アジール「復権」への挑戦
夏目琢史『アジールの日本史』(同成社、2009年)受贈。ありがとうございます。
著者は後輩。ベースは卒論だそうで、驚目至極です。
様々なアジールに関する研究を要領よくまとめています。私もそうでしたが、若いうちはいわゆる“堅い”話をしてみたいという思いがあったのでしょうか、実証に傾注するというよりは、思想史的なアプローチに貫かれている印象を受けます。つまりは、アジールの実態を歴史的に検証するというよりも、これまでどのようにしてアジールが捉えられてきたか、といった視点が本書のテーマのように感じました。
そういう意味では、著者にとっては、これからの研究の指針を示すいわば見取り図のような位置づけになるのでしょうか。卒論という性格からすれば、それはそれで見識ではあるでしょう。
ただ、一般的に著書というのは、これまでに積み重ねた研究をベースにして提言をするという性格のものという理解が私にはなお存在するので(古くさい、といえばそうかもしれません)、この時点で著書を出版すべきだったのかということについては、他人事ながら少々懸念がないでもないです。見取り図が「足枷」にならないことを祈ります。
さて、ほかの地域・時代のことについては詳しくないので、日本中世について言及している箇所について一言。
戦国期の事例を中心として、寺社のアジールについて説明していますが、私は少々違和感があります。本書も示している通り、研究史においては、アジールを示す具体的な事例として寺社への守護等による検断不入を認めていたことが挙げられます。この寺社の検断不入については、中世ではわりとよく見られる事例ですが、これをアジールという概念で説明することが適当なのか、私はかねてより疑問がないでもありません。基本的には、これらは寺社による検断の優越性を確認するものであり、駆け込んだ人々が検断を免れて網野善彦さん流の「自由」になるわけではないと考えるべきではないか、と思っているわけでして…。
少なくとも中世における寺社の持つ機能については、アジールや「無縁」というやや手垢の付いた理念で説明するよりも、寺社が独自の検断権を保持し、それが外部権力にも認められるという、いわば権力の主体でもあるという側面から分析する必要があるのではないか、という気がしています。(もっとも、私がアジールという理念を誤解している可能性もあるのですが。)
ともあれ、網野・阿部謹也両氏(そして、いわゆる社会史)が論壇から去ったためにやや低調になった議論ですが、果敢に挑戦しようとする姿勢は見習いたいところです。今後の展開を待ちたいと思います。
![]() | アジールの日本史 夏目 琢史 同成社 2009-08 by G-Tools |
本書の内容とは直接関わりませんが、やっぱり写真はもうちょっとどうにかした方がいいと思います(笑)。いくらなんでもピンぼけはまずいような…。失敗した写真はあえて掲載しない、という「勇気」があってもよかったのではないでしょうか。
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