2009.07.08

竹原小早川家墓所・手島屋敷・賀茂神社

Takeharakobayakawa_4Takeharakobayakawa_5木村城の麓にある関連史跡です。
まずは竹原小早川家墓所。中世の宝篋印塔と五輪塔が数多く並んでいます。
ほとんどが中世末期の様式だそうです。さらにここから登ったところに、隆景の養父となった小早川興景のものと推定されている宝篋印塔があったそうですが、見つけられませんでした(残念)。私有地のようだったので、怖じ気づいてあまり奥深く入れませんでした。

Takeharakobayakawa_6Takeharakobayakawa_9こちらは墓所のすぐ近くにある「手島屋敷」。
元は「西殿(にしんどん)屋敷」と呼ばれたそうで、竹原小早川氏の居館跡に推定されています。
小早川氏が竹原を去った後は、その被官だった手島氏がこの屋敷と居館を受け継いだと考えられています。
方形区画のいかにも中世武士の屋敷らしい雰囲気でしたが、今もお住まいの方がおられるようでしたので、中には入りませんでした。

Takeharakobayakawa_10Takeharakobayakawa_13こちらは、すこし離れた所にある賀茂神社。都宇・竹原荘は賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)領の荘園でしたので、鎮守として勧請されたものと思われます。

なお、位置関係についてや歴史的経緯については、こちらが詳しいです(横着してすみません)。

■広島県竹原市

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2009.07.06

木村城跡

Kimurajo_25Kimurajo_17ここからは竹原小早川氏関連の史跡を。

小早川氏の歴史については有名ですので、なるべく手短に…。
鎌倉初期に小早川氏は安芸国沼田(ぬた)荘(現広島県三原市[旧本郷町])の地頭職として西遷・土着し、承久の乱の後に、惣領の小早川茂平は都宇(つう)・竹原荘の地頭職も与えられました。正嘉2年(1258)に、子の政景に都宇・竹原荘が分与され、以後この一流は竹原小早川氏と呼ばれます。
惣領家の沼田小早川氏は北条寄りだったとされる一方、竹原小早川氏は足利方に与するなどて対立。この頃から、竹原小早川氏は惣領家に対抗しうる家として確立していったようです。

こうして両者の関係も悪化し、応仁の乱の頃には、沼田小早川氏は細川方(東軍)、竹原小早川氏は大内方(西軍)に属して対立。その後も和睦しては対立しと紛争は収まらず、しかも戦国期になると当主の早世が相次ぎ弱体化してゆきました。天文10年(1541)に竹原小早川氏当主の小早川興景が死去すると、実子がなかったため、毛利元就の子の隆景が養子に迎えられて当主となりました。後に隆景は沼田小早川氏の家督も相続する形を取っています。隆景は小早川氏の家中に請われて当主となったとはいえ、伸張する毛利氏に抗しきれず事実上乗っ取られたということになるのでしょう。

やっぱり長くなってしまいましたが(笑)、さて本題の木村城跡です。竹原小早川氏が本拠とした城郭とされています。右写真が本丸です。それほど規模は大きくはなく、詰めの城というべき規模なのでしょう。実際に居館は麓にあったようです。

Kimurajo_6Kimurajo_9本丸は下段にあたる曲輪近辺。
遺構はわりとはっきりしていたのですが、いかんせん落ち葉が大量に積もっていて、写真にするとよくわかりませんね(笑)。

Kimurajo_13Kimurajo_18こちらは本丸下を廻る曲輪。
フェンスで囲われている所には井戸跡がありました。石積もちゃんと遺っていました。
右写真は本丸から見た下の段の曲輪。

Kimurajo_21Wagajinja_1左写真のように、一部何か建造物のあった痕跡がありました。現地看板によると「若宮社跡」とのことですが、これが中世にあったものなのか、後世に建てられたものなのかはわかりません。まあでもたぶんここは櫓かなにかがあって、後世に社殿が建てられたのかな、という気がします。

右写真は麓にある和賀神社。別名小早川神社と呼ばれ、小早川隆景を祀る神社だそうです。
戦前は県社にもなっていたそうですが、今は荒れ放題。氏子もいなくなったのでしょうか。現地看板には「昭和20年の豪雨による山津波で損壊」とありましたが、今ある建物はもっと後の時代のもののような気もしたんですけど、どうなんでしょう。

さてこの木村城ですが、天文19年(1550)に小早川隆景が沼田小早川氏の家督も相続すると、沼田の高山城へ移ったため、廃城となりました。

■広島県竹原市

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2009.06.30

尾道(6) 持光寺

Onomichijikoji_2Onomichijikoji_3JR尾道駅からほど近い持光寺です。

寺伝によると、淳和年間(9世紀半ば)に最澄の弟子の持光上人によって建立されたと言われています。はじめは天台宗寺院で、天禅寺という名でした。
仁平3年(1153)の「絹本着色普賢延命菩薩像」(国宝)を所蔵しています。この画像は、近衛院の息災祈願のために作成されたとのことだそうです。

その後は一度衰微したのでしょうか。永徳2年(1382)に善空頓了上人という人によって再興され、この時から浄土宗となり、持光寺の名になりました(ただし両者の寺院にそもそも関係があるかどうかは、見解の分かれる所のようです)。

Onomichijikoji_5お目当てはこの石塔。室町期の「国東(くにさき)塔」と呼ばれる形式のものです。名前の通り、現在の大分県国東半島を中心に分布する石塔で、現存するものは9割以上が国東半島に分布しており、他地域では極めて珍しいです。

国東半島からやってきた人(商人?)が尾道で葬られたのでしょうか。中世の瀬戸内海流通と関わって、いろんな想像を掻き立ててくれます。

■広島県尾道市

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2009.06.26

尾道(5) 天寧寺

Onomichitenneiji_6次は千光寺から降りていったところにある天寧寺。

貞治6年(1367)に、尾道の万代道円居士という人の発願によって、相国寺や天竜寺などの住持で、幕府の僧録になった春屋妙葩(しゅんおくみょうは、普明国師)を開山として建立されました。はじめは臨済宗寺院で、十刹にも数えられた名刹です。現在は曹洞宗になっているそうです。

康応元年(1389)には、足利義満が厳島参詣の途次に天寧寺に立ち寄っています。その時の記録によると、

「いまだ朝のほどに備後国尾道につかせ給ぬ。御座は天寧寺とて天竜寺の末寺なり。海中までうき橋かけて御道とせり。なにとなくめづらしかりき」(『鹿苑院殿厳島詣記』)

とあります。天竜寺の末寺だったようです。

また『老松堂日本行録』には「禅寺の大刹なり。津頭には人居地を撲(つく)し、山上には僧舎羅絡せり。」とあるほか、「傑閣なり天寧寺。江に臨みて塔は幾層なる。門前に喧価(値段の掛け合い)の客。堂上に定禅の僧」云々とあります。門前には賑やかな町場が形成されており、おそらく室町期の尾道の中心地であったと考えられます。

OnomichitenneijiOnomichitenneiji_2こちらは、上記史料にも登場する三重塔(重要文化財)。
嘉慶2年(1388)に、「道慶居士」という人によって建立されました。寺院を開いた「道円居士」同様、商人(有徳人)なのでしょうか。
実は、元は五重塔だったようです。和様を基調に禅宗様を取り入れたもの。元禄5年(1692)に修理した際(落雷によるか)、上の二層が撤去されて三重塔になったそうです。

季節柄、本堂の前にはきれいな花が咲いてました(枝垂れ桜だったっけ? よく覚えてません(笑))。これを目当てに観光客の方がたくさん来ていました。
現在では、かつての境内と思しき場所には家々が立ち並んでいて、一見すると本堂と三重塔は別々の所に建っているようにも感じられます。室町幕府の衰微に殉じたということになるのでしょうか。

■広島県尾道市

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2009.06.25

尾道(4) 千光寺

Onomichisenkoji_7Onomichisenkoji_10たぶん尾道で今は一番有名な寺院である千光寺
寺伝によると、大同元年(806)に空海を開基として創建したとされ、後に源(多田)満仲の中興とされています。本堂は「玉の岩」と呼ばれる巨岩の上に建っているそうです。

左写真の本堂は、貞享3年(1688)築。この地方では珍しい舞台造りで、堂内の須弥壇は応永~永享頃(15世紀前半)のものとされています(写真撮れそうだったんですが、遠慮しておきました)。

尾道の背後にある山(千光寺山)のほぼ頂上部に位置し、眺めは抜群。そのため、多くの観光客が訪れていました。尾道観光では必ず組み込まれるスポットなんでしょうねえ。
中世の来歴はよくわかりませんが、立地からみても、やはり修験の道場だったと考えられています。また、千光寺山には戦国期に杉原氏が拠点を築いたとも言われています。

Onomichisenkoji_13Onomichisenkoji_15観光客のほとんどは見向きもしませんが(笑)、この寺院は石造物がなかなか見物です。本堂下を少し降りた所にある左写真の逆修塔は、天正17年(1589)2月の銘が確認されています。その隣には、右写真の磨崖仏もあります。尾道周辺では最も古い磨崖仏とされ、中世のものと思われます。

Onomichisenkoji_11これは、本堂裏側にある石塔。
積み方がややいい加減な気もしますが…(笑)、下の二つは宝篋印塔の一部で、鎌倉期のものとされているようです。
正しいかどうかはわかりませんが、それぞれ中世のものであることは間違いなさそうです。


Onomichisenkoji_8Onomichisenkoji_9こちらは本堂下にある逆修塔と磨崖仏。左側のものは、はっきりと天正17年2月の銘と、「逆修」の字が読み取れました。上の磨崖仏と同時に造られたものでしょうね。
右写真は、年代はわかりませんが、これも同時期のものなのかもしれません。

いずれも素朴な造りという印象ですが、尾道の中世における仏教信仰の様相を窺える貴重な資料といえそうですね。

■広島県尾道市

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2009.06.22

尾道(3) 西国寺

Onomichisaikokuji_1Onomichisaikokuji_8高台というか、尾道の背後の山の山腹あたりにある西国寺(さいこくじ)。寺伝では、行基の開基と伝わっています。
治暦2年(1066)に火災があって伽藍が焼失した後、住持の慶鑁(けいばん)が白河院を頼って復興が果たされたとされています。西国でも最大規模の伽藍を誇ったとか。

その後衰微した上に14世紀後半にはまた火災に遭ったようですが、備後守護山名氏の保護を受けて再興。再び伽藍を構えています。
左写真の仁王門は安土桃山時代のものとされています。毛利氏あるいは水野氏が再建に関わったのでしょうか。大きな草履が有名です。

Onomichisaikokujiこちらは金堂(重要文化財)。
至徳3年(1386)築。和様を基調にした折衷様式。現地看板によると、「入母屋造の妻飾は二重梁大瓶束で屋根に重量感をもたせ、規模も壮大で手法上も全体より受ける感じは和様の風格が濃厚な堂々とした建物である」そうです。

Onomichisaikokuji_11Onomichisaikokuji_14左写真は、境内の一番高い所にある三重塔(重要文化財)。麓からも見え、このお寺のシンボルのような存在です。
永享元年(1429)築。将軍足利義教によって建立されたそうです。わりとどっしりとした外観でした。

右写真は、三重塔から少し下りたところにあった墓所の片隅に置かれた古い石造物たち。近世のものがほとんどだと思いますが、中世のものもあるかも?

■広島県尾道市

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2009.06.15

尾道(2) 西郷寺

Saigoji_4浄土寺からはほど近い西郷寺(さいごうじ)。元は「西江寺」と呼ばれた時宗寺院です。

尾道には時宗寺院が数多く今に伝わっているそうですが、一遍の熱心な布教や、流通拠点という性格によるのでしょうか。この西郷寺は正慶年間(鎌倉幕府滅亡直前の頃)に遊行六代・一鎮(いっちん)の開山とされています。

写真の山門(重要文化財)は、貞治年間(1360年代)あるいは応永2年(1395)に「大一房住持」の発願によって建立されたものと伝わっています。「大一房」は、備後相方(さがた)城(現広島県福山市[旧新市町])の城主(有地[ありち]氏か)の夫人という説もあるそうです。様式は室町期に特徴的なものなのだとか。

SaigojiSaigoji_2左写真は本堂(重要文化財)。
文和2年(1353)に2代住持の託阿の発願によるものと伝わっています。現地看板によると、「柱上に舟肘木(ふなひじき)を置くだけの簡素な形式であるが、建物内陣を外陣がめぐり時宗最古式の本堂として貴重である」そうです。戦後に解体修理がされていて、かなり補修が入っているようです。「鳴き竜天井」があるそうですが、中には入れず。

山門の片隅に、右写真の石造物がありました。いつの時代のものかはわかりませんが、結構古そう?

■広島県尾道市

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2009.06.11

尾道(1) 浄土寺

Onomichijodoji_1Onomichijodoji_2いきなりメインですが、尾道の市街地の東側に位置する浄土寺。
聖徳太子建立という伝承もありますが、創建の経緯はよくわかっていません。確実に存在が確認できるのは鎌倉後期で、叡尊の弟子である定証が嘉元4年(1306)に再興した真言律宗の寺院です。正中2年(1325)に火災に遭い、その後まもなく復興。その頃の建築物が今に伝わっています。

右写真は山門(重要文化財)。室町初期(南北朝期)以前の築とされています。二つ引両の紋がある通り、足利氏との関係が窺えます。足利尊氏が寄進したものと考えられています。

Onomichijodoji_16Onomichijodoji_6左写真は本堂(国宝)。嘉暦2年(1327)に尾道の人である道蓮・道性夫妻の発願によって建立されたものです。建築手法は和様を基本に、天竺様も取り入れられたものだそうです。同様の他例よりもかなり時期の早い様式で、技術の先進性を窺わせます。本尊は木造十一面観音立像(重要文化財)。中も拝観できますが、今回はパス。

右写真は多宝塔(国宝)。こちらは嘉暦3年(1328)築。鎌倉期のものと明確にわかる多宝塔は全国的にも極めて珍しく、貴重なものです。南北朝期には、足利尊氏がこの多宝塔を備後国の利生塔としたそうです。

Onomichijodoji_5こちらは阿弥陀堂(重要文化財)。康永4年(1345)築。
この建物を見てすぐに思い出したのが、播磨の浄土寺(兵庫県小野市)の浄土堂。播磨の方が古くて国宝になっていますが、建築様式はほとんど同じのように見受けました。同じ「浄土寺」の名ということもあるのでしょうか。播磨の方は中に入ることができたのですが、こちらは中には入れないようでした(多分)。

Onomichijodoji_7Onomichijodoji_11建築物も見事なのですが、忘れてはならないのが石造物。左写真の宝篋印塔(重要文化財)は、伝足利尊氏墓。供養塔というべきでしょうか。南北朝期における中国地方の宝篋印塔の代表作といえるものだそうです。ほぼ完璧に現存していて貴重。
右側にある五輪塔は年代比定が確定していないようですが、やはり同時期のものとされており、足利直義の供養塔と伝わっているそうです。

右写真の宝篋印塔(重要文化財)は、貞和4年(1348)の刻銘があり(肉眼では確認できませんでした)、阿弥陀堂建立に合わせて造られたものなのかもしれません。沙弥行円ら4名の逆修塔であり、光孝の供養のために建立されたものだそうです。
右側のものは納経塔(重要文化財)。弘安元年(1278)の刻銘があるそうです(これも見えず)。現地看板によると、「定証上人による浄土寺再興前に同寺を修造した尾道の長老光阿弥陀仏のために、子息の光阿吉近が建てた供養塔と伝える」そうです。調査によって、「沙弥光阿弥陀」「孝子光阿吉近敬白 大工形部安光」などの銘が確認されているとのこと。

これらの人物の詳細についてはよくわかりませんが、地元の人々の尊崇を受けていたことがよくわかります。なお、この浄土寺は応永27年(1420)に朝鮮通信使の宋希璟も訪れており、「禅の大刹」としています。実は禅寺ではないのですが…。

このほか近世に造られた庭園や庵の「露滴庵」(重要文化財)もあるのですが、現在修理中でした。
訪問時には意外と観光客は少なかったですが、尾道では是非物のスポットですね。

■広島県尾道市

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2009.06.08

中世の港町 尾道

Onomichisenkoji_1Onomichitenneiji_4さて、いよいよ尾道へ入ります。
今は尾道といえば、まずはラーメン、次は映画あたりでしょうか。そして著名な古刹をはじめ、実に寺の多い町です。寺が多いということは檀家がかつてたくさん居たということでもあり、かつての繁栄が偲ばれます。

尾道は、中世では瀬戸内海水運の要衝で、大規模な港湾都市として発展しました。研究的に有名なエピソードとしては、高野山領として知られる備後国大田荘(現広島県世羅町)の年貢積み出し港(「倉敷」)として、12世紀には港湾機能を有していたことで知られています。

いろんな有名人や外交使節もこの尾道に頻繁に滞在しています。南北朝期の武士として有名な今川了俊は、九州への南朝征伐へ向かう際、尾道について次のように書いています。

「ふもとにそひて家々所せくならびつゝ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入、うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひにしたがひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、はるかなるみちのくつくし路のふねもおほくたゆたひゐたるに、一夜のうきねする君どものゆきてはきぬるかこのうかびありくも、げにちいさき鳥にぞまがふめる。」(『道ゆきぶり』、応安4年[1371]ヵ)

「麓に沿って家々が所狭く並び、網を干すほどの庭もない。西より東を眺めると海が遠くまで見えて、朝夕の潮の干満も速い。風の強弱によって行き交う舟の帆影の変化が趣深い。遥か陸奥から筑紫まで行き交う舟も多くたゆたう様子を見ると、一夜の浮き寝をする君たち(遊女か)の行きては来るこの浮き世も、(その儚さは)ほんの小さな鳥と見まがってしまうほどだ。」

遊女は誤訳かもしれませんが(笑)、ともあれ尾道の栄えた様子が窺えます。今も家々がひしめき合って立ち並んでいて、いかにも古い港町という風情。雰囲気そのものは当時とあまり変わっていないのかも。

Onomichisenkoji_12これが、千光寺山から東方向へ見たところです。見えている橋は、尾道大橋。右側は向島(むこうしま)です。橋を越えて右へ向かうと瀬戸内海に出ます(奥に見えているのは本州です)。

中世後期には寺院が建ち並び、さながら「宗教都市」の様相も持っていました。各地を往来する高僧が立ち寄っては、尾道の寺院で交流を深めていたようです。

Onomichisenkoji_2中世後期の支配関係をめぐる様子ははっきりとはわかっていないのですが、戦国末期になるとやはり毛利氏の影響を受けるようになりました。その後も重要な港湾都市としての地位は保ち続けましたが、近世になると御調(みつぎ)代官が配され、権益は東半分が福山藩、西半分が広島藩と分割されたようです。その後は町奉行が設置されて維新に至りました。さらに戦後にかけて港町として発展してゆきます。

というわけで、尾道でまわった寺を個別に紹介してゆきます。

■広島県尾道市

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2009.06.03

阿伏兎観音

AbutoAbuto_5鞆の浦から西へ向かうと、海べりにある磐台寺。臨済宗の寺院で、暦応年間(1340年頃)に覚叟建智が開いたとされています。
その後一度衰退したようですが、元亀年間(1570年代前半)に毛利輝元によって再興され、近世には福山藩主の水野氏、のちに阿部氏から保護を受けたそうです。

右写真は、毛利輝元によって再建されたと伝わっている客殿。

Abuto_3そしてメインは本堂でもあるこの阿伏兎(あぶと)観音堂(重要文化財)。断崖にそびえる庵です。

『老松堂日本行録』によれば、尾道から東へ向かい小島を眺めると「石壁の間に小庵」があり、ある人が「水月観音を安んじ、一僧常住す」と答えたと記されています。その小庵が、この観音堂に比定されています。
海から引き揚げられた十一面観音像を祀ったことから、観音堂と呼ばれています。
おそらく創建時からあったことがわかりますが、現在の建物は、やはり毛利輝元によって再建されたもののようです。

今は安産(あるいは子育ての安全?)祈願の祠となっていました。

■広島県福山市(旧沼隈町)

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2009.05.11

鞆の浦(7) 鞆城跡

TomojoTomojo_6鞆の浦シリーズの最後は鞆城跡。集落のほぼ中央部の高台に築かれた城です。

元々鞆の浦を守る城は大可島城でしたが、戦国期になるとこの地にも城(要害)が築かれたようです。この地域の領主であり、毛利氏麾下となっていた渡辺氏が最初に築いたとされています。
そして元亀4年(天正元年、1573)に京都を追われた足利義昭が鞆の浦へ移ると、ここを御所としたようで(「鞆幕府」と称する人もいます)、この頃から本格的に城郭として整備されていったと考えられています(ただし後に義昭は別の場所へ移ったようですが)。

関ヶ原の合戦後、安芸・備後の領主となった福島正則が本格的な築城に乗り出し、天守も築かれたそうです。今に遺る遺構はおそらくこの時期のものでしょうか。慶長12年(1607)には、この地を訪れた朝鮮通信使が「未完成」と記しており、長期にわたって工事が行われていたようです。
ところが、慶長14年(1609)にこの築城が徳川家康に知れると家康は激怒し、正則は恐れて工事を中止。既に築かれた施設も破却。結局、この時に廃城となりました。

とはいえ一部の行政施設は残されたようで、元和5年(1619)に福島正則の改易によって水野勝成が移ってくると、長男の勝俊を鞆の浦に据え、鞆城の三の丸に居住したそうです。後には奉行所が置かれました。

Tomojo_5Tomojo_10といったところですが、今はあまり目立った遺構はありません。目に留まるのは石垣くらいでしょうか。石垣に使用されている石には、いくつか刻印の施されたもののあることが、現地看板で説明されていました。右写真は、本丸跡に置かれた、石垣に使用されていたと思しき石です。

Tomojo_7本丸からの眺め。天気が良いと四国まで見えるそうですが、どんよりしていて見えず。

なお、本丸跡には鞆の浦歴史民俗資料館があります。来訪時には、運悪く臨時休館でしたが…。

■広島県福山市

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2009.05.10

鞆の浦(6) 備後安国寺

Bingoankokuji_9Bingoankokuji_8鞆の浦の集落の端に近い所にある備後安国寺。
元は文永10年(1273)に建立された金宝寺(きんぽうじ)という禅宗寺院でしたが、暦応2年(1339)に足利尊氏による諸国安国寺設置に伴い、備後国の安国寺となりました。

そういう経緯もあって室町幕府の保護を受けていましたが、戦国期になると幕府の衰えとともに衰微してゆきます。しかし毛利輝元をスポンサー(大檀越)とし、毛利氏の外交僧で知られる恵瓊(えけい)によって復興されました(通常は安国寺恵瓊と呼ばれますが、この「安国寺」は安芸安国寺[現在は不動院、広島市東区]です)。
復興の時期は慶長4年(1599)とされているようですが、天正7年(1579)説もあり、現地看板では後者が採用されていました(どっちが正しいかはよくわかりません)。

写真の釈迦堂(重要文化財)は、元は金宝寺の仏殿として建立されたものです。現在のものは室町中期建立。右写真は裏側から。


Bingoankokuji_3Bingoankokuji_7左写真は本堂跡、右写真は庭園跡。このように、本堂は現在はありません。
維新後は檀那も居なかったために荒廃したそうで、結果、1920年(大正9)に失火で焼失したそうです。かろうじて一部の仏像は災禍を逃れ、文永11年(1274)銘の木造阿弥陀三尊立像(重要文化財)などを所蔵しています。

Bingoankokuji_11こちらは、釈迦堂の前にある石造地蔵菩薩坐像(重要美術品)。元徳2年(1330)のものです。


■広島県福山市

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2009.05.07

鞆の浦(5) 小松寺・小烏神社

TomokomatsujiTomokomatsuji_1沼名前神社の隣にある小松寺(こまつじ)。寺伝によると、安元元年(1175)に、「小松殿」平重盛(清盛の嫡男)が厳島参詣の途次に鞆の浦に立ち寄り、随身の阿弥陀仏像を安置して寺院を建立して松の木の植えたと言われています。その寺が小松寺とされています。

その後寿永2年(1183)には、重盛の二男・資盛の命によって平貞能が重盛の遺髪を持参し、供養の法会を営んだとも伝わっているそうです。

Tomokomatsuji_3_2その際、重盛供養の五輪塔が建立されたともされていますが、それがこの五輪塔です。

建武2年(1335)には足利尊氏が鞆の浦に滞在した折、ここに陣を構え弟の直義と軍議を開いたとか。暦応2年(1339)に南北朝の争乱によって焼亡。大永年間(16世紀前半)に復興し、禅宗寺院となりました。
その後も足利義昭が宿所としたそうで、「足利は小松に興り小松に亡ぶ」と言う人もいるとか。もっとも、この文言、「小松」を「鞆」に置き換えた言葉の方が有名ですが。

Tomokomatsuji_5ともあれ今では小さな寺院ですが、中世においては鞆の浦における主要な寺院だったようで、かつてはかなりの規模を誇ったのではないかと思います。
近世に入ると境内の多くが隣の祇園社に割かれてしまったそうで。18世紀後半には、鞆の浦で死去した琉球使節がここに葬られ、慰霊碑もあります(…というか、見落としました(笑))。

写真は本堂前にある、有髪の石仏。有髪なのは結構珍しいようです。


Tomokogarasu_1こちらはほど近くにある小烏(こがらす)神社。鍛冶の氏神ということで、鞆の浦に居住する刀鍛冶の信仰を集めたそうです。

この境内は貞和5年(1349)の足利直冬と幕府軍との戦闘の場になったとされており、「小烏の森古戦場」の名もあります。ただ、今は「森」は見られず、わりと一般的な街中のお社といった風情でした。

■広島県福山市

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2009.05.06

鞆の浦(4) 沼名前神社

Tomonunakuma_1鞆の浦では一番大きい神社の沼名前(ぬなくま)神社
元は祇園宮とか祇園社と呼ばれていた神社で、中世までは鞆の別の所にありましたが、火災などによって慶長期に現在地に移転したと言われています。

沼名前神社という名は式内社として確認されていますが、中世段階では所在が不明となり、近世の考証によって祇園社境内の「渡守(わたす)社」に比定されました。維新後、祇園社と渡守社が合祀され、改めて沼名前神社となって現在に至っています。

Tomonunakuma_10Tomonunakuma_11境内の風景。左写真のうち、奥に見える大きめの社が渡守社です。
右写真の奥が本殿。
この祇園社は、京都の祇園社(現八坂神社)よりも先んじており、ここから京都へ遷宮したと言われているようです。確かに京都の祇園社は『延喜式』にも名が見られず、創建年代は驚くほど古いわけではないようですが、果たして実際のところはどうなのでしょう?

Tomonunakuma_2Tomonunakuma_5左写真の石鳥居は寛永2年(1625)築。福山藩主の水野勝重(勝俊)の寄進によると言われています。
右写真の随神門は享保20年(1735)築だそうです。

Tomonunakuma_12メインはこれ。境内にある能舞台(重要文化財)です。
この能舞台はかつて伏見城にあったもので、水野勝成が徳川秀忠から譲り受けたと伝わっています。後に水野勝貞が祇園社へ寄進し、元文3年(1738)に現在の場所へ移築されました。
現地看板によると、「この能舞台は、それぞれの材料に番号や符号をつけた組立式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代の能舞台の特徴を持つ貴重なもの」だそうです。

しかし、残念ながらご覧のように閉まっていて舞台は見られませんでした。
今でも使用されているのでしょうか。

■広島県福山市

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2009.05.04

鞆の浦(3) 医王寺

Tomoioji_1Tomoioji_2港の背後の山腹にある医王寺。ややきつい坂を5分ほど登るとあります。
空海の開基とされる真言宗の寺院。本尊は室町期のものとされる木造薬師如来像です。
慶長期に福島正則の意向によって、鞆城代の大崎玄蕃が再興したそうです。

Tomoioji_5Tomoioji_9左写真が本堂。貞享2年(1685)に、福山藩主の水野勝種によって再建されたものと伝わっているそうです。
右写真に見える鐘楼は、これより遡って寛永20年(1642)に、水野勝成が建立したものです。
宝篋印塔は、享保7年(1722)の銘がありました。

19世紀には、シーボルトが植物観察のために訪れたことがあるそうです。また、医王寺のすぐ下には、平賀源内生祠と呼ばれる石塔があります(写真は撮らず)。彼も、鞆の浦に滞在したことがあったそうです。ただ、石塔自体は幕末の建立のようで。

Tomoioji_4ここのお寺は、歴史的なものよりも、眺望の良い所として知られています。本堂のある所からさらに登るともっと良い景色が望めるようでしたが、疲れていたのと(笑)、日が暮れそうだったので、断念。
本堂の辺りからは、写真のような景色が見られます。右の湾が鞆の港。右端に見える高台が大可島城跡。左側に見える、木が目立つ高台が鞆城跡。正面奥の大きな島は仙酔島です。

■広島県福山市

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2009.05.02

鞆の浦(2) 大可島城跡

Taigashimajo_1Taigashimajo_7対潮楼から道路を隔てて反対側の、海に突き出た高台にある円福寺。現在は陸続きですが、ここはかつて大可島(たいがしま)と呼ばれた島で、城が築かれていました。
鞆の浦の湾口に当たり、見張り台のような役目を持っていたのでしょうか。

築城時期は定かではありませんが、南北朝期にはすでにあり、合戦の舞台ともなっています。
室町幕府成立後は南朝方の海賊衆(「水軍」)の拠点となり、伊予や周防大島(屋代島)を本拠としていた桑原氏が拠っていました。

Taigashimajo_4康永元年(1342)に北朝方の幕府軍が攻め寄せ、桑原氏らの勢力は全滅したとされています。写真は、その桑原氏の墓とされる五輪塔です。
南朝方に翳りが見え始めた頃、貞和5年(正平4年、1349)に長門探題として下ってきた足利直冬がここに拠点を据えたものの、幕府と対立したため高師直の攻撃を受けました。(直冬はその後九州へ逃れます。)

その後は備後の海賊衆である因島村上氏が支配し、同時に周辺海域の制海権を握っていたようです。
足利義昭が鞆の浦へ逃れた際には、城主は「毛利水軍」の一角を担っていた村上亮康(すけやす)だったと言われています。

Taigashimajo_6Tomo_7左写真は城跡からの眺め。
右写真は、遠景です。

後に福島正則が鞆城の築城に乗り出した際に陸続きになったそうで、この時廃城となりました。

■広島県福山市

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2009.04.27

鞆の浦(1) 福禅寺対潮楼

Tomotaichoro_3Tomotaichoro_7鞆の浦といえばまずはここ。福禅寺の対潮楼です。

福禅寺は10世紀半ば創建と伝えられる真言宗寺院。左写真は本堂ですが、隣接する対潮楼は元禄期に創建された客殿で、朝鮮通信使が滞在したことで知られています。国史跡。

有名なエピソードとしては、正徳元年(1711)に徳川家宣の将軍就任を祝うために通信使として訪れた李邦彦(り・ほうげん、イ・パンオン)が、座敷からの眺めに感動して「日東第一形勝」(朝鮮の東では最も美しい景色)の書を残したという話があります。後に作られたものだとは思いますが、額が掛かってました。

Tomotaichoro_5Tomotaichoro_6これがその対潮楼からの眺め。枠が額のように見え、一幅の絵のようです。
正面に見えるお堂のあるのは弁天島。その奥は仙酔島です。仙酔島には船で行けますが(宿泊施設もあり)、弁天島には行けないようです。

ちなみに「対潮楼」の名はもう少し下ってからで、延享5年(1748)に、徳川家重の将軍就任を祝う通信使の洪啓禧(こう・けいき、ホン・ゲヒ)が名付けたことにより、同行していた息子の洪景海(こう・けいかい、ホン・キョンヘ)がその名の書を残しています(見たかどうか記憶曖昧…)。
今は対潮楼の下に道路が走っていますが、これは戦後に埋め立てられたもので、かつては海に張り出して建っていたことがわかります。当初であれば、波音もBGMになっていたのかもしれません。

こちらの住職は名調子で解説されることで有名でしたが、今は体調も優れないとのことであまりお見えにならないそうです。前回来た時にはお会いできたのですが。

■広島県福山市

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2009.04.25

鞆の浦

TomoTomo_2今回の旅のメインの一つ、鞆の浦です。

瀬戸内海のほぼ中央部に位置し、海流の境目にもあたる地域であったことから、古くから潮待ちの港として栄えました。特に中世以降は対外関係とも深く関わっており、外交使節がしばしば宿泊したことでも知られています。
写真の雁木や常夜灯は近世のもので、これらがまとまって現存しているのはここだけと言われています。

Tomo2Tomo_13交通の要衝であるため、政治的にも重要な役割を果たしてきました。南北朝期の建武3年(1336)には、九州から京都へ上る足利尊氏がここに滞在し、光厳院から新田義貞追討の院宣を受けたとされています。この頃、鞆の浦においては激しい戦闘が繰り返され、後には足利直冬も拠点を構えて尊氏方と争いました。

時には戦乱に巻き込まれましたが、中世において既に風光明媚の地として名高い場所でした。
例えば南北朝期の禅僧である中巌円月は元弘3年(1333)に鞆の浦に立ち寄って歌を残しており、また朝鮮からの使者であった宋希璟(そう・きけい、ソン・ヒギョン)は、1420年(応永27年)にこの鞆の浦を訪れ、一泊したことが記録に残されています(『老松堂日本行録』)。近世の朝鮮通信使もここに滞在し、その景色を賞賛したことでも知られています(詳しくは別途)。

そして戦国期には、京都を追われた足利義昭が毛利輝元の保護下で鞆の浦に拠点を据えたことも有名です。その後、備後を領した福島正則が築城を試みるも徳川家康の逆鱗に触れて断念。そして家康の従兄弟に当たる水野勝成(かつなり)が福山藩主となり、鞆の浦は同藩領となりました。


Tomo_5Tomojo_2これらは現存する近世の商家。左写真は太田家住宅(重要文化財)。元は名物の「保命酒」の蔵元で、常夜灯のそばにあります。文久3年(1863)の三条実美らによる長州への「七卿落ち」の際、彼らが滞在した所とされています。
右写真は鞆城跡前にある近世の商家屋敷。

Tomo3_2そして幕末の有名なエピソードとしては、坂本龍馬にまつわるものがあります。慶応3年(1867)に彼が乗った海援隊の「いろは丸」が、鞆の浦沖で紀州藩の船舶と衝突して沈没しました。
龍馬は鞆の浦に上陸して数日身を隠したとされていますが、その場所がこの建物とされています。廻船問屋を営んでいた屋敷だったようです。

いろは丸からの引き揚げ物や模型が、常夜灯の脇にある「いろは丸展示館」で展示されています。

Tomo3これは、山中鹿之助首塚。鹿之助こと山中幸盛(ゆきもり)は尼子氏の被官で、毛利氏と激しく争った「武将」として有名ですね。尼子氏が没落した後も、尼子勝久を盛り立てて再興に奔走した忠義の人としても知られています。織田氏に従って毛利氏と争い続けましたが、天正6年(1578)に拠っていた播磨の上月(こうづき)城(現兵庫県佐用町[旧上月町])を落とされ降伏。備中の高梁川「阿井(あい)の渡」(現岡山県高梁市)で殺害されました。
その後、鞆の浦にて足利義昭や毛利輝元によって首実検が行われたとされており、そのためこの首塚が築かれたようです。実際にここに埋葬されたかどうかは定かではありませんが、悲劇の人を偲んで合掌。

さて、これからしばらくは鞆の浦の史跡を順次紹介して行きます。

■広島県福山市

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2009.04.20

明王院と草戸千軒

KusadomyooinKusadomyooin_7これからは、先月に行った広島シリーズです。たくさんあるので、長丁場になると思います。

まずはじめは、草戸千軒遺跡の脇にある明王院。大同2年(807)に空海の開基と伝わっており、もとは常福寺と呼ばれていました。備後国を貫く芦田川の河口付近右岸に広がっていた「草戸千軒」は、この常福寺の門前町として発展したと考えられています。
17世紀半ばに、福山藩主水野勝貞が城下にあった明王院をここに移して今の寺名となり、現在に至っています。


Kusadomyooin_2Kusadomyooin_5左写真は本堂(国宝)。戦後の解体修理によって墨書銘が発見され、それによると元応3年(1321)築であることがわかっています。様式は、和様・大仏様・禅宗様が合わさった折衷様で、本尊は10世紀前半のものとされる木造十一面観音立像(重要文化財)です。
右写真は、近世に建てられた書院。

Kusadomyooin_6そしてもう一つのメインは、この五重塔(国宝)。堂々たる佇まい。貞和4年(1348)築です。南北朝期の様式をよく表したものとされ、解体修理がされたことはありますが、現在もほぼ創建時のままだそうです。
内部には壁画が描かれていましたが、17世紀初頭には劣化が心配されており、福山藩主の水野勝俊によって取り外されて保存されて後、今は東京国立博物館で保管されているそうです。今の壁画は、近世に描かれたものと考えられています。


Kusadomyooin_11Kusadomyooin_13境内には、中世の石造物が並べられています。
これは、芦田川の河川改修工事や草戸千軒遺跡の発掘によって発見されたものです。なので積み方は結構いい加減ですが(笑)、これだけたくさん並んでいると壮観。
Kusadomyooin_14一つだけ、ほぼ完全な形の一石五輪塔がありました。
この地域では結構珍しいような。年号と思しき字があって読んでみたのですが、残念ながら読めませんでした。南北朝期頃かなあと勝手に想像していますが。

Kusadomyooin_16そしてこれが、明王院の門前を流れる芦田川。中州が草戸千軒遺跡です。発掘成果によれば、13世紀半ば頃に町が成立したものと考えられ(それゆえ、実際には常福寺もこの頃の成立と考えるべきか)、14世紀にかけて急速に発展していきました。14世紀後半に一度衰退したようで(南北朝内乱によるのでしょうか)、15世紀に復興してゆきます。
ただ応仁の乱を境にまた衰退に向かい、16世紀初頭に廃絶したと考えられています。この地域の領主であった渡辺氏が本拠を移したことが影響したためではないかとされているようです。

遺跡からは中世の流通や生活を物語る多くの遺物が出土しており、いずれも広島県立歴史博物館に所蔵・展示されています(一部は重要文化財)。残念ながら遺構の現物はもう見られませんが、博物館で忠実に復元されています。

参考文献:
鈴木康之『中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡』(シリーズ「遺跡を学ぶ」40、新泉社、2007年)
著者のページへ

■広島県福山市

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2009.04.19

芦野城跡

Ashino_17さらに奥へ。シリーズ最後は陸奥国境も近い所にある芦野城跡です。
芦野は近世では奥州街道の宿場町で、旗本の芦野氏の本拠地でもありました。

さてその芦野氏は那須一族。南北朝期頃に、那須資忠の子である資方が芦野氏を名乗ったのが始まりとされています。戦国期は、大田原氏や伊王野氏らとともに「上那須衆」に数えられています。城は、この頃の当主である芦野資興が築いたとも言われています。

天正18年(1590)には、芦野資泰が小田原へ首尾良く馳せ参じ、その後の「奥羽仕置」への寄与も賞されて所領は安堵。関ヶ原後には旗本となり幕末まで生き残りました。旗本でも参勤のある交代寄合だったため、地元芦野のこの城が陣屋となりました。江戸の邸宅は、神田明神下にあったそうです。


AshinoAshino_3というわけで近世に改変が加えられている可能性が高いのですが、山城の雰囲気は残っていて、左写真の登山口からかなり登っていきます。
右写真は登ったらまず見える二の丸。結構広くなっていて、桜の名所なんだそうです。私が行った頃はまだ当然蕾でした(笑)。

Ashino_5Ashino_7そしてさらに登っていくと(左写真が登山道。空堀にもなっています)、右写真の本丸へ。二の丸に比べるとかなり狭く、見張り台のような機能を持っていたのでしょう。周囲の木が払われていて、遺構がよく見えます。

Ashino_11Ashinosaishoin左写真は本丸からの眺め。真ん中に見える畑の区画は周りより一段高くなっており、「芦野氏居館跡」とされています。
現地看板によると、「居館跡は、東西約100メートル、南北約120メートルあり、周囲には短冊形に堀と土塁がめぐっていたと思われるが、長い年月の間に削平され、北側にわずかにその痕跡が認められる。形式は南北筋の長い典型的な回字型の居館である。」

『吾妻鏡』の建長期の記事に、「葦野地頭」に対して奥の大道の警備を命じたとあることから、この居館成立は鎌倉初期まで遡るとしています。となると、鎌倉期には既に芦野氏は那須氏から分家していたのでしょうね。系図との齟齬をどう考えるかが課題です。

ちなみに右写真は城下にある菩提寺の最勝院。

Ashinofunbo_4Ashinoyuzenjinja_1左写真は、これも城下にある芦野氏旧墳墓。確認できる最も古いものは寛永19年(1642)のもののようで、形式からみてもいずれも近世のもののようでした。

右写真は近くにある湯前(ゆぜん)神社。『平家物語』によると、屋島の戦いで那須与一が扇に向けて弓を射る際、いくつかの神の名を挙げてその加護を願ったことになっていますが、その一つに「那須の湯前大明神」という神名があります。その「湯前大明神」がこの神社ではないかとも言われているようです。

ちなみに城の麓には、町立の那須歴史探訪館があります。近世の制札の展示が印象に残りました。

■栃木県那須町

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2009.04.17

伊王野城跡

Ionojo_1Ionojo_13さらに奥へ。伊王野(いおうの)城跡です。

この地域の領主である伊王野氏は、那須氏の一族。鎌倉初期に、那須頼資の次男・資長が移り住み、伊王野氏を名乗ったのが始まりとされています。
右写真の伊王野小学校は、その伊王野氏の居館跡。背後の山が城跡です。今では山里の風情ですが、かつては東山道沿いにあり、主要な街道筋に当たります。
伊王野城は、長享元年(1487)頃の築とされています。

伊王野氏は那須氏の被官となり、天正18年(1590)に一度没落したものの、関ヶ原合戦の功によって旗本となりました。しかしまもなく嫡流は断絶。分家(読みは「いおの」)がいくつかの藩で家臣として仕え、家名は保ったようです。


Ionojo_12Ionojo_7左写真は一番低い段にある曲輪。面積からしてもここが一番広い曲輪だったようです。居住空間としてはここが一番ふさわしそうです。
公園として整備されており、より広さを感じました。

右写真はこれより登った所にある堀切と思しき遺構。上段の曲輪は狭く、詰めや見張りの機能を持っていたのでしょうか。
縄張りはこちらが詳しいです。

Ionosenshoji_2Ionochogenji_2そして城下の石造物。
左写真は、小学校の近くにある専称寺の伊王野氏の墓。こちらは中世のもののようです。
右写真は、城の東側にある長源寺にある伊王野氏の墓。こちらは「新墳墓」と呼ばれる通り、時代としては降るようです。長源寺は伊王野資直が弘治元年(1555)に中興の祖として開いたとされ、その後伊王野氏が断絶する寛永10年(1633)までの当主および家族の墓と考えられています。

■栃木県那須町

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2009.04.13

那須神社

Nasujinja_1Nasujinja_5続いて那須神社。かつては金丸八幡宮と呼ばれた神社で、坂上田村麻呂創建という伝承があります。国道461号線沿いにある道の駅「那須与一の郷」のすぐ横にあります。ちなみにこの道の駅には、「那須与一伝承館」があり、那須氏の史料が展示されています。

この神社の歴史についてははっきりとはわかっていないようですが、那須与一の供養のために地元の人々が建てた社だったとする説もあるようです。那須与一宗高(宗隆とも、ただし実際は「資隆」らしい)といえば『平家物語』での屋島の戦いでのエピソードが有名ですが、実際のところ、それ以外のことはよくわからないというか…(笑)。

那須氏の出自はよくわかっていません。藤原道長の子孫とか、山内首藤(やまのうちすどう)氏の一族とか、国造の末裔とする説があるそうです。那須与一の伝承はともかく、鎌倉初期に御家人になったようで、芦野・伊王野・福原などの分家とともに下野国那須郡を支配する武士団として成長していきました。

室町期には鎌倉方としてこの地域で絶大な権力を築きますが、15世紀前半の上杉禅秀の乱を契機として、幕府方に転じた一族(上那須氏)と鎌倉方を維持した一族(下那須氏)との間で内紛が起こり、幕府方だった篠川(ささがわ)公方の足利満直と鎌倉公方の足利持氏との対立に巻き込まれて混乱してゆきます。

永正11年(1514)に一族の大田原氏によって上那須氏は滅ぼされ、その後は下那須氏が主導権を握ることになりました。しかし大田原氏や大関氏の擡頭があり、天文20年(1551)には那須高資が暗殺されて翳りが出てきます。那須資晴が当主となると一時盛り返しましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参して万事休す。天正18年(1590)に改易されました。
子の資景が関ヶ原で東軍に味方したこともあり、わずかに旧領の福原(現栃木県大田原市)で1万石余の小大名とされたものの(のち旗本に格下げ)、これも貞享4年(1687)に嗣子問題で改易。滅亡しました(一族の大田原氏は大名として生き残りました)。

Nasujinja_6Nasujinja_7というのが非常に大雑把な(笑)那須氏の歴史ですが、この神社と那須氏との関係は実のところよくわかりません。
むしろやはりここでも大関高増の存在が際立っています。現在の社殿は天正5年(1577)に築かれたものとされており、これも黒羽城を築いた高増が造営したものと考えられます。ちなみに寛永18年(1641)に大規模な修繕が行われたそうなので、戦国期の面影は乏しいかもしれません。

Nasujinja_10Nasujinja_11本殿の裏には左写真のような塚が。「金丸塚」と言うそうですが、神社自体とはあまり関係なさそうでした。
右写真の「手水舟」は、寛永19年(1642)に黒羽藩主の大関土佐守高増(戦国期の美作守高増とは別人)が寄進したものだそうです。

■栃木県大田原市

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2009.04.12

黒羽山大雄寺

Daiouji黒羽城跡のすぐ脇にある大雄寺(だいおうじ)。大関氏の菩提寺です。

応永11年(1404)創建の曹洞宗の寺院で、もとは別の場所に建てられましたが、応永33年(1426)に戦乱によって焼失。文安5年(1448)に大関忠増によって再建されましたが、天正4年(1576)に大関高増が黒羽城を築いた際に現在地に移転しました。

Daiouji_1Daiouji_2本堂と山門。立派な茅葺き屋根です。天正4年の築と伝わっています。
大雄寺の中興開基は、大関高増の先代の大関増次となっています。増次は、天文11年(1543)に大田原資清によって暗殺されました。高増はこの大田原資清の子で、大関氏の養子となって家督を継承したわけですが、実質的には乗っ取り。増次を供養するというこの寺院の性格は、この辺への後ろめたい思いもあったのでしょうか。

Daiouji_3Daiouji_4境内には、大関氏墓所があります。いずれも立派な墓石ですが、多くは近世の歴代藩主のものです。右写真の墓石群は比較的古いかな、と。

Daiouji_5そしてひときわ目立つのが、大関高増の墓。先に触れた通り、大関氏を継承してからは主筋の那須氏とは時折対立しつつ盛り立てた一方、佐竹氏との関係を深めて自立的な権力も形成。近世大名の基礎を築きました。慶長3年(1598)没。

■栃木県大田原市(旧黒羽町)

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2009.04.07

黒羽城跡

Kurobane_18Kurobane_17続いては那須のシリーズです。
最初は黒羽城跡。天正4年(1576)に、大関高増が築いた城です。
大関氏の出自は武蔵七党の丹党という説もありますが、実際は常陸平氏の小栗氏の一族だったと考えられています。常陸国小栗荘に大関という地名があるそうで(現茨城県筑西市[旧協和町])、ここが出身地と思われます。南北朝期に幕府方として活躍し、下野国那須郡に所領を得て土着しました。

その後は那須氏(上那須氏)の被官となったようで、15世紀頃に大関増清が白旗城(旧黒羽町)を築いて本拠としていたようです。16世紀前半に上那須氏が断絶すると、ゴタゴタを経て(笑)、大関高増が下那須氏や大田原氏と連携しつつ勢力を伸ばしていきました。天文20年(1551)に下那須氏の那須高資が暗殺されると白河結城・葦名・佐竹も入り乱れて乱戦状態になり、大関高増は佐竹氏と関係を深めつつ、堅固な山城を求めて黒羽城を築いたと考えられています。

Kurobanepanoこちらが本丸の風景。
豊臣秀吉の関東侵攻に下那須氏は遅参して改易されてしまいますが、大関高増は首尾良く馳せ参じ、安堵されます。慶長5年(1600)の徳川家康の上杉攻め(小山で転進)の際にも徳川方として守りを固め、その功によって2万石の大名となり、以後明治維新まで一貫して黒羽藩主となりました。

Kurobane_12Kurobane_13本丸を囲う堀はこんな感じ。実際に立ってみると、結構深いように感じます。
小規模な藩ながら、城郭は立派です。敷地もかなり広く、本丸だけでもかなりの広さがありました。二の丸は公共施設があり、三の丸は資料館が建っています。

Kurobane_3Kurobane_20左写真は、本丸から三の丸方面へ通じる側の堀。ここが一番深そうでした。
右写真は本丸北側からの眺め。城の麓には那珂川が流れています。
絵図などによると、どうやら城下町は川の対岸にあったようです。今の市街地もそれに当たるのでしょうか、城の周りはあまり賑わいがなく静かな雰囲気でした。
縄張りなどは、こちらが詳しいです。

■栃木県大田原市(旧黒羽町)

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2009.04.05

武蔵国分寺跡

Musashikokubunji_9Musashikokubunji_10先日行った武蔵国分寺跡です。
武蔵国分寺は、都と国府(現東京都府中市)を結ぶ官道である「東山道武蔵路」(今の府中街道、中世は鎌倉街道上道)沿いに、東側に僧寺、西側に尼寺が築かれました。ほかの国分寺に比べても規模は大きかったそうです。

Musashikokubunji_23こちらは七重塔跡の礎石。
いつまで寺院の機能があったかは不明のようですが、一説では元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したとも言われています。
現在は国史跡。今も発掘作業が続けられていて、将来的には史跡公園として整備することになっているそうです。

Musashikokubunji_18Musashikokubunji_22こちらは国分尼寺跡。国分寺跡からは西へ行き、府中街道を越えてJR武蔵野線のガードをくぐってすぐの所にあります。遺構の一部が整備されていました。

Musashikokubunji_7Musashikokubunji_5そしてこちらは現在の国分寺。「国分寺崖線」の麓にあります。
左写真の楼門は、大名格で大坂定番だった米津田盛(よねきつ・ただもり)の菩提寺として築かれた米津寺(東京都東久留米市)にあったもので、明治28年(1895)に移築されました。なんでも火災に遭った米津寺が、資金獲得のために売却したんだそうで…。

Musashikokubunji_3Musashikokubunji左写真の仁王門は宝暦年間(1750年代頃)の建立。建武2年(1335)に新田義貞の寄進によって建立された旧薬師堂を再利用して造られたものとされています。安置されている仁王像は、享保3年(1718)の造立。

右写真は現在の薬師堂。これも宝暦年間築。現地看板によると、堂内正面の長押に、明和元年(1764)に奉納された「金光明四天王護国之寺」の寺額が掲げられているそうです。また、安置されている木造薬師如来坐像(重要文化財)は鎌倉期のものとされています。

■東京都国分寺市

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2009.04.03

波上宮

Naminouegu_1最後は那覇市の中心部にある波上宮(なみのうえぐう)。
日暮れに行ったので周辺の景色は撮れなかったのですが、海に切り立った崖の上にあります。

Naminouegu_2Naminouegu_4今はかつてとは地形がかなり変わっていますが、那覇港を見下ろす場にあり、港の総鎮守のような役割を担っていました。
こちらで掲載されている「琉球貿易図屏風」には近世の那覇が描かれています。手前側の陸地の先端にある崖が、波上宮のあった所です(たぶん)。

創建の経緯は不明ですが、14世紀後半には既にあったようです。「海神の国(ニライカナイ)」伝説に関係する逸話も伝わっており、やはり海との関わりの深い施設だったようです。熊野権現との関わりも伝わっています。
社殿は沖縄戦で焼失し、戦後に再建。

波上宮の近くの久米地区(かつての久米村)は、琉球王国時代、対外交易に深く関わった貿易商や外交官などが居住していた場所として知られています。ただ、今はあまりその名残はなさそうでしたが…。


元々観光目的ではなかったので贅沢は言えませんが、行きたいけど行けなかった所がたくさん残りました。
また機会を見つけて沖縄へ行きたいと思います。いつになるかわからんけど…。

■沖縄県那覇市

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2009.04.01

首里城跡

ShuriShuri_34さて、沖縄観光のメインとも言える首里城跡
言わずと知れた、琉球王国の首府です。創建年代は不明ですが、尚巴志が「王城」を築いていたことは確かであることから、第一尚氏初期の15世紀前半には王城として確立していたとされています。その後第二尚氏の時代に拡張されていったと考えられています。

左写真は有名な守礼門。右写真が正殿。いずれも最近復元されたものです。首里城は沖縄戦で被災した後も、戦後に琉球大学が構えたこともあって遺構の破壊が進みましたが、大学の移転後に復元作業が行われました。

Shuri_3こちらは歓会門。第一の正門で、中国の使者(冊封使)を歓迎するという意味で門の名前が付いています。地元の言葉では、「あまへ御門」(「あまへ」は歓迎という意味)と言うそうです。1974年復元。

Shuri_10Shuri_11外壁の様子。見えている門は久慶門。「ほこり御門」と呼ばれていたそうです。通用門で、主に女性が使用したとか。国王の寺院参詣などもここを通ったそうです。1983年復元。

Shuri_19こちらは歓会門の次にある瑞泉門。泡盛を思い出しますね(笑)。別名「ひかわ御門」。瑞泉は「立派な泉」という意味で、横にある「龍樋(りゅうひ)」から湧水が出るために付いたと言われています。

Shuri_31Shuri_27左写真は正殿の入口に当たる奉神門。この門をくぐることが出来るのは冊封使など限られた人々だけで、一般の役人は横から入ったと言われています。この門を入ると、正殿をはじめとした王の空間である「御庭(うなー)」に辿り着きます。

ほかにも多くの建物などが復元されたり、数々の遺構がありますが、長くなるのでこのへんで。
ま、観光客が多くて、あまりいい写真がないというのもありますが…。休日は混んでいるので要注意。

周辺には琉球国王の墓所である「玉陵(たまうどぅん)」や庭園の「識名園」もありますが、今回は行けず。再訪を期す。

■沖縄県那覇市

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2009.03.30

首里 円覚寺跡

Shuri_7Shuri_12さて、いよいよ首里城…の横にある(笑)、円覚寺跡。
琉球の仏教は中世の対外関係との関わりが深く、特に琉球王朝時代に中国や日本との交流の活発化によって普及していきました。この円覚寺は琉球における臨済宗総本山であり、山号は天徳山。寺名でお察しの通り、鎌倉の円覚寺にあやかって名付けられたと言われています。伽藍も鎌倉に倣ったものだったそうです。

琉球の円覚寺は第二尚氏の尚真が父の尚円の菩提のため、1492年から3年かけて建立したとされています。開山は、京都の南禅寺出身の芥隠承琥(かいいんじょうこ)。彼は琉球の外交僧として、足利義政への使者になった人物でもあります。

戦前まで伽藍は現存しており、国宝に指定されていましたが、沖縄戦で壊滅。左写真の総門は1968年に復元されたものです。わずかに右写真の放生橋(ほうじょうばし、重要文化財)は当時のまま遺されています(修復はされていますが)。また、三つの梵鐘(いずれも重要文化財)は、現在沖縄県立博物館に所蔵されています(展示されていましたが、本物だったかレプリカだったかは記憶曖昧)。

Shuri_13Shuri_14というわけで首里城ともども被災が惜しまれるわけですが、現在は一部で発掘調査が行われているようでした。なお、現在遺されている敷地は一部なんだそうです。
首里城には観光客がたくさん来ていましたが、こちらに来る人はおらず、寂しげでした。首里へ行かれる際には、こちらの見学もお忘れなく。

■沖縄県那覇市

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2009.03.29

中城城跡

Nakagusuku_1Nakagusuku_22沖縄シリーズ二つ目は中城(なかぐすく)城跡。あいにくの土砂降りで、写真を撮るのもままならないなか、なんとか写してきました。

15世紀半ばに、尚巴志の臣である読谷(よみたん)山按司の護佐丸(ごさまる)という人物が築城したといわれています。しかし1458年に勝連(かつれん、現沖縄県うるま市[旧勝連町])の阿麻和利(あまわり)が護佐丸を滅ぼした後は、城ではなく番所としての機能を担ったそうです。

いくつかの曲輪から構成されていて、外から見える城壁は五角形の石を組み合わせたり、石塁の角が丸みを帯びているのを特徴としているそうです。形式としては、日本の中世城郭に似ているということです。
一部修理は施されているものの、沖縄戦の被害が小さく、当時の姿を最も良い形で遺しているグスクです。

Nakagusuku_5Nakagusuku_11右写真のアーチ門の周辺には特に大きな切石が用いられています。

Nakagusuku_13Nakagusuku_20左写真は城内にある祭祀遺構。
今帰仁城などもそうですが、これらの宗教施設が城内に見られる点を特徴としています。世界遺産に登録されたのも、これが効いたんでしょうね。
余談ながら、幕末に訪れたペリーがこの城を見て感嘆したことを日記に記しているそうです。
この城については、わりと有名なエピソードなんだそうで。

Nakagusuku_19城の東側の風景。こちらは断崖になっていて、天然の城壁を形成しています。
もっと天気が良ければ絶景だったんでしょうけど、この時いかに天気が悪かったかをおわかりいただけるかと(笑)。

■沖縄県中城村・北中城村

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2009.03.18

今帰仁城跡

Nakijin_15Nakijin_13次は秋に行った沖縄シリーズです。
この時沖縄へ初めて行っただけに、私自身も感慨ひとしおです。

はじめは今帰仁(なきじん)城跡。著名なグスクの一つで国史跡に指定されていますが、世界遺産の一つにもなっています。
14世紀頃の古琉球時代の沖縄島は三つの国からなっていましたが、そのうち「北山(ほくざん)」の本拠地だったと考えられています。1322年に怕尼芝(はにじ)という人物が城主となったとされ、その後の修築で今の形が形成されました。

北山は15世紀初頭(1422年説が有力)に「中山(ちゅうざん)」の尚巴志(しょう・はし)に攻められて滅んだとされ、その後は尚氏によって統一された琉球王国の北部の拠点となり、城代のような役職の北山監守が置かれました。尚氏一族が就いていたようで、第二尚氏時代(15世紀後半以降)になると、城主は今帰仁按司(あじ)と呼ばれるようになります。
そして、慶長14年(1609)の島津氏による侵攻によって、今帰仁城も攻撃されたようです。1665年に今帰仁按司は首里へ移り廃城となりました。

Nakijin_18Nakijin_28左の門のような遺構をくぐって登っていきます。
…と思っていたら、この門、戦後になってできたものらしいです(笑)。

上の写真の石垣を上から見たのが右写真。この石垣が実に美しくて、見とれました。大隅(ウーシミ)の城壁と呼ばれているそうです。

Nakijin_27Nakijin_34城内には祭祀に関わったと思われる遺構や、建物の遺構が見られます。
比較的戦争の少なかった古琉球時代のグスクでは、防御施設という本来の役割よりも、むしろ祭祀施設としての役割の比重が段々高くなっていったそうです。

Nakijin_31Nakijin_51こちらは城の東側にある「志慶真門郭(しじまじょう)」と呼ばれる曲輪。
いくつかの建物遺構が発見されたそうです。瓦は出土しなかったことから、茅か板葺きの掘立柱建物が建っていたと考えられています。

保存状態もさることながら、規模もかなり大きく、見応えがあります。今帰仁村歴史文化センターが併設されていて、遺物なども見ることができます。近隣には有名観光地の水族館もありますが、今帰仁城は是非とも立ち寄る価値があると思います。いやあ、このグスクにはほんとに魅せられました。

■沖縄県今帰仁村

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2009.03.16

貫前神社

Nukisaki_1Nukisaki_3シリーズの最後は貫前(ぬきさき)神社。上野国一宮です。社伝によると、この地域の豪族であった物部姓の磯部氏が、531年(安閑天皇元年)に氏神を祀ったのがはじまりとされています。延喜式内社です。
中世段階では「抜鉾(ぬきほこ)大明神」と呼ばれ、神仏習合の色彩も濃かったようです。上野守護で関東管領でもあった山内上杉氏や、戦国期に影響を拡げてきた武田氏による書状なども所蔵しています。

左写真は総門。両脇に立つ銅製の灯籠は、慶応2年(1866)に建てられたもので、この地域の養蚕農家や絹商人が奉納者に見えるそうで、富岡製糸場に代表されるように、近代に発達した製糸業の先駆けを示すものとされています。

で、面白いのが総門をくぐると見られる右写真のような景観。社殿が一段低くなっている珍しい構造になっています。これは「下り宮」と呼ばれるそうで、なぜこのような立地になったかは諸説あるようですが、はっきりしたことはわかっていないみたいです。

Nukisaki_7Nukisaki_9写真にある楼門・拝殿・本殿はいずれも重要文化財。上野国を出自とするという言説によるのでしょうか、徳川将軍家からの保護を受けており、これらは寛永12年(1635)に徳川家光によって造営されたものです。また、元禄11年(1699)に徳川綱吉によって大修理が施されました。本殿は単層二階建の「貫前造」と呼ばれる独特の様式なんだそうです。

Nukisaki_11一方、寂しげなのが経蔵跡。鎌倉期の経典も所蔵していたそうですが、廃仏毀釈によってすべて焼却されたそうです。神仏習合の名残として物寂しく、歴史の悲哀も感じますね。

■群馬県富岡市

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2009.03.14

山名八幡宮

YamanaYamana_1山ノ上碑の近く、上信電鉄山名駅のすぐ横にある山名八幡宮。左写真のように、参道は線路をくぐります(笑)。

14世紀後半に一族で最大11か国もの守護となり、「六分一殿」と呼ばれ室町幕府の重鎮となった山名氏の出身地です。
山名氏は清和源氏流の新田氏の一族で、新田氏の祖である新田義重の子・義範がこの地へ移り、山名氏を名乗りました。この山名八幡宮は、山名義範が宇佐八幡宮を勧請して創建したと言われています。

Yamana_9写真は拝殿。

ただ鎌倉期の山名氏については、ほとんど動向がわからないそうです。
新田義貞が鎌倉幕府の倒幕を掲げて挙兵した際に山名政氏・時氏親子が呼応して功績を得たようですが、建武政権崩壊後は足利尊氏に味方して従軍。建武4年(1337)に時氏が伯耆守護に任じられたのを皮切りに、幕府に反旗を翻した中国地方の有力者である塩冶(えんや)高貞を排除し、中国を拠点に勢力を拡げてゆきます。
山名氏は観応の擾乱(1352)で足利直義に味方し、その後のゴタゴタで南朝方に一時くみしました。貞治2年(1363)に再び幕府に帰順すると絶大な勢力を築き上げ、明徳の乱(1391)で山名氏清・満幸が討伐を受けて勢力を後退させつつも、その後氏清の甥に当たる山名時煕(ときひろ、時義の子)が重鎮として重用され復活。代々重鎮として幕府政治に関わってゆきました。

Yamana_5Yamana_10その後についてははしょりまして(笑)、山名氏は近世においても交代寄合として但馬村岡(現兵庫県香美町[旧村岡町])を本拠として維新を迎えました。
このように山名氏はここが発祥の地ではありながら、本拠を西国に移したためほとんどゆかりはありません。ただし末裔の方々にとっては故郷という意識を強くお持ちのようで、左写真の神馬像が奉納されています。

右写真は「たちわりの石」。現地看板によると、「慶長5年(1600)、高崎藩主井伊直政の許しを得て馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり、当社に神助を祈り参籠し21日の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後烏川畔に於いて見事、天流を破った。」そうです。私は詳しいことはよくわかりませんが…。

■群馬県高崎市

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2009.03.13

上野三碑:多胡碑

Tago_4Tago_5上野三碑の最後は、多胡(たご)碑。三つの中ではこれが最も有名です。「那須国造碑」(栃木県大田原市[旧湯津上村])・「多賀城碑」(宮城県多賀城市)とともに「日本三碑」と呼ばれているそうです(誰が呼んだのかはわかりませんが…)。

碑文の内容は、和銅4年(711)に上野国多胡郡の設置の経緯について述べられており、『続日本紀』にもほぼ同様の文章が載っているそうです。周辺の郡の一部がそれぞれ分割され、多胡郡が成立したと書かれています。

Tago_7←の覆屋の中にあります。

碑文中には、「羊に給いて多胡郡と成せ」あり、この「羊」とは何かで議論があるようです。今のところ人名とする説が有力のようですが。地元では「羊太夫」の墓との伝承から、「羊さま」と呼ばれて大事にされてきたようで、そのためかなり状態の良い形で今に残ったそうです。

Tago_1Tago_2こちらも側に古墳があります。7世紀頃のものと推定されています。
また、多胡碑記念館もあり、多胡碑に関する資料などが展示されているそうですが、今回は時間がなくてパス。

■群馬県吉井町

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2009.03.10

上野三碑:山ノ上碑

Yamanoue_2Yamanoue_5金井沢碑から(車なら)ほど近い所にある、上野三碑の一つの山ノ上碑です。
碑文によると、「辛己(巳ヵ)歳」に放光寺の僧侶である長利という人物が、母である黒売刀自(くろめとじ)の墓碑として造られたものであったことがわかります。この碑文に「佐野三家(さぬのみやけ)」とあり、金井沢碑との関連が窺えますが、「三家」の解釈については異説もあるようです。

なお、「辛己歳」は681年(天智天皇10年)と考えられているそうです。

Yamanoue_10Yamanoueこの石碑は墓碑としての性格を持っていますが、実際に真横に古墳が遺っています。形式から7世紀半ば頃のものとされていますが、そこから碑文の年代が推定されたのでしょうか。

左写真のように、古墳と石碑は少し登った所にあります。ここには江戸時代に馬頭観音もあったそうですが、今は廃絶してしまったようです。

Yamanoue_12Yamanoue_13近くには板碑がありました。左写真は「来迎阿弥陀画像板碑」と称されているもので、建治4年(1278)の年号が刻まれています。
右写真は、その傍らにあった板碑の残欠と思しき遺物。これも中世のものという印象です。

■群馬県高崎市

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2009.03.09

上野三碑:金井沢碑

KanaizawaKanaizawa_1次のシリーズは、昨年の秋口に行った群馬県西部の史跡です。既に記憶も薄くなってきましたが…。

はじめは、「上野(こうずけ)三碑」(「上野」は「上州」「上毛」とも)と総称される三つの石碑をば。この地域には、三つの古代の石碑が遺されており、全国的にも非常に珍しく、いずれも国の特別史跡に指定されています。古代から、この地域は人の手によって開発が進められていたことがわかります。

Kanaizawa_4Kanaizawa_3そのうちの金井沢碑。高崎市の西側にある少し山がちな地域の中腹あたりにあります。神亀3年(726)のもので、江戸時代に近隣で出土したものだそうで、出土した後は洗濯板として使われていたそうです(笑)。そのため、出土状況については不明。
洗濯板として使っていたら不幸が続いたとのことで(罰当たりな(笑))、改めて供養するために今の場所に置かれたと伝わっているそうです(真偽は定かではないようですが)。

碑文によると、上野国群馬郡下賛(しもさぬ)郷(現高崎市下佐野町)の屯倉(みやけ)の子孫が、祖先と父母の菩提のために仏に供養したとあります。国分寺建立の直前でもあり、当時における仏教信仰の広がりを知る貴重なものとのことです。

■群馬県高崎市

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2009.03.08

羽黒山正善院

Haguro_31Haguro_33山形シリーズもいよいよ最後。
最後は羽黒山の麓にある正善院。寺伝によると、聖武天皇勅願という伝承もあるそうですが、建久4年(1193)に源頼朝が土肥実平に命じて建立させたとされています。本当かどうかはよくわかりませんが…。

かつてはたくさんあった羽黒山の坊の一つで、寺号はいろいろと変遷があるようですが、現在は「荒沢寺」と言うそうです。写真は山門と本堂。

Haguro_34Haguro_32こちらは黄金堂(こがねどう、重要文化財)。土肥実平による創建時に建立されたとも言われているようですが、文禄3年(1594)に当時の酒田城(現山形県酒田市)の城主だった上杉被官の甘糟景継が修理をして、現在のものになったようです。

この正善院のある辺りは、わずかながらも坊舎の立ち並んでいた雰囲気が残っているような景観だったように記憶しています(写真撮ってないもんで…)。時間があればゆっくり散策してみるのもいいのですが、それは叶わず。

■山形県鶴岡市(旧羽黒町)

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2009.03.04

羽黒山

Haguro_29Haguro_22庄内の観光のメインとも言える羽黒山。湯殿山と月山を合わせて出羽三山と総称されるうち、中心とも言えるのがこの羽黒山です。
左写真の門をくぐり、右写真の石段を延々登ってゆくわけですが、現在では上まで車で登れます(笑)。

Haguro_2Haguro_12左写真は頂上の直務所。
羽黒山は、言わずと知れた修験の道場です。元は出羽(いでは)神社が鎮座しましたが、天台系修験の中心地となり、多くの別当寺や子院が置かれました。時には地頭の大宝寺氏が羽黒山別当を勤めていたことがわかっています。
近世になると、別当寺は寂光寺と呼ばれていたようです。近代の廃仏毀釈によって、寂光寺は廃寺。現在、山上に寺院は見られません。

寺院としての性格があったことは、右写真のように梵鐘(重要文化財)が今も残されていることから窺えます。梵鐘には、建治元年(1275)の銘が刻まれています。鐘楼は元和4年(1618)に最上家信(義俊)が建立したものだそうです。

Haguro_3Haguro_10左写真が、本殿に当たる三神合祭殿(重要文化財)。今のものは文政元年(1818)築。
名称の通り湯殿山・羽黒山・月山を合祀した社殿で、ここに参拝すれば三山すべて行ったことになる、というわけです(笑)。

右写真は、蜂子(はちこ)神社。崇峻天皇の皇子である蜂子皇子(はちのこのみこ、厩戸皇子=聖徳太子の従兄弟らしい)が出羽三山を創建したという社伝に基づくのでしょうか。境内に廟所もあるそうです(見学せず)。

山上には出羽三山歴史博物館があり、境内の鏡池から出土した190枚もの銅鏡(重要文化財)をはじめ、厖大な数の銅鏡コレクションを誇っています。知る人ぞ知る場所?(私は知りませんでしたが(笑))

Haguro_27Haguro_21さて、羽黒山といえばやっぱりこれです。麓にある五重塔(国宝)。さすがの堂々たる佇まい。応安5年(1372)築。東北最古の塔で、山形県では唯一の国宝建築物です。
かつては周囲に坊舎が立ち並んでいたとされていますが、今は森の中にぽつんと立っています。ただ、それがまた風情があって趣深いです。
いやあ、直に見ることができて満足々々。

■山形県鶴岡市(旧羽黒町)

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2009.03.03

致道博物館・致道館

Chidohaku_8Chidohaku鶴岡城のそばにある施設を二軒。

まずは致道博物館。庄内藩の御用屋敷跡にあり、戦後に近隣の貴重な建築物を移築して展示しています。
左写真は旧西田川郡役所(重要文化財)。明治14年(1881)に鶴岡に建てられた擬洋風建築。中には考古資料などが展示されていました。
右写真は旧渋谷家住宅(重要文化財)。文政5年(1822)築。湯殿山の山麓の山村豪雪地域にあった民家。出羽三山参詣者の宿ともなっていたそうです。上階は養蚕に使用されていたとのことで、独特な外観は「兜造り」と呼ばれています。

Chidohaku_14Chidohaku_3敷地内には、庄内藩主酒井氏による庭園があります。いつ造られたかは定かではありませんが、「築山林泉庭園」と呼ばれる様式で、鳥海山を借景としていたそうです。その近くには小さな五輪塔が。
このほか、庄内藩江戸屋敷の門や御殿が移築されています。

Chidokan_2Chidokan_4続いては致道館(ちどうかん)。庄内藩の藩校跡で、国史跡に指定されています。
文化2年(1805)に9代藩主の酒井忠徳が創建。文化13年(1816)に10代藩主の酒井忠器(ただかた)によって現在地に移されました。荻生徂徠の学風が重視されたそうです。近代には鶴岡県庁舎や警察署などとして使用されていましたが、戦後に史跡として整備されました。建物は創建時の現存のようです。

Chidokan_8Chidokan_5現在遺っている敷地は往時の半分にも満たないそうです。メインはもちろん藩校でしたが、藩主が参勤している時は役所としても用いられていたそうです。現在、藩校時代の史料などが展示されていました。

■山形県鶴岡市

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2009.02.24

鶴岡城跡

Tsuruokajo_2Tsuruokajo_6次は鶴岡(鶴ヶ岡、つるがおか)城跡です。中世では大宝寺城と呼ばれた大宝寺氏の居館跡でもあります。

大宝寺氏は、庄内に土着した後しばらくの動向はよくわからないようです。鎌倉期には羽黒山と相論になったことがわかっているようですが。南北朝期には幕府が越後守護の上杉憲顕に大泉荘(庄内)領家職を安堵しているそうで、この頃から大宝寺氏は越後の上杉氏との関係を深めながら勢力を拡げたと思われます。
東国では幕府方と鎌倉方とで対立が先鋭化してゆきますが、大宝寺氏は一貫して幕府方で、時々京都に馬などを贈答して歓心を買っています。同じく幕府方だった伊達氏も、庄内から海路を辿って使者を京都に派遣していますが(★追記参照)、大宝寺氏ともなんらかの関係はあったのでしょうね。
この過程で、羽黒山にも食い込んでいったようで、15世紀後半には大宝寺淳氏が羽黒山別当職を有していたそうです。

ところが15世紀末期に差し掛かると庶流の砂越氏と軋轢が生じ、内紛が勃発。大宝寺氏は越後上杉氏と親密な関係を維持していましたが、永正4年(1507)に被官の長尾為景が当主の上杉房能と関東管領の上杉顕定を討ち取ったことをきっかけに保護を失い、最上氏と結託した砂越氏に追い詰められ、天文元年(1532)に尾浦城へ移転。その後盛り返して奪還したものの、滅亡してゆく過程は尾浦城の記事で書きました。

大宝寺滅亡のきっかけとなった天正18年(1590)の一揆蜂起には直江兼続が鎮圧に当たったとされ、平定後は上杉氏の支配を受けます。関ヶ原後には最上領となり、慶長8年(1603)に「鶴ヶ岡」に改められました。

最上氏改易後には酒井宮内大輔忠勝(大老となった若狭小浜藩主の讃岐守忠勝とは別人)が入り、以後酒井氏の城下町として発展しました。天保年間(19世紀前半)には転封を言い渡されるものの民衆の抵抗で撤回。幕末は会津藩降伏後も幕府方の強硬派として新政府方と徹底抗戦したことでも知られています。維新後に廃城。

Tsuruokajo_8ここがたぶん本丸。天守閣はなく御殿が築かれていましたが、これは城門か櫓の礎石でしょうか? 状況はよくわかりませんでした。

Tsuruokajo_3Tsuruokajo_10御殿跡と思われる場所には、現在は荘内神社が建っています。明治10年(1877)に建立されました。酒井氏初代の忠勝を祀った神社ですが、歴代藩主も合祀されています。

本丸を囲う堀は今でも結構立派です。石垣はほとんどなく、土塁が主体で、中世城館の雰囲気も感じられます(実際はだいぶ違うのでしょうけれども)。今は公園になっています。

■山形県鶴岡市

(★)追記
該当史料(『伊達家文書』)を見たところ、伊達氏の京都への使者は領内から越後へ出たことがわかるのみで、庄内を通ったかどうかは明確ではありませんでした。また、海路ではなく陸路を通っており、この点は誤りでした。
該当箇所の修正(消去)も可能ですが、一度書いたものでもありますので、追記の形で訂正させていただきます。

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2009.02.21

尾浦城跡

Ourajo_1Ourajo_5ここからは庄内地方に移ります。
まずは尾浦(おうら)城跡。「大浦」とも呼ばれています。現在は大山公園という公園になっています。

中世の庄内は大泉荘という王家(天皇家)領荘園で、庄内という地名も大泉荘から来ています。

鎌倉期には武藤氏が地頭となりましたが、惣領の武藤資頼が大宰少弐として九州に下ったため、その弟である武藤氏平が地頭となって庄内で土着しました。はじめは大泉氏を名乗りましたが、大宝寺(現在の鶴岡市中心部)に本拠を据えたため、大宝寺(だいほうじ)氏を名のるようになりました。
大宝寺氏については、後で大宝寺城(のちの鶴ヶ岡城)の記事にてまた改めて。

この尾浦城は、大宝寺氏が庶流の砂越氏との内紛によって大宝寺城が焼かれたため、天文元年(1532)に本拠として構えた城です。大宝寺城は平城ですが、この尾浦城は山城で、防御を固める目的があったのでしょう。
16世紀になると越後の上杉氏と関係を結び、揚北衆で越後国小泉荘(現新潟県村上市)を支配する本庄繁長とも親密な関係となったようです。それを背景として16世紀後半に当主の大宝寺義氏は北への侵攻を重ねたことにより、被官の反撥を招いて天正11年(1583)に自害させられました。

その後庄内は上杉・最上も入り乱れて内乱状態となり、結局天正15年(1587)に敵対していた最上義光によって尾浦城は落城。当主の大宝寺義興(義氏の弟)は自刃。

その後は最上氏の支配するところとなりましたが、上杉方の本庄繁長は義興の養子となっていた実子・大宝寺義勝を立てて引き続き激しく争い、天正16年(1588)に本庄氏が奪還します。

こうして上杉氏の息のかかる形で大宝寺氏が再び庄内を支配しましたが、それも束の間。天正18年(1590)に「奥羽仕置」の一環として上杉景勝が検地を行いましたが、直後に一揆が蜂起。この一揆の煽動を疑われ、本庄繁長と大宝寺義勝親子は大和へ流罪となり、没落。後に赦されましたが、義勝は本庄氏に復したため、大宝寺氏は滅亡しました。

Ourajo_3Ourajo_8以上の説明はごく簡略で、とにかく16世紀にはこの尾浦城を巡って全国的に見ても極めて激しい争奪戦が繰り広げられました。ただ、今は史跡として見なされているかどうか疑わしい状況で…。城跡らしき遺構はそこかしこに見られるのですが、現地には全然説明もないのでよくわかりません。発掘もしたことあるのかなぁ…?

Ourajo_11Ourajo_20一応、武藤(大宝寺)氏を供養する石塔が建っていました。わりと新しい感じ。
写真は載せてませんが、城跡には神社やお寺があります。どういう経緯で建立されたのかはよくわかりませんでした。

Ourajo_9最後に、城跡からの眺めです。
なおこの尾浦城は上杉氏が関ヶ原合戦で庄内を没収されるとまた最上氏の支配するところとなりましたが、最上氏が改易されて廃城となりました。

■山形県鶴岡市

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2009.02.20

山寺 立石寺

YamaderaYamadera_3山形といえばやはりここですね。山寺こと立石寺(りっしゃくじ)です。
天台寺院で、寺伝によれば、清和天皇の勅願によって円仁(慈覚大師)が貞観2年(860)に開いたとされています。まあ開山は諸説あるのでなんともいえませんが、平安期に既にあったことは確かなようです。

鎌倉幕府によって祈願所にされたそうですが焼亡しており、斯波兼頼が再建したとされています。大永元年(1521)には伊達稙宗を援助したとのかどで最上一族の天童頼長に焼き討ちにされたものの、その後最上義守・義光の2代にわたって庇護を受けて復興しました。意外にも?中世の大般若経を所蔵しています。

凝灰岩の山肌が向きだしの崖に堂舎が点在している様子は独特です。言うまでもなく、元禄2年(1689)に松尾芭蕉が「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」と詠んだことが『おくのほそ道』に記されていることで知られています。

なお、右写真は本堂(根本中堂、重要文化財)。延文元年(1356)に斯波兼頼が建立したものです。いがんでますが、当然ながら傾いているのではなくて私の写真の拙さのためです(笑)。

Yamadera_5Yamadera_7左写真は清和天皇の供養塔だそうです。いつのものなのかはわかりませんが、山寺では最も古い石塔なんだそうです。
右写真の門を入り、ここから長い階段を登っていきます。

Yamadera_12Yamadera_22途中、左写真の仁王門を抜けていきます。この門は嘉永元年(1848)築。
そして登り切ると、右写真の奥の院に到着。峻険な山城をさんざんっぱら経験している身からいえば(笑)、それほどきつくはなかったです。観光地になっていることもあって、階段そのものはそれほど急ではないためでしょうか。

Yamadera_24わかりにくいですが、三重小塔(重要文化財)。永正16年(1519)に造られたものです(年代は銘によるらしい)。くりぬいた岩の中に安置されています。


Yamadera_38Yamadera_30そして有名な五大堂へ。ここからの眺めが山寺のハイライトですが、なんか人も多くてあんまりいい写真は撮れませんでした。ま、こんなもんでご勘弁を。

ともあれ一度は行ってみたい所だったので、行けて良かったです。二度目は? うーむ、どうかなあ(笑)。

■山形県山形市

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2009.02.16

旧松応寺観音堂・八幡神社石鳥居

Shououji_3山形市南部、蔵王を望む地域にある文化財2件を。
まずは松尾山観音堂。かつては松応寺という寺院で、この観音堂は重要文化財に指定されています。

延宝6年(1678)の「松尾山松応寺記」という史料(縁起でしょうか)によると、和銅年間の創建とされていますが、南北朝期に山形に入ってきた斯波兼頼によって築かれたという説もあるそうです。
実際には室町後期と考えられていますが、最上氏によるなんらかの援助はあったかもしれません。この観音堂は、その頃のものと推定されています。

Shououji_1Shououji_2堂内を撮らせていただきました。
この観音堂は方三間の宝形(ほうぎょう)造りと呼ばれるものだそうで、正面中央には一間の向拝(こうはい)があり、中央の方一間を内陣とし、その外側は外陣となっています。

面白いのは、天正19年(1591)や慶長14年(1609)などの年号の入った参詣者の墨書が残されていることです。
しかし、中は暗くて、私は見つけられませんでした…。残念。

Ishidoriiこちらは成沢地区にある八幡神社の石鳥居(重要文化財)。当地に伝来する文書から、この鳥居に使われた石材は天仁2年(1109)に採取されたとされています。史料そのものは後世のもののようですが、平安期のものなのは確かなようで、日本最古の石鳥居とされています。
石は凝灰岩で、高さは4メートル強あります。この地区の東方にある龍山に興隆した仏教文化の遺物とされているそうです。「仏教文化」として鳥居が造られるところが面白いですね。

山形市内には、もう一つ元木(現鳥居ヶ丘)地区にも石鳥居が遺っているのですが(こちらも重要文化財)、こちらには今回行けませんでした。また機会があればいずれ。

■山形県山形市

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2009.02.14

山形城跡

YamagatajoYamagatajotenbo_2訪問順は前後しますが、先に山形城を。霞城(かじょう)の別名があります。右写真は、JR山形駅前のビルから見たものです。
時間が無くて中には入れず、有名な最上義光像は見られませんでした。あとは近世の石垣が遺っているようです。

南北朝の内乱たけなわの頃、延文元年(正平11年、1356)に羽州探題として斯波兼頼が入部したのが始まりとされています。奥州管領として東北の南朝勢力と激しく戦った斯波家兼の子で、のちに管領になる斯波義将とは従兄弟の関係に当たります。
南朝方で大江(長井)氏一族の寒河江氏を打倒した後、兼頼は最上氏(「最上屋形」)を名乗り、以後、子孫が代々この山形を拠点として支配を拡げていきました。

この山形城は中世の典型的な居館として出発したようですが、16世紀後半に最上義光(よしあき)が当主になると、城郭として本格的に整備されてゆきます。
この頃の最上氏は敵対勢力に囲まれた状態だったようですが、義光は妹(義姫)を伊達氏へ嫁がせたのを代表として、いわゆる「外交」で能力を発揮しています。豊臣政権とも好意的関係を築き、娘(駒姫)を豊臣秀次に嫁がせています。(ところが輿入れのために京都に到着したら既に秀次は切腹させられており、秀次には会ってもいない駒姫もまた15歳で斬首され、義光が悲嘆に暮れたエピソードがよく知られていますね)。

義光は堪え忍んだようですが、この事件も遠因でしょうか。関ヶ原合戦に際してはかねて昵懇でもあった徳川家康に荷担し、上杉景勝と対立して攻撃を受けましたが、辛うじて撃退。この功績によって上杉領だった庄内も所領として獲得し、57万石の大名となりました。石高も加増高もトップクラスで、家康がいかに義光の功績を買ったかがわかります。現在に繋がる山形の町はこの時が実質的なスタートでしょう。

ところが今度は嫡男の最上義康が暗殺され、相次ぐ子の不幸で晩年は失意の生活だったようです。義光死後は後継となった次男・家親も夭折し、その子・義俊が跡を継ぎましたが、御家騒動が勃発。元和8年(1622)に改易されて近江で1万石に大減封。さらに5000石に減らされ、子孫は旗本(交代寄合)となりました。また、分家の山野辺氏は水戸徳川氏の家老となっています。

最上氏改易に関わっては、城請取に赴いた年寄(老中)の本多正純が「吊り天井事件」で改易されました。山形への転封を拒否したため、という逸話もありましたね(実際は事実ではない?)。
結局鳥居忠政(元忠の子)が22万石を得て磐城から移ってきましたが、それも定まらず、以後の山形は譜代藩主がコロコロ入れ替わり(一時期は天領)、領主が定まらないまま維新を迎えました。石高も徐々に減少しており、10万石の時期が最も長いようです。

Yamagatajo_3Yamagatajo_4このように堀が一部遺っていますが、その脇には線路(JR奥羽線)が走っており、車窓から間近に城が見られます(一瞬で終わりますが(笑))。

本来は巨大な城郭だったようですが、現在公園として残されているのは本丸と二の丸だけで、三の丸は市街地化しています(もっとも近世段階で既に市街地化していたらしい)。写真にある城門(復元)は、二の丸の城門です。

なお、山形城についてはこちらが詳しいです。城の脇には、山形市立の最上義光歴史館があります。また、城内には山形県立博物館もありますが、こちらは今回訪問せず。

■山形県山形市

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2009.02.12

長谷堂城跡

Hasedo_15上山からさらに北へ。なんだか直江兼続の進軍ルートを辿っているかのようですが(笑)、その最終地点がこの長谷堂城です。

最上氏の本拠である山形城の南西の山裾に位置し、防御上の重要拠点として位置づけられていた城です。
築城時期は明確ではありませんが、永正11年(1514)に伊達稙宗に一時占拠されたという記録があるそうで、それ以前にはあったと考えられています。

なんといってもこの城で有名なのが、慶長5年(1600)の攻防戦。関ヶ原合戦に際して徳川家康(東軍)に味方した最上義光は、石田三成(西軍)に味方した上杉景勝と対立し、景勝の意によって米沢城主直江兼続の侵攻を受けました。
上杉景勝は家康の直接討伐を受けることとなり、最上義光もまた、南部利直や秋田実季などの東北の諸大名とともに上杉討伐の準備をしていました。ところが小山で家康が関ヶ原へ向けて引き返すと諸将が撤退した上、伊達政宗が景勝と和睦してしまい、後顧の憂いを絶つために景勝は最上氏を攻撃することになりました。

最上方はかなりの劣勢で、同年9月にこの長谷堂城まで攻め込まれてしまいます。上杉方は兼続以下の猛攻を仕掛けましたが、城を守っていた志村光安(あきやす)や鮭延秀綱らが必死で防ぎ、半月後の関ヶ原合戦までしのぎきりました。
そして関ヶ原での西軍敗戦で勝負あり。敗戦を知った兼続はここで自害しようとしたものの、前田利益(慶次)に諫止され、米沢へ撤退したという逸話もあるそうです。
この「慶長出羽合戦」については、こちらが詳しいです。

Hasedo_2Hasedo_7という城なんですが、規模は思ったほど大きくはないです。むしろかなり小さい感じで、よく半月も守り通せたものだと感心します。
右写真は本丸で、ここはやや広めな印象を抱きましたが、その下の曲輪はかなり小規模で、数も少ないように思えました。

Hasedo_9Hasedo_10左写真は本丸を別角度から。
そして、この城の重要性がよくわかるのが、右写真の城からの眺め。見えているのは山形市街ですが、丸見えです(笑)。
最上氏にとってはここを取られたら守りきれないと、必死の防御戦を展開した理由がよくわかります。

ちなみにこの長谷堂城は、最上氏改易によって廃城となりました。城の麓には直江兼続の陣跡や志村光安の供養塔もあったようですが、事前の調査不足により残念ながら今回は行けず。

■山形県山形市

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2009.02.09

上山城跡

Kaminoyama_2Kaminoyama_8どんどん北上します。次は上山(かみのやま)城跡。城下には温泉街が広がっており、風情のある町です。右写真は大手門のあたり。

上山は最上氏の支配地域の最南端に当たり、その南の伊達氏と激しく争った地です。最上氏一族の上山氏が支配していました。16世紀初頭に一度伊達氏に奪取されましたが、取り返し、戦国期まで上山氏が支配を守っていたようです。
天正元年(1573)に最上義守・義光親子が内紛を起こした「天正最上の乱」では、領主の上山満兼(名字は「武衛」「里見」とも)は義守側に与したため、最上義光とは険悪になりました。結局天正8年(1580)に上山は最上義光に攻め落とされ、上山満兼は討ち取られました。その後元は上山氏一族の里見民部が最上氏の影響下で支配。関ヶ原の際の直江兼続の猛攻を退ける戦功も挙げています。(しかしその後出奔したそうで)

元和8年(1622)の最上氏改易後は能見松平重忠が城主となり、藩として独立します。その後蒲生、土岐、金森と藩主がめまぐるしく入れ替わり、元禄10年(1697)に藤井松平氏が入ってからはそのまま幕末まで続きました。

Kaminoyama_15Kaminoyama_20天守閣は土岐氏が転封するまではあったようですが、藤井松平氏時代には破却されてしまい無かったようです。現在のものは模造天守で内部は資料館になっています。

左写真は城下の武家屋敷の遺る通り。4軒並んでいました。右写真は藩校「明新館」跡。

Kaminoyama_24Kaminoyama_22城下の一角には、中世の板碑があります。「湯町元山王の大日板碑」と呼ばれ、正中2年(1325)の年号が刻まれています。このほか上山市内には20基ほどの中世の板碑が現存しているそうです。いつか制覇したいですね(笑)。

右写真は、その近くにある上山温泉の源泉。足湯がありました。

Kaminoyama_7天守閣からみた町並み。丁度山形新幹線「つばさ」がやってきました(わかりますかね?)。


■山形県上山市

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2009.02.07

宮内熊野大社

Miyauchikumano_8Miyauchikumano_1南陽市宮内にある熊野大社。大同元年(806)に平城天皇の勅願によって創建されたと伝わっています。なんでも「三熊野」の一つだそうですが、よくわかりません(笑)。
社伝によると、寛治5年(1091)(寛治元年説もあり)に鎌倉権五郎景政が源義家の命を受けて紀州から勧請したともされています。右写真は、鎌倉景政が植えたとされている大イチョウ。樹齢数百年とのことです。

ここまでは事実かどうか判然としませんが、鎌倉期には地頭長井氏の保護を受けており、建長2年(1250)に長井泰秀によって社殿が造営されたと言われています。長井氏滅亡後は伊達氏の保護も受けていたようで度々寄進を受け、天正18年(1590)に発給された伊達政宗の安堵状を所蔵しています。左写真の拝殿は藩主上杉氏の援助を得て天明7年(1787)築。

Miyauchikumano_3Miyauchikumano_10境内には末社・摂社が多く鎮座していますが、中でも左写真の土社(どしゃ)神社本殿は最も古く、16世紀のものとされています。かつては茅葺きだったそうですが。

右写真の二の宮神社本殿(別名「若王子」)もほぼ同時期のものとされ、作風もよく似ているそうです。禅宗様と和様の折衷様なんだそうですが…私にはよくわかりません(笑)。

Miyauchikumano_6Miyauchikumano_12こちらはそれからは少し降るものの、やはり古いもの。
廃仏毀釈や大戦を逃れ、梵鐘(洪鐘)が遺っています。銘によると寛永3年(1626)に安部右馬助という人物が奉納したことがわかります。
右写真は三の宮神社本殿。同じく寛永3年頃かそれ以前に築かれたものとされています。

このほか平安期の仏像や経筒、明応7年(1498)銘の鰐口など、中世の文化財を所蔵。境内の宝物殿で拝観できます…が、事前予約が必要のようで、見られませんでした(時刻も既に夕方でしたし)。残念。

Miyauchikumano_16神社の前の住宅地の一角に、このような石塔があります。
六面幢と呼ばれる供養塔と思われますが、銘もなく、はっきりとした時代もわかりません(文化財登録もされてない?)。
こういうのを造るのは中世のような気もしますが、どうなんでしょうね。地元では今でも信仰の対象になっているようで、大切にしておられました。

■山形県南陽市

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2009.02.05

赤湯の中世石造物

Akayu_2Akayu_5米沢を後にして北上。赤湯温泉の周辺にある中世の石造物をば。

まずは右写真から。これは嘉慶3年(1389)の銘のある六面幢という石造物です。がっちり覆屋で囲ってあって写真はうまく撮れませんでした(こちらをどうぞ)
その傍らには左写真のような石造物が並んでいました。時期ははっきりとはわかりませんが、中世のものに見えそうです。これらは元々ここにあったのではなく、近隣から集められたものなのでしょうか。

Akayu_9Akayu_10もう一つ。温泉街にある東正寺の傍らに、磨崖板碑があります。左写真が下段、右写真が上段の二段になっていて、上段のものには、永仁2年(1294)の年号が刻まれています。「平吉宗」という人物が母の供養のために刻んだものであることが読み取れます(肉眼ではかなり読みづらいですが)。

周辺にはほかにも板碑がいくつかあるんですが、残念ながら全部見ることはできませんでした。いつか全部見尽くしたいものです。
この山形県の置賜地方(南部)は、東北地方では珍しく中世の石造物の宝庫となっています。地頭だった長井氏の影響が推測されているようですが、理由ははっきりしないようです。

■山形県南陽市

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2009.01.31

成島八幡神社

NarishimaNarishima_2便乗路線は終わり、マニアック路線になります(笑)。

米沢の市街地から鬼面川(最上川)を渡ったすぐの所にある成島八幡神社。社伝では宝亀8年(777)の創建と伝えられ、蝦夷討伐でやってきた大伴駿河麿が宇佐八幡に祈願して勝利したのをきっかけとして、光仁天皇の勅願で建てられたと言われています。さらには、坂上田村麻呂の社殿造営とか、永保元年(1081)に源義家が社領を寄進したという伝承もあるそうです。

Narishima_5Narishima_8中世になると、この地域を支配した長井氏に始まり、伊達氏・蒲生氏・上杉氏の保護を受けたとされています。現実味を帯びるのはこの辺からでしょうか。社殿の棟札が残されており、最も古いものは正安2年(1300)における長井宗安の寄進によるものがわかり、のちに貞和4年(1348)に長井時春による修理が施された旨の棟札が残されています。平安期のものと思われる門神坐像を所蔵していますが、残念ながら拝観できず。

現在の拝殿は永徳3年(1383)に伊達宗遠が造営したものとされ、本殿は承応3年(1654)に上杉綱勝が寄進したものです。伊達氏の帰依が基礎となったようで、仙台に移った伊達政宗がこの成島八幡神社を分祀する形で大崎八幡宮(現仙台市青葉区)を造営しています。大崎八幡宮は国宝で壮観ですが、こちらはひっそりと佇んでいる感じです。

■山形県米沢市

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2009.01.28

上杉家墓所

UesugiUesugi_9今度は米沢城の西側に少し離れた所にある、上杉家墓所。地元では「御霊屋(おたまや)」と呼ばれているそうです。

「初代」として数えられる上杉輝虎(謙信)から、幕末にかけて12代の墓がずらりと並んでいます(別に夭折した世子一人の廟と、14代目の当主・茂憲の記念碑があり)。

Uesugi_5こんな感じ。元和9年(1623)に上杉景勝が死去した際、彼は高野山に埋葬されましたが、分骨としてこの地に廟が建てられたのがはじまりのようです。
藩主は火葬に付されていましたが、寛政6年(1794)に世子のまま夭折した上杉顕孝(鷹山の子)が死去した後は土葬に改められたそうです。以後12代目の上杉斉定(なりさだ)まで土葬に付されました。

Uesugi_7Uesugi_8中央には左写真の謙信の廟があります。天正6年(1578)に越後の春日山城で死去し、当地で葬られましたが、上杉氏が会津を経て米沢へ移るに従い、謙信の遺骸もそれぞれ移されたそうです。
米沢では本丸に廟所が建てられて安置されていましたが、明治9年(1876)にこの墓所に移され、現在の配置に整備されました。

右写真がその隣にある上杉景勝の廟。おそらく、元々はこの景勝の廟が中央にあったのでしょう。周囲には杉の大木があって壮観ですが、一部は創建当初のものと思われる、樹齢400年を超えるものがあるそうです。

■山形県米沢市

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2009.01.25

米沢 林泉寺

Yonezawarinsenji_2Yonezawarinsenji_4米沢城から南方へ行くとある林泉寺。山号は春日山。
名前でお気づきの通り、慶長6年(1601)に上杉氏がかつての本拠であった越後高田(現新潟県上越市)から移した寺院です。

上杉氏の尊崇を受けた寺院で、上杉景勝の正室や仕えた家臣の墓があります。

Yonezawarinsenji_9Yonezawarinsenji_12左写真は上杉景勝生母・綾御前の墓。院号は仙洞院。長尾為景の娘で、上杉謙信の姉ですね。上田長尾氏の長尾政景に嫁ぎ、景勝を生みました。米沢の林泉寺の建立に尽力し、中興開基とされています。

右写真は景勝の正室・菊姫の墓。彼女は誰有ろう武田信玄の娘で、信玄の死後に武田・上杉が和睦し、武田勝頼が天正7年(1579)に嫁がせました。甲州夫人と呼ばれたそうです。文禄4年(1595)からは人質として伏見で過ごし、そのまま慶長9年(1604)に伏見で死去しました。なので正式な墓所は京都の妙心寺にありますが、後に米沢にも墓が建てられたそうです。歌舞伎「八重垣姫」のモデルになったともされているそうです(私はそちらは詳しくないのでよくわかりません)。

Yonezawarinsenji_16そして面白いことに、武田信玄の子の墓がもう一つあります。こちらは武田(安田)信清の墓。信玄の六男か七男で、武田氏滅亡後に菊姫の縁を頼って上杉景勝に身を寄せました。景勝は彼を厚遇し、米沢藩高家衆筆頭として3300石を与えています。その後禄は減少しましたが、子孫はそのまま幕末まで上杉氏の家臣となりました。彼の墓所は県史跡に指定されています。

Yonezawarinsenji_18そしてお待ちかね? 今はここが一番のメインでしょう。直江兼続夫妻の墓です。兼続の履歴はパス(笑)。兼続は元和5年(1619)に60歳で江戸で死去しましたが、はじめは米沢にあった徳昌寺に葬られ、この寺が廃寺となった後に林泉寺に改葬されました。

兼続の妻・お船の方は直江景綱の娘で、はじめは上野国の総社長尾氏から景綱の養子となった直江信綱の妻となるものの、信綱が天正9年(1581)に上杉家中のトラブルで殺害されると樋口兼続と結婚し、兼続は景綱の婿養子となって直江氏を名乗りました。お船の方は菊姫と同じく文禄4年に伏見に人質として移りましたが、彼女は関ヶ原合戦後に米沢へ移っています。兼続死後は江戸で暮らし、寛永14年(1637)に81歳で死去しました。

Yonezawarinsenji_14あとは戦国期の上杉氏に仕えた人たちを。まずは水原(杉原、すいばら)親憲。はじめは大関氏でしたが、断絶していた水原氏を継ぎました。上杉氏の会津時代には猪苗代城(現福島県猪苗代町)の城主となり、長谷堂城合戦や大坂冬の陣に参加し、後者では徳川秀忠から感状を受けたそうです。元和2年(1616)没。

Yonezawarinsenji_24こちらは甘糟景継の墓。「上田衆」と呼ばれた上田長尾氏の家臣・登坂(のぼりざか)清高の子ですが、こちらも断絶していた甘糟氏を継ぎました。越後の五泉城(現新潟県五泉市)城主、のちに庄内の酒田城(現山形県酒田市)城主。上杉氏が会津に移った後は陸奥白石城(現宮城県白石市)城主となりました。米沢移封後も重臣として仕えましたが、慶長16年(1611)に没。自害したとされていますが、理由はわかっていないようです。

Yonezawarinsenji_26最後は吉江宗信の墓。吉江氏は越後守護上杉氏の被官で、そのまま越後長尾(のち上杉)氏にも仕えました。越中や上野攻めにも従軍。越中の増山城(現富山県砺波市)の守将となりましたが、御館の乱の混乱に乗じた織田方の柴田勝家の猛攻を受け、その後魚津城(現富山県魚津市)に引いて守っていましたが守りきれず、天正10年(1582)に子の景資らとともに自刃しました(この時織田方は本能寺の変のため撤退)。吉江氏は景資の子・長忠が継承し、以後代々上杉氏の重臣となりました。上杉氏が米沢に来るよりかなり前に死去していることから、後世、子孫が墓を建立したものと考えられます。

■山形県米沢市

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2009.01.22

米沢城跡(上杉神社)

Yonezawajo_2Yonezawajo_14再び山形シリーズです。
まずは話題の米沢城跡。やや便乗気味ですが…(笑)。現在は本丸に上杉神社があります。

この地域は大江広元の子・時広が出羽国置賜郡長井郷(現山形県長井市)の地頭として降り、長井氏を名乗って支配していました。この米沢城も、暦仁元年(1238)に長井氏によって初めて築かれたとされています。ただし確証が無くて微妙です。
長井氏は南北朝期に伊達氏によって滅ぼされ、以後は伊達氏の支配地となっています。天文17年(1548)に伊達晴宗が米沢を本拠とし(この頃は「松ヶ崎」と呼んでいたらしい)、これ以後城として整備が進められたようです。伊達政宗もこの米沢で生まれました。

Yonezawajo_6しかし豊臣秀吉による奥羽仕置によって政宗は陸奥の岩出山(現宮城県大崎市[旧岩出山町])に移され、代わって会津の領主となった蒲生氏郷の支配地となり、一族の蒲生郷安が城主となっています。蒲生氏が退き上杉景勝が会津に入ると、米沢には直江兼続が城主として入りました。関ヶ原合戦の後、会津を失った上杉氏は米沢を本拠とし、当初は30万石。のちに15万石となり幕末まで続きました。

Yonezawajo_7Yonezawajo_9米沢城は典型的な平城で、当初から天守閣はなく、中央に御殿があったそうです。南東の隅には上杉謙信の遺骸を祀る御堂があり、北東と北西の隅には隅櫓があったそうです。また、石垣ではなく土塁を巡らせていました。維新後に取り壊され、本丸跡には謙信を祀る上杉神社が建立されました。写真は謙信の祠堂跡と銅像です。
上杉神社には宝物殿があり、例の「愛」の前立ての付いた直江兼続着用の甲冑があります。

Yonezawajo_3Yonezawajo_12こちらは参道脇にある松岬(まつがさき)神社。元々上杉神社は上杉治憲(鷹山)も合祀されていたのですが、後に分祀されてこの神社が建てられました。ほかに上杉景勝・細井平洲・直江兼続・竹俣当綱(まさつな)・莅戸(のぞき)善政が祀られているそうです。右写真は上杉鷹山の銅像です。

城内には近代の当主上杉茂憲(もちのり)旧邸上杉博物館があります。博物館は必見ですね。

■山形県米沢市

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2009.01.20

会津藩松平家墓所

Aizumatsudaira_2Aizumatsudaira_7会津の最後は、東山温泉のほど近くにある松平家墓所。会津藩主となった松平(保科)氏代々の墓があります。2代目の保科正経以降の藩主の墓があり(松平を名乗るのは3代目から)、初代の保科正之のものはありません。

元は保科正之の嗣子だった正頼が明暦3年(1657)に亡くなった時に初めて墓がこの地に建てられ、以降は代々の墓所となったそうです。なので、厳密には最も古いのは、実際に藩主にはならなかった正頼の墓ということになります。保科正経までは仏式ですが、3代目松平正容(まさかた)以降は神式に改まっているそうです。
上の右写真は神式で埋葬されている墓です。確か奥が正容の墓、手前が5代目容頌(かたのぶ)の墓です。

Aizumatsudaira_3Aizumatsudaira_10左写真のように、墓石は崖の上に設置され、下には上の写真にあるような墓碑が置かれています。

そして墓所の奥にあるのが右写真の松平容保(かたもり)の墓。この時すでに日が暮れてしまったので暗いですが…(笑)。
会津藩最後の藩主として有名ですが、元々は尾張徳川の分家に当たる美濃高須藩主・松平義建(よしたつ)の子で、会津には養子で入った人です。この松平義建という人は、尾張藩やら桑名藩やらたくさん息子を有名な家に送り込んでいる人ですが(笑)、容保もその一人でした。
戊辰戦争後は各地で幽閉された後に東京へ移り、その後は日光東照宮宮司になったりしてますが、会津との関わりは無くなったので、墓がここにあるのはやや意外でした。

東山温泉の宿泊ついでに訪れるのがベストです(笑)。

■福島県会津若松市

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2009.01.17

葦名家花見ヶ森廟

Ashina_3Ashina_2鶴ヶ城の北側の山裾、今は住宅地になっている一角に葦名氏三代の墓所があります。16代目の葦名盛氏をはじめ、盛興、盛隆の三代からなります。それぞれ塚の上に五輪塔が配置され、その傍らは大木がそびえています。

Ashina_1_2真ん中にあるのが、16世紀半ば頃の当主である葦名盛氏の墓。この盛氏は知略と人望に優れた人と評価されていますが、この時期の葦名氏は全盛期を迎えたことによります。会津の支配を安定化させただけではなく、長沼・二本松・須賀川・郡山といった現在の福島県の中央部に支配を拡大させ、米沢を中心に勢力を拡大していた伊達氏と勢力を二分する存在となりました。この領国拡大はほぼ盛氏が一代で成し遂げたため、高い評価を得ています。

Ashina_6次代の葦名盛興は盛氏の子でしたが、天正3年(1575)に早世。毒殺説もあるそうです。なので、事績についてはよくわかりません。いずれにせよ、葦名氏の行く末を暗示するかのような不吉な事態です。

Ashina_10その次代の葦名盛隆は須賀川を本拠とする二階堂盛義の子でしたが、盛興に子が無かったため、養子となって葦名氏の当主に迎えられました。織田信長と誼を通じるなど外交政策に長けていたようですが、家臣との折り合いが悪かったらしく、天正12年(1584)に黒川城内で暗殺されました。
生まれたばかりだった継嗣の実子も直後に死去したそうで、跡継ぎには佐竹義重の子である義広か伊達輝宗の子(政宗の弟)である竺丸(小次郎)とするかで家中が分裂し、結果的には義広が継承しますが、葦名氏は没落の一途を辿ることになっていきました。

というわけで、盛氏以外の二人は決して満足できる生涯ではなかったかと思いますが、仲良く並んで眠っています。
もっともこの墓所は後世に整備されたと思しく、葦名氏滅亡後に彼らを偲んで建立されたものと考えられます。

■福島県会津若松市

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2009.01.16

神指城跡

Kozashijo_7Kozashijo_5会津若松の中心部から少し離れた田園地帯の一角に、ぽつんと土塁の遺構があります。これが、神指(こうざし)城の遺構の一部とされています。

会津に入った上杉景勝は、若松城では守りにくく手狭であるとの判断から、直江兼続に指揮を命じて新たな城の建設を進めました。それがこの神指城でした。
築城は慶長5年(1600)2月に開始されたものの、これが徳川家康による討伐の口実を与えてしまったようで、上杉討伐軍が組織され家康も直々に向かってくることになりました。同年6月には徳川との戦争が現実味を帯びていったため、結局は戦争準備のため築城は放棄。
実際は家康が「小山評定」によって反転して関ヶ原へ向かったため直接対決には至りませんでしたが、戦後は上杉氏が会津を失ったため、結局この神指城は「幻の城」に終わりました。

この土塁遺構には大木があり、「高瀬の大ケヤキ」と呼ばれ、天然記念物に指定されています。築城時には既にあったとされています。

Kozashijo_2土塁の傍らに巨石が落ちていました。何か関係があるのでしょうか?

周囲はまったくの田園風景で、ほかに遺構らしきものは見あたりませんでした。記憶によればこの土塁は二の丸あたりのものだったと推定されているようですが、本丸とされる辺りにはなにもないようです。未完成なだけに、遺構としてもどれほどのものがあるのか、よくわからないのでしょうか。

■福島県会津若松市

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2009.01.15

会津若松城跡(鶴ヶ城)

Aizutsurugajo_25Aizutsurugajo_36南に飛び、しばらくは会津の史跡を。
会津といえば鶴ヶ城。天守閣は再建ですが、威風堂々とした感じ。

この城で真っ先に浮かぶのは戊辰戦争、白虎隊といったところでしょうけれども、あくまで中世史跡として見るならば(笑)、葦名氏が本拠を構えた黒川城がかつてここにありました。

葦名氏はご存じ三浦一族です。三浦義明の子で、会津の地頭になった佐原義連を祖としています。宝治合戦の後に佐原氏が三浦宗家を継承することになりますが、代わって会津の地頭職を有する本来の佐原氏の名跡は庶子筋が継承することとなり、居住していた相模国葦名(現神奈川県横須賀市)の地から名字が葦名氏となりました。

鎌倉期の葦名氏は相模に在住していたようですが、南北朝期に葦名直盛がはじめて会津に下向し居館を構えたとされており、それがのちの黒川城になったと言われています。ただはっきりと葦名氏の会津支配が現れてくるのは15世紀になってからだそうですが、この頃になると一族の猪苗代氏との争いが絶えなかったようで、戦国期にかけて戦争を繰り返しています。戦国期には葦名盛氏によって隆盛を見ていますが、その後佐竹氏から養子に入った葦名義広は天正17年(1589)の摺上原の戦で伊達政宗に大敗を喫し、会津を追われて没落しました。

Aizutsurugajo_3Aizutsurugajo_7葦名氏を放逐した伊達政宗が会津を支配下に収めたのも束の間、早くも翌年の奥羽仕置によって会津は没収され、蒲生氏郷に与えられました。この頃城下が整備され、文禄2年(1593)に初めて天守閣が建設されます。この時の天守閣は豊臣期天守らしく、黒塗りだったようです。この時、地名も「若松」に改められました。

ところが氏郷死後、蒲生家中で騒動があり、慶長3年(1598)に宇都宮へ減封となりました。そして代わって入ったのが、越後を後にした上杉景勝。公称120万石は徳川、毛利に次ぐ規模でした。同時に米沢も所領としており、話題の?直江兼続は米沢城主となっています。
しかしご存じの通り上杉氏は関ヶ原合戦で西軍に荷担したため、戦後は会津が没収。米沢のみが残されたため、移転しました。

そして会津には、蒲生秀行が60万石の所領を得て復帰。ところが慶長16年(1611)の大地震で天守閣は倒壊し、秀行も翌慶長17年(1612)に30歳で没。嫡男の忠郷も寛永4年(1627)に25歳で没して蒲生宗家は断絶したため、出羽上山藩主で忠郷の弟である忠知に名跡を継承させ伊予松山へ転封となり、蒲生氏の会津支配はここで終わりました。
蒲生氏と入れ替わって伊予松山から加藤嘉明が入り、子の明成が寛永16年(1639)に天守閣を再建。この時のものが今の天守閣のモデルになっているそうです。しかし明成はその4年後に家中騒動のかどで改易となり、そして、徳川秀忠の子である保科正之が入ってきました。以後、松平氏を名乗って幕末に至ります。

Aizutsurugajo_32Aizutsurugajo_17左写真は太鼓門。大手門の性格を持つ門とされています(それにしては内側過ぎる気も…)。右写真は天守閣から見たところです。その名の通り、太鼓が置かれていたそうです。

Aizutsurugajo_27Aizutsurugajo_16左写真は本丸御殿跡。礎石だけが遺っています。
右写真は、天守閣から見た町並み。四方見渡すと、ぽっかり広がる盆地といった感じが見て取れました。冬場はまったく違う景色が見られるんでしょうねえ。

■福島県会津若松市

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2009.01.10

戸沢家墓所

ShinjotozawaShinjotozawa_3新庄藩主である戸沢氏の墓所です。菩提寺の瑞雲院に隣接し、当地では「御霊屋(おたまや)」と呼ばれています。初代藩主の戸沢政盛から、2代目の正誠(まさのぶ)を除く10代の墓があります。

各地に歴代藩主の廟所はありますが、このように茅葺きの覆いのある所を見るのは私は初めてでしたので、新鮮でした。6つの建物からなっていますが、それぞれ時代による建築様式の変遷があるそうです。

Shinjotozawa_5Shinjotozawa_7戸沢氏は桓武平氏貞盛流とされ、源頼朝の奥州征伐に従軍して奥州岩手郡雫石(現岩手県雫石町)に土着した一族と言われています。その後出羽国角館(現秋田県仙北市[旧角館町])に移って、隣接する小野寺氏と激しい抗争を繰り広げたそうです。

戸沢氏は秀吉の関東征伐にいち早く呼応して小田原へ参陣したり、関ヶ原合戦では徳川方に味方して乗り切っていますが、佐竹氏と入れ替わる形で常陸小河(現茨城県小美玉市[旧小川町])へ転封。山形の最上氏が改易になると、代わって山形に入った鳥居氏の与力の形で当時の当主・戸沢政盛が新庄に復帰し、18世紀初頭に正式に大名となりました。

このように時流を読んで栄転しながらも一度は関東に移されており、翻弄された東北の領主の苦労が垣間見えます。結果として東北に復帰した後はそのまま根を下ろし、この廟所も大名としての確立を祝うかのように、18世紀初頭に初めて築かれたようです。

■山形県新庄市

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2009.01.06

鮭延城跡

Sakenobe_6Sakenobe_11山形県に入り、鮭延(さけのべ)城跡へ。別名真室城とも言います。この地域に勢力を張っていた仙北地方(現在の秋田県南東部)の領主小野寺氏の被官である、佐々木(鮭延)氏の居城跡です。天文期頃の築城とされています。

初めてここに城を築いた佐々木(鮭延)氏は近江源氏の一族で、15世紀末~16世紀初頭に近江から出羽の小野寺氏の元へ降ってきたと言われています。この辺が事実かどうかはわかりませんが、16世紀半ば頃から小野寺氏被官として現れ始めたようで、庄内の武藤(大宝寺)氏や山形の最上氏との抗争に備えるため、鮭延の地に城郭を築いて前線としたそうです。

しかし最上氏の勢力が増大すると、天正9年(1581)に城主鮭延秀綱は最上義光に降伏。以後の鮭延氏は最上氏の被官となり、逆に小野寺氏と激しく争うようになったようです。鮭延秀綱は関ヶ原合戦に絡んだ慶長5年(1600)の長谷堂城の攻防戦で最上方として活躍しています。鮭延氏は、最上氏改易後に下総古河藩の土井氏に仕え、ほどなくして断絶したそうです。
鮭延城には代わって戸沢氏が入りましたが、すぐに新庄に移転し、廃城となりました。

Sakenobe_7Sakenobe_9とまあ、東北の戦国史においては結構重要な城なんですが、全然整備されてないので、写真を撮っても薮が写るだけです(笑)。遺構もほとんどわかりませんでした。草が無ければそれなりに見られたりするんでしょうか。

Sakenobepano
ただこのように、眺めは絶景。眼下には最上川支流の鮭川が流れています。

Sakenobe_1Sakenobe_3城の麓には、鮭延氏菩提寺の正源寺(しょうげんじ)があります。寺伝では天文5年(1536)築。縄文晩期の土偶(重要文化財)を所蔵しているそうで、珍しいお寺です。
写真は本堂と鮭延氏の墓。奥に見える宝篋印塔が一番古いようですが、近世初頭頃のものでしょうか。

■山形県真室川町

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2009.01.04

院内銀山遺跡

Innai_28_2Innai_34_2これからは東北シリーズ。私の記憶が薄れる前に進めていきたいと思います。

まずは秋田県の最南端、雄物川の源流域にある院内銀山の跡。慶長11年(1606)に発見され、久保田(秋田)藩主の佐竹氏によって開発が進められました。
産出のピークは天保期(19世紀前半)で、幕末にかけて一度廃れた後、明治になって再開発が進められました。そして財閥の古河市兵衛に払い下げられた後は再び活況となったそうですが、長くは持たず大正に入って休止。昭和初期に廃坑となりました。

今は実際に発掘していた所まで登ることはできませんが、麓の方にある「御幸坑」(左写真)までは行くことができます(中には入れませんが)。右写真は、そこから少し降ったところにある、町の鎮守だった金山神社。この神社をランドマークとして、町が広がっていました。

Innai_29_2Innai_4_2とはいえ今は一軒も家は残っていません。遺跡だけが物寂しく残っています。左写真は神社の近くにある正楽寺跡。
右写真は、町への入口に設けられた「十分一御番所」跡。ここを通る物資に対して、10分の1の役を徴収したそうです。

Innai_10_2Innai_17_2こちらは、その番所と鉱山町との中間点あたりにある墓地。ここで亡くなった坑夫などの墓が今も遺されています。
右写真は、院内銀山で医師を勤めていた門屋養安とその一族の墓。養安は天保6年(1835)から明治2年(1869)までの詳細な日記を遺していることで知られています。

もう一つ院内の日記として忘れてはならないのが、梅津政景の日記。梅津氏は元々宇都宮氏の被官だったそうですが、梅津政景は佐竹義宣の家臣となり、共に秋田へ移住。慶長14年(1609)には「山奉行」に任じられ、院内銀山で様々な法整備を行った人として知られています。彼の遺した日記は初期の藩政の様子や鉱山開発の史料として重要なものですね。(私はまだ読んだことはないのですが…)

Innai_39_2最後は現地の看板。かつてはこのような町並みが広がっていたそうです。
戦前まではある程度町並みが残っていたそうですが、今は影も形もありません。かつてこんな町があったことが信じられないくらいです。廃れた鉱山町の悲哀を感じます。

ちなみにJR院内駅に併設する形で、資料館の「院内銀山異人館」があります。

■秋田県湯沢市(旧雄勝町)

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2008.12.29

相模国分寺跡

Sagamikokubunji相模マニアックシリーズの最後は相模国分寺跡。
周囲は住宅地となっていますが、遺跡は公園というより広場のようになっています。地元の子供さんたちにとって恰好の遊び場のよう(なので、写真撮るのには少々難儀しました(笑))。

相模国大住郡(現在の海老名市)に国府が置かれ(こちら参照)、国分寺もこの地に設置されています。
平安期に何度か建て替えられたようですが、中世を迎える段階では既に廃れており、鎌倉期には少し離れた所に移転。こちらの国分寺は今に続いており、鎌倉期の梵鐘(重要文化財)も遺されています(行きたかったけど、時間の都合で行けませんでした)。

Sagamikokubunji_1Sagamikokubunji_2こちらは金堂跡。遺跡を示す石碑が建っています。


Sagamikokubunji_3Sagamikokubunji_7右写真は七重塔跡。例によって巨大な礎石がここにも遺っていました。

左写真は回廊跡。このように、一部の遺構は整備されています。現地看板によると、史跡公園として全面的に整備する予定になっているそうですが、ゆっくりとといった感じでしょうか。それとも昨今のご時世によるのでしょうか、私が行った時は特に整備作業が行われている形跡はありませんでした。


国分寺とは直接関係ないですが、海老名といえば、あの播磨国矢野荘(現兵庫県相生市)の地頭(「下海老名氏」)として有名ですね。もちろんこの地を出自としています。
相模に残った一族は和田義盛の乱で討伐されたそうで、没落。後には北条氏御内人に海老名氏の名前もあるそうですが、足利氏被官になった人もいたようで、室町期にはその一流が鎌倉府の奉公衆になっています。しかしそれも永享の乱で没落したそうで。

■神奈川県海老名市

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2008.12.27

星谷寺

Zamashokokuji_4座間の星谷寺(しょうこくじ)へ。本尊が聖観音像であることから、「星の谷(ほしのや)観音」とも呼ばれています。

Zamashokokuji_1Zamashokokuji_7ここの梵鐘(重要文化財)は、嘉禄3年(1227)の年紀が刻まれており、東日本では屈指の古さを誇る鐘です。

大檀那として「源朝臣信綱」の名もあり、この人物は近江源氏の佐々木信綱とされています。
佐々木氏は平氏政権によって近江を追われて相模国の武士である渋谷氏を頼ったそうで、信綱は承久の乱で幕府方として活躍。近江守護となっていましたが、さらに近江で地頭職を得ています。
鐘が造られた前年の嘉禄2年(1226)には、九条頼経の征夷大将軍宣下のための使者として上洛しているそうですが、この鐘は、佐々木氏が相模に居住していたことを傍証する貴重な資料とのことです。
佐々木信綱と星谷寺との関係はよくわかりませんが、父祖による渋谷氏との縁が推測されているようです。

Zamashokokuji_5こちらは境内にある巨大な宝篋印塔。宝暦13年(1763)のものだそうです。高さは5m以上あるとか。

■神奈川県座間市

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2008.12.26

本間氏墓所

Kentokuji_1厚木の建徳寺には、本間氏累代の墓があります。
本間氏は村上源氏の末裔を称する(実際は武蔵横山党小野氏か)海老名氏の一族で、源平期に本間能忠が相模国高座郡本間(現神奈川県座間市)に居住したことにより、本間氏を名乗ったとされています。その後同国愛甲郡依知郷(現神奈川県厚木市)に移ったとされ、この墓所はその居館跡とされる地にあります。

以後佐渡国守護(実際は守護代か)となって土着したことは知られていますが、本貫である依知郷に一族が残っており、この墓は南北朝から室町期にかけてのものと考えられているそうです。

本間氏は元々は大仏北条氏に属したようですが、相模に残った一族は鎌倉幕府滅亡時に南朝方へ寝返り、新田義貞と行動を共にしている様子が『太平記』に描かれているとか。当時の人である本間資忠が正平13年(延文3、1358)に武蔵多摩川矢口(現東京都稲城市)で義貞の子・新田義興とともに戦死。
この時没落したとみられ、その後は足利将軍家の近習となったとも言われています(…が、実際はどうでしょう?)。

KentokujiKentokuji_3元々は生け垣に囲まれて並んでいたそうですが、近年の墓地の整理によってこのように並べ替えられたそうです。

周辺には本間氏にまつわる伝承のある寺社がいくつかあるようなので、時間があればじっくり歩いてみるのもいいかもしれませんね。

■神奈川県厚木市

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2008.12.25

串橋の中世石塔群、と思っていたら…

KushihashiKushihashi_2伊勢原市串橋地区にある中世の石塔群。
元々は近隣各地にあったものだと思いますが、開発などに伴ってここに集められたのでしょう。

鎌倉期のこの地域の武士という善波太郎の墓という伝承がるそうです。
…とおもったら、どうもそれはこれではなかったらしい(こちらこちら参照)。石標にもあるように、これは「道祖神」として今は祀られている石造物群で、伝善波太郎墓は別の場所にあったようです。案内板などもなく苦労してこれを見つけて満足していたんですが、とんだ失敗です(笑)。マニアックツアーには付き物というべきか。
まあひっそりたたずむ石造物を見ることはできたので、ひとまずは満足ということで。

■神奈川県伊勢原市

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2008.12.24

太田道灌首塚

DokankubizukaDokankubizuka_1さて、こちらが太田道灌首塚とされる所です。遺構などで証明されていはいませんが、この辺りが道灌の殺害された「糟屋館」跡とされています。

Dokankubizuka_3この地に拠点を構えた扇谷上杉氏はご存じの通り、鎌倉・室町期にかけて東国で勢力を張った上杉氏の庶家で、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)に居館を構えていたことから「扇谷」の通称で呼び習わされています。

もっとも惣領家に当たる山内(やまのうち)上杉氏や、一族の犬懸(いぬがけ)上杉氏(上杉禅秀の乱で没落)のように関東管領や守護職を持たず、どちらかといえばぱっとしない一流でした。
永享の乱の後、享徳の乱など関東では内乱状態になりますが、当時の扇谷家当主の上杉定正は山内上杉氏に随って足利成氏を古河に追い払います。もっとも、この辺りの戦況は、太田道灌の活躍が第一と見られているそうですが…。ともあれそのような経緯によって、扇谷上杉氏は武蔵国河越(現埼玉県川越市)を本拠に据えて、南関東で飛躍的に勢力を拡大していったようです。

ただ今度は山内上杉氏で被官の長尾景春(白井長尾氏)が反乱を起こすと、その後は古河公方との関係を巡ってゴタゴタしはじめ、「下剋上」を恐れた上杉定正は「糟屋館」で太田道灌を暗殺。その後結局は山内上杉氏と戦争を始めることになりますが、戦況振るわず斜陽に。山内家とはこの後も紆余曲折ありますが、最終的には天文15年(1546)の「河越夜戦」によって北条氏康に打ち破られ、扇谷家は事実上滅亡しました。

Dokankubizuka_4とまあかなり乱暴なまとめですが(笑)、私も詳しくはないのでこの辺でご勘弁をば。
ともかくも、この地は室町から戦国期の関東において、一つの重要な事件の舞台ということになりますでしょうか。
今はのどかな風景が広がっています。

ちなみに最後の写真は、首塚の近くにある大慈寺。ここも道灌の菩提寺とされています。

■神奈川県伊勢原市

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2008.12.20

高部屋神社

Takabeya_8Takabeya_1次は道灌首塚…と行きたいところですが、その近くにある高部屋神社を。

この神社は延喜式内社で、元々八幡神社と呼ばれていたそうです。相模国糟屋荘の総鎮守とされていて、鎌倉期にはこの地域の地頭となったという横山党の糟屋有季という人物が社殿を造営したとされています。
また天文20年(1551)には地頭渡辺石見守という人物が社殿を再興したと言われ、後北条滅亡後の天正19年(1591)に徳川家康が社領を寄進したと言われます。現在の社殿は慶応元年(1865)再興とされていますが、関東大震災で倒壊したそうで、その後の昭和4年(1929)築。

また、境内は「丸山城跡」とされています。糟屋氏の居城だったと言われているようですが、糟屋氏は比企能員に味方して滅亡。現在は遺構としてはよくわかりませんが、崖の上に立地しているので、そこらへんからわずかながら風情を感じられます。

Takabeya_2Takabeya_3ここの目玉はこの梵鐘。至徳3年(1386)に大工河内守国宗によって造られ、願主平秀憲によって奉納されたことが刻まれています。これらの人物については詳細はわかりませんが、鎌倉に関係する人物だったようです。この地域では、南北朝期の梵鐘が遺っているのは結構珍しいのではないかな、と。

■神奈川県伊勢原市

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2008.12.18

太田道灌胴塚

DokandozukaDokandozuka_4関東では絶大な知名度を誇る(それほど大袈裟に言うほどでもない?)太田道灌(資長、持資とも)の墓が、伊勢原市内に二箇所あります。

そのうち「胴塚」と呼ばれるのがこちら。洞昌院というお寺の傍ら(本来は境内だったか)にあります。この寺は、道灌が上杉憲実の弟の道悦和尚のために建立したという寺伝があるそうです。

太田氏の出自はよくわからないようで、関東では武蔵国と相模国それぞれに拠点を置いた一族がいたと言われています。道灌は相模国に拠点を置き扇谷上杉氏の家宰の地位にあった家の出身で、永享4年(1432)に相模国粕屋(この胴塚のある地域)で誕生し、鎌倉の禅林で学んだという伝承があります。

道灌の事績についてはここでは省略しますが(ウィキペディアあたりをどうぞ)、文明18年(1486)に扇谷上杉定正によって暗殺されました。その暗殺の場となった定正の居館には、もう一つの墓である「首塚」があります(これはまた後程)。

二つの墓の由来ははっきりとはわかりませんが、この「胴塚」は寺院の境内にあることから、こちらが本来の道灌の墓だったかもしれません。

Dokandozuka_1Dokandozuka_3周囲には沢山の小さな石造物が並んでいます。時期ははっきりとはわかりませんが、結構古そうです。宝篋印塔と五輪塔は中世のものかも?

■神奈川県伊勢原市

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2008.12.15

源実朝首塚

SanetomozukaSanetomozuka_4_2丹沢の南麓の秦野へ。ここには源実朝の首塚とされる供養塔があります。

周知の通り、実朝は承久元年(1219)に鶴岡八幡宮で暗殺されたわけですが、その首は行方不明になったとされていて、三浦義村の被官である武常晴が密かに波多野氏を頼ってこの地で葬ったという伝承があるそうです。
武(たけ)氏は三浦の出身のようですが、後にこの地に移住したとされています。

元々この地域に根を張っていた御家人の波多野氏は、秀郷流藤原氏の一族とされる地付きの武士団でした。ただ一旦平氏に与した時期もあったようで、そのため鎌倉期になるとやや冷遇されたようです。

鎌倉初期には波多野義重が承久の乱で活躍しましたが、恩賞として越前国志比(しい)荘(現福井県永平寺町)の地頭となり、拠点は徐々に越前に移っていったようです。あえて鎌倉から遠い越前に本拠を移したのはいろいろ説もあるようですが、一旦平氏に付いたという経歴もあって、波多野氏が結局は有力御家人としての基盤形成に失敗したことによるのかもしれません。
越前に移った後はあの永平寺を建立しており、結構歴史的には重要な仕事をしています(笑)。波多野氏は六波羅評定衆になったそうで、室町期にかけて事務官僚的な一族として生き残っていきました。

ちなみに豊後に西遷して大名に上り詰めた大友氏は、波多野氏の一族です。

話が長くなりましたが、この首塚も、波多野氏の関与がありそうです。ちなみに実朝暗殺時の惣領であった波多野忠綱は、実朝の三十三回忌に際し、近くに金剛寺という菩提寺を建立しました。首を巡る話の真偽はともかく、実朝に対する特別意識をかなり強く持っていたことが窺えます。

Sanetomozuka_5すぐ横には、今はただの広場にしか見えませんが(笑)、鎌倉期の武士の居館と思しき遺構が見つかった場所があります。波多野氏との関係が考えられているようです。

■神奈川県秦野市

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2008.12.12

米倉寺

Beisoji土砂降りの小田原を通過して米倉寺(べいそうじ)へ。
天文元年(1532)に建立された曹洞宗の寺院です。元は用国院という寺院があったそうですが、甲斐武田氏の被官である米倉種継が移住して再興し、米倉寺と改名したそうです。

Beisoji_2写真は米倉氏墓所です。

米倉氏は甲斐武田氏分家の一族とされ、甲斐国八代郡米倉(現山梨県笛吹市[旧八代町])に本拠を構えて米倉氏を名乗ったとされています。米倉種継は甘利氏の与力となっており、なんか甘利氏との間ではいろんなエピソードがあるようです(詳しくは調べてみて下さい)。

ただ、系譜的にはなんだか錯綜しているようです。
天文期の米倉氏当主は宗継という人物だったようで、彼は天正3年(1575)の長篠の合戦で戦死。種継はその子のようです。そして当主とおぼしき人物は別に忠継(宗継の兄弟らしい)という人がいて、彼は国衆の「武川衆」の代表格となりますが、武田氏滅亡により徳川氏の被官となっています。種継との関係はよくわかりませんが、後の米倉氏は種継の子孫が当主となっているようです。

このような経緯を考えれば、米倉種継が天文元年に建立したという伝承というのは事実とするのは難しいところです。実際は、徳川氏が関東転封となった後に米倉種継がこの地に所領を得た可能性があり、この時に菩提寺としてこの寺を築いたと考えられます。写真の墓石は種継の墓が最も古く(たぶん一番手前)、慶長5年(1600)の年号があるそうです(確認せず)。

米倉氏は武蔵国大里郡(現埼玉県熊谷市の辺り)にも所領を持っていたようですが、関係はよくわかりません。子孫は徳川綱吉に抜擢され、大名成を果たして若年寄にもなっています。最終的には武蔵六浦(現横浜市金沢区)の大名となりました。

■神奈川県中井町

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2008.12.10

箱根神社

Hakonejinja_2Hakonejinja_3津久井からは「道志みち」を抜けて山中湖を経由し、一気に箱根へ。
ここからは、箱根から徐々に東へ向かって行きます。

箱根の観光名所の一つでもある、芦ノ湖のほとりにある箱根神社。箱根権現の別名があります。今は神社ではありますが、元は山岳修験との関わりがあったようで、別当寺もありましたが廃仏毀釈で廃絶したようです。

早くから源頼朝をはじめとして鎌倉幕府からの保護を受けており、御成敗式目の罰文にも「伊豆箱根両所権現」と出てくるように、こちらも篤い保護を受けた伊豆山神社(静岡県熱海市)と並び称されています。

Hakonejinja_6今の社殿は比較的新しそうですが、木々は茂っていて伝統を感じます。週末は芦ノ湖周辺も賑やかになるんでしょうけれども、私が行った時は天気の悪い平日の朝とあって、人影はまばら。静けさが印象に残っています。
立派な宝物館もあって、箱根権現縁起絵巻(重要文化財)や文書なども展示されているようです(私は見ませんでしたが)。

…この後土砂降りで、箱根の史跡はすべて断念する羽目に。是非とも再訪したいものです。

■神奈川県箱根町

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2008.12.08

津久井城跡

Tsukuijo_56Tsukuijo_29相模川の上流、ダム湖である津久井湖のすぐ脇にある津久井城です。

築城年代は古いようで、鎌倉期に三浦一族の筑井(津久井)氏がこの地に本拠を構え、築城したと言われています。室町期は扇谷上杉氏や相模本間氏の影響があったともされていますが、詳しいことはよくわからないようです。

史料上に登場するのは、戦国期になってから。伊勢宗瑞(北条早雲)が関東へ進出すると、甲斐との国境に近い津久井城は重要な軍事拠点となり、たびたび甲斐武田氏との戦争の舞台になっています。
大永5年(1525)に北条氏綱と武田信虎が津久井で合戦に及んでいたようですが、その頃の城主として「内藤大和入道」という名が見えます。
戦国期に津久井城を支配した内藤氏の出自ははっきりしないようですが、元々は扇谷上杉氏の被官だった可能性が指摘されており、後北条氏の麾下にありながらも、「津久井衆」として一定度の自立性を持った国衆だったと言われています。このような存在は、相模国では非常に珍しいようです。

Tsukuijo_31Tsukuijo_39左写真は本丸、右写真は本丸の下にある「太鼓曲輪」。
城跡一帯が公園となっているので正直舐めてかかっていましたが、上まで登るとかなり疲弊します(笑)。比高はそれほどでもないかもしれませんが、登山道は勾配のきつい坂を延々歩かされるので、結構堪えました。北側は今はダム湖になっていますが、昔は谷だったことを考えると、相当急峻な山城だったことが想像されます。

Tsukuijo_41Tsukuijo_50左写真は「飯縄(いいづな)曲輪」。この下には井戸もあり、今も水が湧いていました。右写真はさらに先端方面に行くとある堀切。

Tsukuijo_45Tsukuijo_55左写真は飯縄曲輪の先、先端部に当たる場所。狼煙台とされています。
そこからの眺めが右写真。城からは南東方向に当たり、見えているのはおそらく相模原市や町田市のあたり。手前の川が相模川です(左が上流)。

津久井城は天正18年(1590)6月、八王子城の落城直後に徳川氏被官の本多忠勝・平岩親吉らの攻撃を受けて落城。この時内藤氏当主(実名などは諸説あって不明瞭)は小田原に籠城していましたが、結局小田原落城により没落しました。

最近では麓の根小屋での発掘調査が進んでおり、文献方面では新しい関連史料の発掘もあったようです。いまいち知名度が低い城ですが、今後注目を浴びるかもしれません。

■神奈川県相模原市(旧津久井町)

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2008.12.07

上矢部の板碑群

Kamiyabe_4Kamiyabe_1次は「相模マニアックツアー」編。旧相模国の内陸部の史跡シリーズです。おおよそ小田急線沿線に当たります。

最初は相模原市上矢部地区の、米軍基地の傍らの住宅地にある中世の板碑群。なんでもない住宅地に、左写真のような覆屋がぽつりと建っています。その中に、板碑が保存されています。

Kamiyabe_3Kamiyabe_2中心にある大きい板碑は乾元2年(1303)のもので、ほかの板碑も中世に作られたものです。

作られた経緯はよくわかっていないようですが、鎌倉期にこの地域を支配していた矢部義兼という人物の供養碑とされています。矢部義兼は横山党の一員で、建暦3年(1213)に和田合戦で戦死した人物とかで、その追善供養ということのようです。

この地域は弥生式土器も出土したり、古墳もあったりするなど、かなり古くから人が住んでいたことがわかっています。近くにはほかに中世の石造物と思われるものがあるようです(こちら参照)。

■神奈川県相模原市

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2008.12.06

鹿児島神宮

Kagoshimajingu_4Kagoshimajingu_8サマーセミナーシリーズの最後は鹿児島湾(錦江湾)の一番奥の地域にある、鹿児島神宮。大隅国一宮で、かつては正八幡宮(しょうはちまんぐう)と呼ばれた地方の有力神社でした。古代の段階で大隅国に多くの所領を有しており、同じ八幡宮の有力神社である宇佐八幡宮(大分県宇佐市)との間では、その正当性をめぐって争いもあったようです。

度々戦火に遭っているようですが、島津氏の保護を受けており、現在の社殿は宝暦6年(1756)に島津重豪によって造立されています。鹿児島県最大の木造建築物なんだそうです。

今回は文書も拝見させていただきました。最も古いものは保安2年(1121)のもの。中世のものは石清水八幡宮(京都府八幡市)からのものが多く、石清水の影響を受ける神社(末社?)となっていたようです。

Mirokuin_3神社のすぐ手前に小学校がありますが、ここは旧弥勒院跡。正八幡宮の別当寺です。廃仏毀釈によって跡形もありませんが、裏手には墓所がひっそりと遺されています。この墓所は近くにあった禅宗寺院・正興寺の墓所も兼ねているようです。正興寺にはかつて島津忠昌の招きによって「薩南学派」の祖である桂庵玄樹が滞在したこともあります。

Mirokuin_5Kuwahata_2弥勒院跡に対面するようにあるのが、社家で、神社史によると「神主」を社職としていた桑幡家の屋敷跡。わずかに土塁の一部と墓が遺っています。『平家物語』に正八幡宮社家として桑幡清道という人が登場するそうです。

Rusuke_2少し離れた所には、同じく社家で、「執印留守」を社職とした留守家の屋敷跡があります。維新時はこの家が4つある社家の中でも最も禄高が高いことから、家格が一番高かったのでしょうか。石清水より下向した一族とも言われています。

SawakeSawake_2そしてこちらは社家で「田所」を社職とした沢家の屋敷跡にある墓石群。
個人的には、沢氏に関係する文書を使ったことがあるので感慨深いです(笑)。
墓石群は五輪塔や板碑などが立ち並ぶ壮観なもので、手前にある石柱には嘉禎3年(1237)と延応元年(1239)の年号が刻まれています。

このほか近隣には大隅国分寺跡や、隼人塚(国史跡)などもあり、かつて南九州の中心地だったことが想像されます。これらの史跡はオプションで、私は飛行機の都合があって断念しました。またいずれ。

■鹿児島県霧島市(旧隼人町)

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2008.12.04

下伊倉城跡

Shimoikurajo_16志布志から大隅半島を南へ。肝属(きもつき)川のほとりにある下伊倉城です。

中世の城郭遺構であることは確実のようですが、珍しく川のほとりにある平城で、舟運の結節点に築かれた拠点として理解されているようです。

大隅国肝属郡弁済使として入部した肝付氏によって築かれたとされ、かつてはここを本拠としていたという説もあるようです。しかし後に山城を築いて本拠を移したため、一族の野崎氏が入っていわゆる「水軍」の拠点になったとされています。

Shimoikurajo_11Shimoikurajo_12遺構はこんな感じ。一段高い方が曲輪だったようです。
この城跡は戦後の河川改修によって半分が破壊されてしまい、今残っているのは半分だけなんだそうです。
当時の土塁は10メートルくらいあったそうです。

Shimoikurajo_6Shimoikurajo左写真は現地にあった石塔群。うち一つは永禄9年(1566)の銘が刻んでありました。
右写真は肝属川。今も船を浮かべられそうな大きな川です。

■鹿児島県東串良町

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2008.12.03

志布志 山宮神社

Sanmiyajinja_1Sanmiyajinja志布志港から少し内陸へ入った所にある山宮(さんみや)神社。
社伝によれば、和銅2年(709)創建とされ、廃仏毀釈までは近隣の6社を合祀して「山口六社大明神」と呼ばれていました。
近世には志布志郷の宗廟として郷民の氏神信仰の中心となった、とされています。

中世の懸け仏や、写真の大クスノキの根元からの出土品には宋代のものがあったそうです。

写真はありませんが、ここは古代から中世にかけての銅鏡が数多く所蔵されており(重要文化財)、特別に拝観させていただきました。全部で43面あるそうで、これだけまとまって銅鏡が納められているのはとても興味深いです。

ちなみに大クスノキは国の天然記念物に指定されています。樹齢は800~1300年とされており、この樹齢にしては威容を保っているということが指定理由のようです。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

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2008.12.01

志布志城跡

Shibushijo_30Shibushijo_4国史跡の志布志城跡は山ごとにいくつか分かれており、それぞれ内城・松尾城・高城・新城と呼ばれています。今回はそのうち内城に行きました。

右写真は曲輪での発掘風景。素人目には何の遺構かはよくわかりませんでしたが…(笑)。

志布志は摂関家(のち近衛家)による大規模荘園である島津荘日向方に属し、そのうち救仁院(くにいん)の港津として発展しました。志布志の地名が文献上に現れるのは正和5年(1316)だそうです。

鎌倉期までは救仁院氏という領主が居たそうですが、南北朝期には楡井氏が支配しており、その本拠がこの志布志城だったとされています。そして島津氏久が本拠を構えた後は島津氏の支配が浸透し、日明交易の中継港としても発展していったようです。

ところが15世紀に入って島津氏と日向の伊東氏とが争うようになると、当主の島津忠昌によって志布志に島津一族の新納(にいろ)忠続が派遣されます(新納氏の志布志入りには異説もあるようですが)。以後は新納氏が支配するようになりました。
16世紀になっても島津氏の内訌が激しくなり、その煽りを受けて天文7年(1538)に新納忠勝が島津実久の攻撃を受け降伏。志布志の新納氏は没落しました(ちなみに、戦国期の人で有名な新納忠元は別系統)。
城跡には新納氏初代・時久の墓があるそうです(見られず)。

その後は大隅の肝付氏が入って支配しましたが、内訌を勝ち抜いた島津貴久との争いに敗れて没落し、再び島津氏が支配。一国一城令によって廃城となりました。

Shibushijo_21Shibushijo_26この城で圧巻なのは堀切(空堀)。ほんとにこれだけ掘ったのか少し信じがたいところもありますが、非常に大規模なものがいくつもありました。いつのものかはよくわかりませんが、やはり戦国期頃のものでしょうか。

Shibushijo_29Shibushijo_7麓の小学校には、当時のものという石垣が遺されています。廃城直前のものだと思いますが、そうだとしても、やや石が整然としすぎていて言われなければわかりません(笑)。

右写真は城から見た志布志の風景。「さんふらわあ」がちょうど停泊中。久しぶりに見たなあ。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

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2008.11.27

志布志 大慈寺

Daijiji_13Daijiji_9やっと2008年サマーセミナーのシリーズ開始です。
主に大隅半島の東側をまわりました。特に志布志が中心です。元々この地は日向国に属しましたが、政治的経緯があってか?今は鹿児島県になっています。

その中心にあるのが大慈寺。禅宗寺院で、興国元年(暦応3年、1340)に楡井(にれい)頼仲によって建立されました。系譜的には不明な点も多いようですが、楡井氏は信濃国を出自とする村上源氏の一族と言われています。頼仲は南朝方として志布志に拠点を構えていた人物です。
Daijiji_14確か、この写真の奥右側の宝篋印塔が、頼仲の墓だったと思います。懐良親王が九州に入った折りにも呼応したそうで、南朝方の中心人物だったようですが、正平12年(延文2年、1357)に北朝方の禰寝(ねじめ)氏に敗れ、自刃したそうです。
楡井氏は滅亡しましたが、縁戚関係にあった薩摩の別府氏が仁礼(にれ)氏として名跡を継承したとも言われています。

Daijiji_2開山は玉山玄提(ぎょくざんげんてい)。この人も信濃の出身で、何か楡井氏と誼があったのでしょうか。南禅寺で開山の無関普門(この人も信濃出身)に学んだ後中国へ留学し、その後志布志へ招かれました。その後十刹に数えられてもいます。写真は少し離れた所にある玉山和尚の開山堂。

志布志は日明交易にも関わった港とされており、大慈寺も関与したことが窺われています。興味深い文化財も遺されており、今回は拝観させていただきました。

Daijiji_6Daijiji_5興味深いことに、近くの子院・即心院跡には島津氏久の墓があります。南北朝期の島津氏の当主ですが、大隅守護になって(後に解任されますが)志布志を拠点としていた時期があり、即心院を建立しました。そういう経緯により、即心院主が供養のために建立したもののようです。嘉慶元年(1387)閏5月4日の日付が刻まれていますが、氏久の命日がこれに当たります。

近くには戦国期にこの地域で勢力を張った肝付兼続の墓もあったんですが、行けませんでした。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

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2008.11.26

大宰府(8) 太宰府天満宮

DazaifutenmanguDazaifutenmangu_5最後はもちろん太宰府天満宮。菅原道真の墓所に、延喜19年(916)に建立。10世紀末に道真に対して「天満大自在天神」という神号が贈られたことにより、「天神」という呼び名が定着しました。
左遷された道真の祟りを恐れて建てられたという話はよく知られていますが、中世まで降ると、学問の神としての信仰対象となるようになり、現在に至っています。右写真の本殿(重要文化財)は16世紀末期頃の築とされています。

とはいえ実は、前近代では神社というより寺院としての性格が濃厚で、安楽寺と呼ばれていました。中世では多くの僧兵を抱える地域の有力な権門寺院となってゆきます。
菅原氏一族の大鳥居氏らが朝廷からトップの別当に任命されていましたが、実際に下向することはほとんどなくなり、留守居として現地の僧侶が取り仕切っていたとされています。
境内には坊舎だけではなく塔も建っていたようですが、近代の廃仏毀釈によって破壊され、寺院の痕跡は今ではほとんど見られません。

Dazaifutenmangu_3境内に建つ志賀社(重要文化財)。ここで足を止める人はあまり居ませんが、境内では最も古い建築物で、長禄2年(1458)築。祭神は「海神綿津見三柱神」。
「ワタツミ」といえば対馬。安楽寺が海上の安全を祈願して勧請したと言われており、海上交易との関わりを窺うことができます。

Dazaifutenmangu_10_2九博へ行く道すがら見かけた「如水の井戸」。豊臣秀吉の側近として知られ、福岡藩の礎ともなった黒田孝高(よしたか)が、ここに草庵を建てた名残なんだそうです。

太宰府といえば飛梅。そして梅が枝餅(笑)。観光地の名物にしては美味いと評判なんですが、賞味期限が短いため買うのはあきらめました。

■福岡県太宰府市

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2008.11.22

大森貝塚遺跡

Omorikaizuka_6Omorikaizuka_1JR大森駅から品川歴史館に歩いていくと、途中に大森貝塚遺跡庭園があります。

大森貝塚といえば、知らぬ者はないほど名前はよく知られています。でも、どんな遺跡だっけ?というと、そこらへんが少々怪しい、という方もおられるのでは(笑)。

アメリカ人の動物学者として来日していたエドワード・シルベスター・モースが、明治10年(1877)にたまたま現在の東海道線に乗っていると、大森の辺りで崖から貝殻が見えているのを見つけて発掘を始めたのがそもそものきっかけだったとされています。今、線路のすぐ脇には、左写真の石碑が建っています。

Omorikaizuka_2モースにとっては当たり前の調査活動だったんでしょうけれども、まだ維新間もない日本にとっては、これが実質的に初めての発掘調査という位置づけで、この大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と言われています。現在は国史跡。貝塚そのものは縄文時代後期~晩期頃のものだそうで、モースが採集した遺物は重要文化財に指定されています。

写真の銅像、先日来たらしい子孫の人(実際は遠縁のようですけど)があまりに自分にそっくりで驚いたそうです(笑)(→こちら)。

Omorikaizuka_3Omorikaizuka_4園内には写真のような遺構が展示されています。右写真の遺構は実際に発掘された本物だそうです。

ところで名前は大田区の「大森」ですが(「大田」の「大」)、この公園は品川区のはじっこで、ちょうど境目に当たっています。ま、どっちでもいいっちゃいいんですが…。もっとも地元はそういうわけにはいかないようで、結構「境目」ゆえの行政間での歴史もあるようです。
ちなみに大森駅のホームにも大森貝塚のモニュメントがありましたが、さすがに恥ずかしくて写真は撮れませんでした(笑)。

■東京都品川区

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2008.11.20

大宰府(7) 光明寺・伝衣塔

Dazaifukomyoji_1Dazaifukomyoji_2太宰府天満宮の近くにある光明寺。文永10年(1273)に、菅原氏出身という禅僧の鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)によって建てられた禅宗寺院です。「聖一国師」と称され、京都東福寺などの開山となった留学僧円爾(えんに、弁円とも)の一番弟子と言われています。師の伝記である『聖一国師年譜』を執筆したことでも知られています。

ただ寺は一度廃絶したようで、近世になって復興しています。境内の石庭は九州唯一なんだそうです。

Dazaifukomyoji_4寺のそばにある伝衣塔(でんえとう)。
現地看板によると、「大宰府横岳の崇福寺にいた聖一国師の夢枕に菅神(菅原道真公)が現れ禅の教えを問うた。そこで国師が宋(中国)の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋に渡り、忽ちに悟りを開いて戻って来られたという。渡宋天神の話であるが悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子の鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる」とのこと。
なお、崇福寺は近世に福岡城下(現福岡市博多区)へ移転し、跡地には別院が建っています。

大きな岩にかわいらしい宝塔が建っています。時代としては、どうでしょうねえ? 中世かどうかは微妙かも。ともかくも、菅原道真に絡んだ伝承があるというのは、いかにもな感じがします。

■福岡県太宰府市

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2008.11.17

大宰府(6) 観世音寺

Kanzeonjiおそらく九州で最も由緒のある寺院と言ってもよい、観世音寺です。

大宰府政庁の東側に「府の大寺」として建立されました。斉明天皇が九州で死去したことから、子の天智天皇が菩提を弔うために建立を発願したという記述が『続日本紀』にあるそうです。実際には天平18年(746)に完成しました。もっとも7世紀にはすでに完成していたという説もあるそうですが。
天平宝字5年(761)には戒壇(現戒壇院)が設置されましたが、これは奈良東大寺(奈良市)、下野薬師寺(廃寺、栃木県下野市[旧南河内町])と並んで「日本三戒壇」と呼ばれています。

写真の本堂(講堂)は近世に福岡藩主黒田光之が再建したものです。

Kanzeonji_3Kanzeonji_4目玉は左写真の梵鐘(国宝)。京都妙心寺(京都市右京区)に伝来し、「戊午」年(698)に筑前国糟屋郡で制作された梵鐘(国宝)と意匠が共通しており、この梵鐘も同時に制作された可能性が高いとされています。
この梵鐘に関しては、菅原道真が「都府楼はわずかに瓦色を看、観音寺はただ鐘声を聴く」(原漢文)と詠んだそうです。

右写真は境内にある、かつてあった五重塔の礎石。

境内には宝蔵があり、重要文化財に指定されている平安期頃の仏像が多く展示されています。ただ、私は時間の関係上今回はパス。また来ることがあればじっくり拝観したいものです。

■福岡県太宰府市

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2008.11.16

大宰府(5) 戒壇院

KaidaninKaidanin_2観世音寺の隣にある戒壇院。西海道の僧尼に戒律を授ける役割を担った寺院だそうです。現在は独立した寺院となっています。

本尊の盧舎那仏坐像(重要文化財)は平安後期のものと考えられています。例によって?見られず。

Kaidanin_4Kaidanin_5境内には石造物が並んでいます。左写真は五重塔。戒壇院の再建に尽力した博多の豪商天王寺屋の浦了無の供養塔だそうです。貞享2年(1685)築。

右写真は鑑真の供養塔。戒壇院は鑑真の開基とされており、その由緒によるものなのでしょう。左側の宝篋印塔に、天明7年(1787)の陰刻があります。

Genbo_1裏手には僧正玄昉(げんぼう)の墓があります。彼は阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に遣唐使として中国に渡航し、留学僧として中国に18年間滞在。当時の皇帝である玄宗から称号を与えられたりするなどして帰国。
ところが天平17年(745)に藤原仲麻呂と対立したため失脚して左遷され、観世音寺別当となりました。翌年死去したそうですが、『続日本紀』によると、政敵である藤原広嗣の祟りとも言われたそうです。
この墓は胴塚と伝わっているそうですが、この地域では珍しく板碑になっています。いつのものかはわかりませんでした。

観世音寺については次回。

■福岡県太宰府市

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2008.11.14

大宰府(4) 武藤資頼・資能墓

Muto_2大宰府政庁の裏手、山裾のひっそりとした所に、武藤資頼・資能の墓とされる石塔があります。向かって左側が資頼、右側が資能とされています。

Muto_4武藤氏の出自は諸説あるようですが、秀郷流藤原氏の一族であることは確かなようです。治承・寿永の乱の時期には関東に根を下ろしていたようですが、この時期に活躍した武藤資頼は、当初は平氏に与したものの、赦されて鎌倉幕府の御家人になったとされています。
資頼は建久7年(1196)に鎮西奉行になり、大宰府に西遷したとされています。筑前守護となったほかに大宰少弐にも正式に任じられて基盤を築き上げ、少弐氏の祖ともいうべき存在になりました。

この五輪塔は不揃いですが、唯一の「方形五輪塔」とされており、非常に珍しい形状なんだそうです。

Muto_3そしてこちらの宝篋印塔は、資頼の子である資能の墓。資能は鎮西奉行を受け継ぎ、晩年には入道して覚恵と称しましたが、その後文永の役に際しては総司令官の役割を担い、子の景資らとともに軍勢を率いて百道浜(現福岡市早良区)で奮戦したとされています。
弘安の役の際にも河野通有や大友貞親らとともに戦い、84歳で戦死したと伝わっています。

この墓のある場所の周囲に今は何もありませんが、かつては観世音寺の子院である安養寺があったとされています。資頼の法号は安養院殿であったとされており、彼の菩提寺として建立された寺院だったものと考えられます。

■福岡県太宰府市

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2008.11.13

大宰府(3) 筑前国分寺跡

Chikuzenkokubunji_4Chikuzenkokubunji_6筑前国分寺跡です。各国に建立された国分寺ですが、筑前国は大宰府の近隣に設置されました。

発掘調査の結果、講堂や塔・回廊の一部が確認されており、発掘後には整備されて塔や回廊の基礎部分を見ることができます。写真の礎石は、塔のものです。右写真の奥側には、回廊の遺構があります。左側の伽藍は現在の国分寺です。講堂跡に建っています。

Chikuzenkokubunji_5Chikuzenkokubunji_1左写真は、塔跡から上の写真とは反対側の風景。現国分寺の前に灯籠が建っています。

右写真は、近くにある国分尼寺跡。といっても、今はただの田んぼ?で、遺構などは見た目ではわかりませんでした。礎石が一つだけ遺っていたそうですが、見あたらなかったような…?

■福岡県太宰府市

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