
米沢城から南方へ行くとある林泉寺。山号は春日山。
名前でお気づきの通り、慶長6年(1601)に上杉氏がかつての本拠であった越後高田(現新潟県上越市)から移した寺院です。
上杉氏の尊崇を受けた寺院で、上杉景勝の正室や仕えた家臣の墓があります。

左写真は上杉景勝生母・綾御前の墓。院号は仙洞院。長尾為景の娘で、上杉謙信の姉ですね。上田長尾氏の長尾政景に嫁ぎ、景勝を生みました。米沢の林泉寺の建立に尽力し、中興開基とされています。
右写真は景勝の正室・菊姫の墓。彼女は誰有ろう武田信玄の娘で、信玄の死後に武田・上杉が和睦し、武田勝頼が天正7年(1579)に嫁がせました。甲州夫人と呼ばれたそうです。文禄4年(1595)からは人質として伏見で過ごし、そのまま慶長9年(1604)に伏見で死去しました。なので正式な墓所は京都の妙心寺にありますが、後に米沢にも墓が建てられたそうです。歌舞伎「八重垣姫」のモデルになったともされているそうです(私はそちらは詳しくないのでよくわかりません)。
そして面白いことに、武田信玄の子の墓がもう一つあります。こちらは武田(安田)信清の墓。信玄の六男か七男で、武田氏滅亡後に菊姫の縁を頼って上杉景勝に身を寄せました。景勝は彼を厚遇し、米沢藩高家衆筆頭として3300石を与えています。その後禄は減少しましたが、子孫はそのまま幕末まで上杉氏の家臣となりました。彼の墓所は県史跡に指定されています。
そしてお待ちかね? 今はここが一番のメインでしょう。直江兼続夫妻の墓です。兼続の履歴はパス(笑)。兼続は元和5年(1619)に60歳で江戸で死去しましたが、はじめは米沢にあった徳昌寺に葬られ、この寺が廃寺となった後に林泉寺に改葬されました。
兼続の妻・お船の方は直江景綱の娘で、はじめは上野国の総社長尾氏から景綱の養子となった直江信綱の妻となるものの、信綱が天正9年(1581)に上杉家中のトラブルで殺害されると樋口兼続と結婚し、兼続は景綱の婿養子となって直江氏を名乗りました。お船の方は菊姫と同じく文禄4年に伏見に人質として移りましたが、彼女は関ヶ原合戦後に米沢へ移っています。兼続死後は江戸で暮らし、寛永14年(1637)に81歳で死去しました。
あとは戦国期の上杉氏に仕えた人たちを。まずは水原(杉原、すいばら)親憲。はじめは大関氏でしたが、断絶していた水原氏を継ぎました。上杉氏の会津時代には猪苗代城(現福島県猪苗代町)の城主となり、長谷堂城合戦や大坂冬の陣に参加し、後者では徳川秀忠から感状を受けたそうです。元和2年(1616)没。
こちらは甘糟景継の墓。「上田衆」と呼ばれた上田長尾氏の家臣・登坂(のぼりざか)清高の子ですが、こちらも断絶していた甘糟氏を継ぎました。越後の五泉城(現新潟県五泉市)城主、のちに庄内の酒田城(現山形県酒田市)城主。上杉氏が会津に移った後は陸奥白石城(現宮城県白石市)城主となりました。米沢移封後も重臣として仕えましたが、慶長16年(1611)に没。自害したとされていますが、理由はわかっていないようです。
最後は吉江宗信の墓。吉江氏は越後守護上杉氏の被官で、そのまま越後長尾(のち上杉)氏にも仕えました。越中や上野攻めにも従軍。越中の増山城(現富山県砺波市)の守将となりましたが、御館の乱の混乱に乗じた織田方の柴田勝家の猛攻を受け、その後魚津城(現富山県魚津市)に引いて守っていましたが守りきれず、天正10年(1582)に子の景資らとともに自刃しました(この時織田方は本能寺の変のため撤退)。吉江氏は景資の子・長忠が継承し、以後代々上杉氏の重臣となりました。上杉氏が米沢に来るよりかなり前に死去していることから、後世、子孫が墓を建立したものと考えられます。
■山形県米沢市