2008.06.20

岩殿城跡

Iwadono_2Iwadono_5これからしばらくは、先日行った山梨の郡内地域です。
まずは山梨県大月市の岩殿城跡(岩殿山城とも)。大月市の中心部北側にそびえる岩殿山が要塞化した城です。
もともとこの山は修験の道場として山頂に「岩殿山円通寺」が建立されていたとされており、三重塔・観音堂・僧房などがあったと言われています。元来、現在の大月の市街地も、この門前町として形成されたとも。

戦国期になると交通上の要衝を抑える観点から、郡内の領主であった小山田氏が影響力を拡げ、小山田氏が武田氏の麾下に入ると、ここに城を築いたようです。天正10年(1582)に武田氏と小山田氏が滅亡すると、変わって支配をした徳川氏にも継承されたようですが、近世初頭に廃城になりました。
ちなみに円通寺は近世まで山麓にあったようですが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となったそうです。

この城、登山道が正面の崖を縫うようにして登る長い坂道と階段しかなく、相当疲弊します…。どうも当時の登山道は現在とは異なるようですが、当時の道は整備されていないみたいです。
左写真はその道を八分目まで登ったあたりにある城戸跡。もっとも、自然の岩場を活用したような感じですが。
登り切ると辿り着くのが右写真。遺構というには少々インパクトに欠けるというか…。

Iwadono_4Iwadono_15左写真は頂上付近の風景。かろうじて曲輪に見える…?
右写真のように、井戸が今も残っています。

Iwadono_13Iwadono_1そして左写真が頂上。風情ゼロ(笑)。かつてここに円通寺の堂舎があったとのことですが、その痕跡はまったくありませんでした。
城郭施設の遺構も当然ながらなし(空堀の跡はわずかながら確認できましたが)。案内標識には「狼煙台」と書かれていて、実際のところ、この城は麓(右写真参照)に居館があって、山は非常時の詰めの城としての機能を持っているものの、通常はやはり通信施設だったということなのでしょう。今も通信施設が建っているのには、なんとも感慨深いところです。
ちなみに麓の地名は「太刀」と言うそうです。「たち」の音から、「館」に通じるのではないかと。山と市街地を隔てる崖は、桂川(相模川)が流れています。

正直な感想としては、相当な体力を費やすことになるものの、得られる感動はあまりないといったところでしょうか…(笑)。達成感はありますが。

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2008.06.19

対馬 おまけ

NishidomariNishidomari_1最後におまけ画像です。
こちらは北端部にある上対馬町西泊近くの海。この海の先が日露戦争の日本海海戦の戦場になった海域になるそうで、それを記念?して、日露友好の石碑が建っていたりしました。

Asowanこちらは中央部の多島海である浅茅湾の風景。…なんですが、天気が悪く霞んでしまっていたので、こんな写真になってしまいました。残念。
天気がよいとこんな風に見えるそうです。

Shimizuyama_18Shimizuyama_19最後は厳原の清水山城跡の山頂(本丸)の写真。大したものではありませんが。本丸自体は非常に狭くて、とても軍勢が駐屯できるような施設があったようには思えませんでした。狼煙台があった程度でしょうかね。

対馬には「ヤマネコ注意」の標識があったり(こちら)、やはりハングル表記の看板が多いなど、やはり独特の雰囲気が感じられました。
というわけで、対馬シリーズはこれにて終了です。

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2008.06.16

対馬(20) 豊砲台跡

Waniura_6Waniura_10上対馬町豊(とよ)にある砲台跡。近代日本の砲台施設の遺構です。

現地案内によると、

「第一次大戦後、日本は軍備拡張計画を推し進める中、対馬海峡を封鎖する目的で、対馬北端の軍事上要衝のこの地に昭和4年(1929)5月より約5ヶ年の歳月を費やし昭和9年(1934)3月に砲台を完成させました。
この砲台は、大正11年(1922)ワシントン海軍軍縮条約の締結により、航空母艦に改造されることとなった『赤城』の四十五口径40.6センチ加農(キャノン)砲一基二門の砲塔砲台を設置したという説のほか、戦艦土佐や戦艦長門のものであるとの説もあります。
この砲は、砲身長18.5メートル、砲身重量は108トンもあり、実用射程距離は30キロメートルにおよびこの地で対馬海峡封鎖の防衛拠点を成していたのです。」

とのことです。専門的な話はさっぱりわかりませんが…(笑)。

Waniura_8Waniura_11完成当時は世界最大の砲台だったそうで、地下の施設も備えた軍事拠点の雰囲気が感じられました。旧ソ連のトーチカを想像すればいいんでしょうか。
結局は実戦で砲弾を発射することなく、昭和20年(1945)10月に米軍によって解体された、とのことです。

Waniuram史跡はこれでおしまい。次回は最終回のおまけです。

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2008.06.09

対馬(19) 鰐浦

Waniura_14Waniura_15上対馬町鰐浦へ。対馬の最北端に近い所です。古くからの朝鮮への渡航地として知られており、『日本書紀』にも登場するほどです。
中世では宗氏が朝鮮への渡航船舶監視のために検問所を設置したとされています。
また、漂流民の送還拠点でもあったそうで、永正8年(1511)には来着した「唐人」(朝鮮人)を「わにのうら」へ移送し、送還したことなどがわかっています。
朝鮮出兵時にも渡航拠点となり、近世初頭にも関所が置かれました(のち佐須奈へ移転)。

WaniuraWaniura_1左写真は鰐浦を上から見た所。
右写真は、沖合にある海栗(うに)島。ウニの漁場だから付いた名でしょうか(ウニは今も対馬の特産です)。
この海栗島が天然の防波堤の役割を担っていたそうです。現在は島がまるごと自衛隊の施設となっていて、立ち入りはできません。日本では数少ない「国境」を感じる風景です。ここに勤める人たちはこの鰐浦や隣の豊浦に居住しているようで、それらしき住宅が見られました。

Waniura_2鰐浦の北側の山はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)の自生地として知られているそうです。私が行った頃は季節外れで花は全然ありませんでしたが。

そしてその頂上は、現在は韓国展望所として観光地となっています。しかしまったく見えず(これもやはり日頃の行いか)。地元の人によると、春先よりも秋の方が、見える日が多いとのことでした。
展望所の傍らには、「朝鮮国訳官殉難之碑」(写真)が建っています。元禄16年(1703)に宗義真の弔問に訪れた朝鮮訳官使の乗った船が、海栗島沖で転覆・沈没し112人が死亡した事件を慰霊するものです。海栗島周辺は岩礁が多い海域のようですので、座礁してしまったのでしょうか。

Waniuram_2いよいよ北端に到達。あと少しです。
ちなみに、港の近くに古代の渡来人の「王仁(わに)」を祀る石碑が建っていました。名前が同じだからということなんでしょうけど…ちと安易な気が。

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2008.06.07

対馬(18) 佐須奈浦

Sasuna_1峰町からは山を二つ越えて(笑)、上県町佐須奈へ。佐須奈浦は『海東諸国紀』に「沙愁那浦」と記されており、中世以来の朝鮮との交易拠点となっていた港町です。

Sasuna_3近世においても釜山との往来の窓口となっていて、宗義真が寛文12年(1672)に関所が置かれました。この関所を「改番所(かいばんしょ)」(「御番所」とも)といいます。写真はその番所の跡です。手前の木があってわかりにくいですが…。
通信使も釜山からこの佐須奈へ渡り、府中(厳原)へ行くことがあったそうです。

Sasuna

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2008.06.06

史跡写真の目次

史跡関連の記事がかなりたまってきましたので、一念発起して目次を作りました。→こちら
左側の関連リンクの欄にも掲示してあります。

掲載しているのはほとんどがこの2,3年の間に行った所で占められますが、随分偏っている感がしますね。
というか、京都とか、メジャー所がほとんどない…。

今後ともいろんな所へ行けるといいんですが。以前に一度行った所にも再び写真を撮りに行きたいな、とか(笑)、いろいろと妄想が膨らみます。

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2008.06.03

対馬(17) 円通寺

SakaentsujiSakaentsuji_1一転して東岸の峰町佐賀(さか)へ。この地区は、15世紀の宗氏の本拠地とされる所で、当時においては対馬においても随一の港町であったとされています。

そしてここにある円通寺は、当時の宗氏の菩提寺です。応永15年(1408)に宗貞茂が佐賀に居館を構えた後、貞盛・成職を経て、貞国が応仁2年(1468)に府中(厳原)に移るまで政治的中枢の地となっていました。
もちろん対朝鮮交易の一大拠点ともなっていて、円通寺の本尊である銅造薬師如来坐像は13世紀作の高麗仏とされています。右写真の梵鐘も李朝初期の朝鮮で鋳造されたものとされています。形状も日本にはない特徴的なものであることがわかりますね。

Sakaentsuji_2Sakaentsuji_3そして、なんといっても目玉は宗氏の墓所とされる中世の宝篋印塔群です。個々の来歴については不明のようですが、時期としては南北朝~室町初期のものとされているそうです。
この円通寺の近隣に宗氏の居館があったと考えられていますが、残念ながら目立った遺構は見つかっていないようです。

Sakamunakata円通寺からより海側の港のそばには、宗像社があります(現在は和多都美神社)。文永4年(1267)の史料に「佐賀宗形宮」との文言が確認されており、中世には既に存在していたことがわかっています。対馬でも宗像社を勧請した所はここしかないそうで、九州との結びつきの強さや、海上交易の活発な地であったことがよくわかります。

Saka参考文献:
荒木和憲『中世対馬宗氏領国と朝鮮』(山川出版社、2007年)

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2008.05.27

対馬(16) 海神神社

Kaijinjinja峰町木坂の海神神社。「かいじん」の読みのほかに、「わたづみ」とも読むそうです。ここが対馬国一宮です。現在の厳原八幡宮が「下津八幡」と呼ばれたのに対し、こちらは「上津八幡」と呼ばれていました(木坂八幡宮とも)。この神社も、延喜式内社の「和多都美神社」の論所となっています。
神功皇后の新羅征討に関わって造営されたという社伝を持っており、中世においては、建長4年(1252)に修理していたことや、永和4年(1378)に宗澄茂によって造営がされたことがわかっているそうです。

Kaijinjinja_4Kaijinjinja_5左写真が拝殿、右写真が本殿。近世には藩主宗氏の保護を受け、度々援助を得て造替を行っていたそうです。実際、近世後期の藩主の寄進による灯籠も遺されていました。
新羅仏の銅像如来立像(重要文化財)を所蔵しており、それが安置されていると思しき建物もあったんですが(宝物館?)、残念ながら拝観はできませんでした。

Kaijinjinja_6近くの青海地区にも、やはり天道信仰関連と思しき石積みが海岸にありました。対馬の信仰の歴史を考える上で重要ですね。

Aomi_2

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2008.05.23

対馬(15) 和多都美神社

WatazumiWatazumi_3豊玉町仁位(にい)へ。この地区にある和多都美(わたづみ)神社。ここは対馬では比較的一般に知られる観光名所です。
「延喜式神名帳」に「対馬国上県郡和多都美神社」とあり、この神社を指すとすれば、式内社であったことがわかります(比定地にはほかの神社もあるようですが)。
また文永4年(1267)の史料に、「和多津美宮」と記されたものがあり、この神社に比定されています。
右写真のような、海の中に鳥居が立っていることで知られており、おそらくかつては海から船で参詣していたのではないかな、と思います。

Watazumi_6境内には、祭神でもある「豊玉彦尊」の墓とされる巨石があります。由緒については、こちら参照。

かつてはどうだったかはわかりませんが、集落もまったく無い、入り江の奥地にぽつんと鎮座している神社です。本州で一般的な鎮守というより、ここも神話性をまとった独特の信仰を集めた神社だったということなのでしょうか。

Nii

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2008.05.18

対馬(14) 小船越

Kofunakoshi_2Kofunakoshi_5大船越・万関瀬戸から少し北へ向かうと、最も東西の海の距離の短い所があります。ここが小船越と呼ばれる所で、中世では、この場所を船を曳いて横切っていました。史料上では、永和4年(1378)と推定される宗隆茂(澄茂)遵行状に「小船越」とあるのが初見だそうです。
『老松堂日本行録』を著した朝鮮の使者宋希璟が応永27年(永楽18年,1420)に停泊したとされており、当時における日本と朝鮮とを繋ぐ重要な拠点であったことがわかります。

Kofunakoshi_6この道が、実際に船を曳いたと思われる所です。
Kofunakoshi_9この地区にある梅林寺は、嘉吉条約(癸亥約条、1443)の後の日朝通交において必要となった「文引」(ぶんいん、渡航許可証)の発給事務を行った場所とされています。
ただ、今のお寺の場所は当時とは異なっていたようです。9世紀の新羅時代の仏像や、南北朝期の京都東福寺版の大般若経を所蔵しているそうです。宗経茂の墓とされる室町前期の五輪塔もあるそうなんですが、見つけられませんでした。

Kofunakoshim

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2008.05.17

対馬(13) 大船越

Oofunakoshi_1Oofunakoshi_2美津島町大船越へ。対馬の中央部に入り込んだ浅茅湾は元々西へ開けた湾になっていて、東側は陸続きになっており、船で東側へ出ることはできませんでした。
ただ一番陸地の細い部分は数百メートル程度しかないため、かつてはその間は船を陸地へ揚げて運ぶこともあったそうです。

ただそれでは不便ということで、寛文12年(1672)にこの地域を掘って東西の海を繋げる大工事が行われました。その場所は「大船越」と呼ばれました。(これに対してかつての陸上の横断地として「小船越」があるわけですが、それは次回にて。)

幕末の文久元年(1861)にはロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾に来航し、乗員が端艇に乗ってこの大船越を横切ろうとした折りに対馬藩と衝突し、銃撃により百姓が死亡する事件も起こったそうです。現地にはその石碑もありました。

Oofunakoshiその石碑の前ではこんなものが。何かわかりますかね? スルメを素早く干すために、ひっかけて回転させる機械のようです。

Oofunakoshi_7近代になると船舶が大規模化したため、少し北に新たに大きな堀切を造っています。この場所は「万関瀬戸」と呼ばれています。
これらの堀切のために現在の対馬は南北に島が分かれているように見えますが、元々は地続きであり、現在でも対馬は一つの島として扱われているようです。


Ofunakoshi

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2008.05.14

深大寺

Jindaiji_8Jindaiji_1今年のGW中に、深大寺(東京都調布市)に行きました。予想以上の人出で少し面食らいましたが、なんか人並みの休日を過ごせた感じです。
メインはそば、じゃなくて(いや、それもメインですが(笑))、深大寺城跡。16世紀前半に扇谷上杉朝定が後北条氏対策のために築いた城で、都内では珍しくわりと遺構が遺っているところです。詳しくはこちら参照。

Jindaiji_5Jindaiji_21左写真は一の郭(本丸)と二の郭を隔てる堀の跡。結構しっかり遺っています。右写真は二の郭。腰掛けのように利用されている(笑)杭のようなものは、柱穴跡です。

Jindaiji_29もちろん深大寺にも参拝。写真の山門は現存する最古の建築物で、元禄8年(1695)築とされています。ほかの堂舎は幕末に焼けてしまいましたが、この山門だけは遺ったそうです。
本尊は奈良時代のものとされる銅仏(重要文化財)で、ガラス越しに見ることができました。梵鐘(重要文化財)が永和2年(1376)鋳造だったそうなんですが、見逃した…。無念。

ちなみに、わりと有名な?鬼太郎茶屋は素通り。

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2008.05.07

対馬(12) 金田城跡(遠望)

KanedanokiKanedanoki_1美津島町の浅茅湾沿岸には、古代の城郭遺跡である金田城(かねたのき)跡があります。国の特別史跡に指定されています。
『日本書紀』によると、白村江の戦(663)で敗れた後、天智天皇6年(667)に大和・高安城(奈良県平群町)、讃岐・屋島城(高松市)とともに、この金田城が築かれたという記事があるそうです。
私は結局上まで登らなかったのですが、登った方々によると、実に立派な遺構が遺っているそうです。こちらに、写真が紹介されています。

下から見るとすごい峻険な感じでしたが、実際はそれほどでもないらしいです。でも、20分程度は登るそうですが。

Kaneda健脚自慢の方は是非観光ルートにどうぞ。

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2008.05.06

対馬(11) 土寄崎

Osakisoda_2Osakisoda_2_2美津島町尾崎へ。対馬は中部に多島海である浅茅(あそう)湾が広がっていますが、その湾口の南側に当たる地域です。
ここはかつて「土寄崎(つちよりざき)」と呼ばれた所で、14~15世紀にかけて活発化した倭寇の首領的存在である早田(そうだ)氏の本拠地とされています。そして倭寇対策に悩む朝鮮王朝が、応永26年(1419)にこの地を襲撃しました。「応永の外寇」(己亥東征)と呼ばれる事件です。

Osakisoda_1この尾崎地区にある水崎遺跡の発掘調査によって、15世紀前半のものと思われる陶磁器が大量に見つかりました。しかもそれらには火災にあった痕跡があり、応永の外寇との関連を窺わせる貴重な資料となっています。
陶磁器は90%が海外からの招来品だそうで、うち70%以上が朝鮮産とのことです。ほかにベトナムやタイ産と思われるものもあり、海の交流の活発な様子が窺えます。また出土した銭貨のうち、55枚中14枚が日本ではあまり使われない大銭(大型の銭)なのだそうです。
できればこの遺跡の発掘報告書が欲しいところですが…。情報求ム。

Osaki参考文献:国立歴史民俗博物館企画展図録『東アジア中世海道』(同博物館編集・毎日新聞社発行、2005年)

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2008.05.01

対馬(10) 小茂田浜

Komoda_4Komoda_3厳原町小茂田へ。小茂田浜と呼ばれるこの地区は、文永の役(1274)にモンゴル軍が襲来した元寇激戦地として知られています。旧佐須郡の中心地であることから、佐須浦として史料に出てきます。

右写真が、応戦した宗助国(資国)以下の諸士を祀る小茂田浜神社。在郷民が祠を建てたのがはじまりで、南北朝期に宗経茂が現在地に移して「軍(いくさ)大明神」として保護したと言われています。また元禄期に宗義真が神門や石碑を建立、明治になって小茂田浜神社となりました。

もっとも小茂田地区は、かつては入り江が入り込んだ浦だったとのことで、実際の激戦地は少し内陸に入った辺りだったというのが実態のようです。中世では塩田が広がっており、製塩を生業としていたことがわかっています。

Komoda_6Komoda_9小茂田から少し内陸に入った樫根地区の法清寺には、宗助国の墓とされる胴塚があります(左写真)。さらに少し離れた所には首塚もありました(右写真)。五輪塔の下半分が胴、上半分が首を表しているようです(笑)。胴塚は中世のものだったと考えられているようです。法清寺には平安期の木彫仏像が安置されていますが、見られず。

Komoda_5こちらは小茂田の集落にある譜門寺。宗助国の菩提寺とされています。

Sasu

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2008.04.29

対馬(9) 椎根の石屋根倉庫

Ishiyane_4Ishiyane_1豆酘から西岸を北上、といっても、海沿いの道は切れているのでほとんど山道ですが(笑)。
厳原町椎根へ。ここには対馬の伝統的な建物である石屋根倉庫がいくつか遺っています。

元々食料や日用品を保管するために建てられた倉庫で、対馬の各地にみられたそうですが、今ではほとんど見られなくなったそうです。
屋根に乗っている平べったい石(板石、「島山石」と呼ばれるそうです)は、対馬特有の石質で、石を屋根に置くことによって北西の強い季節風や雨露から守るために考案されたものだとされています。
起源がいつまで遡るのかはわかっていないようですが、少なくとも近世にはあったかも?

Sasu

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2008.04.22

対馬(8) 多久頭魂神社

TakuzutamaTakuzutama_9豆酘地区にある多久頭魂(たくづだま)神社。この地域独特の信仰である「天道信仰」にゆかりのある神社で、神体である天道山の遥拝所としての機能を持つとともに、この信仰にまつわる神事を行う場としての性格を持っています。元々は観音堂であったものが、神社になったそうです。
代表的な神事が、稲の原生種といわれる赤米の穀霊をカミとして祀る「赤米神事」です(詳しくはこちら)。神事では赤米で作った餅を「テンドウ」と呼ぶんだそうです。

Takuzutama_8こちらには中世にまつわる文化財が伝わっています。その一つがこの梵鐘(重要文化財)。銘によると、康永3年(1344)に肥前松浦の鋳物大工覚円・小工季興によって作られたもので、檀那は沙弥妙善などの名があり、宗氏と関係のある豆酘郡司ではないかとされているようです。ほかに、「奉行僧」として「肥州南久屋宝泉寺住侶明俊」など、松浦地域の人物が深く関わっており、当該期のこの地域のネットワークを探る上で貴重な資料です。

ほかに金鼓(重要文化財)があり、高麗から招来されたものです。日本へ入ってきた際に銘が刻まれており、その銘によると、正平12年(1357)にもたらされたことがわかっています。
さらには大蔵経も所蔵されていて、今回はその一部を特別に見せていただきました。高麗版によるもので、1230年代頃の版木によるものだとされています。ちなみに、上記金鼓と同時にもたらされた可能性が高いようです。これについては、当時の宗氏の当主である宗経茂による高麗との通交が関係しているとも推測されているそうです。もっとも、“合法的”かどうかでも議論のあるところでしょうけど…。

Tsutsukongoin_1同じく豆酘地区にある金剛院では、中世文書を拝見させていただきました。宗氏歴代の判物が中心のようでした。

余談ながら、豆酘については平泉澄のアジール論の舞台となったり、民俗面では宮本常一に注目されるといった、研究面での「ホットスポット」のようです。ただ、今は静かな漁村といった風情でしょうか。厳原の中心街からも遠く、少し寂しい雰囲気でした。

Tsutsu※念のため申し添えますと、文書類については事前に許可をいただいて特別に見せていただきました。公開はしていません(梵鐘は境内で見られます)。

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2008.04.18

対馬(7) 豆酘の石塔群

TsutsunaiinTsutsunaiin_1_3厳原から車で延々と続く山道をおよそ1時間。最南端の厳原町豆酘(つつ)へ。
内院地区にある石塔群。対馬には中世の石塔群はほとんど遺っていないので、非常に珍しい。
五輪塔のうち一つには応安7年(1374)の銘があるそうですが、肉眼で確認することは難しかったです。ほかにも暦応の年号の入ったものがあると伝わっていますが、これは今もはっきりしていないらしい。少弐氏が関係するとか、南北朝期頃から現れるとされる天道法師信仰(後述)に関わっているもの、などと推測されています。

Tsutsunaiin_5こちらは少し離れたところにある宝篋印塔。対馬島外の石材を用いて築かれたものだそうで、南北朝期の頃のものか。元々は別の所にあったのを、現代になって移設したそうです。

いずれも小学校の敷地内にあるので、入るのはやや抵抗感が…(笑)。案内看板もなにもないので、事前に場所を知っている人でないと見つけるのは非常に困難に思えました。

Tsutsutendo_3こちらは浅藻地区の山に入ったところにある天道法師塔。対馬の南部地域は天道法師信仰という独特の信仰があり、その神体である天道山(龍良山)を遥拝する施設と言われています。天道法師信仰については、こちらを参照。

Tsutsu

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2008.04.14

対馬(6) 清水山城跡

Shimizuyama_9Shimizuyama_16厳原八幡宮の裏山に築かれた清水山城跡。現地看板によると、

「城下町厳原市街を見下ろす清水山に、中世風の山城の遺構が残っている。天正19年(1591)、豊臣秀吉が朝鮮出兵に先立って築城させたもので、肥前の名護屋、壱岐の勝本、この清水山、そして上対馬の撃方山(うちかたやま)と結んだ兵站線の駅城である。馬背状を呈した稜線上に、山頂から、本丸、二の丸、三の丸と、地形に即して階段状に連なっている。規模は必ずしも大きくないが、歴史的には文禄・慶長の役の遺跡として、構造上からは、遺例に乏しい文禄ごろの城跡として、日本中世史上、貴重な史跡である。」

とのことです。国指定史跡になっています。
規模はそれほど大きくない感じですが、立派な石垣が遺っていて、秀吉の威光と朝鮮出兵への並々ならぬ意欲が窺えます。ただ、ここは居城というより、「駅城」とある通り、詰めの城のような印象です。

Shimizuyama_5Shimizuyama_7城内の様子はこんな感じです。

Shimizuyama_3三の丸から見た厳原の市街地。
天気も良かったですが、非常に見晴らしがいいです。こうして港の「見張り」の役割も果たしていたのでしょうか。

厳原の史跡はここまで。これからは対馬の各地を巡ります。

Izuhara

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2008.04.11

対馬(5) 対馬藩の賢人たち

Seizanji_2Seizanji_4対馬藩の有名人たちのお墓シリーズです。
まずは厳原の港を眺める高台にある西山寺。元は永正9年(1512)に宗貞国の妻の菩提寺となりましたが、享保17年(1732)に別の所にあった以酊庵(いていあん)が移転してきたために西山寺は一旦別の所に移転し、明治になって再び西山寺が移ってきて今に至ります。
そしてこの以酊庵を創建したのが、景轍玄蘇(けいてつげんそ)。写真は彼の墓です。彼は16世紀末の外交僧として知られており、天正8年(1580)に対馬へ渡来。秀吉の朝鮮出兵の際にも外交僧として活躍し、文禄4年(1595)には明の万暦帝から「日本国光禅師」の称号を受けています。西山寺には、彼の木像が本堂に安置されています。本尊は銅造の高麗仏。ユースホステルにもなっているそうで、対馬へ調査に来る方々もよく利用されるとか?(私はここには泊まりませんでしたが)

Amenomori_2次は長寿院。こちらに眠るのは雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)。出自は諸説ありますが、近江国雨森(現:滋賀県高月町)の土