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2015.12.04

三嶋大社・宝鏡院

Mishima_7Mishima_11すっかり間が空きましたが、三嶋大社へ。詳しく説明する必要はないですね。伊豆国一宮で、鎌倉期には箱根神社や伊豆山神社とともに幕府から篤い保護を受けた神社として知られています。
また、独自の暦である三島暦を作成していたことでも知られており、中世後期の関東ではこの暦が広く用いられていました。
右写真は楼門で、左写真は幣殿(重要文化財)。現在の社殿は幕末維新期に再建されたものだそうです。

Mishima_8Mishima_5こちらは拝殿(重要文化財)。奥には本殿(重要文化財)がありますが、様式は権現造。本殿の大きさは出雲大社に匹敵する規模だそうです。
右写真は、おなじみ? 頼朝と政子の(伝)腰掛け石。

Mishima_13Mishima_14そしてこちらは少し歩いた所にある宝鏡院。臨済宗の寺院ですが、足利義詮と足利政知のものと伝わる墓があります。

Mishima_15で、義詮のものとされるがこれ。見づらいですが、下にある大きめの墓石がそれではないかと。この寺院は義詮が建立したとされており、その由縁によるものと思われます。

Mishima_16Mishima_17政知の墓というのはわからなかったのですが、これらのうちのどれかでしょうか。政知は義政の弟で、関東公方に抜擢されて下向しようとするも鎌倉には入れず、結局は伊豆堀越を本拠とし(堀越公方)、延徳3年(1491)に没。このお寺との関係はよくわかりませんが、足利氏との縁をしのんだものでしょうか。

■静岡県三島市

2015.07.20

葛山城跡

Kazurayamajo_24富士山の麓、箱根峠の駿河側の麓に当たる地域にある葛山(かずらやま)城跡。「境目の衆」として知られる国衆の葛山氏の居城として知られています。

葛山氏は同地を発祥とする大森氏の一族で、鎌倉期は御家人として駿河国駿東郡に拠点を構えたとされます。室町期には幕府奉公衆になったとされ、駿河国守護だった今川氏からは独立した領主として存在していました。しかし戦国期になると徐々に今川氏の影響を受けるようになり、15世紀末期の葛山氏時は伊勢宗瑞の実子だったといわれています。

16世紀半ばには今川氏の影響を強く受けたようで(実質的に被官化?)、今川氏の没落後は北条氏と武田氏との境目(「半手」)の地域の領主として両者を立ち回ることとなりますが、最終的には駿河を支配下に置いた武田方に属することになり、武田氏から養子信貞(信玄の実子かどうかは異説もあるようで)を迎えたました。
葛山信貞は天正10年(1582)の織田信長の武田攻めによって甲斐善光寺(現甲府市)で自害し、葛山氏は滅亡しました。

Kazurayamajo_1Kazurayamajo_3城の麓には葛山氏の菩提寺である仙年寺があり、ここから登ります。本堂の裏側には墓所があり、最後の当主が武田から入ったこともあってか、武田氏の家紋がありました。

Kazurayamajo_8Kazurayamajo_13比高は大したことないと思うのですが、延々上り坂なので結構きつい登山道を上って縄張りへ。

Kazurayamajo_15Kazurayamajo_17主郭の周辺。いかにも戦国期城郭という遺構。

Kazurayamajo_28Kazurayamajo_29こちらは麓にある居館跡。平時はここに居を構えていたとされ、土塁と一部に石垣も遺されていました。かなり広大な敷地でした。居館遺構がはっきり遺っているのは比較的珍しい感がします。

■静岡県裾野市

2015.07.04

興国寺城跡

Kokokujijo_1Kokokujijo_2興国寺城跡へ。戦国期には幕府管国と関東との「境目の城」の一つであり、かつ重要な拠点となった城として知られています。

いつから始まったかはわかりませんが、長享元年(1487)頃に今川氏親の擁立に寄与した伊勢新九郎(宗瑞)が富士郡のうちに所領を得たことによって、この興国寺城に入ったとされています。宗瑞が韮山へ移った後はしばらく記録に表れないようですが、天文18年(1549)に今川義元が整備をさせており、この頃は直轄化していたようです。

今川氏の没落後は武田氏と北条氏との間で争奪戦となり、その後は武田氏の支配下に置かれました。武田氏滅亡後は徳川氏の支配下となり、牧野康成が入りました。徳川家康の関東移封後は中村一氏が支配し、関ヶ原合戦後は天野康景が入ります。慶長12年(1607)に天野康景は改易となり、その後は廃城となったとみられます。

Kokokujijo_3Kokokujijo_11この時は二回目の訪問でした。本丸と二の丸の周辺が城跡として整備されているようで、三の丸は宅地化が進んでいるとされています。写真は中心部の本丸に当たる場所で、背後に高い壁がそびえています。(現在はその後ろ側に新幹線の線路が走っています。)

Kokokujijo_6Kokokujijo_9現地には石像物や、一部石垣らしき遺構もあります。

Kokokujijo_12Kokokujijo_15周囲の空堀もかなり深くなっています。この地域はローム層なので、深く掘ることができたようです。
右写真のように、なんらかの遺構の跡?と思しきものもありました。

率直に言って、ほかの城に比べるとかなり変わった遺構になっていて、なかなか当時の状況を想像することは難しいですが、東海道が視界に入る立地になっていて、地理的には要衝であったことは現地に立つことで想像できました。

■静岡県沼津市

2015.04.21

長浜城跡(伊豆)

Izunagahamajo_6Izunagahamajo_29沼津の市街地から南へ海沿いに進むとある長浜城跡。典型的な浦の城です。国史跡。

築城年代ははっきりしませんが、後北条氏勢力下の天正7年(1579)頃に築かれたようで、いわゆる水軍を率いる梶原氏が拠点としたと考えられています。
天正18年(1590)に豊臣方によって山中城が攻め落とされると、この城も自落したようです。

これより約10年ほど前に来た時はまったく整備されていなかったのですが、このように整備されると見違えるようでした。右写真は主郭(第一曲輪)から海を眺めたものです。

Izunagahamajo_16Izunagahamajo_18麓から登ると左写真のような堀切を経て、右写真の第三曲輪へと出ます。

Izunagahamajo_22Izunagahamajo_24そして第二曲輪へ登り、曲輪を隔てる空堀の跡が遺されていました。

Izunagahamajo_30Izunagahamajo_33左写真が主郭周辺。規模はかなり小さいですが、浦を守る見張り台のような機能を有したのでしょう。港の城としてはよくある立地です。右写真のような眺めで、集落(内浦)が見渡せます。

■静岡県沼津市

2015.04.13

国清寺

Kokushoji_1韮山の中心から山裾の方へ向かうとある国清寺(こくしょうじ)。康安2年(1362)に畠山国清が開いたとされ、その名が寺名となっていますが、実際には上杉憲顕が建立しました。憲顕の父である上杉憲房の追善供養のために建てられたともされ、以来上杉氏の庇護を受けて伊豆随一の禅宗寺院として栄えました。関東の十刹にも列しています。享徳の乱の折りには、足利政知が陣を置いたとされています。
しかし15世紀末に伊勢宗瑞が韮山へ進出すると寺勢は衰え、円覚寺の末寺となったそうです。

Kokushoji_2Kokushoji_5こちらは堂舎。

Kokushoji_7Kokushoji_8そしてこちらが境内にある石塔群。実際に銘を確認できなかったのですが、この中には貞和4年(1348)の銘のあるものがあり(中央右側の五輪塔の下にある宝篋院塔の基台のようです)、この頃には寺院が既にあったことがわかります。

ちなみに上杉憲顕は鎌倉府初期の関東執事(管領)で、観応の擾乱では直義方となりその後もしばらく反尊氏方として活動したものの、貞治元年(1362)に足利基氏のもとで関東管領に復帰。その間平一揆に当たるなどの活動があり、応安元年(1368)に死去。この国清寺が菩提寺となりました。

■静岡県伊豆の国市(旧韮山町)

2015.01.07

韮山の中世史跡

Ganjojuin_4Ganjojuin_6韮山は中世史において重要な役割を果たした地域ですが、その痕跡を辿りました。

まずは願成就院。文治5年(1189)に北条時政が建立したとされ、時政の菩提寺となっています。源頼朝による奥州征伐の戦勝祈願のために建てられたと伝わっています。以後は北条氏の氏寺となったようで、『吾妻鏡』によると境内には大御堂が建立されたといい、これは戦国期の小田原北条氏の史料にも見られます。ただ伊勢宗瑞の韮山攻めによって焼失したようなので、その後に再建されたのでしょう。

Ganjojuin_1Ganjojuin_3その大御堂はもうありませんが、その跡地がここのようです。現在は国史跡に指定されています。

Ganjojuin_7Ganjojuin_8右側が、境内にある北条時政の墓です。
左は足利茶々丸の墓。彼は堀越公方として当地に居を構えた足利政知(義政の弟)の子で、延徳3年(1491)、伊勢宗瑞の攻撃を受けてこの願成就院で自刃しました。

Hirugashima_1Hirugashima_2次は韮山城からほど近い蛭ヶ島。蛭ヶ小島とも言いますが、源頼朝配流の地としてよく知られています。平治の乱で父源義朝が討たれた後、永暦元年(1160)に頼朝はこの韮山へ流されました。実際の居住地ははっきりしないようですが、北条時政の館に住んでいたと考えられており、おおよそこの辺りに推定されているようです。

Horigoe_5Horigoe_6そしてこちらが堀越御所跡。永享の乱の後に内乱状態になった関東へ幕府が介入すべく、その橋頭堡として長禄元年(1457)に将軍足利義政が弟の政知を派遣したことに始まります。一旦は鎌倉へ入ったものの、廃墟と化しており拠点とするには適さなかったとされ、この地を拠点としたと言われています。足利持氏の子で下総古河に拠点を構える足利成氏(古河公方)と激しく対立しましたが、政知は大きな功績を挙げることなく、上杉顕定の調停で文明14年(1482)に成氏と一旦和睦。その後膠着したまま延徳3年(1491)に死去しました。跡を継いだ茶々丸については上記の通り。

発掘調査は既にされたと見受けられますが、現在は埋め戻されて原っぱになっています。右写真は、近くにある井戸の跡。確か「北条政子の産湯の井戸」という伝承があるという話だったような。

Horigoe_8Nirayama_2そしてしばらく歩くとあるのが、円成寺(えんじょうじ)跡。ここは執権北条氏の居館跡とされている場所です。
北条氏は桓武平氏流で、伊豆田方郡北条を名字の地とした一族です。
鎌倉幕府滅亡後は、一族がこの地に移って寺院を建て、供養を祈ったとされています。それが円成寺ですが、尼寺として室町期まで続いたようです。発掘調査によって、中世の遺物が出土しているそうです。

Nirayama_4Nirayama_6円成寺跡から山裾を歩いていると、左写真の五輪塔があります(上に違うものが乗っていますが)。正安4年(1302)の銘が確認されており、現地看板によると静岡県内最古の五輪塔だとか。

右写真はこの五輪塔がある真珠院。ここは、源頼朝の子を産んだものの殺された伊東祐親の娘「八重姫」が入水した地という伝承があります。境内には五輪塔のほかに南北朝期の宝篋院塔や磨崖仏もあるそうです。

Shinkoji_1Shinkoji_3そしてさらに歩くとあるのが信光寺。武田信光の廟所とされています。信光は甲斐源氏の信義の子で、源頼朝の挙兵にいち早く従い、元々傍流でしたが嫡流が誅殺されたために家督を相続しました。後には伊豆国守護になったとも言われており、その縁でここに寺院が建立されたのでしょうか。宝治2年(1248)没。右写真がその墓です。

■静岡県伊豆の国市(旧韮山町)

2014.12.02

韮山城跡

Nirayamajo_1Nirayamajo_14もうかなり前ですが、韮山周辺へ行ってきました。そしてそのメインがこの韮山城跡。

ご存じ「北条早雲」こと伊勢宗瑞(盛時)の居城として知られていますね。明応2年(1493)に当地を侵攻して制圧した宗瑞が築いた城とされ、関東へ進出した後も北条氏の重要な拠点として維持されました。北条氏滅亡後は徳川領国となって内藤信成が城主となりましたが、慶長6年(1601)に駿府へ移ったため韮山は廃城となりました。

Nirayamajo_7Nirayamajo_8現在は韮山高校があり、その敷地やテニスコートが城の中にあります。グラウンドは三の丸に当たるような場所で、居館はここにあったような印象でしたが、どうでしょうか。

Nirayamajo_9Nirayamajo_10二の丸の辺りと堀切のような遺構。

Nirayamajo_16Nirayamajo_17本丸周辺(だったと思う)。

Nirayamajo_28Nirayamajo_32本丸の辺り、そして奥の曲輪(出丸?)へと繋がる遺構。

Nirayamajo_24本丸からはこのように富士山と沼津平野が一望できます。この城の防衛拠点としての重要性がよくわかります。宗瑞もここから富士山を眺めたのでしょうね。

■静岡県伊豆の国市(旧韮山町)

2014.08.02

臼井城跡

Usuijo_7Usuijo_10こちらは臼井城跡。印旛沼のほとりに築かれた、千葉氏の支配下にあった城郭です。

千葉氏一族の臼井氏は鎌倉期から御家人として名前が見られるそうで、この地域に居館があったと考えられています。築城は15世紀後半と推定されており、享徳の乱との関係があったとみられていますが、臼井氏との関係ははっきりしないようです。
臼井城の存在が確認されるのは文明10年(1478)で、馬加千葉孝胤が太田道灌との合戦に敗れ、この臼井城に籠城したという記事があります(『鎌倉大草紙』)。馬加千葉氏が本佐倉を本拠とした後には臼井城は臼井氏が拠ったことがわかり、その後原氏が入りました。

16世紀になると安房里見氏との対抗拠点として機能したようですが、永禄4年(1561)には関東へ侵攻した上杉政虎(謙信)に呼応した里見義弘によって攻撃を受けて落城。永禄7年(1564)の第二次国府台合戦で里見氏が敗れて原胤貞が復帰したものの、今度は永禄9年(1566)に上杉謙信の攻撃を受けました。しかしすんでの所で北条氏の支援も受けて守り通しています。その後も里見氏との交戦で何度も戦場となったようですが、天正18年(1590)まで原氏が守り抜きました。同年に原氏が滅亡すると酒井家次が入り、慶長9年(1604)に酒井氏が上野高崎へ移封して廃城となりました(廃城時期は異説あり)。

Usuijo_27Usuijo_26手前の第2郭部分から主郭部分へ繋がる細い土橋。現地看板によると、後に盛り土はしているようですが、わりとよく遺っています。上杉謙信が攻めた時はここで激戦になったという話も?

Usuijo_13Usuijo_14こちらは主郭内部。現在は公園になっていて結構手が入っていると思いますが、それなりに雰囲気があります。

Usuijo_16Usuijo_11左写真は土塁の遺構か。右写真は主郭から眺めた印旛沼。現在は干拓で遠くなっていますが、おそらく当時は城の麓まで沼が来ていたのではないでしょうか。
太田資忠の墓が近くにあったようですが、見逃しました…。

Usuijo_1そしてこちらは主郭の麓にある円応寺。寺伝によると暦応元年(1338)に臼井興胤が創建したとされ、臼井氏の菩提寺だそうです。文禄2年(1593)に焼失し、その後再建されたと伝わっているそうです。

Usuijo_3Usuijo_4境内には臼井氏歴代の墓所があり、わりと古い石造物も。臼井氏忠臣岩戸五郎胤安の墓があるとされていますが、これだったかな? 右写真は臼井氏の碑です。

Usuijo_32なお、京成臼井駅を挟んで反対側の住宅街の中には、上杉謙信が臼井城を攻めた際に陣所としたとされる場所があり、石碑が建っています。「一夜城」とありますが、その辺のことはよくわかりません(笑)。

■千葉県佐倉市

2014.06.01

本佐倉城跡

Motosakurajo_3Motosakurajo_18行ったのは一年以上前なのですが、千葉県内屈指の中世城郭遺跡である本佐倉城跡へ行きました。国史跡。中世を通じて下総国で勢力を張った千葉氏による、戦国時代の城郭です。

ご存じ千葉氏は中世初期からの代表的な下総国の武士であり、室町期は下総国守護でもありました。その本拠は猪鼻(亥鼻とも、現千葉市中央区)にありましたが、15世紀半ばの享徳の乱において内紛が勃発。幕府方(上杉方)に与した惣領の千葉胤直が、古河公方方に付いた一族の馬加(まくわり)康胤らによって滅ぼされました。しかし康胤も幕府方の東常縁の討伐を受けて戦死し、子の馬加輔胤、さらにその子の孝胤が臼井城(現千葉県佐倉市)に拠って幕府方に引き続き抵抗。その後も太田道灌の意を受けた武蔵千葉氏の千葉自胤と臼井城を巡って攻防があり、さらに堅固な城を目指して馬加(千葉)孝胤が文明15年(1483)に築いたのがこの本佐倉城とされています。この後も複雑な状況になりますが、16世紀にかけてこの馬加氏系千葉氏が千葉氏惣領の地位を築き、戦国末期まで続きました。(市村高男『戦争の日本史10 東国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年、などを参照)

Motosakurajo_10Motosakurajo_12関東の戦国史は傍目から見ると複雑怪奇で?なかなか簡単に説明することはできないのですが、発掘調査からもおおよそ15世紀末期の築城と考えて問題ないそうです。現在の遺構は最末期に当たる16世紀末のものだと思いますが、非常に大規模な城郭で、千葉氏の持つ影響力の大きさを窺えます。

Motosakurajo_23Motosakurajo_31いくつかの広大な曲輪によって構成されていますが、右写真は主郭と第二郭(「奥の山」)を隔てる大堀切。左側が主郭に当たります。ざっと見て3mくらいの深さはあったと思います。

Motosakurajo_44Motosakurajo_49そしてこれが主郭。発掘調査が進められており、遺構の確認できたところに印がされているようです。私が行った時には発掘はされていなかったので、状況はよくわかりませんが、現地では調査状況を示す看板が多く設置されていました。いくつかの建物があったことが確認されているようです。

ほかに曲輪が多く、興味深い遺構も多いのですが、量が多くなるので割愛。

Motosakurajo_71Motosakurajo_74こちらは最寄りの京成大佐倉駅から城跡へ向かう途中にある勝胤寺。寺名の由来となった千葉勝胤は孝胤の子で、16世紀前半の当主。この寺は勝胤の菩提寺です。今年500歳だそうです(笑)

境内には右写真の千葉氏供養塔があります。

■千葉県酒々井町・佐倉市

2014.05.18

山口(8) 凌雲寺跡

Ryounjiato_7Ryounjiato_8山口シリーズの最終回。山口の市街地を見下ろす山の中腹辺りにある凌雲寺跡。中世寺院の遺跡で、国史跡に指定されています。

凌雲寺は大内義興を開基とて永正4年(1507)頃に建立された寺院(禅宗か)で、開山は了庵桂悟という僧侶とされています。ただ関連する文献史料はほとんど遺っておらず、詳しいことはよくわかっていません。廃寺になった時期も不明とのことですが、おそらくは大内氏の滅亡によるものと考えられているようです。

Ryounjiato_10このように立派な石垣が遺っています。惣門の遺構と伝えられており、場合によっては城郭としての役割を担う様子を伝えるものとされています。

Ryounjiato_2Ryounjiato_4こちらは遺跡の入口付近に建つ石塔。大内義興の墓と伝わっているそうですが、様式からすればそれよりも古いとされているようです。ただ詳細は不明。

近年発掘調査が進められており、多くの遺物も見つかっているようです。調べてはいないので、所蔵や展示の状況についてはよくわかりません。

■山口県山口市

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