago_4Shirakawago_11まずは「合掌造り民家園」へ。周辺各地から移築された合掌造り建築が並んでいます。

Shirakawago_14Shirakawago_21こちらは、右写真の建物「中野義盛家主屋」の内部。上階及び屋根裏は養蚕のスペースになっています。

Shirakawago_52こちらは、馬狩地区から移された信称寺本堂。このお寺も真宗だったそうです。この地域独特の造りで興味深い。

Shirakawago_65Shirakawago_73さて、次は川を渡って対岸にある荻町集落へ。まとまって合掌造りの建物が見られる集落として、観光の中心となっている所です。
写真は、その集落の中にある明善寺。こちらも真宗寺院です。左写真が本堂で、右写真が庫裏。いずれも江戸時代後期の築とされています。

Shirakawago_107こちらは鐘楼。これも江戸時代の築とされています。豪雪地帯でも寺といえば多くは瓦葺きかこけら葺きですが、茅葺きはやはり珍しいですね。

Shirakawago_100Shirakawago_91そして、展望台として知られる場所は、城跡だったとされています。名前は荻町城跡と言うそうで、登山口に虎口とされる場所や、上には土塁・堀切の跡とされる遺構が遺っています。戦国末期まであったとされ、その頃の城主は山下氏勝というそうですが、真偽の程はいかに。

いずれにせよ、天気が良くてよかったです。観光客の数もすごかったですが。

■岐阜県白川村

2012.05.05

飛騨安国寺

Hidaankokuji_1Hidaankokuji_3神岡から高山方面へ。高山へ近づくとあるのが飛騨安国寺。
言わずと知れた足利尊氏が各国に建立させた安国寺の一つです。ただそれ以前から少林寺という寺院があり、貞和3年(1347)にそれを禅宗寺院としたものとされています。

南禅寺僧だった瑞巌を開山とし(ただし観応年間に死去)、その弟子が発展させたといい、文安2年(1445)に諸山、宝徳元年(1449)に十刹となりました。16世紀半ばに戦乱で伽藍は一部を除き焼失しましたが、その後の領主となった金森氏などによって保護を受けたそうです。
本尊は延文2年(1357)の銘のある釈迦三尊像。また、明徳3年(1392)に造られた開山瑞巌の塑像(重要文化財)を所蔵しています。

Hidaankokuji_4Hidaankokuji_15左写真の左側は薬師堂で、右側は開山堂。開山堂は戦火に耐えたとされています。開山の塑像が遺ったのもそのためなのでしょうね。

そして右写真が経蔵(国宝)。応永15年(1408)に建てられた禅宗様の建築物です。当初は色彩があったのでしょうけれども、今はそれもなく質実剛健な印象を与えます。

Hidaankokuji_14Hidaankokuji_9そしてその内部。普段は公開していないと思いますが、特別に見せていただきました(そして、写真の掲載許可もいただきました)。というのも、ここは古くからの研究仲間の実家でして(笑)、その縁があってのことです。

中にあるのは八角の輪蔵というもので、一切経(大般若経)を納めるものです。これは現存するものでは日本最古のものと言われています。
納められている一切経は、中国杭州の大普寧寺にて制作された木版の経本で、版は元の至元年間(13世紀後半頃)のものだそうです。経本そのものが日本へ来たのはもっと後の時代とは思いますが、制作年代はちょうど蒙古襲来と重なる時期で感慨深いものがあります。本源一公という入唐僧がもたらしたものと伝わっているそうです。この人物についてはよくわかりませんが、南禅寺との関わりがあるのでしょうか。

Hidaankokuji_12Hidaankokuji_10左写真がその内部。輪蔵という名の通り押すと回転する構造になっています。これを回すと一切経をすべて読んだことになる、というわけです(笑)。

そして右写真は経蔵内部の落書き。戦国期に各地を巡礼する風習が見られ、各地の寺院で時折こういう落書きが見られます。「佐竹太田」とあり、常陸太田から来た人が書いたものと考えられます。

Hidaankokuji_16Hidaankokuji_19そして石造物。左写真の宝篋印塔は戦国期くらいに遡るかもと思ったのですが、どうでしょうか。右写真は墓地にあった五輪塔。これは中世のものでしょう。

副住職になったという旧友に多謝。

■岐阜県高山市(旧国府町)

2012.04.22

江馬氏館跡

Emayakata_17Emayakata_46神岡の中心部に道の駅「スカイドーム神岡」という所がありますが、そこから歩いてすぐの所にある江馬氏館跡です。国史跡。飛騨のちょっとした観光スポットにもなりつつある所と言えましょうか。もっとも、研究者の間でだけ有名なのかもしれませんが(笑)。

中世領主の江馬氏が築いた城館跡として1970年代後半に発掘され、良好な残存状況や、周囲の山城群の配置も明瞭であることから、中世領主の様相がわかる貴重な遺跡として1980年に国史跡に指定されました。以後、2000年に整備されて見学できるようになっています。

江馬(えま)氏は、その出自には諸説ありますが、平氏流で鎌倉幕府執権となった北条氏の一族と言われています。ただ、北条義時が江馬小四郎という異称を持つことから、それにちなんでそのように言われた可能性が高いと考えられているようです。
いずれにせよ鎌倉期の動向は不明で、室町期になると活動の様子が見られるようになります。14世紀末にはこの地域の在地領主として史料に現れます。延徳元年(1489)に万里集九が高原諏訪城の江馬氏を訪れて饗応を受けたことが『梅花無尽蔵』に記されており、それがこの場所だったと考えられます。

16世紀になると同じ飛騨の領主である三木(みつき)氏(姉小路氏)と争い、また勢力を伸ばす武田氏とも関係を築きましたが、天正10年(1582)に江馬輝盛が姉小路自綱に敗れて没落しました。

Emayakata_12Emayakata_22というわけで、建物の一部や堀・塀が復元整備されており、とてもイメージがしやすくなっています。ただ、堀がやや浅い気も…。防御用というよりは、権威の象徴としての機能を持ったのではないかという説明があったように記憶しています(正確さには自信がありませんが…)。

Emayakata_6Emayakata_5左写真は、塀の断面を復元したもの。どうやら当初は中に土がびっしり詰まっていたようですが、今は少し空間が出来ていますね。そして、右写真が背後に聳える高原諏訪城跡。有事の時にはここに籠もることになっていたのでしょう。今回は時間がなくて登らず(詳しくはこちら参照)。

Emayakata_7Emayakata_31左写真は、館の脇の堀を復元したもの。ここも浅いです。
右写真は、庭園跡。万里集九も眺めたのでしょうか。近世以降は水田になっていたそうですが、大きな五つの石は地表に出ていたようで、当時から「五ヶ石」と呼ばれていたそうです。また、江馬氏の館の庭石という伝承も元々あったらしい。

Emayakata_40Emayakata_41復元された「会所」の建物の内部。一角には、発掘されたかわらけなどの遺物も展示されています。

交通の便からするとなかなか訪問が難しい所にありますが、飛騨の名所としてより多くの観光客が訪れることを期待します。

■岐阜県飛騨市(旧神岡町)

2012.04.10

神岡城跡

Kamiokajo_18Kamiokajo_1さて、ここからは去年の秋口に行った飛騨(本来は「驒」ですが、機種依存文字なので「騨」を使用します)の史跡シリーズです。

はじめは神岡城跡。永禄7年(1564)に、この地域の領主だった江馬時盛が築城したとされています。背景には越中への進出を目指す武田信玄の影響があるとされていますが、はっきりとしたことは不明。以前から江馬氏が築いていた城館を、武田氏重臣の山県昌景が飛騨へ新出した折に改修させたという説もあるようです。

近くにある高原諏訪城の支城として築かれたと考えられています。後に飛騨の領主となった金森長近が城代を派遣して支配しましたが、一国一城令によって廃城となりました。

Kamiokajo_7Kamiokajo_8どこまでが遺構なのかわかりにくいところもありますが、城というより館跡といった方がイメージできそうな城跡でした。地形としては断崖上に位置しており、今城跡として遺っている部分は城郭全体では一部で、中枢部分に当たるという風にも考えられるのでしょうか。中心部分には模造天守が今はあります。

Kamiokajo_4Kamiokajo_6また、敷地内には左写真の鉱山資料館があります。神岡は鉱山の町だったことでよく知られていますが、その歴史を知ることができます(私は入ってないけど)。
右写真は旧松葉家住宅。別の所から移築したもの。明治元年(1868)築だそうですが、その後修理されているようです。

Kamiokajo_12城跡から見た町並み。城は町場からはだいぶ高い所にあったことがわかります。ただ、今は城跡の周辺にも住宅が建ち並んでいて、町並みに飲み込まれたような印象でした。

■岐阜県飛騨市(旧神岡町)

2012.04.02

成田山 新勝寺

Narita_5ご存じ成田山新勝寺。近世は大覚寺の末寺だったようですが、今は真言宗智山派別格本山となっている寺院です。正式には神護新勝寺と言い、本尊は木造不動明王(重要文化財)。成田不動の異称もあります。

縁起によると、天慶3年(940)開創。平将門の乱を鎮めるために寛朝僧正が勅命で関東へ下り将門調伏の祈祷を行ったところ、将門追討が果たされ、それを功験として公津ヶ原(現成田市)に開かれたとされています。降って永禄9年(1566)に現在地へ遷り、近世には佐倉藩主のほか徳川綱吉生母の桂昌院の信仰を得て、関東有数の寺院となっていきました。

そして新勝寺と深く関わるのは市川団十郎ですね。初代以来成田不動を信仰し、屋号も「成田屋」としたことは有名です。

Narita_6Narita_19今も広大な境内を有し、参拝客の絶えない千葉県有数の観光地なだけあって、多少は俗化した雰囲気を感じなくもないですが、伽藍には古くから今に遺るものもあります。
左写真の奥にある仁王門(重要文化財)は、天保元年(1830)築。八脚門としてはほかに類例のない様式だそうです。
右写真は弁財天堂。近世初期のものとされ、現存する新勝寺の建物では最も古いものです。

Narita_11Narita_13左写真が本堂。戦後に建てられたものです。その裏側には元禄期に建てられた本堂である光明堂(重要文化財)や、文久元年(1861)築の額堂(重要文化財)がありますが、こちらは時間の都合もあって見落としました…。
右写真は三重塔(重要文化財)。正徳2年(1712)築です。

Narita_16Narita_1左写真は、釈迦堂(重要文化財)。こちらは幕末の安政年間に本堂として建てられたものです。

右写真は参道の風景。鰻屋が多いことで有名で、私も鰻を堪能。初詣や節分の時はごった返すんでしょうね。

■千葉県成田市

2012.03.27

玉前神社

Tamasakijinja_1Tamasakijinja_3JR外房線の上総一ノ宮駅から歩いて数分の所にある玉前(たまさき)神社。駅名からもわかる通り、上総国一宮です。

社伝では神代の創建とも伝わるようですが、詳しい時期は不詳。『日本三代実録』にその名が見られ、9世紀に存在したことは確実です。寿永元年(1182)には源頼朝が妻政子の安産祈願のために平良常を派遣しているそうです。上総介として知られる平広常は、一宮である玉前神社で頼朝の戦勝祈願と東国の泰平を祈らせたともされています。広常は寿永2年(1183)に謀反のかどで誅殺されましたが、その後にその祈願を頼朝が知って悔やんだという伝承もあるそうです。

その後、永禄年間(1560年代頃)に後北条氏と里見氏との戦乱に巻き込まれて社殿が焼失したそうで、神体も一時移転したと言われています。天正5年(1577)に現在地に遷り、その後里見氏、徳川氏から保護を受けました。

Tamasakijinja_4Tamasakijinja_12境内に入ると、意外とこじんまりとしています。一度焼けてしまったことも影響しているのでしょうか。

右写真は、平(上総)広常の顕彰碑。近くの高藤山城を本拠としたとされ、この地域を支配する有力武士団の棟梁でした。源頼朝挙兵に際しての功労者の一人として評価されていますが、先に触れたように謀反の罪で殺害されてしまいました。殺害された経緯をめぐっては、巨大な勢力を有していたことなど、いろいろな理由が推測されているようです。

Tamasakijinja_7Tamasakijinja_11そして本殿が…、なんと修理中(笑)。中の様子を覗いたのが右写真です。本殿は貞享4年(1687)築。なお、和鏡の梅樹双雀鏡(重要文化財)を所蔵しています。また元亀2年(1571)の銘の経筒もあるそうです。神楽などの祭礼も無形民俗文化財に指定されています。

Tamasakijinja_15Tamasakijinja_16左写真は、本殿脇の建物。こちらも古そうでしたが、詳細はわからず。
右写真は、末社の十二神社。近隣にあった12の鎮守を合祀した神社のようです。

Tamasakijinja_9そしてこちらが神楽殿。宝永7年(1710)築。文化財にも指定されている祭礼で重要な役割を果たすのでしょうね。

■千葉県一宮町

2012.03.23

館山城跡

Tateyama_2Tateyama_15昨年夏に行った、館山城跡です。戦国期房総の領主である里見氏が築いた城として知られています。東京湾口の房総半島側にある重要拠点として築かれたものと考えられています。

天正6年(1578)に、当時は岡本城(現千葉県南房総市[旧富浦町])を本拠としていた里見義頼が築城を命じ、天正8年(1580)頃には城郭として機能していたようです。完成したのは、里見義康(義頼の子)の代となった天正18年(1590)とされています。以後、館山が里見氏の本拠となりました。

里見氏は「惣無事」に違反したとして豊臣秀吉に上総国を削られて、所領は安房一国となったものの、関ヶ原合戦で徳川家康に味方して加増。しかし慶長19年(1614)に大久保忠隣(ただちか)が失脚した折、当主の里見忠義(義康の子)が忠隣の孫を娶っていたために連座となり、そのほかにも咎を言い立てられて改易。伯耆倉吉(現鳥取県倉吉市)に事実上の配流となりました。館山城もこの時に破却され、廃城。そして元和8年(1622)に忠義が死去し、里見氏は滅亡しました。この時8人の家臣(人数は異説あり)が殉死したとされ、それが曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルとなりました。

現在は本丸に模造天守が建っており、「南総里見八犬伝」に関する展示がされているそうです(私は入らず)。見てわかるように、天守は犬山城をモデルにした様子が窺えます。

Tateyama_6Tateyama_10左写真は、本丸から南の方向にある一段下の曲輪。この辺は城跡っぽいです。
右写真は本丸の一角。左写真を撮った辺りです。

Tateyama_12Tateyama_13左写真は本丸。結構広さを感じました。右写真は、本丸にある浅間神社。関東大震災の後に勧請されたそうです。意外と新しいんですね。

Tateyama_18Tateyama_23左写真は、本丸の一段下の区画。二の丸ということになるんでしょうかね。公園として整備されていて、城跡の雰囲気はあまりありませんでした。
さらにそこから下りて行くと、右写真のような堀切がありました。全体的に公園化している中で、ここはいかにも城跡っぽい雰囲気がありました。ただ、夏場は蚊に辟易…。

Tateyama_25さらに下りて行くと、殉死した8人の家臣の墓があります。それぞれの実名は不詳。殉死した家臣の遺骨は密かに館山に運ばれ、葬られたという言い伝えもあるそうです。墓石自体は近世初期でもいけそうかなという感はしました。

■千葉県館山市

2012.03.06

飯詰(高楯)城跡

Takatatejo_4Takatatejo_10やっと青森編も最後。飯詰城跡です。高楯城とも呼ばれています。

南北朝期に後醍醐天皇近臣という藤原景房が築城したという伝承があり、戦国期には朝日氏という一族の居城だったとされています。天正6年(1578)に当時城主だった朝日行安が、大浦為信に浪岡を逐われた北畠顕村を保護。大浦為信に抵抗しましたが、天正16年(1588)に落城して壊滅したと言われています。

Takatatejo_2Takatatejo_9とはいえ、素人目には城跡だったのかどうかすらよくわからずで…(笑)。右写真の奥に忠魂碑の建つ一画があり、そこが本郭とされているようですが、遺構とは関係ないと思って写真に撮りませんでした(笑)。

こちらに詳しいので、ご参照ください。

■青森県五所川原市

2012.03.05

公卿塚・石仏板碑群

Hirosakiitabi_2Hirosakiitabi_3弘前の郊外、中別所地区には中世の板碑が多く遺されている所があります。

板碑群は二箇所のまとまりに別れていますが、上記写真はその一つの区画である「公卿塚(くげづか)」と呼ばれている板碑群です。2m弱ほどの比較的背の高い板碑がいくつかありました。種子のほか、銘が読み取れるものもありました。

Hirosakiitabi_4Hirosakiitabi_6一方、こちらは小振りな板碑。

Hirosakiitabi_5Hirosakiitabi_7背の高い板碑のうち2基。右のものは弘安10年(1287)と読めましたが、あまり自信はありません。

Hirosakiitabi_10Hirosakiitabi_13一方こちらは、すぐ近くにある「石仏」と呼ばれる板碑群です。こちらにも大小様々な板碑が置かれています。はじめからすべてここにあったわけではなく、おそらく周辺地域の板碑が集められたのでしょうね。

Hirosakiitabi_11Hirosakiitabi_18中でも目を引くのが、右側の板碑(重要美術品)。正応元年(1288)の銘のあるもので、願主として「源光氏」の名が確認できます。この人物は長勝寺梵鐘の檀那にも見られる名前で、当時におけるこの地域の事情を考える上で貴重な資料となっています。こちらで拓本が見られます。
岩木山麓で採れる輝石安山岩を利用しているそうで、石材は地元で調達したようですね。


公卿塚・石仏をすべて合わせると47基あるそうで、年代はすべて鎌倉期と推定されています。おそらく12世紀後半から13世紀前半にかけてのものでしょうか。北条氏を中心とした鎌倉幕府の勢力が浸透するに従って、このような板碑も製作されたのでしょう。

■青森県弘前市

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