2009.11.15

如意輪寺

NyoirinjiNyoirinji_2吉野詣の最後は如意輪寺。金峯山寺のある中心部とは、一つ谷を隔てた別の尾根筋にあります。寺伝によると、延喜年間に醍醐天皇の帰依を受けた日蔵道賢上人によって開かれたとされています。ここも修験の道場として信仰を集めたようですので、金峯山寺とも関係はあったのでしょう。ともあれ、草創期のことはよくわからないようです。元は真言宗でしたが、一度荒廃して再興した後は浄土宗になっています。

Nyoirinji_11さて、ここには後醍醐天皇陵があります。塔尾(とうのお)陵とも呼ばれています。手許に本物の三種の神器を有すると主張し、南朝として吉野で執政をしつつ自らの子を各地に送り込んで幕府に対抗しましたが、延元4年(暦応2年、1339)、京都への復帰は叶わず吉野の金輪王寺(御所)で死去しました。享年52。

「たとえ骨が『南山』(吉野)の苔に埋もれようとも、魂は常に『北闕』(京都)の空を飛ぶだろう」(意訳)との言葉を遺したとされ、京都復帰への並々ならぬ思いを抱いたまま世を去りました。墓も、陵墓としては唯一京都方面である北を向いています。
一方、足利尊氏は天竜寺を建立して供養しますが、以後も足利将軍家は後醍醐の「怨霊」を恐れ続けることとなったようです。たとえば足利義政は、東山山荘(現在の銀閣寺)に後醍醐の位牌を祀っていたそうです。

時期のせいもあったでしょうけれども、歴代で最も有名とも言える天皇の墓所にしては、ひっそりとしていました。
まあ、陵墓は正直観光には不向きとはいえますが…。

Nyoirinji_14こちらは、その傍らにある世泰(ときやす)親王陵。南朝3代目の長慶天皇の子。ただ、墓は後世に造られたもののようです。


Nyoirinji_9このお寺にまつわるエピソードに関わるものとして、墓の下には、楠木正行(まさつら)の髻(もとどり)塚があります。
正行はご存じ楠木正成の子で、南朝方の有力武将として河内国を本拠に活動した人です。勢力を失いつつある南朝方にあって、山名・細川連合軍を打ち破るなど奮戦しましたが、正平3年(貞和4年、1348)に河内国四條畷(現大阪府四條畷市)での戦いにおいて、幕府軍を率いる高師直・師泰兄弟に敗れて自害しました。その勢いに乗った高師直らは、一挙に吉野まで攻め寄せて、吉野は灰燼に帰したとも言われています。南朝の天皇だった後村上天皇(義良)は、吉野からさらに山深い賀名生(あのう、現奈良県五條市[旧南吉野村])に逃れています。

さて正行は四條畷へ合戦に赴く際に後醍醐陵に参拝しており、遺髪として奉納した髻を供養したがこの塚だとされています。
また、その折りに決死の覚悟を示すため、如意輪堂(如意輪寺の本堂)に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という辞世を刻んで行ったとされています。負けるとわかっていながら決戦に臨む姿は、軍記物としては打って付けの題材ということになりますかね。

ちなみに宝物館や庭園、多宝塔などもありますが、時間の都合などで今回はパスしました。本堂はあいにく修理中で覆われていたため、写真は載せません。今の本堂は、近世初頭の築のようです。

■奈良県吉野町

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2009.11.13

吉野水分神社・世尊寺跡

MikumariMikumari_3吉野の中心部からさらに奥へ。急な山道を登ってゆくとあるのが水分(みくまり)神社。創建年代は不詳ですが、延喜式内社であり、古代から神社として存在していたことは確かかと思われます。
名前と立地から考えて、水源地に建てられた神社ということかもしれません。

この神社もやはり金峯山寺との関わりが強く、修験道場としての役割を担っていたようです。かなりの山中にあるので、実際に神社の周辺で多くの修験者が往来していたのかもしれません。
現在では、「みこもり」と転じて子授けの神として信仰されているそうです。

Mikumari_6Mikumari_10社殿は一括で重要文化財に指定されています。左写真が本殿。
社殿は慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって建てられたものです。本殿は三つの社が繋がっているような造りで、珍しい様式をしています。中央は春日造りで、左右は流造りだそうです。
祭神は、木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝)。建長3年(1251)のものですが、公開はされていないようです(こちらに写真があります)。

右写真は、本殿築造と同時期に秀頼が寄進したという釜です。

Sesonjiato_3Sesonjiato_5少し下ったところに、世尊寺という寺院の跡があります。
寺院は跡形もありませんが、右写真の「三郎鐘」と呼ばれる梵鐘(重要文化財)が残されています。銘によると、保延6年(1140)に平忠盛(清盛の父)が寄進したもので、母の菩提を弔うためであったことが記されています。

Sesonjiato_1そして、以前一度掲載しましたが、世尊寺跡からの眺めがこちら。吉野の中心部が一望できます。

ここからさらに登ってゆくと、源義経が潜んだと言われる金峯神社があるものの、時間の都合でそこまで行くのは断念。山道を相当登るようで、そもそも行けるかどうか不安なのでやめた、というのが正直なところですが(笑)。

■奈良県吉野町

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2009.11.12

吉水神社

Yoshimizu_4Yoshimizu_8金峯山寺から少し歩くとあるのが吉水(よしみず)神社

今は神社になっていますが、かつては金峯山寺の子院で、吉水院(きっすいいん)と呼ばれていました。維新後に神社となり、後醍醐天皇と楠木正成を祀っています。
というわけで、本殿をはじめ神社らしい建物もあるのですが、どちらかといえば寺院の雰囲気を濃厚に残しています。

後醍醐院が吉野へ逃れた際、まずはじめに居所としたのがこの吉水院でした。彼を迎え入れたのは、院主だった宗信という僧侶で、神社では彼も祭神としているようです。

Yoshimizu_7Yoshimizu_10左写真の書院(重要文化財)は、後醍醐院が吉水院に滞在した際、居所とした場所と考えられています。鎌倉期のものとされており、現存最古の住居建築とも言われているようです。現在、内部には書院造りの様式も見られるようですが(だから「書院」と呼ばれている?)、これは室町期の改変によるものと思われます。

源義経主従もここに潜んだという伝承があるそうですが、その辺の実否やいかに…?

右写真は、「秀吉花見の本陣」。文禄3年(1594)に、豊臣秀吉は豊臣秀次以下総勢5000人をも随えて吉野に参詣して花見をしており、その場所がここだったとされています。訪問時期は夏だったのでよくわかりませんが、今も花見の名所なのでしょうか。ちなみに、その様子を描いた「吉野花見図屏風」がいくつか現存しています(こちらをどうぞ)。

Yoshimizu_13Yoshimizu_12こちらは吉水神社参道の向かいにある東南院の多宝塔。そこに、右写真の鰐口が掛かっています。永禄7年(1564)の銘があるそうです(直接は見えませんでした)。

■奈良県吉野町

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2009.11.09

金峯山寺

Kinpusenji_16Kinpusenji_2吉野の中心、金峯山寺(きんぷせんじ)です。
元は修験の道場として開かれた寺院で、役行者を開創としています。本来はさらに奥にある山上ヶ岳(奈良県天川村)も合わせた地域を霊場としていたようです。

平安期には浄土信仰とも結びつき、藤原道長や白河院などの権力者も参詣するほどの勢力を築いています。これには醍醐寺を開いた真言僧の聖宝(しょうぼう)が大きく関与しており、その縁から、中世においては醍醐寺系の修験道場(当山派)として発展しました。
京都を逐われた後醍醐天皇が吉野の地を当てにしたのも、単に山深いということだけではなく、武力をも有する修験道場の存在が大きかったと思われます。

近世になると同じく修験道場を系譜とする日光の輪王寺の傘下となったようですが、維新後は修験を禁じられ、山奥の古刹として今に続いてます。

左写真は仁王門(国宝)。築造年代は不明ですが、下層は延元年間(1330年代後半)、上層は康正年間(1450年代半ば)のものと推定されています。安置されている仁王像は、阿形は延元3年(1338)、吽形は延元4年(1339)に造られたものだそうです。

右写真は本堂でもある蔵王堂(国宝)。天正20年(1592)築。豊臣秀吉の援助によって再建されたものです。なにせ巨大。東大寺大仏殿に次ぐ規模とされています。

KinpusenjiKinpusenji_19左写真は、参道にある黒門。総門に当たり、ここから内側は商店が建ち並んでいます。

右写真は、銅鳥居(重要文化財)。『太平記』には正平3年(1348)に焼亡したとの記述があり、その後再建されたものと思われますが、宝永3年(1706)に火災に遭い、正徳元年(1711)にさらに再建されたものです。銅製鳥居としては現存最古のものとされています。
修験道場の内外の結界を示すものと言われていますが、神仏習合(というか、融合に近い?)の雰囲気が残る建造物です。

Kinpusenji_5Kinpusenji_8再び境内へ。
左写真は、蔵王堂の前にある銅灯籠(重要文化財)。私は確認できませんでしたが、銘によると、文明3年(1471)に妙久禅尼という人が寄進したものであることがわかるそうです。保存状態もよく、意匠もなかなか凝っているように見受けました。
蔵王堂正面には、仁王門とは別にかつて二天門のあった跡が残っています。ここが村上義光が自害した場所とされていて、今はそれを示す石碑も建っています。

右写真は、蔵王堂の脇にある威徳天満宮。天徳3年(959)の創始とされています。当然ながら菅原道真が祭神なわけですが、社伝によるとむしろ道真を左遷した醍醐天皇の供養をする主旨が強いようで、この辺は醍醐天皇を意識した後醍醐院との関係もあるのかもしれません。
今の社殿は桃山期のものとされ、豊臣秀頼によって改修されたと伝わっています。1998年の台風で被害を受けたそうですが、復旧しました。

Kinpusenji_14そして、蔵王堂からほど近くにあるのが、「吉野朝宮跡」。元は実城寺という寺院だったそうですが、南朝天皇が御所とした所です。

延元元年(建武3年、1336)に後醍醐院は京都から吉野へ逃れ、この地に移って寺号を「金輪王寺」と改めて居所としました。延元4年(1339)に死去するまで、ここで過ごしたと言われています。
ちなみにこの「金輪王寺」は、近世になって江戸幕府が寺号を日光に移したため元の実城寺に戻り、維新後は廃仏毀釈で廃寺になったそうです。

当時と今とでは地形が多少変わっている可能性もありますが、現地に行くとずいぶん手狭な感がしました。いかにも「雌伏」という言葉が似合うような場所、という印象です。

■奈良県吉野町

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2009.11.08

吉野神宮と村上義光墓

YoshinojinguYoshinojingu_2これより吉野に入ります。
史跡かというと微妙なところですが、まずは吉野神宮。吉野の里の入口に当たる所にあって、広大な敷地で静寂感が漂っていました。

後醍醐天皇を祀る神社ですが、創建は明治25年(1892)。近代における宗教政策というか、国家神道との関わりの深い所といえます。境内には、南朝の遺臣を祀った社も置かれています。

Yoshinojingu_8Yoshinojingu_9こちらは、吉野神宮の近くにある村上義光(よしてる)墓。信濃の村上氏の出身で、今のところ『太平記』でしか確認できないようですが、護良親王に従った“忠臣”として知られています。元弘3年(1333)に吉野に籠もって鎌倉幕府と戦いますが、吉野が二階堂貞藤(道蘊)によって落とされると、護良の影武者となって吉野の中心部にある金峯山寺蔵王堂前で自害しました。

墓の隣にある右写真の石碑は、天明3年(1773)に大和高取藩士の内藤景文が建立したものだそうです。
宝篋印塔そのものはいつものかはわかりませんが、石碑と同時に建てたのでしょうかね?

■奈良県吉野町

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2009.11.05

栄山寺

Eizanji_8五條の名刹である栄山寺。寺伝によれば、養老3年(719)に藤原武智麻呂が開創し、その菩提寺とされています。吉野川のほとりに佇むお寺。当初は「前山寺」と呼ばれていたそうです。

武智麻呂を祖とする藤原南家代々の菩提寺となっていて、南北朝期には南朝天皇の行在所ともなっていました。現在は国史跡。
このお寺は今はひっそりとしている感じでしたが、全国的に見ても有数の古刹で、古代以来の文化財が今なお遺されている貴重な所です。ただし、伝来した文書は現在歴博が所蔵しているようです。
写真は本堂。本尊の薬師如来像(重要文化財)は永享3年(1431)のものです。

Eizanji_9Eizanji_5まずは石造物二点。
左写真は、本堂の前にある石灯籠(重要文化財)。弘安7年(1284)の銘があり、当初の姿をよく残しており貴重なものです。意匠は「栄山寺型」と呼ばれる独特のもののようです。

右写真は、奈良時代のものとされる七重石塔婆(重要文化財)。全国的にも最も古い石塔の一つとされています。

Eizanji_4Eizanji左写真は、塔之堂(大日堂)。室町期のもの。写真にある通り、看板には「重要文化財」と書かれているものの、文化財データベースで探しても見つからなかったのですが…。最近指定されたとかでしょうか? いずれにせよ、中世の建造物として貴重です。

右写真は、目玉の一つの梵鐘(国宝)。銘文は菅原道真の撰で小野道風の書と伝わっています。銘により、延喜17年(917)のものであることがわかっています。元は伏見の寺にあったものを、武智麻呂の子孫である藤原道明が寄進したとされています。龍頭の精巧さは随一で、京都神護寺・宇治平等院の鐘とともに「平安三絶の鐘」と言われています(パンフレットによる)。

Eizanji_12そしてこちらがメインともいえる八角円堂(国宝)。「恵美押勝」こと藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が父母の追善供養のために建立したものです。なんと奈良時代の建築物で、築1200年以上。現存最古のものとして法隆寺が知られていますが、匹敵するほどの古さに驚きです。
外観は八角形ですが、内部は四角形になっています。内部(内陣)には装飾画(重要文化財)が遺されていますが、剥落が激しかったのは気がかり。天平期のものとしては唯一だそうで、太っ腹にも開け放して公開されているのですが、そろそろ保存の手段を考えるべきではないでしょうか…。

このほか、木造十二神将像(重要文化財)も所蔵。また、裏山には藤原武智麻呂墓所があります。

奈良県は当然ながら文化財の宝庫なわけですが、数だけではなくて、ほかの地域とはやはり格が違いますね。

■奈良県五條市

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2009.10.26

五條 御霊神社

GojogoryoGojogoryo_2ここから奈良県に入ります。
五條にある御霊神社。この地域には御霊神社が多く建っているそうですが、ここがその本社。
井上(いのえ)内親王・早良親王・他戸(おさべ)親王を祀り、延暦年間に創建されたとの社伝があります。井上は光仁天皇の皇后で、他戸は二人の間の子。母は異なりますが、早良もまた光仁の子です。
いずれも8世紀の権力闘争に敗れた人たちで、悲劇の人々の祟りを鎮めるといった意味が込められているのかもしれません。当初は霊安寺という寺院で、御霊神社は鎮守という位置づけだったようです。

縁起によると、御霊信仰の流行もあったのでしょうか、鎌倉期にかけてこの地域に多くの分社が建てられたそうで、地域の有力寺院(神社)として発展したと思われます。しかし正長元年(1428)に勃発した土一揆に対し、それを撃退しようとした畠山氏によって焼き払われたとされています。その後文明4年(1472)に本殿が再建されたことが、棟札によりわかっています。

Gojogoryo_3Gojogoryo_6こちらが本殿および早良神社・他戸神社(いずれも重要文化財)。覆屋があるため、うまく写真が撮れませんでした…。
近世以降度々改修されているようですが、15世紀の神社建築として貴重です。

境内には中世の石灯籠もあったようですが、見落としました…。そんなのあったかなぁ?

■奈良県五條市

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2009.10.23

隅田八幡神社

SudahachimanSudahachiman_6お次は隅田八幡神社。欽明天皇の勅願による創建とか、貞観年間頃(9世紀半ば)頃の創建とか、いろいろと伝承があるようです。

実態としては、この神社の創建については、隅田荘が石清水八幡宮領の荘園となったことと関わっているのではないかと思われます。長治2年(1105)には、隅田一族の祖とされ、荘官でもあった藤原(長[なが])忠延がこの神社の俗別当となっていることがわかっています。これ以後、隅田一族の氏神として信仰されたそうです。おそらくは、荘鎮守も兼ねていたのでしょう。

鎌倉期には隅田一族が幕府の御家人になったことによって、当地も幕府の影響を受けるようになったと言われており、徐々に石清水八幡宮の影響力が衰えていったようです。南北朝期には高野山の影響も受けたりして、室町期になると結局は守護畠山氏に支配をされるようになりました。

さて、隅田一族といえば在地領主の典型例として研究面ではよく知られた存在で、一族による一揆結合についても注目されてきました。近年ではその見直しも進みつつあるようですが…?

Sudahachiman_7Sudahachiman_9左写真は、境内にあった力石。由緒については、何か説明があったかもしれませんが忘れました…。

右写真は、本殿の裏手にあった経塚。むかしは、この場所は神功皇后遺物塚という伝承があったようですが、1998年の調査によって3基の経塚が発見されたそうです。そのうち、長寛2年(1164)の墨書銘のある経筒が発見されており、この時期に作られたものであることがわかりました。
アングルがいまいちですが、柵に囲われていて、これが精一杯な感じでした。

Sudahachiman_12境内には、このような珍しいオブジェがあります。

実のところ、隅田八幡といえばこちらの方が有名かもしれない、という人物画象鏡(国宝)をかたどったものです。「癸未年」の銘があり、383年・443年・503年のいずれかに当たると推定されています。銘については、解釈が諸説あるそうなので、詳しい話は省略(そもそも私もあまり詳しくないもので…)。
中国製のものを真似て作った仿製鏡(ぼうせいきょう)と呼ばれるものの代表例として、教科書にもよく載っているものです。
当然ながら、そうやすやすと実物を見ることができるわけでもなく…。

Sudahachiman_1Sudahachiman_3周囲の風景。特に変わった所はないですが、のどかな風景でした。
時にはこういう風景に浸ると癒されます…なんて言うと年寄り臭いですかね(笑)。

参考文献:
鈴木国弘「隅田荘」(網野善彦ほか編『講座日本荘園史』8、吉川弘文館、2001年)

■和歌山県橋本市

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2009.10.22

利生護国寺

RishogokokujiRishogokokuji_2高野山の麓、旧隅田(すだ)荘の地域へ。

国道24号線沿いにある利生護国寺。寺伝では行基の創建とされ、鎌倉期に「沙弥願心」の寄進により、西大寺末寺として再興したと言われています。また、叡尊が度々隅田を訪れていることから、何らかの関わりが推測されています。
この「願心」はこの地域に勢力を拡げた隅田一族の上田氏であったことがわかっており、隅田一族との関わりの深い寺院として知られています。しかしそれだけではなく、なんらかの形で鎌倉幕府からも庇護を受けていたともされています。

右写真は本堂(重要文化財)。建武年間に一度焼けた後、14世紀後半に再建したものとされています。その後も何度か修理の手が入ったようですが、いかにも南北朝期の寺院建築といった印象です。

Rishogokokuji_5その後も隅田一族から厚い保護を受けていることがわかっており、実質的には隅田氏の菩提寺だったとも言えるようです。
本堂裏には、写真のように中世の石造物がずらりと並んでいます。これが隅田一族の墓と伝わっています。
過去にはこの墓石の調査もされたそうで、銘も一部確認されていると聞いたように記憶していますが(曖昧)、肉眼では当然ながら見えず。

■和歌山県橋本市

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2009.10.19

高野山 美福門院陵・苅萱堂・女人道など

Koyafudoin_2Koyakumagaiji_2最後は、いくつかの史跡をめぐり女人道を歩きました。

左写真は、不動院にある美福門院陵。美福門院は藤原長実の娘で、名は得子(なりこ)。鳥羽院の皇后で、近衛院の母、という人です。
院政期において大きな政治勢力となった存在として「女院」が知られていますが、美福門院はその走りであり、代表的な存在です。娘の八条院の二代にかけて、天皇家の経済基盤ともなる広大な荘園支配(八条院領)を達成したことでも知られています。
永暦元年(1160)に死去。遺言により高野山に葬られましたが、女人禁制との関係で紛議があったようです。

右写真は、熊谷寺(くまがいじ)にある、伝熊谷直実使用の兜(だったと思います)。
直実は一ノ谷の戦いにおけるエピソードで知られていますが、平敦盛を討ったことに思い悩み、常に出家への希望を抱きながら御家人の勤めを果たしていた、とも語られてきました。結局は法然の弟子として出家しました。
高野山の熊谷寺には、建久元年(1190)に立ち寄り、敦盛の供養を行ったと伝わっているそうです。また、法然の供養塔も建てられたとか。このほか、中世の大般若経を所蔵しています。

Karikayado_2Karikayado_3左写真は、苅萱堂(かるかやどう)。「苅萱(刈萱)」は説経の代表作とされ、室町から江戸期にかけて流布したそうです。
概要は次の通り。

九州の領主である「加藤左衛門繁氏」が花の散るのを見て発心し、法然の手によって剃髪して苅萱道心と名付けられます。その後は妻子と離れて高野山に登ったところ、妻と子の「石童丸(石道丸、とも)」が訪ねてきます。女人禁制のため妻は麓に残り、石童丸が一人で登ってきて対面。しかし父は子に会っても、修行のため父とは名乗らず避けようとします。石童丸に「父は死んだ」と言い、母と菩提を弔うよう促して山を下らせます。しかし下ったところ、既に母は亡くなっていました。嘆き悲しんだ石童丸は、本当は父である苅萱道心のもとで出家。その後は決して親子であることを明かさず、40年もの間、この堂で修行に励んだ、というお話です。

お堂では、それぞれの場面を描いた絵が額入りで掛かっており、独特な調子で「絵解き」もしていただくことができます(有料)。

右写真は、お堂の傍らにあった石童丸の母の供養塔とされる宝篋印塔です。

Nyoninmichi_1
Nyoninmichi_3さて、女人道へと向かいます。
登る途中に左写真のお堂がありました。これどういうものでしたっけ…?
右写真が、女人道の様子。場所にもよりますが、結構勾配のきつい道もありました。女性にはなかなか大変だったように思います。(まあ現代人は男性でも大変ですが(笑))。

Nyoninmichi_4Nyoninmichi_9結構きつい道を歩ききると辿り着くのが、円通律寺。かつては専修往生院と称し、高野山別所のうち、小田原別所・中別所・東別所に対して、新別所と呼ばれたそうです。重源による再興と伝わり、現在でも修行の道場として静寂が保たれています。普段、拝観はできません。
さらに女人道を歩いてゆくと、右写真のような風景に出会いました。

Nyoninmichi_20そして下りてきました。
最後に、「虎屋薬局」。高野山で最も古い商家建築だそうです。1890年に高野山で大火があったそうですが、その直後に再建されたものとされています。今も薬局として現役です。

このほか、高野山霊宝館にも行き、貴重な宝物も拝観いたしました。過去の展覧会の図録も揃えてあり、資料集めのためにも立ち寄る価値があります。

以上、高野山のシリーズはこれで終了です。

■和歌山県高野町

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